メディア各社が韓国の軍人出身政権時代に岩波書店の月刊誌『世界』で民衆への弾圧を告発する「韓国からの通信」の記事を書いた「T・K生」こと、池明観(チ・ミョングァン)氏が1日、97歳で死去したと報じている。学生時代に『世界』の編集長だった安江良介氏に「T・K生は誰ですか」と無謀なインタビューをしたことを思い起こした。
東京の大学の部活では弁論部に所属していた。国政や国際的な時事ネタをテーマに10分ほどにまとめて弁舌する。論理と調査と統計に裏打ちされた弁論の手法をたたき込まれた。当時、自身のテーマの一つが韓国の政治情勢だった。きっかけは弁論部に入る1年前の1973年の8月8日に起きた金大中拉致事件。千代田区のホテルにいた韓国の民主活動家、金大中氏が拉致されて5日後にソウルの自宅で軟禁状態に置かれていたことが発覚した。「韓国からの通信」は、当時の韓国の民主化を求める知識人の動きや民衆の声をリアルに伝えていた。
大学2年か3年のころだった。弁論部出身の先輩の新聞記者からのアドバイスで、安江良介氏にインタビューを電話で申し込んだ。安江氏は金沢市の出身で、金沢大学卒業後に岩波書店に入社という経歴だったので、自身も金沢から東京にやってきたと伝えると、大学の講演会の講師に招かれているのでその時に面談しようと快く応じてくれた。日時は記憶にないが、講演の終了後に講師控室に行き、冒頭の質問をした。立ち話でのインタビューだったが、安江氏は「匿名だから記事が書ける。それ以上は話せない」との趣旨の返事だった。
「韓国からの通信」は1973年5月号から88年3月号までの15年間掲載された。安江氏はその間の編集長だった。「韓国からの通信」の連載が始まって間もなく金大中事件が起き、当時の韓国政権に対する日本の批判世論が高まっていた。安江氏は別の顔をもっていた。1967年から70年まで当時の美濃部東京都知事の特別秘書も務めていた。68年に東京都は朝鮮学校を各種学校として全国で初めて認可するが、それを知事に進言したのは安江氏だった。
池氏がT・K生だったことを明かしたのは2003年だった。1970年から韓国の女子大学で教授を務め、民主化運動を進めるが、72年に日本に来てその後20年間亡命生活を送ることになる。朝日新聞Web版(1日付)によると、「韓国からの通信」のもとになった手記や資料は、日本のキリスト教関係者らの協力で韓国から秘密裏に持ち出されたもので、これをもとに池氏が執筆したとされる。
安江氏と池氏との極秘の連携プレーで世に出されたドキュメントだった。一気に読める流れるような文体で、自身はT・K生は韓国人ではなく、日本人ではないかと思ったほどだった。池氏は1993年に帰国し、金大中政権の対日政策のブレーンとして、韓日文化交流会議委員長を務め、日本文化の開放に貢献した。安江氏は90年に岩波書店4代目社長に就任。いわゆる進歩的知識人に対して影響力を持ち続けたが、98年1月に62歳で逝去した。
ある意味で当時のT・K生の「韓国からの通信」、そして安江氏へのインタビューがきっかけでメディアに興味がわき、自身は大学卒業後に新聞記者の世界に飛び込んだ。人生の転機を与えてくれた二人だった。
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