この連載の目次
(前回から続く)
「私は働けないから、これに賭 (か) けるしかないの。わらをもつかむ気持ちでやってみるの」
「それって、全財産を宝くじや競馬につぎ込むのと同じだよ。全財産を宝くじにつぎ込むのって、どう思う? バカだよね」
「……うん」
「それと同じだってば」
「でも、目の前にあるたった1本のくもの糸にすがるしかないの」
「マルチの初期で会員になるならともかく、今頃会員になってちゃ利益なんか出ないって」
「1/100の可能性でも賭けてみたいの」
かなり視野が狭くなっている様子がうかがえます。
「私は株をやってるから分かる。世の中には、いろいろな情報があるの。例えば株の場合なら、これから株が上がるという情報もあれば、下がるという情報もある。人間は勝手だから、自分が望む情報を信じるものなの。株が上がって欲しいと思ってる人は、これから株が上がりそうだという情報を信じちゃうの。でも、それじゃダメなのよ。そういう自分の心理を分かった上で、冷静になれないと。Aちゃんはね、今、Aちゃんにとって都合のいいバラ色の未来だけを思い描いて、リスクには目をつぶってるんだよ。それとね……」
もうひとつ、くぎを刺しておかなければならないことがあります。
「私は株をやってるけど、それは自分の資産のごく一部でしかないから。株につぎ込んだお金が全部消えてなくなっても、生活には全然困らない程度の金額だから。Aちゃんが化粧品につぎ込んだ金額は……」
Aちゃんは具体的な金額を口に出しませんでしたが、私は50万円とにらんでいました。
「生活に大きく影響するんでしょ? だったら、この化粧品ビジネスは、やめようよ。賭けをするより、手堅くいこうよ」
「みぃちゃんは、石橋をたたいて渡るよね。石橋を、たたいて、たたいて、たたいて、渡るよね」
「散々たたいて、渡らないこともあるけどね」
「手堅く、かぁ……」
「別に、生活の手段は化粧品ビジネスだけじゃないじゃん。何となれば生活保護の手もあるし。私のところに在宅でできる仕事の話が持ち込まれたこともあるよ。何年も前のことだから、今はどうか分からないけど。そういう話がまたあれば、うちの会社を経由して仕事をしてもいいし」
「そんな話もあったんだ」
Aちゃんの目が輝きました。この調子なら、クーリングオフするように説得できそうです。
「この会社のことで頭がいっぱいだと、ほかの選択肢が考えられなくなるから、いったんこの会社のことは忘れようよ」
「えーっ!? そんなことできない」
耳を疑いました。まだマルチに残るつもりでしょうか。
「このビジネスはダメだって。クーリングオフしようよ。いい? 絶対にクーリングオフするんだよ」
「……」
「財産を宝くじにつぎ込むつもり?」
「それはできない」
「でしょ? 同じことだよ。今回はあせらされて契約しちゃったけど、冷静に考えようよ。クーリングオフしようよ」
Aちゃんはクーリングオフしてくれるのでしょうか。私がAちゃんに解約を勧めるのは正しいことなのでしょうか。説得は余計な口出しでしょうか。
このままAちゃんが化粧品マルチ商法を始めても、失敗することは目に見えています。結局何十万円もの損失を出して終わるに違いありません。当然、Aちゃんは生活に困るでしょう。精神的にも不安定になるでしょう。
「そのとき、私はどうしよう。かなり苦しい立場に立たされることになっちゃう」
たびたび体調を悪くするAちゃんのことです。
「Aちゃんを黙って見てるなんて、私にはできないよ」
差し入れをしたり、家の中を片付けたり、いろいろ手伝わずにはいられません。しかし、差し入れは、実質的にマルチ商法の損失を補てんすることにはならないでしょうか。
「マルチ商法に手を出さないように説得したにもかかわらず、大金をつぎ込んだ人の面倒を見るのは……」
「甘やかしすぎだよね」
「でも、私は放っておけない。黙って見てるのも つらいし、世話を焼くのも つらい。そうなったら私はどうすべきかな」
私の口から、フーッ、と大きなため息が漏れました。
説得が延々と続きました。気づけば2時間が経っていました。
絶対にクーリングオフしてね、と念を押して、とりあえず解散することに。
このマルチの件は、まだ誰にも話していなくて、私に話すのが最初だと言います。「なぜかみぃちゃんには話そうと思ったんだよね。心のどこかで『止めて』と思ってたのかも」
駅まで歩く道中は、いつもの他愛もない話。
解約して欲しいの。利益なんか出ないから。入会してくれる友達なんかほとんどいないから。結局、お金も友達もなくすから。大金をはたいて化粧品ビジネスに賭けたのに、思うように会員を獲得できず、貯金ばかりが減っていく日々を過ごすことになったら、Aちゃんはどうなっちゃうんだろう。目の色を変えて人を勧誘するようになったりはしないかな。人が変わっちゃうかも。もう、Aちゃんとの仲もおしまいなのかな。
笑顔で「バイバイ」。地下鉄を降りるAちゃんの背中。その背中を心配そうに見送る私。乗車待ちの人混みに紛れたAちゃん。もうAちゃんは乗り換え口に向かって歩き始めたはず。
不安渦巻く私とAちゃんの間を、感情を持たない電車のドアが遮りました。
私は、暗く細長いトンネルに向かって走り始めた地下鉄の窓から、Aちゃんの姿を探しました。
乗客の波間に、しっかりした足取りのAちゃんを見つけたと思ったのもつかの間、Aちゃんの姿は、駅を満たす蛍光灯の白い光とともに後方に吸い込まれていきました。
Aちゃんはクーリングオフしてくれるのでしょうか。
私の不安は、暗いトンネルと車内の轟音 (ごうおん) に包まれ、行き場を失いました。
(次回に続く)
(前回から続く)
「私は働けないから、これに賭 (か) けるしかないの。わらをもつかむ気持ちでやってみるの」
「それって、全財産を宝くじや競馬につぎ込むのと同じだよ。全財産を宝くじにつぎ込むのって、どう思う? バカだよね」
「……うん」
「それと同じだってば」
「でも、目の前にあるたった1本のくもの糸にすがるしかないの」
「マルチの初期で会員になるならともかく、今頃会員になってちゃ利益なんか出ないって」
「1/100の可能性でも賭けてみたいの」
かなり視野が狭くなっている様子がうかがえます。
「私は株をやってるから分かる。世の中には、いろいろな情報があるの。例えば株の場合なら、これから株が上がるという情報もあれば、下がるという情報もある。人間は勝手だから、自分が望む情報を信じるものなの。株が上がって欲しいと思ってる人は、これから株が上がりそうだという情報を信じちゃうの。でも、それじゃダメなのよ。そういう自分の心理を分かった上で、冷静になれないと。Aちゃんはね、今、Aちゃんにとって都合のいいバラ色の未来だけを思い描いて、リスクには目をつぶってるんだよ。それとね……」
もうひとつ、くぎを刺しておかなければならないことがあります。
「私は株をやってるけど、それは自分の資産のごく一部でしかないから。株につぎ込んだお金が全部消えてなくなっても、生活には全然困らない程度の金額だから。Aちゃんが化粧品につぎ込んだ金額は……」
Aちゃんは具体的な金額を口に出しませんでしたが、私は50万円とにらんでいました。
「生活に大きく影響するんでしょ? だったら、この化粧品ビジネスは、やめようよ。賭けをするより、手堅くいこうよ」
「みぃちゃんは、石橋をたたいて渡るよね。石橋を、たたいて、たたいて、たたいて、渡るよね」
「散々たたいて、渡らないこともあるけどね」
「手堅く、かぁ……」
「別に、生活の手段は化粧品ビジネスだけじゃないじゃん。何となれば生活保護の手もあるし。私のところに在宅でできる仕事の話が持ち込まれたこともあるよ。何年も前のことだから、今はどうか分からないけど。そういう話がまたあれば、うちの会社を経由して仕事をしてもいいし」
「そんな話もあったんだ」
Aちゃんの目が輝きました。この調子なら、クーリングオフするように説得できそうです。
「この会社のことで頭がいっぱいだと、ほかの選択肢が考えられなくなるから、いったんこの会社のことは忘れようよ」
「えーっ!? そんなことできない」
耳を疑いました。まだマルチに残るつもりでしょうか。
「このビジネスはダメだって。クーリングオフしようよ。いい? 絶対にクーリングオフするんだよ」
「……」
「財産を宝くじにつぎ込むつもり?」
「それはできない」
「でしょ? 同じことだよ。今回はあせらされて契約しちゃったけど、冷静に考えようよ。クーリングオフしようよ」
Aちゃんはクーリングオフしてくれるのでしょうか。私がAちゃんに解約を勧めるのは正しいことなのでしょうか。説得は余計な口出しでしょうか。
このままAちゃんが化粧品マルチ商法を始めても、失敗することは目に見えています。結局何十万円もの損失を出して終わるに違いありません。当然、Aちゃんは生活に困るでしょう。精神的にも不安定になるでしょう。
「そのとき、私はどうしよう。かなり苦しい立場に立たされることになっちゃう」
たびたび体調を悪くするAちゃんのことです。
「Aちゃんを黙って見てるなんて、私にはできないよ」
差し入れをしたり、家の中を片付けたり、いろいろ手伝わずにはいられません。しかし、差し入れは、実質的にマルチ商法の損失を補てんすることにはならないでしょうか。
「マルチ商法に手を出さないように説得したにもかかわらず、大金をつぎ込んだ人の面倒を見るのは……」
「甘やかしすぎだよね」
「でも、私は放っておけない。黙って見てるのも つらいし、世話を焼くのも つらい。そうなったら私はどうすべきかな」
私の口から、フーッ、と大きなため息が漏れました。
説得が延々と続きました。気づけば2時間が経っていました。
絶対にクーリングオフしてね、と念を押して、とりあえず解散することに。
このマルチの件は、まだ誰にも話していなくて、私に話すのが最初だと言います。「なぜかみぃちゃんには話そうと思ったんだよね。心のどこかで『止めて』と思ってたのかも」
駅まで歩く道中は、いつもの他愛もない話。
解約して欲しいの。利益なんか出ないから。入会してくれる友達なんかほとんどいないから。結局、お金も友達もなくすから。大金をはたいて化粧品ビジネスに賭けたのに、思うように会員を獲得できず、貯金ばかりが減っていく日々を過ごすことになったら、Aちゃんはどうなっちゃうんだろう。目の色を変えて人を勧誘するようになったりはしないかな。人が変わっちゃうかも。もう、Aちゃんとの仲もおしまいなのかな。
笑顔で「バイバイ」。地下鉄を降りるAちゃんの背中。その背中を心配そうに見送る私。乗車待ちの人混みに紛れたAちゃん。もうAちゃんは乗り換え口に向かって歩き始めたはず。
不安渦巻く私とAちゃんの間を、感情を持たない電車のドアが遮りました。
私は、暗く細長いトンネルに向かって走り始めた地下鉄の窓から、Aちゃんの姿を探しました。
乗客の波間に、しっかりした足取りのAちゃんを見つけたと思ったのもつかの間、Aちゃんの姿は、駅を満たす蛍光灯の白い光とともに後方に吸い込まれていきました。
Aちゃんはクーリングオフしてくれるのでしょうか。
私の不安は、暗いトンネルと車内の轟音 (ごうおん) に包まれ、行き場を失いました。
(次回に続く)