hisakunnのブログ

日米の民主主義崩壊

日本人の何処が駄目なのか?を考えたことがありますか?

2017-12-17 00:43:16 | 日記
この歳になっても私は絶えず自分の駄目な処を感じ、考えている。 だが中々、直すことは難しいし確かに今更、直して何になるという思いもあります。

今の日本人って大半が、自分達が大学まで進学して大人になり何々大学を卒業したからと思うからか、そこで留まってしまっている。

ある意味、そこには自分の心の合理化が働いていて、人間の本性にある怠惰性が働いていることに、気付いていないのです。自分の間違いや駄目な処を見付けたら、認めたら、自分を質さなければならない。

そこには努力が必要です。 人間の成長が止まってしまうと、この努力をしたくなくなるのです。この怠惰性が日本には隅々まで拡がっているのです。

例えば、自分達の職場でも、ここが変ではと思っても、変だと言うと変えなければならない。今までの儘を肯定していれば、何も変えなくて良いし、努力する必要にも迫られない。

何が正しいかは問題ではない。全て、損か得かで行動する方が楽であるに他ならない。という心理である。悪い事に、成長が止まってしまった時から、この状態に慣れ切っているのだ。

早い人は、十代の後半から、遅い人でも二十代の中半で、この膠着状態に陥っています。この傾向は、民主主義の国の成長度合いに比例している。

一人の人間で言っても同じです。絶えず努力を続けることに慣れた人と、努力をすることを止めてしまった人の違いです。日本人の場合は、周囲を見回しても大半の人が努力を止めてしまっている。

例えば、専門分野で仕事として努力を続けている人もいますが、生活を営む上で已む無くしている努力であって、これは本質的な努力とは違うのです。

だから、このような人がする努力は、この部分だけです。 この種の人々は逆に、これ以外の努力を異常に嫌い、異常に怠るようになります。

それは、自分の為だけにする努力だからです。この種の人々は社会の為とか他人の為となる努力をしようとは考えなくなるのです。

それは、どう言うことかと言いますと、自分がする努力で他人が楽になり、良くなることが嫌なのです。他人が良くなってしまうと自分が、その人より劣ってしまうと言う感覚です。

どう言うことかと言えば、自分に自信が無いからです。 私は、容易に他人に負けるとは思いません。十二分に自信がある人は、他人の為になることが出来ますが、ギリギリに頑張って来た人には、その余裕が持てないのです。

この二種類の人間の差は大変、大きなものです。二十歳前後から努力を止めてしまった者と、ずっと努力を続けて来た者の差なのです。

この私のブログに触れた人だけでも、ずっと努力を続ける人であって欲しいと思います。 周囲に一杯、そう言う人が居ないと、今の日本のようになってしまうのです。

学校を見ても、役所を見ても、裁判所を見ても殆ど、この種の努力を続ける人が居ません。そうすると、努力をしない人が普通の人で、努力する人が異常な人に見えてしまうのです。絶えず努力する人にしか社会は変えれません。

今夜は、変なブログになってしまいましたが、日本に限らず民主主義に慣れてしまった国では、この人間の怠惰病が蔓延しています。

彼らは言います。 自分の何処が間違っているのか? 何が悪いのかと! 世界の過去に滅びた国々の大半が、この怠惰病が、原因であることを知らないからです。

社会の間違いに敏感でなければなりません。 そして絶えず、この間違いを質す努力を続ける事を忘れてはいけないのです。今の日本は、この岐路にあります。