


先日のツーリングで訪れた(徳島県)美馬市脇町の「うだつの街並み」で、幼き頃を思い出すモノを見付けた。
うだつの街並みを散策したとき、白亜で一段と高くそびえる建物があった。
白一色に塗装されていて「農業倉庫(写真・左)」と云う表示が鮮明ではない。
農業倉庫と云う事から「穀類とか、農業生産物の倉庫か?」と、普通に思った。
見学自由という事から、内部へ・・・
内部に保存されていたモノで、興味を抱いたのが「消防用手押しポンプ(写真・中)」と「唐箕(写真・右)」であった。
思い出された時代は60数年前にもなるだろう・・か?
消防組織は”自治組織”であったと思う。(消防を”職”とする組織は、隣町にあったと記憶する)
そして「第一分団」「第〇分団」という呼称で組織されていたと記憶している。
父は「分団長」を務める時代があった。
夕食時にでも”半鐘”が鳴ると、食事を中断して飛び出していた。
半鐘の鳴る速度で、火元が近いか・遠いかが分かった。
消防の法被を着る間もなく出ていく事もあった。
自宅より数十メートルの処に「消防小屋」はある。
一人でも二人でも、集まった人達で「消防ポンプ車」を引き出し、火元に向かう。
やがて、集まった人数で消火に掛かっていた。
用水路の水を、ポンプ(手押し)で吸い上げ放水する。
か細い水圧・水量ではあったが、他に頼るモノは無かった(のでは?と記憶している)
程なくして、エンジン式のポンプが配備された。
それとても、エンジンとポンプを4本の柄で支えられ、人力・若しくは運搬車で運んでいた。
やがて、エンジン式の手押し車(リヤカーにエンジン式ポンプを搭載した様なモノ)となり、自動車式消防車に変遷していった(と記憶している)
私が生まれ・育った地域は、水運を利用した、木材の集積地であり、製材所が多く立地していた。
火災も多かった記憶している。
寒さと”恐ろしさ”で、歯をカチカチ言わせながら、父たちが消化しているだろう真っ赤に染める夜空を見上げていた幼き頃が思い出された。
もう一つの思い出は「唐箕」である。
此処には無かったが「脱穀機」と「唐箕」が一体ではなかっただろうか・・・?
足踏み式の脱穀機・ペダルにロットが繋がった樽状のものにU字型の針金が順序良く並んだ”機械”
回転する樽状の筒に設置されたU字状の針金に、刈り取られた稲束を当てると”籾”が剥れる。
集めた”籾”を「唐箕」に掛けて、籾と小石や不純物を、風圧によって分離する。
近くで遊んでいると、籾殻が身体に入って痒かった思い出が蘇ってくる。
幼き頃の、覚束ない思い出が、覚束なく思い出させたモノ達(消防ポンプと唐箕)であった。