<2010.3.21>
今年の春のお彼岸は、お寺まいりに行った。
家内の家が壇信徒となっている長崎でも大きな規模のお寺である。
家内の両親の供養などの時は、参詣したことがあるが、お彼岸時にお参りしたことはなかった。
ところが今回は、私の郷里大分の従弟(僧侶)が、お彼岸供養時の説教老師として寺より招へいされていることを知り、先祖の供養と従弟の「お説教」を聴くために参詣したわけである。
実は前にも書いたが、私も寺の三男坊で子どもの頃は、春の寺のお勤まり時の「お説教」は良く聴いたものである。
どこかのお寺の偉い和尚さんがみえて、本堂の中央に備えられた高座にころも姿で座り約1時間ぐらいだったと思うが、御仏の教えを参詣の老若男女の方々に、ユーモアを交えながら飽かせないように話をしていた。
(当時は娯楽もないので子どもたちも結構来ていたようである)
長崎に住んで50年以上経ち、「お説教」を聴くということなど全く忘れていたが、今回偶然にも従弟が家内の家と関係の深いお寺の高座に座って・・・・と、「法話」を聴きながら仏の縁を感じたひとときであった。
合掌
<春のお彼岸・・・・「お説教」を聴く>
今年の春のお彼岸は、お寺まいりに行った。
家内の家が壇信徒となっている長崎でも大きな規模のお寺である。
家内の両親の供養などの時は、参詣したことがあるが、お彼岸時にお参りしたことはなかった。
ところが今回は、私の郷里大分の従弟(僧侶)が、お彼岸供養時の説教老師として寺より招へいされていることを知り、先祖の供養と従弟の「お説教」を聴くために参詣したわけである。
実は前にも書いたが、私も寺の三男坊で子どもの頃は、春の寺のお勤まり時の「お説教」は良く聴いたものである。
どこかのお寺の偉い和尚さんがみえて、本堂の中央に備えられた高座にころも姿で座り約1時間ぐらいだったと思うが、御仏の教えを参詣の老若男女の方々に、ユーモアを交えながら飽かせないように話をしていた。
(当時は娯楽もないので子どもたちも結構来ていたようである)
長崎に住んで50年以上経ち、「お説教」を聴くということなど全く忘れていたが、今回偶然にも従弟が家内の家と関係の深いお寺の高座に座って・・・・と、「法話」を聴きながら仏の縁を感じたひとときであった。
合掌
<春のお彼岸・・・・「お説教」を聴く>