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“いつの間にか”失われた日本国籍 「最後は日本人として死にたい」戦争に翻弄された99歳台湾男性が伝えたかった「台湾と日本の歴史」
1月29日 8時00分
99歳の台湾男性が日本国籍を求め起こした裁判。その訴えは認められなかったが、1月18日付けで、男性側が東京高裁に控訴したことが取材でわかった。なぜ、男性は裁判を起こしたのか。その真相に迫る。
■判決言い渡しの瞬間 しばらく直立不動
「主文、原告らの請求を棄却する」静まり返った法廷で、裁判長がこう言い渡し、判決文のファイルを「パン!」と音を立てて閉じると、男性はしばらく直立不動のまま動かず、ただ前を見据えていた。
楊馥成(ようふくせい)さん、99歳。2月で100歳を迎える。1895年から50年間日本の統治下だった台湾で、日本国籍を持つ両親の間に生まれ育った。しかし、日本の敗戦後、1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が台湾の領土権を放棄、さらに日華平和条約の発効によって、楊さんら台湾で生まれ育った「日本人」は意思に関係なく日本国籍を一方的に失ったという。
こうしたことから楊さんは、同じ境遇にある94歳と88歳の男性2人と共に「国籍は本人の同意なく剥奪されるものではない」「日本国籍を一方的に失ったのは不当」として、2019年に民事裁判を起こした。帰化以外で日本国籍を得るには司法に訴えるしかなかった。
弁護士によると、こうした「国籍の復帰」を求める裁判は初めて。裁判は2年以上続いたが、今年1月12日、東京地裁は「平和条約によって国籍は喪失している」として楊さんらの訴えを退けた。
■スマホを駆使して台湾の歴史を伝える
裁判で日本国籍が認められなかった楊さん。判決の瞬間、どのような気持ちだったのか。さらに、100歳近くにもなって裁判を起こした理由は何だったのか。台湾に戻る前日、インタビューを申し込んだ。
楊さんは、約束の場所に大きなリュックを背負いながら、しっかりとした足取りで現れた。リュックの中には、大量の台湾の歴史についての資料が入っていた。はっきりとした日本語で話し、とても99歳には見えなかった。さらに驚いたのはスマホを使いこなしていることだ。ラインを交換すると、直後に台湾の歴史を紹介するYOUTUBE動画が何本も送られてきた。
楊さんは、日本統治下だった1922年2月、台湾で生まれ、日本人の教師から教育を受けた。当時の校長やクラスメートの名前も鮮明に記憶していて、卒業式には「仰げば尊し」を全員で歌い、涙を流し別れを惜しんだ。戦争が始まると、楊さんは日本軍の後方部隊の配属となった。しかしそのクラスメートたちは、当時激しい戦いが繰り広げられたビルマやニューギニアなどの最前線に向かい、多くは命を落としたという。厚生労働省によると、当時台湾から戦争にかり出された軍人と軍属は合わせて20万人に上り、その内3万人が亡くなった。
「私は運がよかったんです」と話した楊さん。補給部隊のためシンガポールに向かった際、「軍の機密任務」も任され「日本人として信任されていると思った」と日本人としての誇りを持ち、仕事に就いたと熱を込めて語った。
しかし、戦後24歳で台湾に戻ると、日本国籍は「いつの間にか失われていた」という。
■「日本軍に従事したことで国民党政権から受けた壮絶な差別」台湾の歴史を知って欲しい
台湾に戻った楊さんを待ち受けていたのは、戦後の新たな国民党政権による“差別”だった。
「日本人として戦争に従事したためか、理由もなく7年間も牢屋に入りました」
「あの時は、容赦なく引っ張られた」
「木刀で脚を歩けないほど叩かれ、拷問にもあいましたね」
国民党政権が住民を武力弾圧し、多くの人が犠牲となった「2・28事件」。楊さんは、日本軍に従事したことから、激しいいじめを受けたと話す。「日本は助けてくれなかった」と嘆いたが、それでも日本人として過ごした24年間の思い出が色あせることはないと当時を振り返った。
世話になった日本人の恩師と正月を過ごした日々、上官に信用され仕事を任された誇り、こうした記憶を辿る時、楊さんは身を乗り出し、時折目に涙を浮かべ熱く語った。
楊さんは、「私は日本人として生まれ、生きてきたんです。だから最後は日本人として死にたいんです」と語る。日本国籍を取得するには「帰化」の選択肢もある。これについて尋ねると「元々日本人だから帰化ではなく“国籍の復帰”なんです」と答えた。
司法に望みを託すしか方法がなかった楊さん。判決について「残念だった」とした上で、裁判を起こしたもう一つの理由を話し始めた。
「皆さんには、台湾で何が起きたのか。台湾の歴史を知って欲しかったんです」
「裁判には負けたけど、日本に来た意味がありました。台湾には私のような人たちが沢山います。私たちに何が起きたのか、伝わったと思います」
さらに担当の弁護士は、「戦後の忘れ物という状態が生じた。まずはそのことを我々日本人が知るべきだ」と話した。
翌日の午前7時、羽田空港の出発ロビーで待ち合わせた。台湾の緑色のパスポートを手にし、チェックインした楊さんは去り際に「私たちのことに関心を寄せてくれて、ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
戦争に人生を翻弄された楊さん。今後も裁判を続けていくとしています。
TBS社会部司法担当 奥野宏輝
1月29日 8時00分
99歳の台湾男性が日本国籍を求め起こした裁判。その訴えは認められなかったが、1月18日付けで、男性側が東京高裁に控訴したことが取材でわかった。なぜ、男性は裁判を起こしたのか。その真相に迫る。
■判決言い渡しの瞬間 しばらく直立不動
「主文、原告らの請求を棄却する」静まり返った法廷で、裁判長がこう言い渡し、判決文のファイルを「パン!」と音を立てて閉じると、男性はしばらく直立不動のまま動かず、ただ前を見据えていた。
楊馥成(ようふくせい)さん、99歳。2月で100歳を迎える。1895年から50年間日本の統治下だった台湾で、日本国籍を持つ両親の間に生まれ育った。しかし、日本の敗戦後、1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が台湾の領土権を放棄、さらに日華平和条約の発効によって、楊さんら台湾で生まれ育った「日本人」は意思に関係なく日本国籍を一方的に失ったという。
こうしたことから楊さんは、同じ境遇にある94歳と88歳の男性2人と共に「国籍は本人の同意なく剥奪されるものではない」「日本国籍を一方的に失ったのは不当」として、2019年に民事裁判を起こした。帰化以外で日本国籍を得るには司法に訴えるしかなかった。
弁護士によると、こうした「国籍の復帰」を求める裁判は初めて。裁判は2年以上続いたが、今年1月12日、東京地裁は「平和条約によって国籍は喪失している」として楊さんらの訴えを退けた。
■スマホを駆使して台湾の歴史を伝える
裁判で日本国籍が認められなかった楊さん。判決の瞬間、どのような気持ちだったのか。さらに、100歳近くにもなって裁判を起こした理由は何だったのか。台湾に戻る前日、インタビューを申し込んだ。
楊さんは、約束の場所に大きなリュックを背負いながら、しっかりとした足取りで現れた。リュックの中には、大量の台湾の歴史についての資料が入っていた。はっきりとした日本語で話し、とても99歳には見えなかった。さらに驚いたのはスマホを使いこなしていることだ。ラインを交換すると、直後に台湾の歴史を紹介するYOUTUBE動画が何本も送られてきた。
楊さんは、日本統治下だった1922年2月、台湾で生まれ、日本人の教師から教育を受けた。当時の校長やクラスメートの名前も鮮明に記憶していて、卒業式には「仰げば尊し」を全員で歌い、涙を流し別れを惜しんだ。戦争が始まると、楊さんは日本軍の後方部隊の配属となった。しかしそのクラスメートたちは、当時激しい戦いが繰り広げられたビルマやニューギニアなどの最前線に向かい、多くは命を落としたという。厚生労働省によると、当時台湾から戦争にかり出された軍人と軍属は合わせて20万人に上り、その内3万人が亡くなった。
「私は運がよかったんです」と話した楊さん。補給部隊のためシンガポールに向かった際、「軍の機密任務」も任され「日本人として信任されていると思った」と日本人としての誇りを持ち、仕事に就いたと熱を込めて語った。
しかし、戦後24歳で台湾に戻ると、日本国籍は「いつの間にか失われていた」という。
■「日本軍に従事したことで国民党政権から受けた壮絶な差別」台湾の歴史を知って欲しい
台湾に戻った楊さんを待ち受けていたのは、戦後の新たな国民党政権による“差別”だった。
「日本人として戦争に従事したためか、理由もなく7年間も牢屋に入りました」
「あの時は、容赦なく引っ張られた」
「木刀で脚を歩けないほど叩かれ、拷問にもあいましたね」
国民党政権が住民を武力弾圧し、多くの人が犠牲となった「2・28事件」。楊さんは、日本軍に従事したことから、激しいいじめを受けたと話す。「日本は助けてくれなかった」と嘆いたが、それでも日本人として過ごした24年間の思い出が色あせることはないと当時を振り返った。
世話になった日本人の恩師と正月を過ごした日々、上官に信用され仕事を任された誇り、こうした記憶を辿る時、楊さんは身を乗り出し、時折目に涙を浮かべ熱く語った。
楊さんは、「私は日本人として生まれ、生きてきたんです。だから最後は日本人として死にたいんです」と語る。日本国籍を取得するには「帰化」の選択肢もある。これについて尋ねると「元々日本人だから帰化ではなく“国籍の復帰”なんです」と答えた。
司法に望みを託すしか方法がなかった楊さん。判決について「残念だった」とした上で、裁判を起こしたもう一つの理由を話し始めた。
「皆さんには、台湾で何が起きたのか。台湾の歴史を知って欲しかったんです」
「裁判には負けたけど、日本に来た意味がありました。台湾には私のような人たちが沢山います。私たちに何が起きたのか、伝わったと思います」
さらに担当の弁護士は、「戦後の忘れ物という状態が生じた。まずはそのことを我々日本人が知るべきだ」と話した。
翌日の午前7時、羽田空港の出発ロビーで待ち合わせた。台湾の緑色のパスポートを手にし、チェックインした楊さんは去り際に「私たちのことに関心を寄せてくれて、ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
戦争に人生を翻弄された楊さん。今後も裁判を続けていくとしています。
TBS社会部司法担当 奥野宏輝