強制不妊手術に携わった元県職員が証言
しわの刻まれた指で、半世紀近く前の公文書を一字一字なぞった。「こんなものが残っているのか。かなわんなあ」。大津市の60代男性が苦々しく笑う。標題は「優生手術の審査について」。丁寧な手書きの文字は、滋賀県職員だった若かりし頃に記したものだ。
優生保護法(1948~96年)下、障害者らへの強制不妊手術の旗振り役だった都道府県の実務内容は不明な点が多い。当時を知る職員を探し、この男性に行き当たった。
「これは、女性が子どもを産めなくなる手術だ」
1月上旬、自宅を訪ねた。「優生保護法か、ずいぶん昔の話やね」。記者が示した公文書に目を落とし、記憶をたどった。
大学を卒業した春、県の医務予防課に配属された。ギターが趣味、酒は苦手な22歳の新人に与えられた仕事は同法の関連事務。「そんな法律があるなんて、初めて知った」。担当は彼1人だった。
先輩からの引き継ぎは口頭だった。必要な資料や事務の流れは分かったが、なぜ手術が必要なのか説明はなかった。「不良な子孫の出生を防止する…」。法律の条文を何度も復唱した記憶がある。
当時、疑問は感じなかった。「民主主義の中で成立した国の法律だから。いち県職員がどうこう言う問題じゃない。素直に趣旨を受け止めた」
入庁から9カ月後、「精神分裂病」(統合失調症の当時の呼称)などとされた未婚と既婚の女性2人の審査が回ってきた。有識者の委員でつくる県優生保護審査会を開催し、手術の適否を判断するのが国が通知したルール。だが、書面だけで委員の同意を得る「持ち回り審査」で済ませた。
7人の委員は大津地検の次席検事や県産婦人科医会長、県社会福祉協議会の会長ら。「すごいステータスの人たち。会議に集まる日程の調整は大変で、『書面にしよう』と上司に指示されたと思う」。決裁文書には「諸般の事情」と理由を記した。
新人だけで委員に会うのは恐れ多かった。直属の係長に「私1人で行っていいんですか」と聞くと、即座に「うん、よろしく」。優生保護法の業務は県庁内で軽い扱いだったという。
審査対象者の診断書や、保健所の調査書などをかばんに詰めて、委員を訪ね歩いた。その中で男性の産婦人科医が言った。
「君、分かっているの? これは、女性が子どもを産めなくなる手術だ。その後の人生に与える影響を十分理解しているの?」
不妊手術の具体的な方法も、被害者の苦痛も知らなかった。「ハッとさせられた」。だが、医師は資料を読み終えた後に同意の欄に押印した。
委員の印鑑を全て集め終えて、2人の手術が決まった。男性の胸に去来したのは業務を一つ終えた安堵(あんど)感だった。実際に手術が行われたかは知らないという。
「ふー」。回顧を終えた男性が、長いため息を吐いた。「強制不妊に関わったことをどう思いますか」。記者の問いに、明確な返事はなかなか出てこない。
言葉を絞り出した。「人権を無視していたと今は思う。でも当時は、必死に仕事をしていた。書類にミスがないように処理することしか、頭になかった」
持ち回り審査が不適切とは、誰も教えてくれなかった。22歳の青年は役所の論理に、ただ忠実に従った。優生保護法の担当は1年で終わった。その後、男性が携わることはなかった。
「悪意があったわけじゃないよ」
優生保護法(1948~96年)の下、国や都道府県は障害者らを「不良」な生命と差別し、強制不妊手術を推し進めた。少なくとも全国で1万6475人、滋賀で282人、京都95人に生殖能力を奪う断種を強いた。
京滋に残る公文書をめくると、行政機関の当時の考えが浮かび上がる。
「優生手術の申請は極めて少なく、精神障害者は年々増加傾向にあって誠に憂慮に堪えない。不良な子孫の出生が相当多数に上ると推定される」
55年1月、京都府衛生部長が各病院長に宛てた通知だ。精神科病院に入院する患者数の1割が手術の対象者になると見解を示し、「社会福祉に貢献していただきたい」と手術件数を増やすよう求めている。
滋賀県にも69年12月、精神科病院に向けた「優生手術該当者の申請依頼」の文書がある。手術の適否を判断する県優生保護審査会の開催を翌年2月に控えて、「貴病院における該当者について調査の上、保健所長に提出願います」。任意の申請を待つのではなく、断種する人間をあぶり出そうとしていた。
当時、行政職員はどのような認識だったのか。
滋賀県湖東地域に住む男性(90)は50年ほど前、県医務予防課で優生保護法の担当係長をしていた。自宅を訪ねて、証言に耳を澄ませた。「精神薄弱(知的障害の当時の呼称)の人を増やしたらあかん、という考えはあったと思う」「家族がいろいろと心配して手術をしたんじゃないかな」
だが、詳細を聞こうとしても「昔のことやし、よく覚えてへんなあ」と言葉がはね返ってくる。手術の審査に関する県の記録を見せた。男性の印鑑が押され、国が禁じた書面だけの持ち回り審査の記述もある。それでも記憶はよみがえらない。
半世紀前だから思い出せない、わけではなかった。男性が同法の後に担当した滋賀医科大の誘致話に水を向けると、話が急に輪郭を帯びた。「月に何度も東京に行って、文部省(当時)の役人を新橋の料亭で接待した。群馬までタクシーで帰る人もいた」「県知事や京都府立医大の先生にも足を運んでもらった」
傾けた熱量の差なのか。「優生保護法の仕事は重要な方じゃなかったと思うで」。県職員の間で、断種が人権侵害だと議論になった記憶はないという。
「子どもが生まれて、同じ障害だったら困るやろ。みんな、悪意があって手術させたわけじゃないよ」
公益のため、家族のため―。「善意」の名の下に、子を産む権利を奪われる人たちの苦痛に目を向けなかったのか。男性から答えは聞けなかった。
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連載<隠れた刃 証言・優生保護法> 国が「不良な子孫」と決めつけ、不妊手術や中絶を強いた法律があった。71年前、優生保護法は民主的手続きを経て成立、23年前に改正され強制不妊の規定がなくなっても、苦しみ、もがき、沈黙するしかない人たちが、今もいる。「優生」の意識は、私たちの心の中に「刃(やいば)」のように潜んでいるのではないか。教訓を未来への道しるべとするために、時代の証言を探した。
3/9(土) Yahoo!ニュース