きょう、ふとかけた放送大学で、「風景構成法」を講師の岸本寛史が紹介していた。「力動的心理療法」の手法の紹介である。心療士が「川」「山」「田んぼ」「家」「道」「動物」…と対象物を指示しながら、クライアント(患者)に風景の絵をかいてもらうのである。
気になったのは講師の「解釈」ということばである。クライアントがつぶやきながら指示された対象物をつぎつぎと描きあげるのをそのまま順に心療士が言葉にすると、解釈ができあがるという。私は何のために何を「解釈」するのか、聞き落とした。
ここからは、東畑開人の『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)を読んで得た知識も含まれる。心療士は心の深くにあるものを探るために、クライアントの表出するイメージを「解釈」する。人は「客観的現実」ではなく「心的現実」にもとづいて行動する。絵を描くことを観察して「心的現実」を理解することを「解釈」というのだ。そうだとしても、しかし、何のために「解釈」するのだろうか。
心の奥で忘れようとしているものを他人である心療士があきらかにしてどうしようというのかが判然としない。
この戸惑いは、放送大学の講義では、俳優がクライアントを演じており、何かに悩んでいるように見えないことにもよる。講師が「解釈」によって得たものは、テレビの画面に映し出された「解釈」だが、クライアントの「個性」の記述のようにしか見えない。すると、クライアントの悩みのを解決するという現実的なニーズに対応できていないように見える。
クライアントは強迫的ですよとか自閉的ですよとか言われて喜ぶとは思えない。
私は、日々、NPOで不登校や引きこもりやうつや強迫症や発達障害の子どもたち、若者と対面している。
私は、はじめ、不登校や引きこもりの原因を「いじめ」だろうと思って、それを聞き出そうとしていた。しかし、生きる活力を取り戻させるには、過去の原因追及はいらない、と思うようになった。自分が愛されているという確信を持たせばよい。
心の奥深く、忘れようとしていたものを掘り起こす必要はない。忘れようとしていたものは本人の自尊心を傷つけるものだからだ。「あなたは悪くない」という言葉を受け入れてもらえる人間関係を築くことこそ、だいじだと思う。
原因の追究は、いま受けている暴力に対し向けられるべきである。いま受けている暴力は直ちに取り除かねばならない。「こころ」の問題ではない。「解釈」は不要である。
また、子どもや若者が家族から精神的サポートを受けていない場合は、家族との安心できる関係を再構築しなければならない。それがうまくいかない場合は、本人に生きる力があれば、家族と離れて暮らすようにもっていくしかない。
「発達障害」のなかの知的障害の場合は一生にわたってサポートを要する。心の深くをさぐるという問題ではない。人から愛されるということが第1の目標となる。制度としての社会的サポートは昔より良くなっている。本人が社会的に見すてられないということともに、家族が社会から孤立しないようにするのが社会的サポートの役目である。
私は32歳の軽度のと22歳の中度の知的障害の若者とNPOで対面しているが、それは保護者の心のケアのためでもある。二人とも親から十分に愛されている。