森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)で、頻繁に「回心」という言葉が出てくる。
《アメリカのキリスト教は、教派ごとの教理や聖職者の行う儀式を中心としたものではなく、信徒各人が直接経験できる回心と新生を中心とした実践的な性格を持っている。》
《彼(19世紀の信仰復興運動のチャールズ・フィニー)の説教は人びとの心に届き、彼の生涯を通して50万人が回心を遂げたと言われている。》
みんなは、これらの「回心」をどう理解して読んでいるのだろうか。仏教用語の「回心(えしん)」と違うことを知っているのだろうか。
新約聖書の聖書協会共同訳にも、共同訳にも、口語訳にも、「回心」という言葉が一度もでてこない。いま私の手もとにある日本語聖書の中で、佐藤健・小林稔訳の『新約聖書 福音書』(岩波新書)だけが、「回心」という言葉をつかっている。ギリシア語の“μετανοέω”を「回心」と訳している。彼らは、「補注 用語解説」でつぎのように説明している。
《かいしん 回心(metanoia, 動詞はmetanoeo)
普通「悔い改め」と訳されるが、原意は必ずしも悪行を「悔いて」「改める」の意ではない。認識と心性の方向を180度逆転し、「神」の方向を向くこと。》
その通りだと思う。聖書協会共同訳も、共同訳も、口語訳も、ギリシア語 “μετανοέω”や “ἐπιστρέφω”を「悔い改める」と訳しているが、“μετανοέω(メタノオー)”は「向きを変える」ことであり、“ἐπιστρέφω(エピストレフォー)”は「振り帰る」ことである。
それなのに、聖書協会共同訳、共同訳、口語訳が「悔い改める」とするのは、ルターやカルヴァンの影響だと思う。彼らの系譜をひく牧師は、たとえば、ジョナサン・エドワーズは、つぎのように説教する。
《あなたがたは、怒れる神の手にうちにある罪人です。神は、燃えさかる地獄の業火の上に、今にも焼き切れそうな細い糸であなたをつり下げています。》
さてカトリック教徒の山浦玄嗣は『イエスの言葉 ケセン語訳』 (文春新書)で “μετανοέω”を「心をきっぱりと切り替える」と訳している。たとえば、彼は『マルコ福音書』1章15節をつぎのように訳している。
《まぢにまってだ ときァ きている。
こころォ きりげァで、
これがらぁ ずっと このよい たよりに
そのみも こころも ゆだね つづげろ。》
いま私の手もとにないが、新約聖書の研究家、田川建三の訳も「心を切り替える」だったと思う。
「回心」とは、「悔い改める」どころか、これまでの「しがらみ」や苦しみから解き放たれて、すがすがしい気持ちになることではないか。新宗教で起きる「心直し」の感情ではないか。だから、自分が救われたという感覚になるのだと思う。
アメリカ映画『グッド・ウィル・ハンティング』で、マット・デイモンの演じる天才児が、ロビン・ウィリアムズの演じるセラピストに「あなたは悪くない」「あなたは悪くない」と迫られて、突然、涙を流してセラピストに抱きつくが、これこそが「回心」であると思う。
私がNPOで不登校や引きこもりやウツの子どもや若者に向き合うとき、「あなたは悪くない」という態度をとることにしている。彼らは、社会の重荷に十分に苦しみ、周りから責め続けられている。この重荷をとり除くことこそ、彼らを救うことだと思っている。
人びとを救う宗教が人びとを苦しめてはならないはずだ。
森本あんりは、著書の第2章で、信仰復興運動が起きた理由を「ニューイングランドの人びとにくすぶっていた、回心体験への強い希求である」という。それは、保守派のプロテスタンティズムは「あなたが悪い」「あなたが悪い」と迫るからである。本当に求めているのは「私は悪くない」という確信ではないか。
森本あんりは、18世紀の信仰復興運動の担い手、ホイットフィールドについて面白い話を紹介している。
《彼は、同じ言葉を40回まで繰り返し、しかもその一回ごとに感動が高まることができた。ある日の観察によると、それは「メソポタミア」という一語だったという。》
《移住してきたばかりのあるドイツ人女性は、英語が一言もわからないのに、ホイットフィールドの説教を聞いて感極まり、「人生でこれほど啓発されたことはありません」と叫んだとか。》
そうなのだ、あなたは悪くない、悪くない、悪くない、アーメン(異議なし)。