きょう、はじめて、朝日新聞の『「リケジョ」がなくなる日』という連載に気づいた。『「リケジョ」がなくなる日』という連載名の意味がわからなかったので、これまでの連載を読もうとした。
私は、紙の朝日新聞を毎月25日に回収に出す。したがって、全文を読んだのは、この5回目が初めてだ。これまでの4回のレポートは、ネットでは鍵がかかっていて、各回の半分しか読めない。
読める範囲で私の理解をいうと、「リケジョ」とは「理数系が好きな女子」ではなく、「理数系の研究者をめざす女子」を意味し、「リケジョ」という言葉に差別の気持ちがこもっているということのようだ
連載の各レポートの内容は、男性中心社会のために、「リケジョ」の出産・育児と研究の両立の困難さを周りが理解していない、というふうに読める。
今回のレポートは、全部読めるため、「リケジョ」の問題は「男性中心社会」だけではなく、「研究職」が「極端な競争的職業」であることがわかる。研究職が安定した雇用ではなく、雇用期間内に成果を出さないとつぎの雇用がないという不安に落とされる。そして、雇用先が絶対的に少ないために、結婚しても、出産しても、夫婦が別居という問題が生じる。
私が、まだ、若いとき、40年以上前の話だが、フランスでの化学の学会講演に呼ばれたが、そのとき、フランスの研究者の2割から3割が女性だったと記憶している。理系の学問は攻撃的である必要はなく、しぶといことがだいじだなので、女性に向いていると私は思う。
いっぽうで、高校、大学、大学院を私と同窓の女性は、地元の大学に職を得たにもかかわらず、離婚して、子どもを残して自殺した。一人住まいのアパートでガス爆発を起こしたというが、高校のときの友だちは、あれはガス自殺だという。自殺するほど、苦しんでいたことを知っていれば、会って止めたのにと悔やむ。
「リケジョ」の問題に戻ると、「研究職」でなくても「研究者」であることができるのがあるべき姿ではないか、と思う。大学や研究所に「研究者」でありたい人がいつでも訪れて研究できるのが良いと思う。研究は「しぶとく」「しつこく」続けるのがいい。
短期間に競争して結果を出そうとしても、それは、予想された結果を得ることにしかならない。「研究者」が「研究者」であり続けることができれば、研究のすそ野が広がり、お金をかけなくても、スケールのより大きいな研究成果がでてくる。男女差別だけの問題ではない。
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『「リケジョ」がなくなる日』5回目のレポートを下記に要約した。
《京都大で太陽の研究をしていた》彼女は、《将来を嘱望されていたころ、大学の同級生と結婚した。》
《計画通り》出産、《産後3カ月で博士論文の審査に合格した。「履歴書上は、いつ子どもを産んだかわからないくらい。当時は、『自分ってスゴイ』と思っていました」》
《任期付きの研究職(ポスドク)となり》、《話しかけてくる子どもに「今はやめて」とあたってしまうこともあった。》
《心療内科で「うつ病」と診断された。研究者を辞めようか、とも考えたが、大学から出るのは「負け犬」で、研究室にいないと自分の価値はないと信じていた。》
《研究への野心は残っていたが、「大学には残れる」と思い》、《研究活動を後方から支援する》URAに《転職した》。
《夫が岡山大の助教の職を得》て、わかれて一人で京都に残ったが、いっぱいいっぱいになり、《娘を夫に託し、1人で京都に帰った。》
昔、学校の先生になることが夢だったことを思い出し、岡山の中学・高校の非常勤の教師になって、いまは夫と一緒に暮らす。
《研究に対する未練もなくはない。世界のトップ研究者と肩を並べる自分にも誇りを持っていた。》
《研究職しか考えられなかった当時の自分から見たら、今は「負け犬」かもしれない。でも、この道も楽しい。》