猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

NHK『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』に涙する

2021-05-08 22:56:56 | こころ


歳をとったためか、涙もろくなった。感動して泣くのである。気持ちが晴れる涙である。

きょう泣いたのは、ETVの『こころの時代〜宗教・人生〜「私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜」』である。戦後、長崎で孤児施設「向陽寮」の初代寮母になった餅田千代の物語である。彼女に育てあげられた孤児が、彼女を思い出して半分泣きながら語り、ところどころで、彼女の施設での育成記録『ひまわりの記』が読み上げられる。彼女の、孤児を人間として育てる理念と実際に抱えた問題が読み上げられる。

私の中学の同級生に愛児園(養護施設)の女の子がいた。キリスト教系の施設で、病院も運用されていた。今回の放映をきっかけに、調べてみたら、1912年、ドイツ人カトリック宣教師ヨゼフ・ライネルス師が北陸地方巡視を記念して作られたものだった。財政上の困難が続いたとある。私の家から歩いて10分の所に愛児園があって、同じクラスになるまで、その存在を知らなかった。

孤児施設「向陽寮」は、1947年にエドワード・ジョゼフ・フラナガン神父(カトリック)の訪問を記念してできた県立の施設であったが、建物と土地以外何もなかった。私はバカだから、戦後、アメリカのキリスト教徒の支援があって、施設は財政的に豊かだったと思っていたが、そうではなかったのだ。37歳の餅田は、自分の息子(12歳)と娘(5歳)と自分の炊事用具、自分の米とみそを持ち込んで、なんにもない寮の初代寮長となった。

そうして、餅田は、戦後の食べるものも着るものも住むところもない子どもたちを引き取ったわけだ。地域社会から施設が追い出されないため、社会の掟である規律を守らせなければならなかった。盗んではいけないということである。

1947年暮れの生まれの私は、子どものとき、生まれながらの「共産主義者」だった。私有制という「掟」がわからなかったのである。人のものと自分のものの区別がつかないのである。しかし、私は孤児でなかったから、中学のとき、人の文房具を使っても、とがめられることはなかった。

NPOで子どもの指導をしていると、子どものときの私のような子が結構いる。悪気がなくて、ただ、私有制というものがわからないのである。

餅田に育てられた子どもは、いまは私よりもっと老いているのだが、寮母の餅田に叱られたことを懐かしそうに思い出す。叱られても叱られても、食べ物がそこにあるのに、食べるもののない自分がなぜ食べていけないのか、わからない、というのだ。私有制がなければ、孤児も存在しない。みんな平等だ。しかし、寮母の餅田が、村のみんなに謝って弁償して歩く。寮母が可哀そうだから、掟を守らないわけにいかない。それで、「共産主義者」でないふりをするようになる。

寮母の餅田は子どもたちに規律を守らせると同時に、独り立ちができるように、子どもたちに働くことを教えた。畑を耕して食べるものを確保するのである。力のある大きな子は、アメリカ政府が放出した小麦粉を練って、焼いて、コッペパンを毎朝作るのである。餅田は『ひまわりの記』に、どのパン屋よりもおいしいコッペパンができた、と嬉しそうに書いている。

ところが、寮母の餅田は、子どもを働かせるとまわりの大人から批判された。

私は、子どもが働くから悪いと思わない。人間が働くのは自然な行為だと思う。苦しいことでもなんでもない。働くことも人生の一部なんだ。問題は、搾取されるために働くことだ。搾取されるとなると、自分が必要とする以上に働かされる。これと、自分が食べるものを土地から収穫し、自分が食べるパンを練って焼くこととは、区別しないといけない。

本当においおいと泣く話ばかりだった。

それと、餅田が何と格闘したか知るために、『ひまわりの記』を一度読んでみたいが、どこにその本があるのだろうか。

[補遺]
5月9日、餅田千代の『ひまわりの記 : 児童福祉こと始め、長崎県立向陽寮 』は国立国会図書館と長崎県立図書館にあることがわかった。電子版はないので、コロナ騒ぎが終わったら、国立国会図書館で読んでみようと思う。