猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

私は個性にあるおしゃれな女が好きである

2021-05-23 06:37:47 | 社会時評

NHKの朝のテレビ番組で、接客において、就活において、葬式や結婚式において、かかとの高いパンプスをはく必要があるか否か、討論していた。おしゃれを重視するか、それとも、健康と快適さを重視するかは、個人の選択の問題である。

いつから、日本人は社会の目をそんなに気にするようになったのか。いつから、雇用者は個人の選択の自由に干渉するようになったのか。

この いきどおりは、昨年の8月にも覚えた。そのときのブログを採録する。

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畳の上に、梯久美子の『好きになった人』(ちくま文庫)が転がっていた。読むと、淡々とした文体なので、梯が、どうして、本当に、島尾ミホに興味をもったのか、と疑ってしまう。

眼を引いたのは、「黒いスーツ」という7ページ足らずの短文である。蒸し暑い梅雨どきに、かの女がセミナーの講師をしたとき、集まった女子学生が同じ服装をしているのに、違和感を感じたという。

「黒のスーツの上下に、白いブラウス。いわゆる就活ルックである。」

女子大生に問いただすと、次の答が戻ってきたという。
「今日は目上の人にお会いをするし、ちゃんとした格好のほうがいいと思って」
梯久美子が、後日、20代半ばの知人の女性に、そのことを話すと、
「同じ格好だからいいんじゃないですか。ヘンに目立つの、イヤですもん」
と言われたという。

1961年生まれの梯久美子は怒っているんだ。1947年生まれのわたしは、梯が怒っているのにホッとした。

就職難の時代だから、目立つことを避けた、というのも、梯の言うように、オカシイ。自分を売り込むには、まず、目立たないとイケナイ。

「目立つのがイヤだ」と言うのは、反抗をあきらめた、場に向かう羊の群れの考えである。目立つものから殺される、という思いである。

あるいは、目立つものがイジメられる社会になったのだろうか。勉強しなくてもよい。戦わないと、少なくとも、抵抗しないと生きづらい世の中になるだけだ。

小学校高学年向け道徳教材『ホームスティ』は、ドイツにホームスティした日本人少女ふたりの物語で、「生活習慣の大切さを知り、自分の生活を見直し、節度を守り節制に心掛けようとする心情を育てる」ことを狙っている、と学習指導解説にある。

実は、この教材は、一見、ふたりが「華美」な流行の服を着たことを批判しているように見えるが、そうではない。パーティにふたりを招いたドイツ人少女は、日本人少女が同じような服を着て、区別がつかない、と、笑ったという物語である。

つまり、個性がないということである。

よく考えると、梯久美子はおしゃれの気持ちがないと怒っているのだが、わたしは個性がないと怒っているのだ。おしゃれも個性だから、同じことなのかな。

島尾ミホは、年老いても、目に力があり、ヘンであった、と、梯久美子は言う。そう、わたしも、梯久美子と同じく、個性ある人間に惹かれる。

道徳は「どう教えれば」でなく「教えてはいけない」のだ

2021-05-23 06:31:28 | 教育を考える

わたしの母はおしゃべりだった。わたしの家では朝も昼も夜も家族一緒に食事をしていた。戦争中の話もよく聞いた。戦後、知り合いの遠い親戚が勲章を政府からもらったとき、思想を貫いていない、受け取るな、と怒っていた。

人間の脳は、言葉を理解するのに、無理をしている。無理をしているから、よく検討もせず、聞いた言葉を、頭の中に叩きこんでしまう。人間は、他人の言葉に影響されやすいのだ。これを「洗脳」という。「良い子」ほど「洗脳」されやすい。

今日、学校教育は、「道徳教育」を通して、政府による洗脳の場所となっている。それに対抗するため家族の普段からの話し合いが大事だ。学校が塾が子どもを洗脳する前に、別の見方を親が話しておく必要がある。

そのことに関して、わたしは誤っていた。仕事の帰りが遅く、息子と食事をすることが、土日以外になかった。ときどき、徹夜をして会社や顧客先に泊まり込んだ。それも、一晩でなく続けて泊り込んだりした。眠らないで働けると自慢さえした。

わたしはバカであった。わたしの妻も、学校教師の娘であったため、学校が洗脳の場所と気づかなかった。いつも良い母親として教師に気に入られようとした。二人とも年老いて、ようやく、現実に気づいた。

昨年の朝日新聞《耕論》に『道徳どう教えれば』があった。この問題設定は誤りである。本当は「道徳を学校で教えてはいけない」のである。

今の道徳教育は、作られた物語を子どもたちに読みこませ、一つの価値観を植えこもうとする。植えこむ価値観は始めから指導要領に「ねらい」として明確に書かれている。子どもが物語を正直に批判すれば、「変な奴」と多数派の子どもたちの笑いものになる。

そう、「良い子」は同調圧力に押しつぶされ、権力者の言うとおりに従わないと、食べていけない、きれいなものを身につけられない、異性に好かれない、結婚できないと思い込む。そして、教師は、子どもたちを「善」へと導く「羊飼い」「司祭」「牧師」となる。

3年前に、憲法学者の木村草太は、ネットで『これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 法よりも道徳が大事なの!?』というタイトルで道徳教育を批判している。

そこで取り上げられた教材は「つよし君が人間ピラミッドの練習中に事故にあう」という物語である。骨折した「つよし君」は、バランスを崩した「わたる君」を許せない、と怒りまくる。「つよし君」の母は、つらい思いをしているのは「わたる君」だと諭し、「つよし君」が「わたる君」に仲直りの電話かけるというものだ。

木村草太は、人間ピラミッドの練習が妥当であったかを問題にする。「法」は、事故の再発を防ぐために、普遍的な原理で、責任を問う。危険を伴う人間ピラミッドは、安全対策を施しての練習だったのか。さらに、人間ピラミッドなんて、する必要があったのか。教師、学校管理者の責任が問われるべき「法的」事件なのに、友情物語に矮小化されている。「道徳」ではなく、学校で「法とは何か」をちゃんと教育すべきだと言う。

前文部科学事務次官の前川喜平が、昨年の 6月24日、東京都世田谷区での講演で小学校の道徳教材「星野君の二るい打」を取り上げ、「型にはまった人間をつくる危険性がある」と道徳教育を批判した。

この教材は、監督の指示に従うとみんなで約束したのだから、監督のバント指示に従わず2塁打を打った星野君が悪いというものだ。監督はみんなの前で星野君を次のようになじる。

「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」

そして、監督は星野君の大会への出場禁止を告げる。

「監督の指示に従うとみんなで約束した」ということを盾に、子どもを追い込む大人なんて許せない。選挙で自民党が勝ったのだから、国会の多数決でなんでも決めることができる、という安倍晋三と同じ論法である。「監督の指示に従う」は、「監督が常に正しい判断をする」という前提に基づいている。

また、対等でない人間関係のもとの約束は、法的には無効である。

欧米的発想では、「法」以外に「倫理」「モラル」がある。

「法」は手続きを経て決まった「きまり」で、人間の行為を裁く。「手続き」が正当かの問題が残る。不当であれば、「法」とみなされない。
「倫理」や「モラル」は、その行為が人間社会にとって妥当か否かを、人間の心に問うが、「法」と異なり罰則はない。「良心」が痛むだけである。

日本の「道徳」は、欧米の「倫理」「モラル」と異なり、儒学にもとづくもので、人間の心の中まで国家が支配しようとする。道徳教育は、教え方の問題でなく、決して認めてはいけないものである。

なぜ、学校は、民主主義の基礎である「自由」とか「平等(あるいは対等)」とか「愛」とかを教えないのか。

昔、消費者は王様です、という時代があった

2021-05-23 06:28:34 | 思い出

私が子供だったときに、新聞に「消費者は王様です」というキャッチコピーがのった。これは、当時の人気演歌歌手、三波春夫の口ぐせ「お客様は神様です」のパロディーであるが、日本の高度経済成長期の風潮をよく表現していると思う。

私の母は、この新聞広告をもとに、「時代は変わった、お金は使って何ぼのもの、稼げ、稼げ」と父を責めていた。父は、「上を見たらきりがない」とぼやくだけだった。

私の母が欲しかったものは、電気洗濯機、冷蔵庫、電気釜、電気掃除機である。私の実家には、雪国なのに、湯沸かし器もなかった。もちろん、テレビもなかった。

60年前の日本は、物が欲しいという欲望をあおって、人を働かせ、物を売り、企業は大きくなった。これを高度経済成長期という。

母の言い分もわかるが、物のために母が父を責めたてていたことで、人間の欲望や経済成長を素直に肯定できない私になっている。欲望のために人と争うことを私は肯定できない。

これからは、「平等」「愛」ということも考える時代だ、と思う。

小野善康は、『成熟社会の経済学』(岩波新書)のなかで、物が絶対的にない時代の日本と、現在の成熟社会の日本とは違うという。現在のデフレは、物が余っていることだから、必要な人に物が行き渡るようにすれば、不況が解決すると言っていた。

高度経済成長期には、人間の欲望を活力の源として、社会の生産設備を拡大してきたが、その結果、現在、物が売れないという皮肉なことが起きている。これからは、経済的成果の分配の平等化で、生産したものが無駄に捨てられるのを防ぐ時代である。

消費税をやめて累進課税を強化するのも手である。それだけでなく、賃金を上げろと声をださないといけない。給与所得者の年収は明らかに低いのだ。

この40年間、「働くものが王様だ」とする闘う労働組合がつぶれ、「労使協調路線」のもとに企業に管理された労働組合が増えた。総評から連合に変わった。さらに、いまは、労働組合自体が、あたかも悪であるかのように新聞にたたかれる。貧しいのは本人が悪い、自己責任だ、と叩くばかりの自民党が国会の過半数を握っている。

こんなことではいけない。参院選で、自民党を過半数割れに追い込まないといけない。

[参考図書]小野善康:『成熟社会の経済学 ―― 長期不況をどう克服するか ―― 』岩波新書 1348 ISBN978-4-00-431348-9  2012年