ノーベル賞をもらうと、授賞式に先立って、受賞者が講演することになる。この講演のビデオや原稿は、ノーベル賞のサイトから手に入る。カズオ・イシグロの講演は、下記のサイトにある。
https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2017/ishiguro/lecture/
カズオ・イシグロの講演によると、1979年の秋に、彼が24歳のとき、ロンドンの160km北西の村 Buxtonに引っ越して、小部屋を借りた。それまでは、ヒッピーかのように髪の毛を肩まで伸ばし、ミュージシャンでもなろうかと思っていたという。
彼の借りた小部屋からは、遠くまで広がる農地が見えたという。30代の家主は妻に先立たれたばかりで、家主は彼と顔を合わすのも避けており、家じゅうに幽霊がいるかのような雰囲気だったという。ここでの静けさと孤独が作家になるのを助けたという。
『遠い山なみの光(A Pale View of Hills)』のエツコがイギリス人の夫に死なれ一人で暮らす家から見た景色はここをモデルとしているのかも知れない。
その冬に、突然、自分の生まれた長崎、第2次世界大戦後のまもない長崎のことを彼は書こうと思い立ったという。当時、多文化に対する理解がない時代であり、イギリス人からみて外国である長崎を書くことにためらいがあった。大学の学生仲間や先生や小説家のPaul Baileyに、あらすじを見せて、励まされ、吹っ切れたという。そして、書きに書きまくったという。翌年の春に、“A Pale View of Hills”の半分が出来上がったという。
この書きに書きまくったエネルギーは、自分のなかで消えていく長崎の記憶を残しておこうということではなかったか、と、彼は考える。
彼は5歳のとき、両親と姉ととともに、イギリスにわたる。彼は、イギリスに悪いイメージを何も持っていないようだ。自分はまわりから受け入れられていると思っていた。そして、自分を田舎町での有名人のように思っていた。楽観的な人生観がこのとき築かれたように思える。
両親は、ちょっとイギリスに滞在するつもりでいて、来年には長崎に戻る雰囲気であった。すなわち、ほかの外国人のような移民という意識が家庭になかったのである。祖父は成功者で裕福な生活を長崎で送っていた。両親は政府の招待でイギリスにきた海洋物理学者で発明家である。
私も、1977年に、妻と1歳の息子をつれて、カナダの大学に補助研究員として滞在した。息子は5歳まで、カナダの田舎町で暮らした。私の場合は、カナダに住みつこうと思っていた。補助研究員だから給料安く、安アパート暮らしだった。周りは移民だらけだったので、私は、自分がエリアン(「外人」のこと)だという意識はなかった。しかし、妻はみんなと違うと感じていたようだ。息子が幼稚園に行くようになると、母(私の妻)はカナダ人だが、父の私は違う、中国人だと思ったようだ。4年後に、日本に帰ったとき、息子はテレビに出てくるヒーロー(heroes)が日本語を話すとびっくりするとともに、感激していた。
カズオ・イシグロは、そとではイギリス人に完全に同化し、うちでは両親のもと日本文化のなかで育てられた。そして、5歳でイギリスに来てから、日本に帰ったことが一度もなく、“A Pale View of Hills”を書くのである。したがって、作家魂からの創作というより、彼の頭の中にあった日本の風景、日本人の文化を書き留めたと、彼が講演で主張した。経営者として成功し悠々自適の生活を送る祖父とその一族の話しを聞きながら育った彼は、戦争で世の中がどう変わったかを、上流や中流の人びとの視点から見るのも当然である。
彼の幸運な子ども時代からくる楽観的人生観と保守的体質が、イギリス文壇での成功を導いたのだと思う。
[補遺]
ネットの書き込みによれば、『遠い山なみの光』の長崎の地形は、現実の地形と合っていないという。カズオ・イシグロの記憶違いらしい。
私はそんなことより、描かれた人間像は、彼の姉や妹や両親がモデルになっているのか、両親の噂話からくるのか、読んだイギリス人の小説からくるのか、が気になる。描かれた人格が多少ステレオタイプに思える。
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