猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

私の愛すべき子供たち、女の子になりたい男の子

2021-05-25 09:35:10 | 愛すべき子どもたち

私がNPOで担当した子どもに、生まれ変わって女の子になりたい男の子がいた。男の子と言っても、母親に連れられて来たときには、もう、養護学校高等部を卒業し、18歳は過ぎていた。「この子の知能は小学校1年生レベルです」と、母親がわたしに言った。

小学校1年生レベルなら、自分の考えをもつに十分に賢い、と私は思う。
その男の子は、「いつ地球が爆発し、死んで生まれ変われるの」と、私に、いつも、たずねてきた。私は、「いつ爆発するか わからない、しかし、人間が生まれて死ぬまでより、ずっとずっと長く、地球が爆発せずにあるのだよ」といつも答えていた。

その男の子には妹がいた。その男の子は、妹や母親のように、女の子になれば、チャラチャラと着飾って、みんなからチヤホヤされると思い込んでいた。たぶん、その子は、男の子だから母親にバカにされるのだ、と思ったのだろう。

そう、本当は、その男の子は、死んで女の子に生まれ変わりたかったのだ。私に、その気持ちに同意して ほしかったのだ。

女が得か損かは簡単に言えない。
女の子のだれもが、その男の子の思うような人生を歩めるのではない。
自立せずに、だいじに保護されながら、バカにされず、自由に生きていくのは、男でも、女でもむずかしい。

しかし、男らしく生きることが、争って他の人から何かを奪い取ることなら、男らしく生きることもない、と思う。

私は、子どもときから、乱暴な子は嫌いだ。小学校にはいったとき、乱暴な男の子が、ハタキやホウキをもって教室で暴れているのに、びっくりした。それから、女の子が私の遊び友達になった。

争わず、穏やかに生きることが女らしいなら、生まれ変わらなくても、男も女も、女らしく生きれば良い。

私の愛すべき子供たち、泣いていいんだよ

2021-05-25 09:33:59 | 愛すべき子どもたち

きのう、NPOで、私の教え子に泣かれた。
抱きしめてあげたかった。
涙と鼻水にぐちゃぐちゃになった顔をふいてあげたかった。

ばすのせいそうが大変なのです。あすは、せいそうの班のリーダにならないといけないのです。先生、泣いてもいいですか」

ばすのせいそう」は「風呂の掃除」のことか、と初め思ったが、乗り物のバスの内と外をマニュアルにしたがって班で清掃するのだという。ここ毎日、特別支援学校高等部で、1 限目から4 限目まで、ずっとバスを清掃しているらしい。

歌手の八代亜紀も最初に勤めたバスガイドの仕事で、毎日、バスの清掃をしていたという。しかし、時間はそんなに長くなかった。
学校で、どうして、毎日班で1台のバスを清掃していて、そんなに時間がかかるのだろうか。
時間がかかるようにマニュアルができているのではないだろうか。

しかられるのだろうかと聞くとそうでないと言う。しかし、泣いていけないと言われているという。耐えないといけないと言われているという。

泣くほどつらいのなら、「いじめ」の定義に該当し、横浜市の特別支援学校で公然と虐待が行われていることになる。

その女の子は、今年、中学を卒業し特別支援学校に入学してから、私がほめても「ありがとうございます」しか言わない子になった。私は、これは変だ、と思っていた。
学校は、雇用主に絶対服従しないと生きていけない、と教えているのだろうか。

横浜市の別の特別支援学校高等部の男の子も、入学してから「はいそうです」しか言わなくなった。「はいそうです」では会話にならない。

親から聞くと、職業訓練と称して、環境園芸では畑仕事、流通サービスでは清掃、情報文化ではパソコン入力か社内便の配送、人間福祉では介護労働を教えているらしい。

私は園芸が楽しいことと思っていたら、親から聞くと、子供たちは、みんな、つらい、いやだと思っているとのことだ。

労働がつらいこと、耐えることと教えて、何の意味があるのか。労働は生きることの一環で、楽しいことではないか。

ホームページを見ると、特別支援学校は軽度の知的障がいの子が行くこととなっている。しかし、なぜ、知的障がいの子は雇用主の奴隷にならないといけないのか。

しかも、「ありがとうございます」しか言わない子も、「はいそうです」しか言わない子も、私から見れば、知的障がいではない。
手間のかかる子として、いじめられっ子として、普通級から締め出されただけで、私が教えれば、普通に勉強でき、豊かな言葉と感性を持った子たちである。
パソコン検定や漢字検定にも、うかるのである。
そんな子たちが、なぜ、知的障がい者として、自分のプライドをぼろぼろにして、「ありがとうございます」「はいそうです」とだけ言って、生きていかなければ ならないのだろうか。

泣いていいんだよ、と私は女の子に言った。
嫌なことは、やらなくていいんだよ、と私は言いたい。
人間には基本的人権が生まれながらにしてあるんだ。
だれにも人間の心を破壊する権利はない。

私の愛すべき子供たち、右利きと左利き

2021-05-25 09:32:54 | 愛すべき子どもたち

私の、死んだ父は、子供のときに、左利きを右利きに矯正された、と同じく死んだ母が言っていた。父は確かに左手が右手と同じように使えた。母が、父の子供時代のことをわざわざ私に話ししたのは、子供を無理やり矯正すると心がいじけると、母が思い込んでいたからだ。

最近、NPOに、左手で字を書くが、右手の指で漢字をなぞって、書き順とかを覚える子がいる、のを目撃した。私がその子にパソコンを教えているのだが、キーボードを見ずに両手でタイピングができる。本当に左利きなのだろうか。それとも、そもそも、左利きとか右利きとか言うこと自体がウソで、社会習慣に従うか否かの問題なのだろうか。

そう思うのは、私自身が、右と左の区別がつきにくい子だったからである。今、思い返すと、対面した時、相手の左側は自分の右側であることが、理解できなかったからである。数学的にいえば、対面した時は、相手と自分は軸対象の関係にあり、鏡の自分を見たときは、映っている姿と自分は面対象の関係である。

これが理屈抜きで理解できないと、相手が右手をあげて、「右手をあげなさい」と言うと、左手をあげてしまう。「お箸を持つ手が右手だ」と言って、お箸を右手で持って見せても、左手でお箸をもってしまう。

学習障がい、発達障がいと言っても、本当のつまずきの原因が同定できないと問題が解決できない。また、問題自体は、どうでも良いことかもしれない。

左利き、右利きは、利き手にあった道具を使えば問題がない。

漢字の楷書体は右利きに書きやすい形になっていて、「漢検」では、漢字の筆跡が、正しく跳ねているか、止めているかが採点の対象になる。これは字を左手で書く者にとって不利である。しかし、ワープロを使えば、両手を自由自在に使える者のほうが有利である。

台湾問題の「平和的解決」の「解決」とはなにか、自己決定権の尊重

2021-05-24 22:29:52 | 国際政治
 
きょうの朝日新聞記者解説は、とても、むずかしい問題『台湾問題の「平和的解決」』を扱っていた。むずかしいというのは、情動ともいうべき色々な思いが私の心に渦巻くからだ。私の世代は、中国の文化大革命、造反有理、自己批判、天安門事件を見ているからだ。
 
原則から言うと、中国と統一するか否かは台湾に住む人々が決めることである。それは、沖縄が日本から独立することや、スコットランドがイギリスから独立することと同じく、そこの住民が決めるべきことである。
 
19世紀末には、国民国家という妄想があって、民族単位で国を形成するのが良いと考えがあった。しかし、民族というのは幻想でそんなものはない。しかも、台湾は色々な歴史、文化を背負った人々が混在している社会である。
 
昔と違って、大国になったからといって、人々が幸せになるわけではない。大国になれば、個人の意見が国政に届かなくなる。だからこそ、現在、世界中で、小国に分かれようという声が起きているのである。
 
ひまわり学生運動を思い出そう。小国だからこそ、台湾の若者たちが2014年3月18日に国会を占拠して議員たちに直接訴えることができた。小国のすばらしい点は、直接民主主義が実現でき、形式的な代議員民主政の罠に陥らないですむ。
 
問題は、習近平の中国が、台湾の自己決定権を頭から認めないことだ。そして、経済力、軍事力を常に誇示して、力で併合しようという態度をとり続けていることだ。中国の経済的軍事的な力が高まるにつれて、力による台湾併合が現実味を帯びてくる。
 
心に決めるべきは、日本は、力による台湾併合にどういうスタンスをとれば良いのか、という問題である。そして、日本も、台湾と同じく、中国の経済的、軍事的な威圧にさらされている。
 
思い起こせば、日本は明らかに中国のおかげで1990年代のバブル後の不況を切り抜けた。新日鉄や小松製作所は中国市場のおかげで、潰れそうな状態からV字回復した。日本に弱みがあるのだ。中国頼みの経済という側面が日本にあるのだ。そして、中国と戦争する軍事力を日本はもっていない。
 
だからこそ、「平和的解決」とともに、「自己決定権」という原則を、お題目のように言い続けるしかないし、言い続けるべきである。日本は、軍事大国になるべきでない。そして、習近平ひきいる中国の自壊を待つべきである。
 
台湾の人びとが中国からの独立を希望するのも、香港の人びとが一国二制度を求めるのも、今の中国に民主主義がない、個人の尊重がないと、彼らが思うからである。
 
軍事というものは、際限なく経済を圧迫するものだ。中国が、民主主義を無視し、個人をだいじにせずに軍事大国に突っ走れば、必ず経済的に破綻する。経済的に破綻すれば軍事力を維持できなくなる。
 
それまで、日本は、台湾、韓国との友好関係と共有経済圏を強化し、あらゆる恫喝に動じず、静かに正論を吐き続けるしかない。
 
蛇足かもしれないが、このようなとき、中国が冬季オリンピックを来年強行するから、日本も、今年、無理をして東京夏季オリンピックを強行するというのは、ばかげている。無駄な体力を使って、日本の経済力を弱めることはない。

私は個性にあるおしゃれな女が好きである

2021-05-23 06:37:47 | 社会時評

NHKの朝のテレビ番組で、接客において、就活において、葬式や結婚式において、かかとの高いパンプスをはく必要があるか否か、討論していた。おしゃれを重視するか、それとも、健康と快適さを重視するかは、個人の選択の問題である。

いつから、日本人は社会の目をそんなに気にするようになったのか。いつから、雇用者は個人の選択の自由に干渉するようになったのか。

この いきどおりは、昨年の8月にも覚えた。そのときのブログを採録する。

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畳の上に、梯久美子の『好きになった人』(ちくま文庫)が転がっていた。読むと、淡々とした文体なので、梯が、どうして、本当に、島尾ミホに興味をもったのか、と疑ってしまう。

眼を引いたのは、「黒いスーツ」という7ページ足らずの短文である。蒸し暑い梅雨どきに、かの女がセミナーの講師をしたとき、集まった女子学生が同じ服装をしているのに、違和感を感じたという。

「黒のスーツの上下に、白いブラウス。いわゆる就活ルックである。」

女子大生に問いただすと、次の答が戻ってきたという。
「今日は目上の人にお会いをするし、ちゃんとした格好のほうがいいと思って」
梯久美子が、後日、20代半ばの知人の女性に、そのことを話すと、
「同じ格好だからいいんじゃないですか。ヘンに目立つの、イヤですもん」
と言われたという。

1961年生まれの梯久美子は怒っているんだ。1947年生まれのわたしは、梯が怒っているのにホッとした。

就職難の時代だから、目立つことを避けた、というのも、梯の言うように、オカシイ。自分を売り込むには、まず、目立たないとイケナイ。

「目立つのがイヤだ」と言うのは、反抗をあきらめた、場に向かう羊の群れの考えである。目立つものから殺される、という思いである。

あるいは、目立つものがイジメられる社会になったのだろうか。勉強しなくてもよい。戦わないと、少なくとも、抵抗しないと生きづらい世の中になるだけだ。

小学校高学年向け道徳教材『ホームスティ』は、ドイツにホームスティした日本人少女ふたりの物語で、「生活習慣の大切さを知り、自分の生活を見直し、節度を守り節制に心掛けようとする心情を育てる」ことを狙っている、と学習指導解説にある。

実は、この教材は、一見、ふたりが「華美」な流行の服を着たことを批判しているように見えるが、そうではない。パーティにふたりを招いたドイツ人少女は、日本人少女が同じような服を着て、区別がつかない、と、笑ったという物語である。

つまり、個性がないということである。

よく考えると、梯久美子はおしゃれの気持ちがないと怒っているのだが、わたしは個性がないと怒っているのだ。おしゃれも個性だから、同じことなのかな。

島尾ミホは、年老いても、目に力があり、ヘンであった、と、梯久美子は言う。そう、わたしも、梯久美子と同じく、個性ある人間に惹かれる。