2006-1008-yms125
今はもう上毛を払い合う人も
いなくて夜は鴛鴦が恋しい 悠山人
○紫式部集、詠む。
○。平王ク歌番号119。
¶うち払ふ=「鴛鴦は、互いに上毛の霜を払い合うと言われる。そのように、互いの悩みを打ち明け、慰め合う。」(平王ク)
¶ころ(頃)の=ここでは、「そういう時には」、in the case of。
¶つが(番)ふ=現代語では、もっぱら動物や鳥の交尾の意に使うが、古語では、例えば広辞苑に
独り寝る我にて知りぬ池水に
番はぬ鴛鴦のおもふ心を 千載和歌集
と載るように、単に、対になる、組合うという程の意味であった。古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、「実綱卿左大弁のとき、宰相教長入道につがひて」、歌合せで組んで、と。(古語辞典)
¶鴛鴦=おしどり。漢読みのまま「ゑんあう(えんおう)」とも。古く「をし(おし)」、のちに「をしどり」。現代詠では古語読みとした。私事で恐縮だが、祝宴でもときどき「えんおうの ちぎり」などと使った。「契り」の代わりに、場の雰囲気によっては、「ふすま(衾)」もいい。こちらは、和泉式部の用例が広辞苑に載る。
□紫125:うちはらふ ともなきころの ねざめには
つがひしをしぞ よはにこひしき
□悠125:いまはもう うわげをはらい あうひとも
いなくてよるは おしがこいしい
【memo】台風一過の10月7日夜。望(ぼう)で十六夜(いざよい)。まさに「朔太郎の月」。望月に 十六夜月に 神無月。これ、使えそう♪
2006-1008-yts231
艶つやと鎌倉桧葉の立ち居たり
嵐のあとの強き日差しに 悠山人
○短歌写真、詠む。
○矮鶏桧葉(ちゃぼひば)というと、ふつうは矮性樹を連想するが、こんなに背高の玉散らし仕立てになっている。念のため広辞苑を見ると、「背が低く」とある。鎌倉桧葉とも。前線と台風余波の合奏の翌7日は、朝から強烈な日差しだった。意気込んで植物見本園へ。
□つやつやと かまくらひばの たちゐたり
あわしのあとの つよきひざしに
【写真】空と木を分けて、色調を整えた。レイヤと色域をフルに活用する。
【memo】文語短歌・口語短歌の考え方。
近刊『現代短歌の鑑賞事典』(東京堂)で、監修者の馬場あき子は、こう書き出している。「現代短歌とは何だろう」。私の疑問でもあるから、読み進んでみたところ、なかなか明快な答が出て来ない。いくつかの詠草とともに、短歌史を述べるだけだ。中ほどにようやく、「抒情の広がりに拍車をかけるように登場したのが俵万智である。・・・短歌人口が一気に増大したとまでいわれた。文語でうたってきた歌人たちの中にも、口語の力を取り入れて文語と併用する流れも生れていった。ふしぎに文語と口語は相性もよく、今日的な<いま>感が生れやすかった。」と、文・口比較論が、ちらりと登場する。そのまま最後までいっても、けっきょくのところ、冒頭の疑問文に答えないで終わる。いつもの歯切れのいい著者らしくない。
じつは、きょう(8日)もまた図書館でいくつかの短歌同人誌に目を通してきたのだが、文・口詠体への疑問が澱となって膨らむばかりで、一向に出口が見えて来ないのだ。大手の短歌誌、新聞の短歌欄、どれを見ても、選者はなかなかこれを論じない(時間がない、紙面の余裕がない、と言われるのを承知で、敢えて書くのだが)。短歌作法に関する私のフラス(frustration)は、いつになったら解放されるのか?
2006-1008-yim184
title : Japanese Garden6
yyyy/mm : 2006/10
memo : 何年、何十年の時を経て、地上に出た富士山の伏流水。魅入られそうな青。
【写真】清流とは、文字通り青い水のこと。苔むした小さな建屋の緑との対比を楽しむ。