日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

新緑八ヶ岳山麓小海線の旅

2023年06月03日 | 旅行

 先月末、二泊三日の八ヶ岳山麓を巡る旅に出かけた。山麓といっても広大な地域ゆえ巡ったのは、小淵沢から小海線に乗り換えた北杜市高根町の清泉寮周辺と、そこからJR国内最高地点のある県境を越えたお隣り、信州野辺山駅を降りた八ヶ岳カラマツ白樺高原地帯(佐久郡南牧村にあたる)の二か所。
 いずれも三十年来ずうっと訪れたいと思い続けていたところ、優柔不断な背中を後押して一緒に時間を過ごしてくれた友人のおかげであり深く感謝する。

 小淵沢から小海線に乗り込み、清泉寮のある清里まで来ると、もう八ヶ岳の山々は、前面にぐっとせまってくる感じで雄大そのものだ。まだ山頂近くの山襞には、白い斑点筋の残雪が残っている。意外と雪解けは早く、清涼そのものの大気で爽やかな気分になる。新緑の木々が目に染み込んで優しく、全身で光合成をしているかのよう。
 先に駅前で待機していた連絡バスへ乗り込み、寮へと一直線に伸びた通称“ポール・ラッシュ通り”を走りだせば、一気に旅へと解放気分は昂まり、遥か?むかしの学生時代へと時空を超えてしまう。でも、けっして浮かれた気分だけではなく、たぶんに厳粛な気持ちもあった。それはこの地にいまも連綿と受け継がれる戦前戦後からの“開拓者スピリッツ”と幾多にも重なった歴史を感じてしまうから。
 一直線道路の両側には牧草用地が広がっている。終戦直後の1946年にはじまるキリスト教精神を底流とする「清里教育実験計画」(KEEP)の流れをくむ情景であって、その壮大な構想が具現化した土地だ。個人的には高校生のころ、この構想と提唱者ポール・ラッシュ、財団法人キープ協会の存在を知って、興味を持った。


 本館正面から甲府盆地と秩父方面を望む(2023.05.27) 

 まもなくマイクロバスは道路から横道へと入って行くと、清泉寮新館前へ到着する。とうとうやってきた!2009年にできたまだ新しいロビーへ入ると、暖炉造りに高い天井の木組空間がひろがる。
 荷物を預かってもらい、すぐに近くの木立の中を歩いてポール・ラッシュ記念館へ。ここは、彼が1979年に82歳で亡くなるまでの住まいとしていた木造平屋建ての家屋だ。
 八角形の広い暖炉付きの居間が当時のまま保存されて公開されている。ソファにテーブルがゆったりと配置され、窓際腰台と壁側にはさまさまな調度品や立て皿をはじめとする陶芸品や工芸品が並ぶ。窓の上の壁に掲出された額入りのモノクロ写真が歴史の流れを物語る。農耕具を再利用したと思われる天井からの照明器具、ほぼ半周分の区切られた木枠窓から眺められる風景と差し込むひかりが室内に微妙な陰影を与えていた。



 記念館内フットボールの殿堂コーナーを見た後に本館のほうへと回ってみる。三角形屋根が特徴的で軒先正面にアンデレ・クロスが掲げられた清泉寮本館建物、ポールラッシュ像のあるロータリー広場だ。やはり、ここは40年ほど前に訪れた記憶がおぼろげに残り、変わらぬ懐かしい風景だ!
 白い柵に囲まれた牧草地のはるか先に連なる雄大な眺めは、金峰山から茅ヶ岳に連なる山々だろう。その右には雲の上から富士山頂が浮かぶように覗いている。このすばらしく開放的な眺めと清浄な大気は、気持ちを自然とおおらかにさせてくれる。
 もちろん、清泉寮といったらジャージー牛乳を原料としたソフトクリームだ。迷うことなくレストラン棟ジャージーハットの受付に並び、その名物を手にしてふたたび屋外へと出る。ながらかな斜面にひろがる牧草地の木製ベンチに並んで、そよぐ高原の風のなかでソフトクリームを味わうのは、やっぱり変わらぬ至高の満足に違いない。

 草原のはずれに野外結婚式に使用されたらしい椅子が数列、並んだままになっている。真ん中の通路脇の座席には白いレース生地が結ばれている。半分照れながらひとつ席を空けて腰を掛け、はるか先の山並みを眺めてみる。すぐ前には風景の象徴のような一本の樹木が樹勢良く立ち上がり、周囲の背景と相まってここでアルペンホルンを聴けたら、まるで「アルプスの少女ハイジ」の世界に入り込んだような気分になるだろう。
 
 ちかくの素朴なハーブガーデンの入り口には、つる状のクレマチスに似た植物がきれいなピンク色の花をつけて木製アーチ状にのびて咲き誇り整えられている。青空に陽ざしが眩しくて、そこで写真を撮ろうとすると、日傘を差したそのひとの影はするりと姿を翻して、画面から消えていってしまった。



 今宵の宿は、そのガーデンを望む位置の赤い屋根の歴史ある落ち着いた雰囲気の木造建物である。受付は新館で行って、迷路のようにつながった連絡通路から本館ホールをぬけて狭い廊下を進んでゆく。床を踏みしめるとすこし懐かしい音がする。廊下突き当りの手前、鍵穴は旧式のままの「KITA」(南アルプス最高峰の北岳の意味だろうか)と記された木製扉を開けて室内に入れば、ベランダ付きのこじんまりした室内だ。シンプルだけれど暖かで必要にして十分なしつらえに、ひとまずホッとする。

 まずは“喫茶去”、お茶を一服どうですか?
 
 そして二重窓を開けて、そこから望める松の木々越しに開けた山並みをただひたすらずうと眺めていたい。まだまだ夕暮れには時間があるし、高地での夜は長くて深く慎み深いだろう。
 明日は早起き!でいこう。


 本館入り口前、ツツジとライラックが咲いていた。(2023.05.27)


 本館正面アンデレクロス、夜はステンドグラスが蒼く浮かぶ。


八十八夜から立夏のころ、箱根芦ノ湖畔へ

2023年05月06日 | 日記

 
 
 新緑の八十八夜が過ぎると、すぐに二十四節気「立夏」がやってくる。小学生のころ、唱歌「茶摘み」の歌詞にある「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みじゃないか あかねだすきに菅の笠」と、とんとんリズムよく歌いながら、手遊びに興じたことを思いだす。
 
 その間の五月四日は、寺山修司が1983年(昭和58)に47歳でこの世を去ってしまってからことしでちょうど四十年になる。当人が健在であったならば、現在87歳を迎えているわけだ。そのときの流れの速さにただただ驚かされるばかりで、ひたすら呆然としてしまう。
 寺山の墓は高尾駅から少し奥に入った曹洞宗高乗寺高尾霊園にあるが、久しく訪れていない。黒の墓標の上面には開かれた本のオブジェが彫られていた。もちろん、新しいページはめくることができないわけで、そのデザインは粟津潔ではなかったかと思う。今月中のうちに喧騒をさけて高尾まで墓参に出かけてみようか。

 生前の寺山修司を二度見かけている。1980年ころの池袋西武スタジオ200における岸田秀氏だったか谷川俊太郎氏だったかとの対談(ビデオレター交換による映像だったかもしれない)、それから渋谷ジァンジァンにおいての劇団天井桟敷公演「観客席」だったと記憶している。いずれの空間も今は存在しておらず、時代の変化とともに別の名称用途へと変わってしまった。
 当時の記憶が蘇り、亡くなってからの印象が強くなってくる人物はほかにはあまりいなくて、その形のない存在をどう受け止めていったらいいのか戸惑っている。大学生時代はあまり熱心なファンでもなく、たった一本の舞台と数本の映画を観たくらいで入れ込むことはなかったのに、何故か気になり続ける人物なのが我ながら、どうにも不可思議なのである。

 週末にあたる立夏の午前中は、昨年11月に購入した自家用車の六か月点検予約が入っていて、ちかくの神奈川ダイハツ店舗まで出かけた。この先10日後、新潟の実家まで高速道を往復する心づもりがあったこともあり、ちょうどいいタイミングだった。
 午後、92歳の誕生日を迎えた母の自室を訪問して、ささやかなコーヒーゼリー入りのお菓子と誕生祝いの花を飾って祝う。本人はもう正確な年齢は言えないというか覚えていないけれど、誕生日はしっかりと覚えていて、笑顔で口にできるのは親ながら大したものだと思う。

 と、ここまで備忘録的に記してきてからの本編、皐月の箱根旅について記そう。

 立夏をすぎたばかり、箱根芦ノ湖畔にある山のホテル庭園のツツジとシャクナゲが見ごろだというので遠出をすることにしたのだ。
 その日は、朝方からの生憎の雨がお昼頃からは嵐のような豪雨に変わってしまい、芦ノ湖遊覧船が欠航になってしまっていた。それで仕方なく元箱根からホテルまで連絡バスで行ってラウンジでしばらく雨宿りをしていた。せっかくの庭園見物はお預けで、ホテルにある展望室まで登ってみると湖に向かって大きく視界がひらき、ようやく見事な色とりどり!のつつじ園全景が見渡せた。
 ホテルのシャトルバスで元箱根まで戻り、桃源台方面行きの高速バスへ乗車する。そうしたら、なんとそのバスは先ほどのホテルロータリー前を経由していて、わざわざ元の場所まで戻ることはなかったのにと笑ってしまった。そのまま湖畔東側を通り箱根園経由で宿泊先へと向かう。
 桃源台へ到着したときも暴風雨状態で、ロープウェイ駅舎内のがらんとしたレストランで昼食をとりながら、芦ノ湖を眺めていた。もう、周囲の対岸も霞んで見えないくらいのすごさでこれもめったにない自然との遭遇と思い、それもよしと達観するしかなかった。

 天候の回復の兆しがまったくない雨の中、傘が飛ばされないように急ぎ足で宿泊先までたどり着き、ロビーでチェックインを待っていた。ほかにも外国人を含めて数組が待機していた中、少し早めて二階和洋室に入ることができ、ようやくほっとした。
 窓を叩きつけるようなひどい雨が続き、嵐はますますひどくなっていた。降った水流が嵐に吹かれてホテル入り口へつながる敷地内を逆流している。もう、ここが湖畔にいることすらわからなくなってくるほどで、湖畔から少し離れた高台にあることが不安を和らげてくれて救いだった。
 こうなったら、温泉に入ってごろ寝して寛ぐほかはないけれども、ある意味これ以上ないような非日常の上等な過ごし方には違いない。目覚めた翌日も嵐は止んでも、まだ雨は残っていた。まずは温泉入浴、誰もまだいないゆったり朝湯はまた格別によい。朝食会場の広いウインドウからはゆるやかに下っていく前庭のさきの新緑がさわやかだ。湖周囲の山並みもうっすらと霧の中に浮かび上がってきていて幻想的な情景が拡がる。

 予定通り遊覧船が就航するとのことで、宿を出て桃源台から午前9時半の箱根町行に元箱根まで乗船する。たちまち船内は昨日足止めを喰らっていた観光客が沢山乗り込んできてにぎやかだ。静かに船は湖面を進む。一瞬晴れ間が出てきたかと思うと再び曇が拡がって、湖畔周囲の霧はたたずんだまま、周辺先は見渡すことが叶わない。こんな情景の就航に遭遇するはたぶん初めての体験だけれど、それもよし。
 元箱根に着き、雨が上がりきらないなか、湖岸を歩いて杉木立の参道を箱根神社へと向かう。石段を登りきると雨に濡れた本殿前にでる。記憶にあるよりも少しコンパクトな作りであるように感じたのは、周りを木立に囲まれているせいだろうか?
 ここから昨日のホテルはもうすぐだ。やがて忽然と道べりに湖畔に向かってせり出したベージュ色の瀟洒な喫茶室が見えてくる。そこはホテルの旧漕艇庫だったと聞いたことがあるが、なるほどという佇まいである。
 
 ホテル正面脇の通路から庭園ヘと進んでゆく。視界が高まって湖側へと開いていくと見事なくらい大きな植え込みに咲く色鮮やかなツツジたち。今朝までの大雨で傷んでしまった株もあるけれどいまが丁度の見ごろ。
 遠路を高台に上って行き見下ろせば、やはりここからの眺めは圧巻!岩崎男爵家別邸見南山荘時代からの歴史の重なりを感じさせながらも、芦ノ湖と周囲の山並みの取り合わせが唯一無二だろう。
 あいにくの天気で富士山の姿こそ望めなかったものの、川瀬巴水が描いた昭和初期の庭園風景版画情景を重ねてみると、その感慨は芦ノ湖の深さほどに増してくる。当時の風景画にはないホテルの深い赤レンガ色の瓦屋根を載せて横に長く伸びた建物本館がすっかり庭園風景と調和している。



 ツツジ園のさらに上の道をたどれば、シャクナゲの林へと続く。こちらのシャクナゲ株も大きく育って、かるく人の高さを越えて、見事に咲き誇っている。藤棚へと下ってくる脇には、野生のままに育ったマメザクラが小ぶりの花を咲かせていた。やはり、ふもととは標高が違う!
 本館の近くまでもどってきた芝生地には、復元されたという青銅製の天使と見まごうようなかわいい子獅子たちが支える台座の上に日時計が設置されている。案内板に記載された説明によると、その台座は男爵別荘時代からのもので、上部日時計部分が欠損したまま時が流れて、2009年5月に復元されたもの。

 もう、雨はすっかり上がってきていて温度が上場してきたせいで霧は湖を包んだままだ。新緑が目に柔らかく、雨を含んでいてしっとりと美しい。こんな箱根での滞在もまた得難い時間だろう。



 日時計版表版には「標高744m 見南山荘」とある。

追記:日時計の外観からしてもしやと思い、銘板を確認するとやはり小原式日時計、この作者小原輝子氏は相模原市南区在住でいらして、文字通り知る人ぞ知るご近所の著名人なのである。(2023.5.23記)


さよなら、東芝林間病院

2023年04月30日 | 日記

 きょうの駅からの帰り道、東芝林間病院のある通称さくら通りを通ってゆくと、見慣れた正門からの情景が変えられている様子が目に入ってきた。診療科目が掲出された病院案内版が撤去されていて、正門の塀の名称表示部分にブルーシートが張られ、建物正面入口の軒先に掲げらていた病院名文字のあたりがシートに覆われたままで、翌日に備えられている。

 徒歩圏にある最寄りのかかりつけ病院として利用させてもらってきた。本日をもってその名称のもとで東芝健康保険組合直営の運営体制を終えて、新しい医療法人に引き継がれるための準備であることはわかっている。それでも見慣れた名称が変わってしまうことに淋しさを抱くとともに、医療法人コンサルタント会社主体での新しい運営体制の移行については、正直一抹の不安を拭えない。
 ここに至る変遷は、数年来経済ニュースをにぎわせている株式会社東芝本体の経営不安からくるものの余波が、運営当事者である健保組合の財政状況にもボディーブローのように押し寄せたものと推測されるが、たしかに数年前から予兆の波やうわさは何度もあった。その象徴的なことは、もう十年以上も前になるが、国民的アニメ番組“サザエさん”のスポンサーから東芝が撤退してしまったこと。テレビ番組のサザエさんと言えば東芝のイメージが定着していたのに、ちょっとしたショックだった。

 個人的に東芝林間病院としての最後の受診は、ほんの三日目のこと。遡る二月はじめの受診の際にまだ若い主治医が、今後の診療体制が見えないところもあるからと、五月からの移行を前にして予約を前倒ししてくれたものだ。結局その医師はそのまま退職することなく、詳しい事情は伺うすべもなかったけれど少なくとも当面のあいだ、新しい医療法人に“転籍”して勤務を継続することにしたらしい。
 変わったのは、院内処方がなくなり院外処方のため、支払いがまとめてできなくなったこと。そのほかに、中規模病院として自前の医療検査体制を整えていることに変更がでてくるかもしれない。病院自体は地元に定着して、中堅規模の病院として地域には大きく貢献してきたことは記憶に残るだろう。
 小田急江ノ島線の急行が止まらない小さな駅にとっては、「東芝病院のあるところ」と言われるくらいの代名詞的存在だった。敷地は大きな木々に囲まれて緑が多く、前庭のよく手入れされた植栽も見事で、桜並木どおりと相まって四季折り折りの花を咲かせて和ませてくれていた。
 個人的にも四十年以上にわたって馴染んできただけに、詳しい裏事情はわからないままだが、東芝の名が消えてしまうことは、その開設の歴史をたどってみてもなんとも残念な思いがする。

 ホームページの沿革欄によれば、病院の設立は戦後しばらくの1953年(昭和28年)のこと。なんと当時はまだ怖かった結核治療・療養施設としてのスタートだったから、時代を感じさせる。この地も“林間”の名にあるとおり、はるか郊外の人里離れたのどかな地であったことが想像に遠くない。
 何度かの変遷のあと、その結核病棟が完全廃止されたのが1986年(昭和61年)四月、もうそのころには当地に住み着いて数年たち、大学を卒業して社会人になっていたので、意外にも最近まで存在していたことに驚かされる。そのころにテレビドラマの舞台の一場面として登場したこともあったらしい。

 2005年(平成17年)は五階建ての新病棟が竣工し、前後して内視鏡センターや人間ドッグが稼働して医療体制の充実度が各段に上昇していた。これらの資金は、通りを挟んで向かいのかつての職員宿舎などが並んでいた敷地を売却して得たものだろう。いまは野村不動産分譲の十二階建て250世帯ほどの規模のマンションとなっている場所だ。
 マンション建設前のこと、夏の季節はここを通るたびに、平屋建ての職員宿舎が並んだ周囲は松の大木にクヌギなどのうっそうとした木々に囲まれてた、いまから思えば結核療養所の名残りの様な空間のなかに、時間が止まったようなひんやりとした静謐な空気が流れていて、不思議な気分にさせられたものだ。
 まったく駅前からは、歩いてわずか数分なのに新棟が建つまえの病院側の敷地も鬱蒼とした木々が茂って、芝生地や耕作用の畑などがあり、周囲はちょっとした散策用の遊歩道になっていて“サナトリウム”的な雰囲気をわずかに残していたかのように追想できるのだ。

 数年前のこと、健康診断で指摘があり、ここの内視鏡センターで検査を受けたところ、大腸ポリープが見つかり、じつに小学生以来の久方ぶりの入院となって、摘出手術を受けたことも記憶にまだ新しい。病室の窓からの風景が見慣れたいたはずなのに、その方向と高さが変わっただけでひどく新鮮に見えたことを思いだす。さらに入院中、台風のような大風があり、その通りの桜並木の大木が一本が真夜中に倒れてしまい、朝方に気がつくと通りを塞いで大騒ぎになったしまったこともあった。

 そんなこんなことがあり、当地での暮らしのとなりくらいの距離に東芝林間病院はあって、年数回定期的に生活習慣病予防と日常体調チェックをかねて通院を続けていた。住まいから最寄り駅への行きかえりは、たいていの朝方は横浜水道みち沿いの草木の変化を眺めながら、夕方や夜間はこの病院通りの照明灯にうかんだ桜並木の下を通って行き来していた。それは今後もおそらくは変わらないだろうが、見慣れた駅前の情景も少しづつ変わってゆく。

 昭和からの歴史を感じさせる看板、ちょっとした上部のエレガントな飾りがいい。


菜種梅雨、日常坦々花紀行

2023年03月23日 | 日記

 この春の花の季節は、寒さのわりに出足が早いようだ。昨年末からのスイセン、一月の初梅に始まって三月に入り桜も寒緋桜、山桜、枝垂れ、ソメイヨシノと五月雨式に咲き継がれてゆく。
 今朝は菜種梅雨の合間、散歩をしようと近くの公園まででかけた。このすり鉢状の雨水地下調整池公園は、周囲を回遊式の通路が巡り、底辺部分が多目的グランドとなっている。
 その通路周囲に植わっているソメイヨシノがまさに見ごろとなり、グランドへ向かって長く枝ぶりを延ばしている。その下を歩いていくと桜色のトンネルで見上げた青空の対比が美しい。改めてそのソメイヨシノを数えてみると11本ある。公園の道路側に沿って植わっているので花の盛りを真近で眺めながら、反対側へ回ってみて、その全景をグランドごしに遠望するのもいい。桜景色のはるか先の向こうは大山丹沢の変わらぬ山並みである。

 ことしの弥生月、思い立つまま車に乗り、近隣ふたつの里山地域まで出かけた。
 中旬の一日は良く晴れて、小一時間ほどのドライブにはもってこいのぽかほか日和となる。国道16号を城山かたくりの里までの道のりだ。このあたりは相模原と町田と端っこの境目、城山湖も近いのどかな雰囲気が漂うところ。川尻八幡神社の大鳥居が建つ表参道入口からすすんで、横道を入っていくと里の入り口、駐車場につく。そこにも早咲きの濃いピンクの桜がちょうどいい感じで咲き誇っている。

 かたくりの里は、個人所有の裏山をこの時期だけ有料で一般開放している。姫コブシの咲く素朴な受付の感じがまずもっていい。入場料500円を払って進むと、よく手入れされた南向き斜面一面にカタクリ堅香子が群生していて、うつむきかげに清楚な薄紫色の五辯花を咲かせている。なんとも可憐で恥ずかしそうにしている乙女の早春姿に重なる印象で、万葉集にも一首歌われている。
 遠くなってしまった少年時代のふるさとの日々が蘇り、なつかしい思いがあふれてくる花だ。

 ゆるやかにくねりながらのぼっている小径の両側には、雪割草、日陰ツツジ、ミツマタ、椿、福寿草、御殿場櫻、ほうき桃と、もうあたり一面が花、花、花の極楽浄土の有り様。
 途中で長椅子に腰かけてひと休み、あたりを眺めながら、おやつをほうばる姿は、文字通り「花もよし団子もよし」といった様子かもしれない。咲き始めた桜も薄ピンクに頬染めて、どこへ気持ちを寄せているのか、といった風情である。やはり、咲き始めの頃の花が一番美しいと思う。


城山かたくりの里(2023.3.16撮影)

 それから数日後の晴れ間、成瀬街道から恩田の丘を越えて奈良町に入り、TBS緑山スタジオを横に見ながら丘をこえて岡上営農地を過ぎ、三輪の里まで足を延ばす。高蔵寺光明会館駐車場に車を置かせてもらい、里山巡りの小さな旅の始まりだ。
 花の寺で知られる真言宗見星山高蔵寺は、昨年一月明けてすぐの失火で本堂ほかが全焼してしまい、そのニュースを知った時には言葉もなく茫然とした。参道入り口の門は閉じられたままだが、境内の桜やコブシの花が咲きだしている。この四月から庭園の一部を週三日に限って参拝が再開されるとの張り紙がある。
 ここを起点に歩き出してすぐ、菜の花と寒緋桜の競演が見事な里山畑地が広がっている。このあたりの家々は「荻野」という表札が多いが、ここも代々の地主の方が守ってきた土地柄、戦国時代にはもののふの行きかう山城のひとつだったらしい。その中世からの地形の雰囲気はいまもそこかしこに残っている。
 ともあれ長閑さとはこの三輪の里のこと、あちこちからウグイスの競うかのような初音を聴く。

 畑地のむこう、一段高くなったところに樹勢の見事な山ザクラの大木が数本自生していて、枝枝いっぱいに白い花をつけ、四方八方へと延ばしている。手前の畑地には菜の花が絨毯となり、その色の対比も鮮やかなまるでもって田園絵画のような風景が目の前に広がっている。
 お屋敷の入り口には、咲き出したばかりの枝垂れ桜の大木、あと数日後が素晴らしく見ごろになるのだろう。見通す先には丹沢の山並みの間、青空に突き出して真っ白な富士の頂がちょこんと覗いている。この時期この時間だけ見ることができるであろう情景に違いない。

まほろば三輪の里 風景庭園(2023.3.20撮影)

 自宅の駐車場まで帰ってくると、造園業者が薄雨模様の中をマンション敷地内北斜面自然林の手入れの最中だ。新緑が芽吹きだす前の時期にコナラ、クヌギ、ミズキなどの雑木林の伸びすぎた先を切り落とし、地表に陽光が届くようにと、植木職人さんが高所まで命綱をつけて登り、枝打ちの作業をしている。
 階段を上りながら足元を見ると、作業途中で落とされていた山桜のひと枝がどさりと落とされている。いっぱいの花が見事でこのまま処分されるのはあまりにも忍びない気がした。すこし考えたあとにそうだと一計が浮かび、監督者にお断りして小枝の何本かをもらい受ける。
 家まで持ち帰って、即席で青い花瓶に生けてもらい玄関に飾りつける。あふれるくらいの清楚な佇まいがあっていい。ああ、花盛りを救えてよかったなあ、と思いつつ眺めていた。


 
 明日はようやく春分の日、これから少しづつ日中の長さが伸びて暖かくなってゆく。

 


中野サンプラザと鵠沼訪問記

2023年02月27日 | 日記

 如月の初め、熊本の友人が仕事の出張で上京してくることになり、よかったらどこかで会おうよ、ということになった。二泊三日の滞在の内の機会に用件や会いたい人、訪れたい場所があったようで、何度かのやり取りの後に「ひとまず中野で逢いましょう」ということになった。

 この友人とは40年来近くにもなる付き合いでその始まりは、いまも中野駅前にあって良く目立つ白亜の三角形ビル、当時の正式名称“全国勤労青少年会館”内に存在していた「勤労青少年大学講座」の受講生としてである。ずいぶんとお役所的な硬い印象のその会館の愛称こそ「中野サンプラザ」で、1973年6月1日に開館して今年で半世紀50周年を迎える。東京在住者ならだれでも知っているランドマークのひとつだろう。

 当時からそしてこの七月に閉館が迫っているいまも、ポピュラー系コンサートホールとしての知名度は抜群といっていい。くわえて地階にはプール、ボーリング場、地上階には学園講座、研修室、図書館、職業相談室、上層階にはホテルや展望レストランと都市の要素が何でもひとつの建物中に揃っている夢の空間だった。
 その中野サンプラザが、中野駅北口周辺の大規模な再開発に伴って今年の7月2日でとうとう閉館し、取り壊しが決まったという。昭和40年代から平成にかけての都内における象徴的な建物のひとつ消えることになる喪失感は大きい。


 その思い出の詰まった中野北口にあるサンモール商店街の奥の横丁、当時からある魚料理の名店「陸蒸気」ですこし早めの乾杯!一階から二階へと吹き抜けになっている囲炉裏端を取り囲むカウンター、古民家の太くて黒い梁がそのまま店内に使用されている様子はなかなかの迫力。十年前の大学講座同窓会はここで開かれたが、入り口前のにぎやかな踏切警報気音は鳴っていなかったけれど、まったく当時のまま健在なのは嬉しい。
 夕方五時前で二階席を案内されたがおじさん、おばさんだけでなく、つぎつぎと訪れる若者たちで大にぎわいなのに驚かされる。決して値段は安くはないのに、内装の雰囲気と鮮度の良い魚料理のうまさが今も昔も人をひきつけるのだろう。

 午後七時前くらいに店をでて、飲食店街雑踏の中を駅方面へ向かい、喫茶「ルノアール」でクールダウン。中野駅ホームから望めるサンプラザのシルエット姿、窓には煌々と明かりが輝いている。この見慣れた光景も間もなく見納めとなる。少なくとも仲間うちで眺めるのは最後だろうか。中央線新宿駅で乗り換えて小田急線で帰路に着く

 翌日午前10時前に藤沢で待ち合わせて、サンプラザ講座生時代にお世話になった恩師、江橋慎四郎先生の仏前参りへと伺う。お供えの物は、この季節イチゴとお菓子にして、江ノ島線に乗り込む。
 鵠沼海岸駅で降りて、生活感のある商店街を懐かしく感じながら通り過ぎ、落ち着いた住宅地の中を少し迷いながら当時の面影のある古風なご自宅へと向かう。途中、あの欧風菓子店舗「クドウ」もいささかくたびれているが、当時のままに在るのだった。

 ご自宅玄関では江橋先生の娘さんが迎えてくださり、奥様はことし百歳を迎えられてご健在だった。良き時代を写し取ったような居間のソファ、そこから望めるふるくて落ち着いた中庭の植栽。すべての時間が泊まったかのようだ。わたしたちはまだ二十代であった約40年前の青少年大学講座生の夏のときに招かれて、この居間に集わせていただいた。そこから江の島の望める鵠沼西海岸まで歩き、海水浴をして遊んだ記憶が鮮明に蘇る。
 仏前に合掌させていただき、いくつかの思い出話をしてお昼間にお邪魔をするつもりが、恩師の若き学徒時代、戦時の運命に翻弄された神宮外苑競技場での歴史的エピソードや晩年のご様子などを伺っているうちに、進められるまま折寿司のお昼までいただいてしまうことになる。
 約二時間弱が過ぎてようやく話が落ち着き、お暇しようと立ち上がると、故人の好物であったという鎌倉豊島屋サブレ―セットの紙袋を持たせていただき、おおいに恐縮するのだった。

 玄関口で靴を履こうとしてあらためて目に入ってきたのは、額縁に飾られた大津絵「藤娘」、好きな画題である。外にでてから影向の松の枝が伸びる門柱を見れば、時代を経ていい感じに風化した大谷石が使われている。住宅地家屋のあちこちに、鵠沼別荘地のなんとも古き良き時代の面影が残っている。