日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

早稲田学生街から山手線界隈目白まで

2023年01月24日 | 日記

 小正月前の週末、久しぶりに早稲田学生街まででかけた。中央林間から田園都市線経由で九段下乗り換え地下鉄東西線早稲田駅下車、約一時間半あまりの乗車時間。乗ってさえしまえば地上へ出たとたん、もうそこらあたりは早稲田大学学生街、あいにくの雨模様で傘を差して歩き出す。

 早稲田大学演劇博物館を目指すが方向に迷ってしまい、ようやく早稲田通りから横に入ってゆき、南門からキャンパス構内に入ることができた。学内建物は大部分が新しく高層化していて、大隈重信公銅像が小さくなって見える。
 一番奥まったさきに中央部分に赤瓦屋根の展望塔を抱き、コの字型の両翼を広げた演劇博物館が見えてくる。昭和初期、16世紀イギリス劇場様式をふまえて坪内逍遥の発案により、今井兼二らの設計で竣工したもの。入り口横右手には、逍遥を偲ぶ會津八一の歌碑が立っていた。正面バルコニー下が舞台面となっていて、建物広場が観客席になる。張り出し屋根の下の壁面に掲げられたシェイクスピア劇の名セリフ、“この世はすべて舞台”に呼応して、演劇博物館にふさわしい造りとなっている。

 博物館右手に隣接した五階建ての白い箱型リニューアル建物は、昨年度華々しく開館した国際文学館、通称村上春樹ライブラリーだ。ご本人からの資料の寄贈がきっかけで誕生し、館内村上春樹文庫ではなくて文学館全体の通称名となってしまうことが自体がトピック。村上文学のイメージからすると地域的記念館となるよりも、大学文学館のほうがインターナショナル的であるのかもしれない。
 それにしても約半世紀前の卒業生になるとはいえ、現存作家名を通称とする文学館が社会的大学イメージを先導するようなことになっているとは、国内はもとより世界的な人気面からすると村上春樹文学のインパクトは、やはり別格のものなのだろう。
 改修設計は早稲田出身ではない隈研吾(栄光学園から東京大学)があたり、すべての開設費用は、OBであるユニクロ柳井正氏の全額寄付金で賄っているというから、いまの時代と社会を象徴した建物に違いない。
 開設にあたっての記者経験では、柳井氏を真ん中に向かって右側が村上氏、左側が隈氏のスリーショット。このあたりの経緯について、当の早稲田学生たちは、どのように受け止めていたのだろうか。その文学部は、ここからすこし離れた戸山キャンパスにある。

 演劇博物館を訪れたのは、その村上春樹に因む企画展「映画の旅」を観るため。展示構成は五部にわかれていて若き時代、村上春樹のさまざまな映画体験について示す。まずは神戸時代に通った映画館、大学生時代の早稲田松竹など思い出の映画館パネルと名画の数々のポスターなど。映画体験と映画館体験が分かちがたく結びついていた幸福な時代が共有される。
 次に小説の中で登場する映画についての解説があり、小説を原作として映画化されたものの関連資料があり、といったもの。ひろくアメリカ文学と映画について考察された展示コーナーがある。
 こうしてみると村上ワールドには様々な音楽がそのタイトル=固有名詞も含めて引用されている印象があるが、その時代の映画イメージについても巧みに取り込まれていることが改めて印象づけられる。むしろ、もともとはシナリオ作家を目指したいと思っていたこともあったらしいが、やや屈折した思いでより“個人的な世界”の構築が可能な文学に踏み出していったのではないかと思わせられるのだ。

 もっとゆっくりと見て回りたかったけれど、午後からは池袋へ移動する予定があって、早稲田通りを歩いて高田馬場駅方面へと向かう。通りの両側の街並みは、いくつかの古書店や昔からの飲食店が点在するなかに、学生街らしい新しいエネルギーが溢れかえっている。途中、名画上映館高田馬場パール座の建物は健在のままで、かつて何度も通った身にはたまらず懐かしく、ほっとさせられた。

 駅前広場に着くと、西武鉄道系スポーツ商業施設「BIG BOX」が聳えている。上京した十代の終わりころ、初めて見たこの黒川紀章設計(1974年竣工。ということは、大学生だった村上春樹も出来たての姿を眺めていたはずだ)の斬新な窓のない巨大な箱船型の造形は、都会の底知れなさが閉じ込められているパンドラの箱みたいで、強烈なインパクトがした。
 いまはその外観の印象は白基調のまま、ツートーンが赤から青基調へと変更されて、正面壁に描かれた巨大な白抜きのランナー姿もなくなり、なかのテナントも時代の流れで大きく変わってしまっているようだ。

 高田馬場駅から山手線で池袋へと出る。駅構内を出てすぐの西口公園野外劇場にて、日本音楽集団ニューイヤー・コンサートを聴く。東京芸術劇場のアナトリウムがすぐ横にあり、あいにくの雨模様は引き続くなか、外気はすっかりと冷え込んでいる。

 尺八、琵琶、筝、笛、津軽三味線、打楽器からなる七人編成の舞台は、宮崎駿アニメの「もののけ姫」久石譲曲から始まる。春の海、平家物語の琵琶語りの一節、日本民謡メドレー、M.ラベル曲、長澤勝俊の現代邦楽曲までの幅の広さは、日本音楽集団ならではのものか。約一時間ほどの充実した演奏が無料で聴けたのだから、新春早々の聴き初めとしては有難い。


 演奏会を後にして、西池袋から山手線を左脇に眺めながら、ひたすら目白駅へと向かう。途中、自由学園明日館に立ち寄る。池袋の喧騒からそう遠くない場所に、芝生広場の向こう、低く翼を広げたようなヒューマンスケールの建造物が目に入ってくる。F.L.ライトと遠藤新の共同設計のプレーリー様式と呼ばれる美しい大正期の建物。青銅拭きの屋根とベージュの壁の対比が落ち着いた印象だ。中央部分の旧食堂から灯かりがもれて、わずかに空間の様子がうかがえる。昭和、平成、令和と続くその姿はひとつの奇跡かもしれない。

 通り沿いに大きく枝を広げたソメイヨシノの蕾には春の予感がする。柵のむこうには、スイセンの花が咲き出している。その通りを挟んで建つ学園講堂と婦人之友社屋との調和がすばらしい夕暮れ、雨はやんでいた。

 夕暮れ時、JR山手線を見下ろしながら目白駅へと急ぐ。女性的な柔らかい印象の駅舎のずうと向こうに、灯かりのついた高田馬場から新宿高層ビル群の眺め、都会の余韻がする。これから自宅までは一時間余りほどかかるだろうか。


寒の入り満月、春七草粥、銀座通りの賑わい

2023年01月12日 | 日記

 寒の入は満月の直前にあたり、仕事帰りに駅から道中東空の方向低く登り始めたお月様は、まだオレンジがかっていて大きく、身重で落っこちそうなくらい。
 翌七日は仕事休みで良く晴れ渡る。すこし遅めの起床の後、用意してもらった七草粥の朝食をいただいた。この日は昭和天皇のご命日にあたり、八王子市高尾長房町の武蔵野陵へは皇族方のどなたかが参拝されているはず。そんなことを考えながら、ヨモギ入り草餅を焼いて食べた。草餅には邪気を払い、健康に効用があるといわれていて、お正月にはふさわしい食べ物だろう。

 週末、午後からは銀座に出ることにして、恒例の「現代の書 新春展」を見に行った。新春の銀座通りは、歩行者天国の老若男女で賑わっていて、とりわけ外国人観光客の姿が目につくようになっていた。
 書の展示会場は、四丁目交差点角、時計塔のあるビルの六階ホール。昨年6月に改装オープンして「セイコーハウス銀座」という名称へと変わってしまったけれど、旧来から馴染んだ銀座和光のほうが重みがあってしっくりくる。会場はさほど広くはなく見渡せるくらい、厳かな雰囲気がする。ここに書を出展できること自体、相当に名誉あることなのだろう。文字よりも装丁にほうに目が行ってしまうのは、俗人の証拠か。
 見終わってから、地階に降りて店内をすこしぶらつく。やはり優雅でゴージャスな雰囲気が漂っている。富裕層ばかりでなく、中間層にも開かれていて巡るだけですこし高揚した気分にさせてくれるところが、東京銀座ならではのマジック、なのかもしれない。

 和光を出てから交差点のむこう側、ガラス円筒形の銀座三愛ビルへと向かう。その一階は、“Le Café Doutor”とすこし気取ってはいるけれど、あのドトールコーヒーショップである。ここではブレンド一杯が460円、器は真っ白なロゴ無しのすこし厚めの陶磁カップだ。
 せっかくだから二階へあがって、交差点を見下ろす窓際カウンターに席をとる。さきほどの時計塔ビルや向かいのデパート、日産ショールームのあるビル、銀座通りや晴海通りの賑わいが一望のもとに眺められる都会のど真ん中の特等席。ここでのひと休みが珈琲一杯の値段で済むとは、素晴らしいこと。

 まだ夕暮れまで時間はたっぷりとあるから、どう過ごそうかと思案しているうちにそうだ、新年の映画鑑賞はじまりを銀座でというのもいいなあ、と思いつく。スマホを取り出して、時計塔ビル裏手の映画館上映スケジュールを調べると、午後三時すぎからは「土を喰らう十二ヵ月」の上映開始だ。主人公役が沢田研二、松たか子のふたりというのもなかなかいい気がした。この映画にしようと決めると、しばらく時間までカウンター席から向かいのデパートへと出入りする人々、交差点を行きかう市井の風景を眺めていた。

 ふたつのスクリーンが同居する映画館建物の二階がお目当ての上映場所、ここで観るのは本当に久しぶりのこと。四季折々の食でつづる人生ドラマ、というのがテーマ。原作は水上勉のエッセイ集、信州田舎暮らしをする老境の作家が主人公だ。
  編集担当者で年の二回りほど離れた恋人役の松たか子が、その作家ツトムが独居する茅葺古民家へと原稿の催促がてらに東京から訪れる。恋人どうしなのに愛の表現は食の情景のみで、あからさまに性が描かれることはない。一度だけ、男が女の手に手を重ねようするシーンがあるが、つれなく女のほうがその手を引き離してしまい、男はそれ以上に求めようとしない。まだ若くて都会的な雰囲気をもつ女は、老境の男のことを最後の決断ができない、優柔不断な性格と心得ていて少なからず物足りなく思っているようだ。
 そんな心境の時のふたりの会話のトーンは、年齢相応よりもすこし高めで、初々しくもあり微妙に交差しないすれ違いを象徴しているかのようだ。ツトムが鼻歌で「鉄腕アトム」を歌うシーンがなんだか可笑しい。

 四季折々の情景が映し出されるなか、男の畑仕事の様子や旬の食材から丁寧に作られる料理を味わいつつ重ねる交流が淡々と描かれてゆく。男は中学生のころ京都の禅寺へ修行に出されて、そのときに精進料理を覚えたと語る。取り立てのタケノコをゆがいて、大皿に盛って二人して喰らうシーンがいい。喰らうは生きること、男の亡くなった妻の母親の死、その娘で義理の妹夫婦の身勝手さ、田舎の葬儀から浮かび上がる近所との関係性などが、次々と現れる料理でつながれてゆく。
 慌ただしく葬儀が済んだ後に、男は一緒に暮らそうと提案するが、すでに女は男のもとを去る決意を固めていて、同僚?からのプロポーズを受け入れたことを示唆して都会へと去ってゆく。するとそれも予感していたかのように男はいつもの田舎暮らしへとゆっくりと戻っていくのだった。

 エンドロールに流れるのは、沢田研二が歌う「いつか君は」(1996年初リリース)。別れを予感させる歌詞が映画に寄り沿っていて、またジュリーの歌声に色気があり何とも味わい深い。
 映画館を出てからもしばらく余韻が味わいたくて、銀座の街中ビルの合間を彷徨ってから地下鉄に乗り、銀座線で帰路へ着く。


正月は一富士二鳶三江の島御膳で縁起良し

2023年01月08日 | 日記

 令和四年の元旦、六時過ぎに目覚める。寝室からリヴィングへ移ってカーテンを開けると、清らかな初春の朝日が射しはじめてている。
 何はともあれ、お湯を沸かし、まずは緑茶を一服。元旦の新聞朝刊は大量の広告紙面もあって分厚さではち切れそう。テレビチャンネルを回すとNHK総合が映り、画面には正月ならでは「富士山ぐるっと一周ウォーク 世界遺産巡り」が目はじまっていた。ナレーションは三浦友和と広瀬アリスのコンビ、落ち着きと若さがあって新春に相応しいか。
 眺めていたら、画面には駅前の源兵衛川遊歩道、白滝公園、三島柿田川湧水、三嶋大社境内、広小路老舗鰻家と出てくるではないか。あれあれ、これって去年春と秋に訪れたところじゃないかと嬉しくなってしまった。記憶の引き出しが継継ぎと蘇る。
 それはさらに続き、三保松原からの相模湾越しの霊峰富士の姿が映されると、今年の大河ドラマ「どうする家康!?」にまつわるエピソード、鷹狩り好きと半島で栽培される特産地場折戸ナスへとつながる。その次は富士宮市まで進んで、上空から本宮浅間大社全景を映していくのには驚かされた。世界遺産登録されたとはいえ、清水港から対岸の三保半島まで渡り、東海大学海洋博物館を横目にして、ぐるりと半島の松原海岸を歩いて美保神社まで巡ったひとはそういないないだろうな。あのときの旅の終点は富士宮だった。
 最後は、富士吉田に残る御師家屋や名物うどんが紹介され、最後には本栖湖からの富士山、これは千円札の裏面左側にデザインされている図柄のもとになった眺めなのだと知る。こうなると、いずれ機会をみて訪れて見たものだという気になってくる。
 
 やがて家族が起きてきて、そろってお雑煮をいただく。平凡であるがささやかな幸福が繰り返される食卓の正月風景が広がる。そのあとは家族ひとりひとりが別行動となり、わたしは自転車を駆って地元神社に初詣でにでかけることにした。
 行幸道路から座間キャンプの地下道を抜けて下り、キャンプ反対側に沿って下っていくと、その先に賑わう鈴鹿神明社があり、参拝のあとに干支絵馬と当年暦冊子を求めて戻るのが恒例になっている。ことしは五年ぶりに干支飾りの陶製「卯」を求めた。
 そこから母のところへと向かう途中、座間キャンプ正門前を通ると看板が一新されていた。A・レーモンドが設計に関わったであろう敷地内教会の尖塔をフェンス越しに眺めながら、通称行幸道路を息を切らしながら上ってゆくと、小田急相武台駅の前だ。


民家のむこうの座間キャンプ掲旗ポールの日の丸・星条旗。白昼の下弦月。


 行幸道路からみた座間キャンプ内教会鐘堂(2023.1.1)

 さてこの日の夜は、毎春恒例となったお楽しみ番組「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯・新春スペシャル」を見る。今年最初の訪問場所は「絶景!江の島ぶらり旅」ときた。
 一昨年暮れに友人と鎌倉山檑亭での昼食のあとに連泊して、翌々日大船からモノレールで江の島へと巡った近場絶景旅の最終風景と重なるわけで、なんという巡り合わせの偶然!まるで記憶体験を後追いして、味わい直している気分になってくる。

  こちらの番組のほうは、おそらく11月下旬から12月初旬あたりのロケなのだろう。ご両人、西浜海岸らしき砂浜で落ち逢って始まり、ふたりして弁天橋を渡りながら富士山絶景を眺め、青銅製の鳥居で別れたあと、タモリは参道をエスカーに乗車、鶴瓶のほうは左手の漁師町方面へとずんずん入ってゆく。そのあとには例によって住民との交流のひとしきりがあり、辺津宮で再合流したら、芸能の神様である弁財天を祀る奉安殿を参拝するという流れ。タモリのほうは、この後に再度エスカーを乗り継ぎ、稚児が淵岩屋洞窟まで探検することで江の島巡りは完結となる。
 あまりにも何度も個人的に訪れたお馴染みの風景に、おふたりの道行エピソード姿が重なっていき、元旦のNHK番組は面白さ倍々増の次第。やはり江の島詣でと富士の姿を拝むなら初春のころ、できることなら空気の澄み切った午前中に限る。

  三日はその記憶も冷めやらぬままに江島神社へ初もうでに出かける。午前九時すぎ、小田急片瀬江の島駅到着、人出はまだそれほどでもなく、思いのほかまばらといった感じ。
 駅舎は一昨年に赤色の柱に白壁を基調として新調され、華やかさとお目出度さが満載といった印象がして新年に相応しいと思う。残念ながら、元旦のテレビ映像には映らなかったけれど。


 龍宮殿?みたいなイルカの鉾が載った小田急片瀬江島駅。青空トンビが舞う。 

 駅前広場から引地川にかかる橋をわたり、国道地下道をくぐっっていく。弁天橋からは、冠雪の富士の秀麗としかいいようのない姿がくっきりと望める。この情景、何度訪れて見ても感嘆のため息がでるくらいにDNAの琴線に触れて、繰り返し心象風景に刻み込まれていく。
 青銅の鳥居をくぐり、両側にお店がひしめく参道は、まだ時間が早く空いていて進みやすい。やはり、正月の参拝は午前中に限る。石段をあがり、大鳥居前の広場につく。タモリはここからエスカーに乗り込んだけれど、例年通りそのまま急な石段をのぼっていく。上がるにつれて、見える風景がパノラマのように広がってゆく愉しさ。まずは辺津宮へ参拝、となりに祀られる弁財天様にもお参りする。

 八角形の奉安殿内には、八ッぴ弁財天と妙音弁財天の二体が並んで安置され、周囲を十五体の待童子が取り囲んでいる。妙音弁財天のほうは、すらりとした中性的な裸像で白塗りの肢体に琵琶を抱えて左足を下ろしたお姿。あらためて眺めれば、不思議な空間でタモリと鶴瓶のおふたりが訪れたというのもなんだか本当なの?という気がしてくる。いっそのこと、ご両人もこの先いつかここに祀られることがあれば、いあまどきの参拝者があふれるだろうなあ。

 さらに進んで亀ヶ岡広場に着くと、早咲きの河津桜が日当たりのよい枝先にぽつぽつりと咲き出している。デッキからは、相模湾越し真正面に浮かぶ富士と姿と対面できて、月並みに感動する。ここから、奥の宮までは石畳をあとすこしのアップダウンだ。締めの参拝を済ませてから、いつもの江之島亭でひと休み、富士山が眺められる海側の席で早めの昼食をいただく。このいつものお正月の習慣がささやかながらも、最高の贅沢のひとつなのかもしれない。
 お土産に黒糖饅頭を買いもとめ、稚児が淵まで降りて春の海を眺めにゆく。ここから遊覧船「べんてん丸」に乗船する。海上はあたたかで風もなく穏やかで、小型船の進む後にひとすじの白波線が引かれていくばかりだ。
 小さな航海は、江の島を右手に相模の山並みを左手に見ながら、ほんの五分ほどで弁天橋の江の島寄り桟橋へと到着する。


相模湾越し湘南平と丹沢箱根山のむこう、冠雪抱く霊峰不二(2023.1.3撮影)


 江の島頂上二景。龍野ヶ岡の向こうに富士と展望塔灯台(2023.1.3)


年の瀬相模湾、江之浦測候所

2022年12月31日 | 旅行

 令和四年の年の瀬に小田原の江之浦測候所を訪れた。早朝のJR東海道線根府川駅下り四番ホーム、降り立つと目の前一面に相模湾の陽光が広がって眩しい。なぎの海面は白波もなく穏やかであり、水平線まで光って三浦半島や房総半島まで続き、手前右に伊豆大島の姿もくっきりと望める。ホーム脇の海側空地には、かつてレンガ造りの倉庫蔵が残されていたのだが、いまは更地となってしまっていて何もない。すっきりとしてあまりの眺望の良さは、あっけにとられるくらい。

 ふと、あのレンガ倉庫を改装したこの海原と水平線をただ黙って眺めるだけのカフェがあったらいいのになあ、と思った。そのすぐ脇に初夏には赤いカンナの花々の咲く、海風の吹き抜ける横長の窓枠のある無垢の木の柱と床と白い内壁の小さな空間がいい。そのなかで晴れの日も荒れたときも、空と海の表情とただ向き合いながら、世の平和と平安を祈れるような鎮魂と安息のひと時を過ごすための空間。


上り四番線から駅舎へと向かう、細くて長い連絡橋。

 そんな夢想をしばし楽しんだ後にホーム中ほどの階段を上ってゆく。壁が白く塗られたすれ違うのがやっとの細い連絡橋を渡ると、小さな昔からの駅舎へと連絡している。こちらの外観はペパーミントブルーに塗られていて、懐かしさを覚えるようだ。舎内壁の端には、茨木のり子「根府川の海」の一篇が、真新しい和紙に墨書鮮やかに額装されて掲げられている。誰かがいつも様子をみて手入れをしているような気がした。

 駅前から連絡のシャトルバスで10分ほど、江之浦測候所参道入り口に着く。ここは、公開前の見学を含めると三度目の訪問だ。入り口に柑橘ならぬ「甘橘山」(かんきつざん)の一篇が掲げられている。「く」の字に折り曲がった道を進むと、岩石が敷き詰められた眺望の良い広場にたどり着く。石のテーブルに石柱をたてた椅子と石づくしの「ストーンエイジ・カフェ」だ。屋外厨房は、鉄製の菅柱で組まれた粗末な鉄板波板屋根の屋台で、これらが時を経て錆びつき次第に味わいを増すであろうことが織り込まれているのであろうか。
 ここからは相模湾がひらけて、真鶴半島も真近かに三ツ石も目にすることができる。残念ながら、カフェは週末だけの営業で、搾りたての果汁は味わうことができない。ふと眺めれば、扁額に「万事汁す」とあり、思わず揮毫者の得意満面の表情が浮かんでしまう。しばし休憩時間のひととき、持参のペットボトル茶で一服、おにぎりを海に向かって思い切り頬張る。

 この先の敷地、相模湾に向かって豊かな光の降り注ぐ南東に開けて、なだらかに下ってゆく。建築物と作庭に関わるもろもろは、その地理特性を生かし切って配置されて、来館者はその通路を巡ってゆけば、杉本博司の意図するところを自然と堪能できる仕掛けとなっている。

 今回特に興味を惹かれたところは、榊の森をくだって現れたかつての蜜柑作業小屋を改装した「化石窟」である。ここに展示された化石コレクションの数々は見事だ。まず最初のモロッコ産数億年前のウミユリの巨大な姿に驚かされる。とにかくアンモナイトの螺旋姿といい、経てきた時間軸の桁数が違うのだ。
 らせん構造といえば、遺伝子DNAの基本構造も螺旋状の組み合わせからなり、太古の記憶を今に伝える。蜜柑小屋、三葉虫や海サソリ、ヤシの葉の化石そして家屋の裏に佇む楠の木の根元にある磐座(いわくら)の佇まいは、不思議な気配に満ちていた。
 遊歩道の途中にさりげなくおかれたベンチは、園内整備で切り出された巨大な丸太を割って組んだものと思いきや、巨大な丸太状の化石の珪化木を真っ二つに割ってしつらえたものだった。今春勧請されたという朱色が鮮やかな春日社に詣でると、背後にはひたすら相模湾の海原が広がっている。

 駅まで向かう県道135号の帰路、ベーカーリー「MUGIFUMI」に立ち寄る。表札にある大野家末裔の敷地にできた古民家カフェの縁側でひと休み。
 ここは天正18年(1590)、秀吉の小田原北条攻めのさにに千利休に銘じて茶席天正庵を設けた跡だという。その面影を捜しても何もなく、ただ気配だけが通り過ぎて行く。この敷地に佇んですごした体験をこのたびの江之浦紀行の結節点とすることは、四百三十年余りを遡る歴史が個人の記憶に連なって、時空を超えた想像に相応しいことなのではないだろう。

 ミカン畑に海、水平線と切れ目のない天空。


相模湾の水平線。海上右端に真鶴半島と伊豆大島(2022.12.26)


熱田神宮の杜ときよめ餅

2022年12月07日 | 日記

 小雨降る午前中、ふたたび岡崎城址をぐるりと巡る。空堀に高く積まれた野面積の石垣、家康公産湯の井戸、岡崎城二の丸能楽堂と歩いて、三河武士のやかた前で武将に扮したボランティアから、お城の成り立ちや家康公の説明を聞く。ここは来年度放映されるNHK大河にあわせて期間限定のドラマ館へと替わる予定で、主役家康公に扮する松本潤が何度か訪れているのだそう。
 本丸広場にあるからくり時計の前に立ち、機械仕掛けの家康公が謡いながら能面をつけて舞う様子をよくできたものだと感心しながら見る。最後に城内日本庭園のなかの立礼で紅葉を眺めながら一服して、雨の中をタクシーで「東岡崎」駅へと出る。名鉄本線に乗り、名古屋市内「神宮前」で下車して、いよいよ熱田神宮へと向かう。

 熱田神宮は日本武尊ゆかりの杜、大化年間の創建。皇室三種の神器のうち、草薙剣を祀るという。なんども名古屋には来ているけれど、熱田神宮を訪れるのは初めて、ようやくの念願がかなう。
 車の行きかう大通りを渡って東門から境内の中に歩を進めれば、もう神聖な雰囲気だ。社務所から信長塀を越えてゆくと、巨大な神楽殿のとなりが石段となっていて、そこを上ると真正面に神明造りの本宮が見えている。意外なくらい駅からは近いことに驚く。周囲には熱田三大古墳が点在しているらしいが、位置関係がよくわからないので、地理学的考察には思考が回らない。清水杜から続く小径をぐるりと本殿の裏側まで探索してみる。
 せっかくなので、南方向の正門まで参道を踏みしめて歩いてみることにした。こちらから参るのが本来は正式なのだろうけれども、後からできたJR熱田駅は北側にあり名鉄神宮前駅は東側という位置関係で、殆どの参拝客は東門からショートカットして本宮に向かうようになるから、どうもアプローチとしては空間的な有難みが薄れてしまっているきらいがあるのではないだろうか。

 神宮正門からさらに進めば旧東海道宮宿にぶつかり、お伊勢参りにとつながる桑名宿へと向かう宮の渡し場がある。現代は埋め立てが進んでしまって当時の面影を想像することは難しいだろう。古の地図だとこのあたりが伊勢湾に面した熱田湊の年魚市潟(あゆちがた)にあたり、愛知の語源とされる。尾張名古屋の原点がここにあるわけだ。
 
 というわけで、もうすこし時間があれば、ブラタモリよろしく宮の渡し公園七里の渡し跡まで訪れて見たかったが、これは仕方なし。帰りの新幹線の時間が気になりだしたが、せっかくなので「きよめ餅総本家」に立ち寄り、レトロな雰囲気を残す神宮前駅商店町の一角、ひなびた構えの「喜与女茶寮」へ入ってひと休みしながら、ほうじ茶できよめ餅を頬張り、熱田との名残りを惜しむ。

 こうしてみると熱田周辺は、庶民的な大須観音商店街、異国情緒も混じる覚王山日泰寺参道とならんで、神宮の杜を取り囲むようにして門前町歩きと古墳巡りに、旧東海道宿場渡しの名残りを楽しめるところ、といえるだろうか。個人的に名古屋については、この訪問ですこし総括ができたかもしれない。