日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

熱田神宮の杜ときよめ餅

2022年12月07日 | 日記

 小雨降る午前中、ふたたび岡崎城址をぐるりと巡る。空堀に高く積まれた野面積の石垣、家康公産湯の井戸、岡崎城二の丸能楽堂と歩いて、三河武士のやかた前で武将に扮したボランティアから、お城の成り立ちや家康公の説明を聞く。ここは来年度放映されるNHK大河にあわせて期間限定のドラマ館へと替わる予定で、主役家康公に扮する松本潤が何度か訪れているのだそう。
 本丸広場にあるからくり時計の前に立ち、機械仕掛けの家康公が謡いながら能面をつけて舞う様子をよくできたものだと感心しながら見る。最後に城内日本庭園のなかの立礼で紅葉を眺めながら一服して、雨の中をタクシーで「東岡崎」駅へと出る。名鉄本線に乗り、名古屋市内「神宮前」で下車して、いよいよ熱田神宮へと向かう。

 熱田神宮は日本武尊ゆかりの杜、大化年間の創建。皇室三種の神器のうち、草薙剣を祀るという。なんども名古屋には来ているけれど、熱田神宮を訪れるのは初めて、ようやくの念願がかなう。
 車の行きかう大通りを渡って東門から境内の中に歩を進めれば、もう神聖な雰囲気だ。社務所から信長塀を越えてゆくと、巨大な神楽殿のとなりが石段となっていて、そこを上ると真正面に神明造りの本宮が見えている。意外なくらい駅からは近いことに驚く。周囲には熱田三大古墳が点在しているらしいが、位置関係がよくわからないので、地理学的考察には思考が回らない。清水杜から続く小径をぐるりと本殿の裏側まで探索してみる。
 せっかくなので、南方向の正門まで参道を踏みしめて歩いてみることにした。こちらから参るのが本来は正式なのだろうけれども、後からできたJR熱田駅は北側にあり名鉄神宮前駅は東側という位置関係で、殆どの参拝客は東門からショートカットして本宮に向かうようになるから、どうもアプローチとしては空間的な有難みが薄れてしまっているきらいがあるのではないだろうか。

 神宮正門からさらに進めば旧東海道宮宿にぶつかり、お伊勢参りにとつながる桑名宿へと向かう宮の渡し場がある。現代は埋め立てが進んでしまって当時の面影を想像することは難しいだろう。古の地図だとこのあたりが伊勢湾に面した熱田湊の年魚市潟(あゆちがた)にあたり、愛知の語源とされる。尾張名古屋の原点がここにあるわけだ。
 
 というわけで、もうすこし時間があれば、ブラタモリよろしく宮の渡し公園七里の渡し跡まで訪れて見たかったが、これは仕方なし。帰りの新幹線の時間が気になりだしたが、せっかくなので「きよめ餅総本家」に立ち寄り、レトロな雰囲気を残す神宮前駅商店町の一角、ひなびた構えの「喜与女茶寮」へ入ってひと休みしながら、ほうじ茶できよめ餅を頬張り、熱田との名残りを惜しむ。

 こうしてみると熱田周辺は、庶民的な大須観音商店街、異国情緒も混じる覚王山日泰寺参道とならんで、神宮の杜を取り囲むようにして門前町歩きと古墳巡りに、旧東海道宿場渡しの名残りを楽しめるところ、といえるだろうか。個人的に名古屋については、この訪問ですこし総括ができたかもしれない。


国立映画アーカイヴ相模原分館、そして夕暮れのスイミング

2022年08月10日 | 日記

 立秋のあとに残暑が続く。首都圏で35度以上の猛暑を記録した日は14日に上り、観測史上最多を更新したそうだ。真夏日はもう、ふつうのことで驚くことがない。その一方で集中豪雨による水害も多発していて、地上温暖化はとどまることがなく、いったいどこまで進んでいくのだろう。

 午前中に母親の通院付き添いで皮膚科に付き添ったあとに、午後から国立映画アーカイヴ相模原分館へ「五辯の椿」(1963年、松竹)を観に行ってきた。年に一度の文化庁優秀映画鑑賞推進事業というお堅い名称の上映会で、地元にありながら、普段は立ち入る機会のない映画フイルム保存収蔵庫施設内の試写室が会場となるもの珍しさもあり、建物見物もかねて足を運ぶ。
 あまり便利な立地とはいえない場所だが、駐車スペースすら提供されていない。仕方なく正門でUターンしてお隣の市立博物館駐車場に車を置かせてもらい、ようやく会場へ。平日の午後なので、観客のほとんどはリタイア組の高齢者だ。もともと一般公開を想定していないのだろう、飲み物販売機も設置されておらず、まことに素っ気ない雰囲気だ。その反面、試写室は200席程度の立派なもので、スクリーンの位置は目線より高め、一昔前の映画館の仕様になっている。
 定刻の午後2時、肉声の注意事項のあとに予告編なしですぐに上映が始まる。三時間近い山本周五郎原作の文芸映画の大作、監督野村芳太郎、音楽は芥川也寸志、琵琶の音が効果的に使われている。
 主人公おしのを演じる若き日の岩下志麻は着物姿、情念を深く秘めた役どころで本当に美しい。小顔で意志の強そうな目、口元も秘密を抱えているかのようで、色白の首筋から肩のながれのしなやかさに惑わされる。濡れ場の行燈の灯かりに一瞬のこと、白く光った左の乳房がのぞく。カラーなのにモノクロの雰囲気で、憂いを帯びた表情と怨みを込めた表情の対比が迫力で、男女の濡れ場も人間の性を如実にあらわにして見せる。おしのに殺された男たちの傍らには、一輪の椿の花が残されているのはなぜか、最後のワンシーンで鮮やかに解き明かされる。ここで染まされる花の象徴性は、「椿の庭」(監督:上田義彦、2021年)と同様だろう。

 上映が終わって屋外へ出ると、まだ夕暮れには少し早い。通りの向こうは、宇宙航空研究開発機構JAXSAキャンパスである。敷地沿いの柵にずらり、探査機はやぶさ、はやぶさ2、あけぼのなどの画像と説明シートが横に長く掲げられている。ここは、相模原から信州佐久にあるパラボラアンテナを経由して、遠く宇宙空間へとつながっている場所だ。たったいま見たばかりの江戸時代の人間模様を描いた映像の世界から一転、現代の広大な宇宙探査の営みへと切り替える落差に戸惑う。

 駐車場へと戻り、車中すこし思案してから、こもれびの森とゴルフクラブの間の道を市営温水プールのある麻溝公園方面へと車を走らせた。
 この夏八月に入ってすぐに、義母が逝去してしまい、慌ただしく九州岡垣での葬儀に参列したりで、二週間ぶりとなってしまった夕涼みのスイミング。もう、夏休み中のこどもたちや家族つれは帰ってしまって、静かなプールが戻っている。
 
 泳ぎ終えた帰り、殆ど人の姿のいなくなった公園、周囲の木立のシルエットが浮かびだして、正面入り口前広場にある、ライトアップされた新宮晋の動く彫刻「飾の庭」が、風に吹かれて形の向きを変えながら生き物のように静かに佇んでいる。
 
 駐車場上空を見上げた時にあと少しで満齢となる月が明るく輝いていた。また明日も暑くなるだろう。


清掃工場と温水プールの建物。「風の庭」銘板には、1983年11月とあり、設置されて39年がたつ。


薬師池公園の浄土世界 大賀ハス(2022.7.30 撮影)


センダンは薄紫の花

2022年05月16日 | 日記

 雨模様の月曜日、町田市成瀬にある堂之坂公苑へセンダン(栴檀)の花を見に行く。こじんまりした園内、センダンは樹皮が漢方薬用となる落葉高木で、このあたりで見かけることは珍しい。花の季語は、初夏のころで、西日本を中心とした山地に自生しているとのことだから、こちらでは知っているひとはあまり多くないだろう。

 何年か前、都内根津美術館をふらりと訪れたときのこと。もうカキツバタの花の見ごろが過ぎたころだった。すこし残念に思いながら庭園をめぐっていて、最も園内の低地にある細長い池の端に大きく張った枝枝の先、薄く煙ったような薄紫の花のような姿を見つけた。何だろうと近くによってみると、樹木に添えられた説明版の記載で、その名称が“センダン”あることを知った。

「これがセンダン?」ひとつひとつの花自体は小さく、それが集合して大きな花房になっていっせいに咲くために、遠目にはまるで霧が煙っているかのように見えるのだった。その咲き始めは薄紫で咲き終わって落下すると、紫色は消えてクリーム色になっている。カキツバタの代わりに紫つながりの花を知って、得をしたような気分になれた。美術館案内のパンフレットにも記載されていないのだから。

 それからしばらくして訪れた自宅近くの堂之坂公苑の片隅でも、その特徴のある樹形を発見した。こちらのほうも根津美術館以上に立派な大木に成長していて、ここにもあったなあと感心して見上げたものだ。周囲には、咲き終わって落下したたくさんの小さな花弁が、まるで灰をまいたように一面に広がっていた。
 その記憶から五月の連休明けの梅雨入り前次期になると、まるで秘密事のようにはるばる根津美術館庭園か、ここ堂之坂公苑へと、センダンの花に会うために訪れることが習慣になってきている。

 そうしているうちにちょっと面白い偶然と発見があった。駅から自宅と向かう通路の途中、街路樹として西洋ハナミズキが植えられているなかに一か所だけ特徴ある若木が植わっている。きっと、誰かが枯れたハナミズキの代わりに植えたものだろうか、随分と元気で成長が早いなあと思っていたら、なんと大きく茂った葉陰のもと、この初夏に見覚えのある薄紫色の花をつけているではないか。

 近寄って背伸びして花を近くで確かめてみると、なんとセンダンが咲かせたあの花であることがわかってひとり嬉しくなった。その玉状に集まった花房を顔に寄せてみると、ほのかに落ち着く香りがする。はじめて知ったその香りに、このままタイムトラベラーになって時空を超えていくような不思議な既視感さえ覚えた。これって「時をかける少年」ならぬ「時にたたずむ熟年」か?

 ときは夕暮れ、何本かの花房をそっと家に持ち帰り、小さなガラス容器にさして居間のテーブル卓上に置いてしばらくしてからのこと。ひとつひとつはとても数ミリの小さくて薄紫の可憐な花なのに、室内に控えめで上品な芳香がひろがって、なんとも幸せな気分になれた。


白い花弁は五枚まれに六枚、おしべを含む筒状は薄紫。

追記)その後市内にある道保川公園内にも、センダンの大木があると知り、さっそく見物にでかけた。

 園内を進んでしばらく、鬱蒼とした北側斜面の森の崖から幾過ぎかの湧水が集まってできた池のほとりのベランダの先、そのセンダンはこれから咲こうとするたくさんの紫色の蕾をつけていた。
 薄曇りその空の下の池のほとり、橋のかかるそばにかすかに薄い紫がかった色合いの枝を延ばした中央の樹木がセンダン。ここではもう少しさきのひと月ほどすると、こんどはヘイケボタルの舞うほのかな光の筋を眺めることができる。コロナ禍の今年も見ることができるのだろうか。

(2022.0519 撮影 道保川公園)

 

 


四月の出来事 帰省と三島行

2022年04月30日 | 日記

 ここのところ、新緑の季節の陽光がまぶしい。つい先日一泊二日のとんぼ返りで、新潟への帰省を済ませてきたばかり。空き家となっている実家の羽目板外しと風通しをして、墓参と庭の草むしり、冬の間の雪下ろし代金の支払いなど。往きの道中、山桜が山中のうすみどりに混じってパッチワークのようで美しかった。

 魚沼丘陵を超えていくときに、道脇の北側の斜面や山の谷底には残雪があって、沢には雪解け水が滔々と流れだしていた。遠くの山並みにはまだら模様の冠雪が白く光って、大雪だったにもかからわず四月に入ってからの雪解けは早かったようだ。

 曇天、田植え前の棚田、水面鏡の淡い山桜。国道253号線から十日町儀明。
 (2022.04.26 撮影)

 この四月卯月を振り返ってみる。ようやく実現した中旬の伊豆三島行きのこと。

 待ち合わせの三島駅は、うす青緑色の緩いカーブを描いた三角の屋根に白壁のじつにノーブルな佇まい。そのむこうに富士山がそびえている。
 まずは駅前広場から路地裏通りを抜け藍染坂をくだって、白滝不動のある公園までぶらぶらと歩く。新緑の欅の木陰のせせらぎが涼やかだ。
 古いかばん屋の角を曲がると楽寿園の裏手沿いの道へと誘われる。楽寿園の中から流れでる源兵衛川の水源は、自然湧水ではなくて人工的に企業工場などからの冷却水を導いたもの。それでも街中に涼やかな水辺環境を復活させることはとてもいいことだ。

 川沿いにあるお寺の境内を通り抜けたら、伊豆箱根鉄道三島広小路駅に出る。そこから少しだけ迷ってしまったけれど、予約しておいた鰻の名店、創業安政三年という桜屋はすぐだった。木造三階建ての風情ある佇まい。すぐ脇の川沿い、時の鐘がある三石神社の隣というロケーションは、やっぱり絵になる。
 階段を上がって二階の広間に案内される。平日とはいえ、お昼時はなかなかの繁盛ぶり。うな重をふたつ注文し、しばし寛いで待つことに。ここは白洲次郎・正子夫妻がひいきにしていたと聞いていたし、司馬遼太郎が訪れたさいの色紙もさりげなく飾ってある。鰻のほうは辛口のたれで香ばしく、さすがに評判通りの結構な味わい。ここで食したことで三十数年ぶりの目的のひとつがようやく達成された。

 店を出てすぐの神社境内さきを頭上すれすれの鉄道線路が川を渡っている。その下をくぐっていく際に二両編成のイズッパコがガタゴトと頭上を走る抜けていくさまはなかなかの迫力もので、川の浅瀬の飛び石に立ったまま歓声をあげて見送る。閑静な住宅地のなかの川下りをすすめて、佐野美術館がある隆泉苑へと向かう。こじんまりとはしているけれど、池を中心によく手入れのされた回遊式庭園だ。ここも三十数年前にひとり訪れた記憶が蘇る。
 三島梅花藻の里に立ち寄ると、繁殖のための保護池の水流のなかで可憐な小さな白い五弁の花が揺れて咲いていた。そのさきの三島田町駅にでる。途中手前の通りから眺めていたよりも駅舎は立派なつくりで、反対側のホームには地下通路を渡ることにちょっと驚かされた。
 ここからは電車に乗って二駅さきの三島駅まで戻ることに。見慣れぬまちでの電車乗車は、清水からの静岡鉄道や掛川から浜松までの遠州鉄道、昨年暮れの湘南モノレールもそうだったけれど、長短にかかわらず子供にもどったかのような高揚感があって愉しい気持ちになるものだ。
 
 滞在先にもどったのは午後三時過ぎ、あたらしくできたばかりのところだ。名称の頭に“富士山”がつくところだけあって、ロビーの大きなガラス窓からは、駅ホームを挟んだ街並みのはるかむこう、山頂に冠雪を抱いた稜線が緩やかにひろがる姿に圧倒され向き合うことになる。
 ようやくのこと、ここで寛いで過ごすことができると思うとたまらなく嬉しくなってくる。しばらくは、静かなゆっくりとした時間のままにひとしきり展望風呂に浸かってから、まちに繰り出して夕食をとることにしよう。

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 翌朝二度寝して温もりを残して目覚めた部屋からは、富士の山容も素晴らしい。シャワーを浴び、着替えてあとに遅めの朝食をとりながらぼんやりと思うであろうことは、チェッククアウトしたら荷物を預けて、すぐ目の前の楽寿園を散策して小動物園でアルパカとカビバラと与那国馬をのんびり眺め、一万年まえに流出した溶岩がむき出しになった池を巡り、南出口からさきの桜川沿いをてくてく散歩しながら、約四十年ぶり二度目となる三嶋大社へと参拝を果たしてみたいというささやかな願い。
 境内神池周辺の咲き残っている枝垂れ桜を眺めて歩きながら、門前の通りの向いの町中華屋のある古い二階建てを改装した「IWASE-coffee」に入って、この度の旅の余韻を惜しもう。そこにおいてある店の案内ハガキには、つぎのような一節が書かれているはず。

「この世が変わろうとも、ここに変わることのない場所が存在している」

 これからいろいろとあって何年かがすぎていつかまた三島を訪れた時には、大宮町1丁目11のカフェ・カウンターから、神社の杜を眺めてみたいと思う。


名古屋ウイメンズマラソン2022観戦記

2022年03月15日 | 日記

 春の風に吹かれたのか、住まいの敷地通路一面にうす桃色の花びらが散っている。毎年初夏に向けて実をつける枝ぶりのいいスモモの木からと思われるが、まるで絨毯のはかない模様のようだ。その奥には少し濃い目のピンクのしだれ梅が、おおきな傘をひろげたかのように見事だ。

 ようやく三回目の新型コロナウイルスワクチン接種を終えることができた。コロナって?ウイルスってなんだっけ、といまさら聞けない用語も、市保健所からの通知封書に同時表記されている中国語表記だと、“新型冠状病毒疫苗”となり、その意味がよくわかるのだから面白い。
 今回集団会場の接種を選択すれば早かったのだが、周囲からいわゆるワクチンメーカー違いの交差接種だと、副作用が重めできついという話を聞かされていたものだから、近所の整形外科での日曜日午前中の接種を予約した。その日は接種後にすこし休んでから、午後の出勤となって何もなくすごせたものの、翌日の目覚めは珍しく37度台前半の発熱があり、右腕上腕の痛みと前身のけだるさを感じたため、仕事を休んでの様子見となった。

 午前中のこと、リヴィングに座って何気なくテレビをつけたら、画面にはマラソン中継が映し出されていた。その日は「名古屋ウイメンズマラソン2022」の開催にあたり、すでにナゴヤドームを出発して小一時間ほどが過ぎていたようだった。
 しばらくすると伏見あたりから繊維町入り口看板と公園大通りの名古屋テレビ塔を視界に入れながら、市街中心地を駆け抜けていく女性ランナーたちの姿が映っている。その映し出される都市風景を眺めながら、しだいに画面に引き込まれていた。名古屋市内には多少の地理感があるので、街を駆け抜けて疾走していく姿に都市風景と一体になった何とも言えない面白さを感じたのだ。
 レース解説は有森裕子、高橋尚子、野口みずき、福士加代子という豪華メンバーで、高橋さんが少し高いキーであるものの、一様にアルト声域帯なのがおもしろい。かつての四人のトップランナーの掛け合いのなかでも、やはり人生経験が豊かと思われる年長55歳の有森さんが一番好ましく感じる。
 名古屋の中心である栄交差点、オアシズ21の屋根、愛知芸術文化センターと都市景観が俯瞰される中、ランナーたちがただひたすらに、さっそうと駆けぬけてゆく姿が美しい。

 そのうちに画面が空撮風景に切り替わったかと思うと、金の鯱を載せた天守閣と名古屋城郭と周辺の街区画全体が画面いっぱいに映る。これぞ大都市マラソンの醍醐味だろうなとちょっとした興奮を感じるのだった。さらに驚いたのは、ランナーたちが名古屋能楽堂のある並木路の反対側にある明るいレンガ色の建物のすぐ脇を走って行ったときのこと。そう、ここの通りはたしかに実際に歩いていった記憶がある。そのレンガ色の建物はKKRホテルで、三年前の二月だったと思うけれどもここへ泊っって、翌日犬山方面へと出かけたことがあるのでよく覚えていたわけだ。官庁街の建物が並び、中日新聞社本社はすぐ隣だった。
 もしやと思いながら息をつめて画面を見つめていたら、KKRで泊まって過ごした部屋の窓も、一瞬のこと映ってくるではないか!その部屋の窓から夜景の中、そして明けきらぬ朝方に名古屋城天守閣を眺めていたことも鮮やかに蘇ってきた。あのときは確か、時間が惜しくて朝食も部屋の中ですませていたのだったろうか。しばらくが経過してしまったものの、その日の旅の満たされた記憶も風景も同時にフラッシュバックしてくるのが不思議だった。もう、名古屋を訪れる機会が失われて久しい。

 そのうちにテレビ画面には、白川公園と円球体が印象的な市立科学館も映って、やはり都市マラソンは開催都市の情景を掬い取り印象付ける強力なアピール装置として作用している。
 マラソンレースそのものは、世界歴代四位の記録を持つケニア出身のテェブンゲティッチ選手が2時間17分18秒という、とんでもない大会新記録でナゴヤドームのヴィクトリーロードへと駆け込んで優勝し、2925万(25万ドル)の賞金を手にしたとのこと。日本人トップは、イスラエル人選手に次いで3位でフニッシュタイムは2時間22分22秒、四人いる解説者のだれかが「おう、ゾロ目できたか」と低く呟いていたのがなんとも可笑しかった。
 この日、北京パラリンピックも閉幕式を迎えたが、世界情勢が緊迫する中で、私にしては珍しくスポーツが印象に残る早春の一日だった。あとすこしで春分、日中が長くなってきている。


さよなら二月、コロナ禍の行き違い

2022年02月25日 | 日記

 この週末は、春の陽気だそうだ。長くて短かったような二月がともかくも過ぎてゆく。誕生月だというのに、年々寒さが苦手になっている。おまけについていないことが重なることが多く、昨年は信じられないことにすぐ近所で!交通違反切符を立て続けに切られてしまったし、一昨年などは人生初の軽い自責車両接触事故も起こしたりで踏んだり蹴ったり、まったくあっけにとられて呆然とさえしていた。

 案の定というべきか、今年の二月ものっけから楽しみにしていた予定が流れてしまい、そのやるせなさは共有時間を喪失した諦めのようなものへと変わっていく。この先気持ちを奮い起こすきっかけがなく、あてどない移り変わりの中、気持ちもからだの有り様もそれなりに変化していってしまうのが自然なのかもしれない。
 その自身の体調がイマイチとはいえ、共通の記憶を日々健康のバロメーター代わりにしているとしたら、哀しいかなあまりにも!矮小化された気がしてしまい落胆した。これまでの懸命な積み重ねがその程度のことと、想像されるのだろうか。もう仕方ないけれどコロナ禍の行き違いがあるようで、それぞれの思いが空回りしていてとても残念なこと。なんだろう、、この消えないわだかまりは。

 新型コロナ禍については、仕事上でも大きな影響があったが、再任用の身には大きな負担となることではないし、四月以降の公演企画に関してもできる範囲で粛々とすすめている、といった感じだ。たぶん、四月からは慌ただしさが増していくだろう。
 家族もウイルス感染に関してはいまのところは動揺もなく、無事なのは幸い。娘は職務上早々と三回目の接種をすませ、帰ってきたらすぐにお風呂に直行している。卒寿の母は、来月初めの訪問診療の際にしてもらうことが決まっていて、一番最後になってしまうのはどうやら私だ。

 ここひと月ほどは、住まいのマンション大規模修繕工事計画に関する大詰めのやりとりに神経をすり減らすことが多く、結構ギリギリのところまで根を詰めている羽目に陥っていた。基本的な認識をそろえるための過程と絡み合った課題をわかり易く整理して、関係者の合意形成に向けて調整する困難さを何度も痛感していた。それでもようやく苦労しながら、目指すところまでなんとかたどり着けそうか。とはいえ、まだ三月末の総会まではひと息つけない日々になりそうだ。やれやれ、頑張っていると思うけれど。
    その上厚木方面への通院付き添いなど、大幅な時間を取られるという意味でのいらだちの重なる日々をへて、ようやくの最終週末を迎えている。動揺してばかりのなんという情けない二月よ!

 それでも、機会を見つけての気分転換と楽しみを兼ねた外出と身体活動につながる“自助努力”は、たゆみなく?惜しみなく?マイペースで途絶えることなく続けていた。ひとりではつまらない気もするけれど、まあこれまでもあったことだから。
 先月末になるが、特別展覧公開にあわせて伊勢原の山中にある日向薬師を拝願してきた。ここの薬師如来本尊と十二神将立像は大小二組あって、それぞれ平安時代後期と鎌倉時代のものだ。宝物館で対面している薬師如来三尊と阿弥陀仏との取り合わせもなかなかの迫力があっていい。茅葺の宝城坊本堂や南北朝時代の鐘堂とともにすばらしい佇まいである。わざわざ久しぶりに山路の参道を歩いて、訪れたかいがあるものだった。鎌倉時代には、ここへはるばる源頼朝や北条政子も参詣していたというのだから、大河ドラマの今後の展開によっては話題になることだろう。

 その「鎌倉殿の十三人」ゆかりの近場旅では、今月初めに三浦半島横須賀芦名の浄楽寺にも足を延ばす。京急で終点の三崎口までゆき、三浦漁港魚市場からスタートして半島の西側134号線を貸し切りバスに乗って、葉山逗子経由で北上して鎌倉までを目指す観光協会のモニターコースに参加した。
 この浄楽寺には、驚いたことに鎌倉時代の仏師運慶の仏像が阿弥陀三尊、毘沙門天、不動明王とあわせて五体もある。実際に対面させていただくと表面の金箔もなまなましく輝いていて、ご住職の計らいで薄暗闇の中をろうそくの灯かりで拝願すればといっそう神秘的に見える。
 ここには明治維新の立役者で一円切手の肖像画、郵便制度の父として知られる前島密翁の別荘跡が隣接していて、ぜひ訪れてみたいと思っていた。境内裏手の高台にあるこの地で没した偉人夫妻のお墓は、正装した翁の小さな銅像がてっぺんにのっかり、全体が富士山をかたどった立派なものだった。越後高田を郷土として同じくするものとしては、じつに感激もの。
 前島密はそのほかの功績も含めて渋沢栄一や大隈重信にもつながり、もっと知られてもいい人物だろう。お寺の前の134号線沿いには、翁洋装姿胸像つき御影石の重厚な郵便ポストが設置されている。その台座には次のように記されていた「郵便は世界を結ぶ」。この立春4日は前島密187回目の誕生日と重なる。

 さて、歴史上の人物誕生日といえば、9日が夏目漱石生誕155年、17日は森鴎外生誕160年である。その間に北京オリンピックは人工雪の環境下で行われ、フィギアはもちろんジャンプもカーリングもさほど面白くないように感じていたら、ようやく20日にはやれやれの閉幕、そして23日の天皇誕生日と続く。

 忘備録的にごく私的な変化を付け加えておきたい。怠慢な我が家リヴィングのテレビ環境ももようやくケーブル契約に変わった。この先、そんなに視聴するための時間がはたして残されているのだろうかと疑問に思っていたけれど、まあいいか。
 すべての通信手段である固定電話・モバイル電話とインターネットプロバイダ契約もこの機会にすべて変えてしまった。遅ればせながら、スマートフォン本体もすこし小ぶりの「iPhone SE」を戸惑いながらの使用開始だ。ようやくの小さな?コペルニクス的大転換のなかで、ひたすら我慢と忍耐の二月が過ぎてゆく。

 気持ちを切り替えようと思い立ち、車を走らせる。国境の三輪里山周辺を歩けば、ニホンスイセンの可憐さ、紅白梅の清浄さ、それぞれに咲き出してあたりに馥郁した芳香を漂わせている。あとすこしで三月か、春の兆しはもうすぐに来ている。どうか運気が向上していきますように、丹沢の夕陽にむかって合掌。

成瀬山吹緑地から町田市街を望む。2014年の12月暮れも眺めた風景。
丹沢大山への日没は17時15分すぎ(2022.02.25)


小田原城下 三の丸ホール

2021年09月10日 | 日記

 九月に入ってから雨続きのなか、この五日は薄曇りから陽ざしも見られた天気模様になる。初めての週末、小田原城址お濠端通りに面して、新しくその名も「三の丸ホール」が開場した。当初設計案の白紙撤回、見直し再設計後の入札不調など難産の末、三度目の正直ようやくの幕開けである。公開見学会初日へと足を運ぶ。

 敷地は申し分のない立地で、外観は黒を基調とした古民家作りを近代建築に生かしたようなどっしりと落ち着いた佇まいだ。大ホール1105席(一階686,二階419)、小ホールは可動式最大296席、展示スペースを含んだ広い大ホールオープンロビーと両ホールを繋ぐギャラリー回廊が特徴のひとつ。
 旧市民会館の約六割の客席で抑えた大ホールは、舞台との親密感があり、木調と深い小豆色の焼きタイルの内装は落ち着いて重厚感がある。三階ホワイエからの城址公園の馬出門、松の巨木のあいだに望める天守閣の眺めが最高に素晴らしい。左手の三の丸小学校の城郭風の白壁、瓦屋根とのつながりも本当に申し分がない。これ以上望めない立地に、よく整えられた景観が出来上がった。

 お堀端通りに面した正面は、二本の大きなヤマボウシ、ケヤキやサクラなど植栽が施されていて、芝生が清々しく全体が広々としている。その日の開場式は、この広場で半被姿の和太鼓演奏が披露されていて、いい雰囲気があふれていた。先行してオープンしていた二階建ての観光交流センター棟は、ホール棟と階段状のテラスでつながっている。その一階は広場にむかって開かれたカフェスぺースが営業していて、ここが旧警察署や消防分署跡だったなんて信じられない!
 これら広場を介して有機的なつながりを生み出している空間構成と国道一号線側からかもアプローチできるよく考えられた導線が素晴らしい。設計者は環境デザイン研究所の仙田満氏。「まちとつながる文化芸術の空間」という仙田氏の平易なことばがこの新しいホールのありようそのものを表しているだろう。


 城址内馬出門から見た小田原三の丸ホール。通りとの間をお濠が隔てている。


 

 小田原について。

 ここは箱根山と相模湾にちかく風光明媚な旅への玄関口、コンパクトでとても好きな街だ。JR東海道線と新幹線、恐竜の背中を体内から見上げているような小田急線駅ホーム、二両編成の伊豆箱根鉄道大雄山線も乗り入れている一大ターミナル駅、山側に小田原厚木道路、相模湾側には国道一号線が並行している。酒匂川と早川に挟まれた複合扇状台地に広がる城下町。ムラカミ小説「騎士団長殺し」の舞台となった街。
 
 御幸の浜海岸は、西湘バイパスで市街地と分断されてしまっているが、地元ゆかりの作家川崎長太郎の小屋跡を捜して、かつての街中かまぼこ通りを歩いてみた。
 国道一号線に面した出桁造りの旧網問屋建物を再整備した「なりわい交流館」から横丁へと入る。このあたり明治天皇行在所跡、伊藤博文像の残る滄浪閣跡などの旧跡にちかいが、日常一般のひとが訪れることはあまりないだろう。ここのところ町おこしに励んではいるが、いささか侘しく閑散としていて昔日のにぎわい何処、といったあんばいではある。それでもあの街中のにぎわいからタイムスリップしたかのような時間が流れる通りは、貧乏暮らしが長かった川崎長太郎が、浜辺に近い漁師小屋を借りて二十六年間も住み続けた足跡を訪ねる場所としてふさわしいだろう。
 通りのはずれ、青物町交差点からすこし入った、かつての防潮コンクリート壁のすぐ脇にその跡を記念した石碑が建っている。そこには小説「抹香町」の一説から引用された一文「屋根もぐるりもトタン一式の、吹き降りの日には、寝ている顔に、雨水のかかるような物置小屋に暮らし」が刻まれていた。
 しばしその周辺の草むらを歩いて感慨にふけったのであるが、あとで帰ってしらべるとその碑はどうやらもとあった通りから、何かの事情で海岸地点よりへと移動させられたものらしい。まあ、石碑があとから小屋跡に移動したのかもしれないし、これも人生気ままに生きたという川崎長太郎のイメージにふさわしいものだろうと思いなおして、納得する。

 その日、さらにその先の碑のあるすぐ脇を海岸にそって東西にのびる西湘バイパス、その下を貫通する四角いトンネルの向こうにやや陰鬱な相模湾の海が広がっていて、西の方向には真鶴半島が突き出している。海岸には釣り人何人かが暇を持て余したかのように竿を投げてはを繰り返している。週末なのに、明るく海遊びや散歩する人々の姿は見かけないのは、やはりここが人工的に遠く街中のにぎわいと分断されてしまっているからなのだろう。どこかSF的で虚無感漂うさまが小説やサスペンス映画の舞台になりそう。

 疲れて重くなった足を引きずり、駅の方向へと引き返す途中、安部公房と内密の関係にあった女優山口果林のふたりが箱根別荘への道中すがらよく通った国道沿いのレストラン「KINOMI木の実」(ここは桑田佳祐の父が支配人を務めていたのだそう)、待ち合わせ場所だった喫茶店「豆の樹」の前を通ってゆく。移り変わる街並みにも、有名無名の人間の営みが堆積して染みついている。それに気がつくかどうか、だ。
 彼らも同時代の生身の人間のはず、ふたりしてこんど来たときは、ここでランチしてお茶を飲み、語り合おう。
(2021.09.10書き出し、9.12校了)

 


TOKYO2020 自転車ロードレース疾走

2021年08月07日 | 日記

 立秋とはいえ、まだまだ残暑厳しき時節だ。日本国内で新型コロナウイルス感染拡大の続く中、オリンピック東京2020+1大会がまもなく閉会を迎えようとしている。
 ここまでへと至る紆余曲折のいきさつは、メディアを通してネガティブ話題がさまざまに流され、祝祭感なきあきらめと憤まんやるかたなしの気分が横溢していた。いまのネット時代における玉石混淆の情報量の過剰さにもやれやれ、どっとストレス疲れを感じた。

 通勤にJR横浜線を利用しているが、沿線の新横浜国際競技場(日産スタジアム)ではサッカーが、横浜スタジアムではソフトボールと野球が行われている(いた)はずなのに、まるで臨場感が湧かない。もとより巨大化して商業化のすすんでしまったオリンピックの競技自体にあまり関心がないせいもあるが、この暑さと新型ウイルス感染まん延状況にいいかげんうんざり、といった心境に至ったからかもしれない。
 その中でも心惹かれた競技のいくつかがあった。屋外競技のセーリング(江ノ島相模湾)や新競技サーフィン(房総一宮)、そして開会式直後の先月24日から行われた自転車ロードレースである。その男子レースをインターネット中継で観たが、これがとてもよかった。余計な音声や解説がなくて、ひたすら沿道の走行風景だけをときに空撮を織り交ぜながら映し出していたのが実に新鮮だった。

 レースは府中と調布にまたがる富士の森公園をスタートし、しばらくの10キロほどはパレード走行、いってみれば顔見世のような感じで市中を疾走していく。多磨霊園やICU裏門通、府中街道から大國魂神社参道へと至るけやき並木をぬけていくコースの沿道風景がいい。見知った風景が新鮮で、人力アナログの自転車はSDGSの理念にもぴったりと叶う。
 いよいよ是政橋からがレースの始まり、多摩川をわたっていくと一気に緊張感が高まる。多摩丘陵のニュータウンを縫うようにして町田の尾根道路から降りて相模原市域に入り、16号線を横断して橋本付近市街を抜けると相模川に至る。
 そうしていると映像は鮮やかな空撮に切り替わり、新旧の対比が美しい小倉橋の二重アーチが映し出された。この象徴的なシーンに感激する間もなく、レース集団は旧小倉橋(1938年竣工)のほうを次々と走りぬけていく。何度も往復している名橋で相模川にかかる近代橋のなかでは最も歴史がある。対岸の擁壁に大きく掲げられた「TOKYO2020」のロゴシートが映されるとレースの意味を実感できた。

 ここまでが100㌔、沿線は素朴な里山風景で応援する住民の姿もどこか長閑な雰囲気で、レースが地域に溶け込んでいる様子とおだやかな祝祭感がとてもいい。やがて旧津久井町根小屋、長竹から青山に至ると、いよいよ山間のぼりが山梨県境へと続く道志みちに入っていく。山中湖への裏道、何度か通っているドライブコースだ。ここからは空撮シーンが多くなり、ひたすら両側は水源林などの山並みである。
 道志村のおしまいである山伏峠を越えるとこんどは下り、しばらくして前方にはいよいよハイライトシーンの山中湖が見えてくる。さすがにここには夏の観光地の雰囲気が横溢している。こんなところでレースに遭遇したひとたちは幸運だろう。スイスレマン湖畔の避暑地モントルーみたい、といったら大げさか。三十年数年前ほどに大掛かりなジャズフェスティバルを聴きに行った記憶が浮かび上がる。

 湖畔に望む長池親水公園側を四分の三周して旭ヶ丘からのぼりの籠坂峠、須走をへて富士山麓東の自衛隊演習場をぐるりと周回、このあたりの風景はさぞかし雄大だろう。それから山中湖方面にもどって、一度富士スピードウェイに入り、旋回した後に出ていくと三国峠あたりの勾配はきつそうだ。下りからは左手に富士の雄姿、前方には湖を眺められるハイライト地点ということで、実際に走ってみたい誘惑にかられる。沿道にはサイクリストの姿がちらほら、彼らにとっては聖地のひとつなのだろう。ふたたび平野から今度は湖畔を時計回りに走り、旭ヶ丘から再び籠坂を上って、いよいよ二度目の富士スピードウェイがレースゴールである。

 市街地から山間をぬけて湖の水辺、富士山麓と都会から郊外へと至る沿道風景の移り変わり、レースの舞台装置は最高だ。解放感で気持ちが晴れ晴れして同化する。利権渦巻く都会の人工的な競技場内で行われる大部分の種目とは大きく異なる点だ。
 気がついたら、うとうと午睡に吸い込まれていた。長かったレースはようやく終盤の夕刻どき、先頭ゴールが済んで中継は終わろうとしている。夏の盛りの夢のような一日の時間。


大暑コロナ禍中のオリンピアードゲーム

2021年07月26日 | 日記

 大暑が過ぎて夏の盛りといいつつも、気がつけば七月もあと五日を残すのみ。なんともやり切れない気分を抱えながら?の東京2020+1オリンピアードゲームが、21日のソフトボール予選(福島)から始まった。
 震災復興の大義は薄く消し飛ばされてしまって、もとからオリンピック開催ありきの空論だったことが露呈した模様である。TV画面に映し出されるのは、平和と個人の尊厳を希求するスポーツ祭典というよりも、オリンピアードを記念する総体としてとしての“ゲーム”映像なのかもしれない。

 先週末23日、いったいオリンピック開会式ってなんだろうと思いながら、テレビ中継の画面を見つめていた。途中の各国行進は、午後八時の競技場大屋根からの花火打ち上げ直後から始まり、聖火台への点灯に至るまでを見たが、それは深夜日付けが変わろうとする時にまで及んでいた。
 行進時間が二時間に及んでしまったのは、ソーシャルディスタンスに配慮したうえに、入場後のJOCとIOC両会長式辞がひたすら長かったためだ。その演説内容が翌日の報道では殆ど取り上げられていなかったのは皮肉である。

 一般観客不在のなか場内で選手行進をむかえるのは、IOC関係者と各国要人、オリンピック組織委員会関係者、報道関係者に限られていたから、どんなものだろうと思っていたら、テレビ中継のアングルもあるか、客席配色の妙もあったのか、空席はさほど目立たない様子。やはり切り取られた画面構成の中では、見えていないもの隠されて伝わってこないことが多いのだろうか。開会式中継映像からみえてくるものは何か。

 行進が始まる前のアトラクションが見もののはずで、フィールド全体が白い大舞台兼スクリーンとなり、MEISIAによる日本国歌独唱のあと、大屋根からのプロジェクター映像と次々に繰り出される集団演技、ピクトグラムや伝統芸能をモチーフにしたパフォーマンス、ダンス、コントなどでつながれる。主な出演者は、真矢ミキ、なだぎ武、森山未來など、いったいどのような視点からの演出と人選だったのかというと「ダイバーシティ&インクルージョン」。要するに多様性と包括・抱合という標語に行きつくのだそうだ。インクルージョンを「調和」(英語だとハーモニーか)とした報道もあるが、正確ではないだろう。
 新型ウイルスCVID-19感染症が収束しない状況下での開催は、これに寛容と不安への忍耐力を加えたい。

 舞台の場面転換ではあらかじめ用意されたTV中継用の映像が流され、劇団ひとりと荒川静香のふたりが演じるテレビスタジオブース内から、現代東京の都市シーンがつぎつぎとコマ送りで映し出される。オーケストラ演奏シーンの収録舞台はサントリーホールだったが、本当は東京文化会館のほうがふさわしいだろうに。そうかと思うと海外四人の著名シンガー(日本では一般的に知る人は少ないだろう)がジョン.レノン&オノ・ヨーコ共作(とされる)「イマジン」を歌いつないでいく。悪くはないのだが、前後のつながりからすると、どうして東京大会で流されるかというやや違和感がする。
 アトラクションクライマックスは、市川海老蔵演じる歌舞伎「暫」見せ場と上原ひとみのジャズピアノのコラボレーション。この二人なら国際的な知名度からして、欧米を意識したプログラムなのだろう。伝統と現代の融合を意識した組み合わせだが、いささかこれも唐突な感じが否めない。

 そうしてギリシャから始まる各国行進が、人気ゲーム音楽の流れるなかで二時間近くも行われ、選手宣誓、JOCとIOC会長の式辞、天皇の開会宣言、いよいよの聖火入場とつながっていく。初めて知ったことだが、聖火というのは日本語の意訳であって、そこに崇高な精神を込めようとした意図が伺われる。オリンピック憲章では、単なる“オリンピックの火(ファイアー)”とあるから、こちらのほうが余分がそぎ落とされて潔い。
 白いひだが数段にせりあがった聖火台は、富士山容をかたどったものと説明されていた。やはり日本人はそこに聖なる象徴を見出したいのだろうか。その山頂のうえにあるホワイトの球体がゆっくりと機械仕掛けの百合の花のように開いて、中心から点火台が姿を現すさまは、まるで受粉行為のようでもある。そうすると最終聖火ランナーに選ばれたテニスの大坂なおみは、さながらチョウかミツバチなのかもしれない。(後日談:大坂選手はその後の予選試合三回戦で敗退し、ミツ=栄誉を勝利で飾ることができなかった。)

 そうこうしていると上空には、2000機ちかいドローンが描いたという光る大きな地球が浮かび上がって、ふたたび大屋根からの打ち上げ花火が派手に夜空を飾ると、ややあっさり、唐突という感じで予定より時間延長された2020開会式中継は終わってしまう。実際の国立競技場内は、無観客だったぶん、ことが済んでしまえばその不在が顕在化してしまい、余韻を残すことなく選手たちもそそくさとバスに乗り、有明の選手村まで帰路につかざるを得なかったのではないだろうか。

 ともあれ、首都圏を中心とした二週間あまり、オリンピックの夏が始まった。パンデミック下での映像と配信によって記憶される若者世代主体のスポーツ祭典が、観客不在のなかで歴史に刻まれようとしている。

追記:この開会式経費は当初の91億円から、簡素化されたとはいえ延期にともなう増加費用もあり165億円に上ったと報道されている。そしてその制作は、組織委員会からの委託で電通が契約窓口となり、請け負ったという。

 


水無月も去り行く時季の紫陽花かな

2021年06月30日 | 日記

 六月晦日の今朝、一年の半分が過ぎていくことになる。それなのに相変わらず新型コロナウイルス感染症の状況は収まらない。
 ため息とあきらめの中で、来月開催されるであろう東京オリンピック2020に向けて、聖火リレーの工程は予定通り行われ、準備は“粛々”と進んでいるようだ。都内千駄ヶ谷の新国立競技場周辺では、交通規制が敷かれて夜間照明灯が煌々と輝き、開会式のリハーサルが繰り返されているという。

 去り行く六月を振り返ってみる。
 まずは映画について。新百合ヶ丘の川崎市アートセンター、5日「アンモナイトの目覚め」(2020年、イギリス)、一週間後の12日には「椿の庭」(2020年、日本)。
 前者は監督・脚本フランシス・リー、長編二作目ということだが秀作に違いない。19世紀のイギリス南西部、鄙びた海辺の町を舞台にした二人の女性どうしの秘めた物語、聖と生と性について。タイトルが意味深だけれど、期待を裏切らなかった。はたして何にどのように目覚めたのかは、映像に向き合ってみて知ることになる。
 上田義彦監督の「椿の庭」は先月末に観たものの、もう一度。相模湾を望む葉山の高台にある日本家屋が舞台で、夫を亡くしたばかりの主人公絹子、亡くなった長女の遺した一粒種の孫、その名も“渚”、次女陶子の三人によって織りなされる物語、四季折々の情景が美しい。要所にブラザース・フォアの歌う「トライ・トウ―・リメンバー」が三度流れて、失いゆくものの記憶に残る懐かしさがあふれてくる。

 8日は、母が訪問看護の際に新型コロナウイルスのワクチン接種を受けた。どんなものかと立ち会ってみたが、行為としては普通とかわらぬもので、当たり前すぎてこちらがやや拍子抜けしたくらいだった。とくに後遺症も起きなくてほっとした。二回目は来月早々に予定されている。

 13日、誘われて芹が谷公園内にある町田国際版画美術館講堂にて、新しく計画されている「(仮称)国際工芸美術館」を巡る市民団体主催のシンポジウムに参加する。
 公園全体の再整備に伴う計画案の課題、問題点についての意見交換、実行委員会の関係者として、版画美術館設計者の大宇根弘司氏がいらしていた。当時の美術館設計にあたっての意図、工夫についての説明が興味深かったが、新しい計画案が現美術館との調和を乱し、その立地とならんで、新しい導線計画にも大きな問題を孕んでいるとの説明だった。この計画案は、当初案が議会内で高額な建設費を理由に否決された後に修正案としてすすめられたものだが、残念ながら改善には遠く、その後出てきた様々な付帯する要請を受けて、“改悪”の袋小路に陥ってしまっているように思えた。そこで連想したのは、今回のオリンピック会場となった新国立競技場コンペのザハド案をめぐる大騒動だ。

 15日夕方仕事帰り、新治市民の森に隣接した小学校脇を流れる川のちかくへ、蛍狩りに足を延ばす。幼いころ、身近に触れ合えた自然発生するホタルを見にいくのは、娘が幼稚園に通っていた当時に出かけて以来だと思う。
 夏至近くになって日が長くなり、夜八時近くになって遊水地そばの森のせせらぎあたりに、舞い上がる数十匹のホタルあかりを目にする。空中に手を伸ばし両掌の中に入れて、その黄みどりがかったはかない点滅をそっと確かめながら、しばし慈しんでまた夜空に解き放つ。

 18日晴れて、久しぶりの鶴ケ岡八幡宮境内、鎌倉文華館鶴ケ岡ミュージアム企画展「ひらかれたミュージアム 坂倉準三の原点」へ足を運ぶ。旧県立近代美術館だった建物の魅力そのものを見せようという意図で、設計者坂倉の初期資料、戦前のパリ万博日本館図面、パネル写真などが並ぶ。
 お昼近く、一階テラス天井への池の水面のゆらぎ、閉じかけたスイレンの白い花、中庭から階段を上がって二階へ、かつて喫茶コーナーだったベランダからの池周囲の杜の眺め、中庭からの夏に向かう青い空の広がり。

 帰りは、広々まっすぐに海に向かって伸びる若宮大路を下って、鎌倉歴史文化交流館まで足を延ばす。かつての個人邸宅を鎌倉市が買い取って展示施設としたもので、設計がイギリスの建築家ノーマン・フォスターだ。代表作のひとつが香港上海銀行本店(1986)、その派手な外観の高層ビルにある種の暴力性を感じさせられた記憶がある。似たような外観をもって神田川沿いにそびえているのが、旧センチュリータワー(1991年、現順天堂大学院校舎)であり、これも強烈な印象を残す。その本郷二丁目の敷地は、かつてのW.M、ヴォーリズ事務所設計の文化アパートメント(1925年竣工)、戦後はアメリカ軍に接収されて将校クラスの宿舎になり、その後に日本学生会館(オーナーは旺文社、アルバイト面接で通った記憶あり)として昭和の終わり近くまで残っていた。
 さて、奥まった谷戸の敷地に、並行する三層の壁を延ばして仕切られた交流館の内部空間は、やはりバブル後期の雰囲気がする。調べると前の持ち主は、旺文社二代目オーナーの関係する財団である。さらにその前の所有者は三菱財閥オーナーだっだというから、その変遷に興味が湧くのはいたし方なし、か。背後の谷戸には横穴がいくつか穿っていて、そこはかとなく中世の残り香がする。

 21日新潟上越へ帰省。空き家となっている実家まわりの草刈り作業の立ち合いへ一泊二日のトンボ帰り。作業は翌日午前中で無事に終わり、昼前に出発して地元の曹洞宗の名刹顕聖寺に立ち寄って、日韓合邦運動に関わったアジア主義者の禅僧、三十一世住職武田範之碑に対面。それから松之山松代の山間をぬけて、六日町インターから関越道で帰路に着く。ようやく懸案を済ませて、すこしほっとした。

 24日、曇り空で時折雨粒がぱらつく天気の中、母を連れ出して近くの麻溝公園へアジサイ見物。平日の人影は少なく、まだ十分に愉しめそうだ。木立に囲まれたテーブルで一休みした際の母の注文はアイスクリームだったが生憎おいてなかった。代わりにクリームソーダを頼んで持ち帰ると、おそらく生まれて初めて食べたであろうクリームソーダを不思議そうな顔をして味わっていた。
 続く週末は、勤務先で主催する親子家族向け音楽会があった。出演は金管五重奏のズーラシアンブラスと仲間たち、午前午後の二回公演、久しぶりにロビーとホール客席内に歓声が響き渡る。

 月晦日は、ビートルズ初来日武道館ライブ(1966年6月)から55周年の夏越日、まもなく本格的な夏到来である。自家製紫蘇ジュースを飲んで乗り切ろう。


今夏、初めてつくったシソジュースは横浜市内長津田産の紫蘇。