日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

こどもの国 白鳥池と雪印牧場

2021年05月27日 | 日記

 朝から雨の木曜日、中庭の木々のみどりが濃くなって鮮やかに濡れている。二本の欅の大木が枝を広げて雨空にのびて、ベランダの先にある一本のゆずり葉にも雨粒が落ちている。
 今年になって入れ替わった葉々の重なり、みどりの色変化が鮮やかだ。葉の表面の雨粒は弾かれて集まり、しずくとなって下の方の枝の葉へと伝わっていき、軽くなった上方の葉は反動で小さく揺らぎ、落ちたしずくのほうはやがて地中へと染み込んでいく。いつもその繰り返しの中で、五月の雨は降り続けている。

 小満がすぎて大方の田んぼには、もう稲の苗が植え終えられたことだろう。JR横浜線から見える恩田川あたりに広がる田園風景を見たのはつい最近のこと、水が張られた田んぼの苗はまだ植えられたばかりで風が吹くと産毛のようにそよいでいた。

 こどもの国線で「こどもの国」を訪れるのは、昨年八月以来だ。長津田をスタートしてわずか二駅、終点のこどもの国駅から徒歩ですぐ、歩道橋を渡ってゲートをくぐると百ヘクタールの里山風景を遺して切り開かれた広大な丘陵が広がる。平日の午前中とあって訪れる人は少なく、新型コロナウイルス感染下だからなおさらのこと静寂な雰囲気がする。戦時中に陸軍弾薬庫があった当時、貨物引き込み線が正面入り口から園内まで敷かれていたという。
 その跡地が、現上皇上皇后両陛下のご成婚に際し、おふたりのご意向に沿う形で、国民からよせられたお祝い金をもとに、こどものための福利厚生施設として計画がされた。開場したのは東京オリンピック後の1965年五月こどもの日、広大な敷地は東京都と神奈川県境にまたがって広がっている。

 中央広場両側はすでに葉桜の季節、左手前方には皇太子記念館の赤い大屋根がのぞいている。その下の室内ホールはきれいに解体されてしまったが、屋外の集会施設として利用できそうだ。せめてステージになりそうな舞台くらいは残していてくれればよかったのに残念。そしてすぐ先の屋外プールは、今夏も閉じられたままのようだ。
 周遊道路からひと山越えて(意識しなければ気がつかないのだけれど)横浜市郊外と東京町田市の境を跨ぎ、白鳥湖のほうまで行ってみることにした。いい陽気にすこし汗ばむくらい、そこは森に囲まれた湖といった風景になる。足漕ぎのボート乗り場がある風景は以前とあまり変わっていないように思えた。湖畔のベンチには仲良しの父親と娘らしき一組の親子がいるだけだ。その少し離れた脇でメタセコイヤの大木が木陰を作っている。
 このあたりで一足早い昼食をとることにして、自動販売機でお茶のペットボトルを購入した。持参のお弁当を広げたらまるでピクニック気分か。座った視線の湖のずっと先には、その名の通りつがいの白鳥がのんびりと泳いでいる。ほんのすこし奥まっただけなのにまるで別世界が広がる。
 食べ終わってから湖にかかる太鼓橋を渡り、白鳥のいる先までいってみることにした。湖の奥のほうへ進むにつれて、周辺にはイロハモミジがたくさん植わっていて、いまは青紅葉のトンネル、秋になると見事な紅葉だろう。利用したことはないがバーベキューとキャンプ場はこの奥になるらしい。

 白鳥湖から離れて人口せせらぎのある方向に戻り、県境のトンネルを超えてゆく。道の両側にはかつての軍需施設遺跡として弾薬庫だった洞窟倉庫の入り口がいくつか残されている。
 そうこうして進んでいくと大きく視界が開けてきて、丘陵一帯に白い木さくで囲われた牧場地が現れた。ここがポニーと乳牛と羊と小動物のいる雪印こどもの国牧場だ。乳業メーカーである雪印直営の牧場はここだけかもしれない。前にきたのは娘が小さかったころだから、以来二十年ぶりくらいだろうか。
 さきのバーベキューにキャンプ場といい、ここが都心から30キロしか離れていない周辺を住宅地と学校に囲まれた空間だとはにわかに信じがたい気がしてくる。尾根の向こうは、日本体育大学と横浜美術大学、そして横浜市立奈良中学校があるのだから。

 まあ、せっかくだから名物の地産牛乳を使用したソフトクリームをいただくとしよう。牧地の一部を開放した芝生地の一角にミルクプラントがあって、そこで生乳を加工している。乳脂肪たっぷりのまさに作りたてソフトミルクでバニラビーンズの香りさえしない。丘のむこうにはこどもたちの姿が見えて、歓声が上がっているのどかな風景。昨今のコロナ禍を忘れそうな文字通り“牧歌的”なひと時に浸る。
 もうひとつあるトンネルを過ぎると右手に多目的広場、かつての陸軍田奈部隊本部があった場所だ。当時からの歴史を知るであろう、大きなヒマラヤ杉がそびえている。もうすこし進めば正面広場にもどって、東京都と横浜市の境を行ったり来たりしながら、これでほぼ園内の主要個所をひとめぐりしたことになる。

 ひたすら広大な郊外の里山空間、これといったモニュメント性のなさがいいのかもしれない。いざとなれば、非常時の大規模避難場所としても活かされるだろう貴重な中立的空間。まったく仰々しさがなく、消費生活からも遠く、ひたすら家族的で健康的である。貧富の差なく平等志向のもと軍事遺産を平和的に転換してみせた空間は、戦後の日本が国民統合の象徴としての天皇制度を抱き、希求してきた理想を表しているのかもしれない、と終戦76年後の夏を迎える前にぼんやり思う。

 そしてもうひとつ、すこし汗ばみ青空を見上げながら考える。二回目の東京オリンピックに関して優先すべきことは、はたしてそこにあるのだろうかという疑問だ。誰のための何のためのオリンピックなのだろう。

園内中央広場から正面入り口、長津田方面を眺める。
かつての軍需貨物引き込み線ホーム、弾薬工場跡(撮影:2021.5.25)


 うすピンク色に焼けたヤマボウシ山法師(野性種)


春めき、サクラめく日々

2021年03月31日 | 日記

 ことしの春は、上旬から中旬にかけて陽気が続き、ニホンスイセンにはじまり、コブシにモクレンと次々と花開くといった様子、なにしろ桜の開花が早かった。このあたり神奈川都市部では、ソメイヨシノ開花宣言が春分の日の20日には出されていたのだから、うかうかとはしていられない。この日は夕方に東北地方でかなり大きな地震があって関東も揺れたが、幸いなことに津波や災害事故はなかったようだ。

 ここのところ日の出は午前五時半すぎになり、日の入りは午後六時過ぎになろうとしているから、ずいぶんと日中が長くなってきたものだ。どうやら27日は「サクラの日」ということだが、駅へと向かう通称サクラ通りも、薄いピンクで満開のトンネルとなったと思ったら、早くも散りだした花びらでやがて絨毯のように敷き詰められていくのだろう。

 べランダの中庭の椿は早くから寒気の中で花をつけていたし、なんとつつじも色とりどりに咲き出しているではないか。地面に黄色い色が点在していると思ったら、タンポポの花だ。住まいちかくの中学校グランド脇の庭園花壇には、遅咲きのラッパスイセンの群生が見られる。
 その先の病院横の駅に向かう舗道を歩いていると、街路樹の西洋ハナミズキが日当たりのよい枝ぶりについた花びらから色づきはじめているのに気がついて驚かされる。さらにあたりをよく注意して眺めれば、ユキヤナギにモッコウバラの白い花や八重咲ヤマブキも咲き出し始めている。
 ほんの数日のうちにまさにあたり春めき、春爛漫の気配が押し寄せてきている。毎年繰り返される四季の情景、うかうかしていると春の勢いに取り残されてしまいそうだ。
 気持ちを落ち着かせながら、あと二週間後を待つ。わたしは信州の湖畔風景を眺めているはずだ。


街中の枝垂れ桜、舗道に咲く(2021.03.17 町田大通り)

 もう三週間ほど前になるが、新型コロナウイルス感染状況の落ち着かない中、運営に関わっているホールで、親子家族向け音楽会がひらかれた。昨年三月の予定が延期に延期を重ねて、ようやく正面玄関前の早咲きヨコハマヒザクラの濃い緋色の蕾がほころび始めた頃に、一年越しで実現したものだった。
 春めく中そんな日に限って、朝からの曇天がどんどん下り坂になって雨が降り出していた。それでも午前午後二回の演奏会を楽しみにしていてくれた子供連れの親子、家族、団体が集まってくれて、久々にホワイエがにぎわう。客席には歓声が拡がっていてうれしかったと同時になんだかとても安堵したものだ。

 ところが午後の演奏会の最中から春雷が鳴りだし、雨風がいっそう激しくなってきてどうしたものかと思っていたら、終演のころにようやく落ち着いてくれて、笑顔の来場者を送り出すことができたのだった。そうして夕方の事務室にもどると、西の方から光が射しているのに気がついた。なんと先ほどまでの雨があがって、日没直前の夕晴れになっている。
 帰り支度をして楽屋口をでると、どんよりした雨雲の残る空いっぱいをスクリーンのようにして、これこそまさしく“オーバー・ザ・レインボー”世界そのもの、その旋律が聴こえてきそうなほどの見事な虹がかかっているではないか! 
 さきほどの音楽会で高揚した祝祭感と無事終わったあとの安堵感に包まれ、そしてこれからの世の中の平穏無事に祈りを捧げるような気持ちになれた瞬間だった。


 夕暮れのオーバー・ザ・レインボー(2021.03.13 長津田駅北口)


大寒の月を見上げて

2021年01月21日 | 日記

 新年があけて鏡開き、小正月も過ぎたと思ったら大寒の日だ。日本海側は大雪になっていて、ふるさとの新潟は風花が舞っているだろうか。
 
 すこしずつ日が長くなって日没は夕刻五時まえくらい、ちょうど帰宅のころになる。日中は晴れ晴れと青い空から、夕刻の冷え込みのなか丹沢あたり山並みのシルエットがくっきりと浮かびだしている。西の空が次第に沈んだ青から白熱色へと変化して、ギリギリのところでオレンジ色に輝いてみえていた。この齢になってみて朝日の出と夕日入入りのどちらが好きかと聞かれると、夕日が山並みに隠れた直後の空風景が一番しっくりとくるように思えるのは自然のことなのかもしれない。

 まだ太陽が天上にあった正午、昼食のあとに青々とした空を見上げれば、東方向に月の影が白く浮かんで見えた。それは三日月と呼ぶにふさわしい膨らみ具合の月齢だった。日中の月を愛でるという体験も考えてみればじつに不思議なものだと思うが、趣のある月は夜ばかりのものではないだろう。
 白昼に遠い星は見えないのに地球唯一の衛星とはいえ、太陽の光を受けて月の痕跡が薄くぼうっと浮かんで見えるのは、大気が冷えているこの季節ならではのものだ。これからは瞳を閉じてもそのかたちが浮かんでくるように、もっと真冬の月に気を留めてみようか。

 昨年暮れにとなりまちの地元書店本店で本を三冊まとめ買いしておいた。年が明けてから、そのうちの「国道16号線」柳瀬博一(新潮社)と「旅のつばくろ」沢木耕太郎(新潮社)の二冊を読み終え、いまはドナル・ドキーン「黄犬交遊抄」(岩波書店)に取り掛かったところだ。
 この三冊、いずれも2020年中に刊行されていてずっと気になっていたものの直ちに購入しないで、しばらく見過ごしていた。それが年末年始の機会に読んでみたいという気持ちが高まっての納得買いだった。年末はあれこれと慌ただしくて集中できず終いだったが、明けてからは近くの喫茶店へ持ち込んだりして、読み進めていった。

 最初の「国道16号線」は、同世代の著者によるものだ。なにしろ、その16号線のすぐ近くでずっと暮らしてきているものだから、書かれている主題の多くがドンピシャ、著者の視点と重なりすぎてあやしいこそもの苦しけれ。
 取り上げている内容は、経済雑誌編集者出身らしくマーケッテイング視点からの経済分析、現代の古代からの歴史と地理、流行音楽や映画アニメを題材とした風俗分析など。第五章「カイコとモスラと皇后と16号線」では、宮中養蚕と明治殖産興業の関係を、ゴジラ映画に登場した怪獣モスラおよび16号線の前身である横浜港へむかうシルクロードと結び付けて記述しているのがおもしろい。
 ほかの細部では、80年代TBSドラマ「金曜日の妻たちへ」「南町田グランべリーパーク」「紅白歌合戦」におけるユーミンと桑田佳祐についてとりあげているのにも共感できたし、新型コロナウイルス感染拡大にともなう都市生活スタイル価値観の変化や、生命潮流についての考察にも触れていて引き出しの多さに驚かされる。もうすこし続編がありそうだ。

 沢木耕太郎国内旅エッセイ集とドナルド・キーン交友録は、ずうと読みたいと思っていた。前者は雑誌「トランヴェール」の連載をまとめたもので、なによりもタイトルとシンプルな装丁に惹かれた。章のタイトルのひとつに「朝日と夕日」があり、日常で眺めていた朝日夕日と鉄道旅をして眺めた水平線からの日の出、日の入りについて対比しながら考察して書かれた文章があって、そのほかの旅情を感じさせる数々の文章に共感したところ大である。表紙のつばくろのイラストと手書きのタイトルは横山雄という方で、装丁は新潮社装幀室による。

 「黄犬交友録」のほうは、これまた手に取るのが楽しくなる装丁だ。いまどき珍しくなった布製によるものでタイトルを尊重した鮮やかな黄色染、見出し紐も黄、表紙題字は金箔色とそろえてある。そのためか定価は、本体2600円と高め、それでも思い切って購入してしまったのは、2020年2月13日発行の初版、つまり著者の一周忌を直前にして刊行されたものだったから。
 都内西ケ原の旧古河庭園に隣接したご自宅マンションの遠景も、菩提寺である真言宗古刹無量寺境内の様子も実際に訪れてみたことがあり、文章を読むだけでその情景までよくわかるのだ。日本文学探求に生涯を捧げ、純粋で真摯でありながらユーモアを忘れなかったというお人柄が重なって見える。
 交友録のなかで興味を引いたのは、安部公房との出会いと交流である。なんと1974年の西ヶ原引っ越しのさいには、安部公房自身と安部スタジオの若手が手伝いにはせ参じたというのだ。その中には、まだ安部との親密な関係が表立っていなかった若き日の山口果林も含まれていたのだろうか?
 三島由紀夫との交流についてはすでに知られていることが多く、その衝撃的かつ自己愛的な死も含めて関心を引くところはない。その一方、谷崎潤一郎と大江健三郎との交友について、本書ではふれるところがないのは少々残念に思える。

 おしまいに「附 西ヶ原日乗」というかたちでいくつかのエッセイがあり、その最後の表題が「雨」、すきな季節と西ヶ原周辺と軽井沢別荘の緑の風景について短く美しく語っている。そしてあとがきは養子となったキーン誠己さんの一文だ。誠己さんは新潟出身で、文楽座三味線方を務めた後に帰省して家業の酒屋を手伝う傍ら、再び三味線と人形浄瑠璃にかかわっていたそうだ。その関連で新宿文化センターの講演会を聴き行き、導びかれるような楽屋における出会いから養子になるまで、そして一緒に暮らした和やかで生き生きとした日々について丁寧に記された文章が心に残る。 
 
 きょうの夕刊を手にすると大寒の昨夜、午後8時32分、「西の空に大きな流れ星である火球が現れた。上弦の月と同じマイナス10等級ほどの光を放って5秒以上光り続けた」という写真付きの記事があった。
 大寒からあけての今夜、ベランダに出てみれば、澄んだ大気の天空にその上弦の月が耀き、そのすぐ右上には火星が接近して見えている。この光景はなかなかのものであって、小さな人生におけるひとつの邂逅であろうか。
 このめぐり合わせた天体事象に巡りあうことで、いまだ猛威をふるい続ける新型コロナウイルス禍社会、未曾有の事態が少しでも好転していってくれる契機となりますように。流れる星に願いを!

 新春の江の島からの相模湾越しの丹沢の山並み。対岸は茅ヶ崎から平塚あたり。


快晴初富士を相模湾越しに望む。翌日に降って見事な冠雪となった(撮影:2021.1.10)


十月雨と金木犀 立ち止まって考える

2020年10月09日 | 日記

 十月に入ってしばらくは穏やかな晴れ間が続き、散歩の途中、中学校のわきの小さな庭園を通りかかったら、そこはかとなく甘い香りが漂ってくるのに気がついた。そこには見上げるくらいの大きなキンモクセイの木が植えられていて、目線からうえくらいの先の枝枝にオレンジがかった黄金色の小さなが花がびっしりとついている。そこからの芳しい香り成分が、鼻腔の奥の嗅覚細胞を刺激して発生した微細な信号が神経を経由し脳へと届くと、海馬は過去の記憶と照合したうえで、視覚情報とも相照らし合わせることで、まちがいなくキンモクセイの香りと認識させてくれるのだ。

 一度キンモクセイの香りに気がつくと、地から特定の像が立ち上がってきたかのように、あちこちでキンモクセイの香りが漂っていることに氣がつくようになる。ことしは、酷暑のせいでいつもより彼岸花の咲く時期が一週間ほど遅れて、ようやくあちこちで見かけ出したなと思っていたら、初夏から秋にかけて長く目を楽しませてくれた百日紅の花もすでに盛りをすぎて、後につづくのはキンモクセイの季節なのかと思う。

 散歩をしながら、ふと考えること。地球全体の温暖化が進む気候変動のせいなのか、春秋の移り変わりのサイクルが少しづつ短くなってしまっているように感じられる。変わり目の季節の余韻がなくなってきているとでもいうのか暖冬の分、夏の暑さが上昇して大気の変化が大きくなり、極端な豪雨や台風などの気候による災害が増えてきているのは、その辺りに原因があるように思われる。 
 今回はそれに加えての新型コロナウイルス騒動の渦中である。あれこれ悩まされるよりも、ここはひとつ「立ち止まって考える時間」が生まれた、と前向きにいきた。「新しい生活様式」などと喧騒されるが、そう大きく生活スタイルを変えることが求められるというよりも、せわしなく過ごしてきた暮らしや仕事を振り返ってみて、これまで見過ごしてしてきたことや気がつかずにいたことを別の視点から考えてみる、じっくり味わって深めてみることが肝要なのだろう。

 かつて読み過ごしたまま積み上げていた本を手に取ってページをめくり、棚の奥にしまい込まれた音楽媒体を聴きなおす。ご無沙汰していた交友関係を見直し、チャレンジしかけて挫折していた興味あることに取り組みはじめたり、など。いまのこころの状態に耳を澄ませながら、できる範囲の身体のメンテナンスを試みる。このさきの残された人生時間を意識して過ごすことが、これからの生き方の発動機になるだろう。
 
 キンモクセイの花は、その後の秋雨の嵐で道端に叩き落されてしまったため、せっかくの香りを愉しむ期間はさほど長くはあたえられなかった。それに追い打ちをかけるように、今週末の台風がらみの雨続き、気がつけば路面の木の植わった横の端一面が、見事なオレンジ色に染まっている。
 この台風がすぎていったら、故郷に帰省して空き家となってしまって三年がたつ実家の冬支度をしてこようと思う。週明けは、また秋晴れが戻ってきてくれるだろう。

 箱根芦ノ湖畔から望む雨上がりの富士(撮影:龍宮殿別館 2020/09/22)

 


回想遊園地としまえん

2020年09月04日 | 日記

 先月31日をもって、1926(大正15)年に誕生した遊園地「としまえん」が、94年間にわたる営業を終えて閉園した。遊園地のおわりは、それを惜しむ人々の声があいついだこともあって、巷の大きな話題として流された。
 それに先立つ8月30日、朝日新聞紙面をひらくと西武グループによる両面開き広告が掲載されていて、そこには「あしたのジョー」最後のシーン、リングコーナーで燃え尽きて真っ白になってしまった矢吹ジョーの姿と、「Thanks」の文字だけが一言と右下隅に「としまえん」ロゴが添そえられていた。
 このいささか異色の広告についてすこし深読みすれば、「としまえん」所在地は東京都練馬区向山であり、「あしたのジョー」の作画家ちばてつやが練馬区在住だったこともあるからなのだろうし、何よりも1983年に東京ディズニーランドが開園する前、「としまえん」が23区内におけるリージョナルな遊園地らしく輝いていた1970から80年代に青春を過ごした少年少女たちにとって、「あしたのジョー」に熱狂した現象は、「としまえん」の思い出ともリンクして懐かしい時代の記憶であろうからだろう。
 
 初めて「としまえん」を訪れたのは、大学受験前の夏休み講習会のあいまだったように記憶している。地方出身高校生にとって東京の遊園地といったら、後楽園か豊島園くらいしか知らなくて、お世話になっていた叔母の家が足立区だったこともあって、「としまえん」は夢の聖地のようなものだった。
 ある上京した夏休み、池袋までバスで出て西武線に乗り、練馬駅から枝分かれした一つ目の終点が「豊島園」駅だった。そこから一目散に入門ゲートまで小走りしていささか興奮しながら入園すると、広大な緑の森のなかの別世界、やや大げさに言えばユートピアが広がるといった印象だった。
 昼間は、世界初という触れ込みの「流れるプール」や「波のプール」をはじめとする「七つのプール」でさんざん戯れ、夕暮れになると野外ステージの前ですこしでも近くを狙って座席取りをして待ち、お目当てのアイドルに登場に胸を躍らせて、舞台が終わったあとの高揚感最後の締めは、ステージ後方あたりからの打ち上げ花火だった。

 恥ずかしながら、当時のアイドルだったシンシアこと南沙織のはじめてのステージに接したのはここの地だったなあ。フリーステージとはいえ、生演奏で司会者がついて、舞台上でスポットライトを浴びて日焼け姿の輝いた彼女は、ウブな田舎育ちの少年にとって、まさしくまぶしい“ミューズ”そのものだった。テレビ画面でしか見ることのなかったアイコン(偶像)が、実物として目の前に現れ動いて歌うことの恍惚感といったら。
 おそらく1976年8月だったと思われるこのステージで印象に残っていることがある。夏の情景を歌ったヒット曲や当時の洋楽ポップスを歌った中盤、聞きなれないイントロが流れてきたと思ったら、「哀しい妖精」を歌いだしたことだ。すでにドラマ主題歌「恋は盲目」で有名になっていたジャニス・イアンから提供されたこの楽曲は、ご本人のコメントによると発売前の初披露にちかいものだったように記憶している。ジャニス・イアンは「17歳のころ」でグラミー賞を受賞していて、アイドル歌手とこの組み合わせにはちょっとびっくりした。

 思い起こせば、彼女は沖縄出身のバイリンガルでもあるし、デビュー直後から「カリフォルニアの青い空」「風に吹かれて」「グッドバイ・ガール」などの洋楽ポップスを歌って、1975年にはロスアンゼルス録音のLPアルバム「シンシア・ストリート」も出していた。アイドル歌手からいよいよ本格的なポップスシンガーの道を歩んでいく可能性を感じたのもつかの間、この二年後には引退宣言をしてしまったのは本当に残念なことだった。
 最後のコンサートは調布グリーンホール、もちろん駆けつけて二階席でステージに目を凝らして聴きいった。中野サンプラザでのコンサートや赤坂プリンスホテルでのファン交流会にも参加させてもらったから、とにかく若かったんだなあ。
 引退のその一年後には、写真家篠山紀信と港区芝の高級レストラン「クレッセント」で結婚式を挙げている。それをある番組で同業の浅井慎平さんが悔しがって?「紀信、ずるいよ」のコメントを出していたおぼろげな記憶があるが、まったく同感!

 「としまえん」追想からアイドルの思い出になってしまったが、この夏の遊園地プール体験とフリーコンサートの組み合わせは本当に70年代から80年代の東京夏の風物詩だったと思う。このコンサートを口実にしてどれだけ多くの若者たちが平和な青春の思い出のページを付け加えたことだろうか!

 ところで先日のFM放送を聴いていたら、竹内まりあが夫君山下達郎と「としまえん」閉園のことを話題にしていた。そのなかでかつて夏のフリーステージにセンチメンタル・シティ・ロマンスの演奏で出演したことがあるよと話していたのを耳にして、これはぜひ聴いてみたかったものだなあと感じた。たぶん、コンサートホールで聴くよりもずっと開放的な空気感のなかで生の素顔が見れるのだから。
 かたや山下達郎は、「さよなら夏の日」が自身の高校時代にとしまえんでデートしたときの思い出を脚色して創作したものと打ち明けていて、ちょっとびっくり。また初期の曲である「メリー・ゴーランド」は、「としまえん」が舞台ではない、とはっきり断言していたのもおもしろかった。もっと都心型の実在ではない空想遊園地がモデルなのかもしれない。ちょっと乾いて突っ張った内容の曲調だから、当時のとしまえんの牧歌的な雰囲気は似合わなかったのかもしれない。
 としまえんにオマージュを捧げて「さよなら夏の日」の歌詞(作詞:山下達郎)を引用しておこう。

波立つ夕方のプールしぶきをあげて 
一番素敵な季節がもうすぐ終わる
さよなら夏の日 いつまでも忘れないよ 
雨に濡れながら僕らは大人になって行くよ 
さよなら夏の日 僕らは大人になって行くよ    
 「ARTSAN」山下達郎(1991年)より


 こども国線沿線、梨畑のうえの電線の間、満ちた月(上段)
 住宅地に残された、たんぼ風景と夕暮れ(下段) 
 撮影:2020/8/30 横浜市青葉区奈良町


こどもの国、戦後75年夏の終わりに

2020年08月26日 | 日記

 夏の終わりの昼下がり、長津田からこどもの国線に乗ってゆっくりとカーブを過ぎ、恩田川を渡るとすぐ両側には伸び始めた稲穂や梨畑といった田園地帯がひろがる。二両連結車の外側は、ひつじたちのイラストラッピング、車両内にはメルヘンタッチの牧場情景が描かれ、床にはひつじの歩いた足跡が印されている。ひとつ目の「恩田」駅をすぎたと思ったら、もう終点の「こどもの国」に到着。わずか10分二駅、ローカルでのどかな鉄道旅である。

 この日は、開園55周年を迎えた「こどもの国」を訪れることが目的だ。予定よりすこし早く到着したので正門に向かう前に、地元で評判のパン屋へ立ち寄ることにした。
 大きなショッピングセンターのさきの信号を右折してしばらく歩いた大通りに面したマンションの一角にベーカリー「パナデリア シエスタ」がある。シエスタ=昼寝、という名前のそのお店は、本当に小さな間口で、入り口上の壁面いっぱいのおおきな木製看板と田舎の民家風の白壁に木枠の窓、外にはいくつかの椅子がおかれている。工房では三人ほどの女性が甲斐甲斐しく働きまわっていた。
 オーナーが自ら栽培した地場の小麦を使用して製粉し、天然酵母手作りなんだそう。売り場に並んだパンはごつごつした風合いがあり表情豊か、焼き立ての香りが匂ってきそうでじつにおいしそう。長型ボール形プレーンタイプとくるみイチジク入りホールタイプの二個を購入。お店の紙袋が欲しかったのだけれど、持参の折り畳みバックに入れて持ち帰ることにした。

 そこから歩いてふたたび駅前まで戻り、桜並木のさきの奈良川と車道にかかる陸橋を渡ったら、こどもの国正門入り口広場である。ここの改札で見学に来た旨を伝えて入場させてもらう。
 たちまち見通しのきく、広大な緑地がひろがる。中央広場のある脇の遊歩道をしばらく行くと、木立のなかに三角錐の大きな赤色屋根が目に入ってくる。これが「皇太子記念館」で、コンクリートの土台で支えた鉄骨に掛けられた大屋根が迫力だ。形状としては、集会所か体育館のイメージである。大屋根のおかげで雨に打たれていないためか、外観打ち放しのコンクリートは思いのほか新しく見える。
 この建物が開園当初からあったかどうかはわからないが、できた時から相当に目立ったことだろう。これから改修工事が予定されているとのことで、肝心の360席あるというホール室内は残念ながら見ることがかなわなかった。

 記念館をあとにして芝生広場を下ると、そこには屋外プールのスペース、冬はスケートリンクになる。この夏プールは休業となり、そこにはこどもたちの歓声もなくガランとしている。巨大なうねるチューブスライダー出口には蓋がされていた。
 その横にある乾いた三連の水流滑り台を目にしたときに、突然四十年近く前の学生時代、この滑り台を歓声をあげて降りた自身の姿がフラッシュバックしてきて、ちょっとしたとまどいを覚えた。はたしてその一瞬の記憶のよみがえりは、この場所のものだったかも定かではないようにも思えたが、改めて目を凝らしてみるとそれはまぼろしではなく、ここでの身体感覚の記憶のものと確信できたのである。
 思い起こせば、当時は導入されたばかりで話題のスライダーチューブを初めて体験したのも、ここの場所ではなかったか?誰か友人やガールフレンドと遊びに来たわけではなく、時間を持て余したちょっと空疎な夏の一日のことだったように思える。時の流れははやく過ぎ去ってしまったのに、たまたま思いがけない淀みにはまってしまったように、突然ひとりぼっちの夏の記憶が甦ってきたのだろうか。

 過去の記憶をたどるように、さらに園内奥へと遊歩道をすすむと、防空壕のようなコンクリートトンネルと、円形古墳か甲羅のような形状のコンクリート製たたき仕上げの古びた物体が目に入ってくる。これこそ開園にあたって起用された、当時新進気鋭の造形作家イサム・ノグチがデザインした児童遊具のひとつだ。微妙なカーブのこだわりに微かにその片鱗を見てとれる(気がする、というのが正直なところ)。
 イサム・ノグチの造形遺跡はもうひとつ、その先の半分汚れて朽ちかけたような温室の通路脇の児童遊園跡の草地に残されていた。「オクテトラ」と命名されたコンクリート製遊具で、不規則に配置されて一部が積みあげられたものもある。古びてはいるものの、赤みがかった濃いベージュのペンキでメンテナンスされている。コンクリートのほうがモダンだった時代があったのだろうか?この安普請の造形が、空調の効いた美術館の中で目にする天然石の作品よりも作者のアウラをまとって漂ってくるのは、そこに半世紀以上の時間経過を重ねて見るからだろうか。

 こどもの国が開園したのは、昭和四十年(1965)五月五日のことで、さきの「皇太子記念館」の名前にあるように、ここは元田奈弾薬庫と呼ばれた戦争遺構の地を、先代平成天皇が皇太子時代のご成婚を記念して、国が建設を進めた広さ百ヘクタールにもおよぶ“児童厚生福利施設”なのだ。
 敷地全体のマスタープランは、厚生省と朝日新聞社によって組織され、その中心は建築家・都市計画家の浅田孝が担ったとある。個々の具体的な設計に際して、黒川紀章、大谷幸夫やイサムノグチをはじめとする若手グループが結成されて、意欲的な建築物や工作物がつくられっていった。その当時をしのぶことができる数少ない遺構がさきの児童遊園跡の造形物というわけだ。

 来た道をもどり、ふたたび中央広場を望む木陰のベンチにすわって、アイスバーを口にしながら涼む。そうこうしていると遠く園内スピーカーから閉園をしらせる「夕焼け小焼け」のメロディーが流れてきた。この広大な緑の森のなかでそれを聴いていると、どこかのどかでありながら幾分哀しく、郷愁をさそわれるような気分になるのは、年齢を重ねたからなのだろうか。

 こどもの国という名のたくさんの過ぎ去った時間と思い出、消え去ってしまった夢、なつかしい未来、さまざまな感情が織り交じって、緑滴る地上に押し寄せてくる。
 戦後75年、蝉しぐれ夏の終わりのひとときに新型コロナウイルス禍収束と平和の続くことを祈る。

児童遊園地跡「オクテトラ」 造形デザイン:イサム・ノグチ(1965年)


薫風玄鳥去る季節

2020年05月31日 | 日記

 静かな脅威が日本社会、おおきく眺めれば世界文明の臨界域に近づいているような世の中だ。

 一連のウイルス禍騒動は、不安に駆られた膨大な情報の拡散により、被害者意識の拡大とそれに相反するような過剰な正義意識による自己防衛反応を増大させた。その末に人間社会の奇妙な静けさを生み出し、一瞬の思考停止のあとに忘れかけていた3.11大震災による自然災害と放射能汚染の惨劇の教訓を引き出してくれたかのように思える。それにしても人間の災禍の記憶は、どうしてこうも忘れられやすいのか。

 経済活動の一時的停滞のあいだ、皮肉なことに大気汚染と地球温暖化の傾向は収まり、これまで痛みつけられっ放しだった自然が新緑の深まる季節に大きく深呼吸して、息を吹き返したかのようだ。とするとこの禍は、人間社会の業(ごう)が引き起こした自然破壊による環境不調和から、地球生態の恒常性を担保しようとする動的平衡作用が働いている過程なのかもしれない。

 五月最終週の二十五日、皇居内の生物学研究所のわきにある二百数十平方メートルの水田では、昭和天皇の代に始まる田植え作業が行われた。五月晴れの空の下、長靴、長袖シャツに紺色ズボン姿の天皇は、うるち米ニホンマサリともち米マンゲツモチの苗計二十株を植えた。田んぼの広さからいえば少なすぎる株数だが、これはやはり農耕文明を象徴して天下泰平五穀豊穣を祈念する儀式なのだろう。
 遅れること四日同じ週末の二十九日、こんどは皇居内紅葉山御養蚕所で、皇后が蚕に桑の葉を与える「御給桑(きゅうそう)」を行われた。養蚕所の部屋には障子戸で仕切られていて、洋装姿のマスクをつけられた皇后雅子さまが、テーブルの上におかれた八、九センチに成長した蚕たちに、ざるに入った桑の葉を丁寧に与えていかれたという。こちらは“衣”の象徴である絹糸を生み出す養蚕に御意を表しての儀式であろう。用意された新緑の桑の葉も、皇居内の桑畑で大切に育てられたものだろうか。千代田区千代田1-1は、ミステリアスな迷宮空間だ。

 戦後になってからの恒例の儀式が、ウイルス禍騒動のさ中にある大都市東京の中心にある閉じられた広大な緑の空間のなかで、こうしてひっそり行われることに眩しいくらいの現代的象徴性があるように思える。稲作も養蚕も、人類が定住生活様式のなかで選択的に自然のなかから見出してそだてあげてきたものだ。かつては、日本中の里山の農家あちこちで稲作と養蚕は行われていて、日本人の暮らしと自然はおたがいの領分を必要以上に侵すことなく、親密性をもって成立していた。その営みは、昭和の時代の中頃、東京オリンピック前後の幼いころの記憶の中にもわずかに残っている。

 はたして天皇と皇后のおふたりは、大都会の真ん中の緑滴る迷宮のなかで、どのような祈りを捧げながら二十株の稲の苗を植え、蚕たちに桑の葉を給されたのだろうか。 


都県境の尾根道を下った小径(青葉区奈良町 撮影:2020.5.25)
 


五月の始まり、八十八夜

2020年05月01日 | 日記

 世の中のウイルス騒動は収まりを見せない。四季の移り変わりは滞ることなく、緑の芽吹きは濃くなり陽が長くなって、五月薫風八十八夜を迎えた。まもなく立夏!を迎えることになり、これからは花冷えに替わってぐんと暑くなる日が増えるだろう。
 そんな令和二年五月一日である。昨年の今ごろは、平成から令和の代替わりでなにかと祝祭気分で。元号の出典となった万葉集やゆかりとされる大宰府がもてはやされていたのにすっかり様変わり。一周年をむかえてもほとんど話題に上ることなく、はるか昔のまぼろしのようにすら思える。カップ麺ですら、令和元年赤だるま仕様のパッケージで発売されていたというのに。



 いったい昨年はなにをしていたのだろうかと思い返してみると、四月末日と五月二日が国民の休日となり、土日祭日とあわせると十連休の最中だったのだ。勤務場所が変わって通勤距離が短くなった分、自宅からの所用時間が近くなった。世の中の動きと連動していたわけではなかったけれども、連休前に空き家となっている実家の冬支度を解くために新潟に帰省し、連休のはじまりには浜松天竜への秋野不矩美術館と茶室めぐりの旅へ、そして連休の締めくくりは、母の米寿祝と叔母の誕生祝いで箱根湯本旅行へと出かけていたのだった。
 
 ことしも同じように帰省を予定しているのだが、すでに延期して当面はできそうにもない。在宅勤務が多くなって、事務所への出勤は週三回程度になり、この先の見通しがなかなか立てづらくなっている。
 何度か事務所まで自家用車で通うことがあった。わずか二十分くらいの走行時間にすぎないのだが、16号線を超えてしばらくして境川を渡り、成瀬手前の見晴らしが開けるあたりのことだった。ゆるい起伏のある地形の住宅地が広がるむこうに、事務所棟に隣接した二十八階建て高層住宅タワーが突然ランドマークのごとくぐんと現れて、あらためて新鮮な驚きを覚えた。
 また帰り道、西方向にむかって車を走らせていたら市街地建物群のむこうに、まさに沈もうとする燃えるような夕日が大きく目に飛び込んできたことにも感動した。思わぬあたらしい発見があり、ふだんのまちの風景が違って見えてくる不思議さ。これらは、期せずして日常とすこし生活スタイルがずれて視点が変わったことの効用かもしれない。

 そんな昨日、となり街の奈良川源流を探す小さな冒険に出かけた。玉川学園キャンパス裏手側に残された小さな谷戸があって、周りに住宅地が迫っているなか、そこにはわずかながら田園風景がのこされている。
 車でのアプローチは、長津田から伸びているこどもの国線の終点「こどもの国駅」から先をすこし進んだあたりになる。恩田の里山風景をすぎると信号機に「奈良」という地名表示がでてきてちょっと意表を突かれる。なだらかな地、なだらかにするという意味の「ならす」からきているという説もあるが、枕詞に「まほろばの」とつけたくなるような面白い気分にさせられるのだ。もしかしたら、県境をまたいだすぐお隣の地「成瀬」も中世豪族鳴瀬氏の領地からきているのだろうけれども、もともとは平坦な里地という地理上の理由からそう呼ばれたのかもしれない。
 
 奈良地区センターさきのやや狭くなった道をすすんでいくと右手に里山、左手にかつての田んぼ跡らしき原っぱがみえてくる。小さなハーブガーデンがあってそのさきが山里田園風景がのこる一帯だ。谷戸には地元のNPO団体が保全している田んぼと柿や栗の林があって、のどかにカエルの鳴き声が聞こえ、どこか懐かしい風景が突如として出現する。どうやら奈良川源流はその奥にあるらしいことがわかる。
 右手方向は緑色鉄柵に囲まれていて玉川学園の敷地で、隣接した人家の畑のむこうに水源のひとつである奈良池があるのだけれど、こちら側からは入っていくことができない。里の民家のたたずまい、農作業小屋がいい味をだしている。山道から田んぼにつながる脇に、池からと思われる水が注がれていて、アヤメが咲いている。いまここにいること、この自然と人の営みの中で、バランスをとっている自分に気がつく。


奈良谷戸里山風景。田梳きがすんでもうじき田植え作業がはじまる。
上写真の中央奥が奈良池、林のむこうは大学キャンパス(撮影:2020.4.30)

 玉川学園敷地反対側の脇道の水路にそって進むと、奈良北団地の裏手につながるちょっとした小渓谷のような雰囲気が残されている場所に行き当たる。それから先の水路は、別ルートからきているバスの停留所折り返し地点手前で暗渠に入ってしまってたどることができない。こうなったらブラタモリ的視点でいこうと、いまは住宅地となってしまったかつての分水嶺に囲まれた最深部をたどる。うまくいけば公園となって痕跡が残されているかもしれないと進むと、それは見つかった。
 大規模マンション脇の傾斜地にかろうじて残されたさほど広くない緑地があり、奈良町大平田公園とある。その中を進むとまっすぐ石造りの水路が作られていて、せせらぎと鉄分を含んだオレンジ色の沈殿物が目に入る。この水路の最上部には人工の水たまり壺があり、その奥の地下水菅からは、ちょろちょろした湧水が導かれている。水路のおわりは暗渠となっており、地形的には傾斜からするとさきほどの小渓谷方向に流れているようだ。これはもう間違いなく、この公園周辺斜面一帯から染み込んだ水が湧き出して水源となっているに違いない。その証拠に、水壺のさらに上の通路脇からは水がしみ出し、目視できる湧き出しの最初にあたるようだ。
 ここからいくつかの合流を重ねてまとまり、長津田のあたりで鶴見川につながっていく。東京湾にそそぐ支流のひとつのはじまりはこんな感じなんだと、川の流れが人生のようでそれを目の当たりにしてちょっと感動した。

 ものの始まり、起源を探ることはじつに興味深いが、ときに玉ねぎを剥くようにがっかりすることも。それでも探求をやめることはできない。はたして芯はあるのか、それが観念ではなくて実体験として明らかになることは、そんなに多くない。そして起源は、いまの中心というよりも、普段隠れて入れ気にすることの少ない辺境周縁あたりに見出せる、というのが今回を含めたこれまでの実感だ。だから境目とキワキワは、偶然に満ちていてドキドキ、面白いのだろう。


成瀬山吹緑地へ

2020年04月25日 | 日記

 今週末から大型連休が始まった。新型ウイルス拡大の影響を抑えるために、政府や都知事から都内の企業に対しては、来月六日までのなんと十二連休の要請が出されているそうだ。まったく、やれやれである。感染防止のためであるにしても、その先の希望や明確な着地点が示されないことには、ステイ・ホームと連呼する掛け声に不安だけがあおられて、意図されない閉塞感だけが増していく。

 この展望のなさは、自ら何とかするしかない。思考停止にとどまることがないように、ちかくの成瀬山吹緑地へ出かけた。ここは東京都町田市と神奈川県横浜市の境目にあたる丘陵地だ。すぐ際まで住宅地が迫ってきてはいるが、都県境にあたる尾根沿いにそって緑地が保全され、南から西方向に大きく展望が開けている。町田市街地の向こうに丹沢大山から遠く高尾山奥多摩あたりの連なりがパノラマ舞台のように広がって、ほれぼれするような眺望だ。

 お昼ちかく、その眺めを横目にしながら犬を連れた散歩途中の方が通り過ぎていく。クルマのトランクから折りたたみチェアを引っ張り出し、草地のさきの見晴らしのよい方向に向けて、しばらく遠望を愉しもう。青空を背景にしたいくつかの雲の流れ、風はひんやりと日差しは暖かい。すこし蒸気があがってきているのか、丹沢の山並みのむこうに望めるはずの富士の冠雪を拝むことはかなわないけれども。

 それでも近郊の市街地を俯瞰するむこうの視界の広がりは、ほんとうに素晴らしい。近くににラッパ型スピーオーを模したような横長のオーディオテクニカ本社、成瀬駅あたりの高層都営住宅棟、その先に小田急町田駅周辺のデパートが確認できる。西成瀬の方向に見えるウコン色屋根集合住宅は、メゾネット型低層賃貸マンションのロイヤルタウンである。こうして俯瞰すると思いのほか送電線鉄塔の連なりが目につく。それだけ住宅地化されるほんの少し前までは、典型的な“のどかな郊外”だったのだ。
 わきの坂道をそろそろと下って成瀬街道へとでる。町田方面にむかって恩田川を渡るときに左手に見えたソメイヨシノの並木は、もうすっかり青々とした葉桜とかわり、右手の方向、西洋ハナミズキの白い花がやけにまぶしい。

 やがて、白い三角とんがり屋根の特徴ある建物がみえてくる。パウンドケーキが美味しい「コガサカベイク」本店である。ここの建物は、元フレンチレストランだった時期もあったらしいが、どことなくセルフビルドっぽい雰囲気が漂う。背後の大きなケヤキの木が目印なのだけれど、最近その枝を落としてすっきりとなった。白く塗られた外壁に囲まれたレンガ敷きの中庭からショップへと入る。
 季節ものの桜モンブラン三個1200円を持ち帰り購入したついでに、久しぶりだから喫茶スペースで寛ぐことにしよう。周り階段を踏みしめて二階へ登っていくと、ひんやりとした空気がする。厚い床板と真っ白の壁、女性雑誌のグラビアページに出てきても不思議ではない雰囲気だ。もう、たぶん何度も登場しているのかもしれない。先客は一組の熟年カップルだけ、まあこれならソーシャルディスタンスは十分だろう。

 ゆったりしたテーブル配置と高い天井が開放的、音量を控えめにしたボサノバのボーカルを聴きながら、あっさり味のシュークリームとアッサム茶でアフタヌーンティータイム中、四年前のリオデジャネイロ・オリンピックの夏を思い出した。今夏のTOKYO2020は延期されてしまったけれど、はたして来年の夏には無事に開けるのかどうか。やるなら、思い切りコンパクトにして終わった後のレガシーを残してほしい。
 ひとまずは、これから五月へ向かっての予定をどう過ごしていくかのほうが大事と、そう思いなおす。

 来月に入ったら立夏はもうすぐ、新緑はあっという間に濃くなっていってしまうだろう。もしかしたら梅雨を通り抜けて、一気に夏がやってきてしまうような予感がする。そうしたら、あのひとは人生暦をひと巡りして、ここにまた戻ってくる時があるでしょう。
 
 歩きながらときに立ち止まり深呼吸して、ときどき遠くの景色を眺めてみる。それは、あわただしい世界の流れに惑わされずに、自分とまわりの関係性といまここの足元を見つめるために、生きる手掛かりを得るために必要なことだから。


青空中庭の西洋ハナミズキが色づく季節。(2020.4.25s撮影)


まほろ郊外里山田園風景

2020年04月19日 | 日記

 四月半ばの週末は、田舎への冬自宅明けの帰省予定が新型ウイルス拡大騒動による在宅勤務から、引き続き思わぬ四連休となってしまった。もし新潟へ帰省できていたとすれば、今ごろは空き家となっている実家の玄関や縁側の羽目板をはずして、家周りと庭先の伸び始めた雑草に呆然として立ち尽くしてしまっているだろう。
 もう、母が丹精をこめて手入れをしていたさまざま植物や土手の芝サクラはほとんどダメになってしまっているだろうし、屋根の軒先玄関や板羽目の痛みも進んでしまっているだろう。その昔、四十数年前に田舎を出てのうのうと暮らす“やわな”都市生活者には、厳しい現実が突きつけられている。

 昨日からの激しい雨と風がやんで、朝から晴れ上がり大きく青空が広がる。家にこもっていても気持ちが滅入るばかり、と言い訳はともかく、気分転換に外に出てみたくなって、となり街郊外の新しく開かれたばかりの自然公園へ出かける。
 車で三十分ほど、鎌倉街道を進んで市街地が途切れた里山風景の残るあたり、“四季彩の杜(しきさいのもり)”と今風にネーミングされた場所へと到着する。前からある地元の名勝地薬師池公園に隣接した、畑と山林が混在する丘陵地の原風景をなるべく残して整備されたところだ。街道に近い駐車スペースは、かつてゴルフ練習場のあった跡地である。

 駐車場を降りると、丘陵の上がり具合にあわせたように黒塗板壁のあたらしい平屋建物が五棟連なって点在する。ビジターセンター兼地産農産物販売所にレストランや休憩所といった用途だが、このウイルス騒ぎでオープンが延びている。丘の上に向かってジグザグに遊歩道が伸びていて、植栽されたばかりの幼木林をぬけると頂上の芝生広場にでることができ、一気に周囲への視界が広がる。この気持ちよさといったらなかなかのもので、この季節は爽快感きわまりなく大きく背伸びして寝転がって体全体に光線を浴び、青空と対面してみたい気分に駆られる。

 南東方向の丘には、中世の教会みたいな市立児童体験型施設であるひなた村のレンガ壁とカリヨンつき銅拭きとんがり屋根が望める。ここは日帰りの野外キャンプ場に小さな劇場もあって、なかなか素敵な建物である。
 視界の反対側は、両脇が新緑の自然林と一面の黄色に染まる菜の花畑だ。尾根の林の向こうは、もうすぐに住宅地が取り囲む。この新しい公園が拓かれたことで、尾根沿いに残された緑地と里山がつながって、まるで箱庭のように気軽に森林浴ができる回遊性遊歩道として楽しめるようになった。これにくわえて住宅地に残された最大の里山である七国山緑地とぼたん園に隣接する民権の森、ファーマーズセンターのある北園地をつなげてみれば、東京郊外でも有数となる自然と農作地と住宅地域共存型の田園地帯が成立するのではないだろうか。

 このあたりを巡れば、しばし日常から抜け出して手軽に数時間で田園風景を楽しめる。風が吹き抜けるなか、人の暮らしと自然の関係を確かめて実感することができる。いま人間社会で起きていることに、すこし距離をおいて歩きながら静かに考えを及ぼすことができるだろう。

 付記: 帰路に着こうとして公園のわきをぬけると反対側の高台に上っていく坂道に、ウイルス騒ぎが鎮まるようにと深い祈りの言葉が掲げてある。カソリック教会なのかと思って表札を探すと、なんとマリアさまの名を冠した修道院の名称が目に飛び込んできた。少し離れて眺めるとと丘の上には、白壁に赤い屋根の清楚な建物が並び、すぐ周りは住宅地に囲まれている。俗世界を離れた修道院のイメージから連想されるように、ほんの半世紀少し前まではこのあたりは、のどかな農村地帯だったはずなのだ。そしてすぐわきの小さな河川は、湧き水が流れ込み小魚が泳ぎ、春にはチョウが舞い、夏にはトンボたちが飛び回り、幾匹もの蛍たちがほのかに光瞬いていたに違いないだろう。


 薬師池公園西園(撮影:上2020.04.17、下04.19)

手前の踏み固められた道は昔からある稜線の山道。宅地がすぐそばに迫る。
森からはウグイスのさえずり。