日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

亥年初春小寒七草

2019年01月07日 | 日記
 平成三十年目の新年睦月、昨日の小寒はさすがに冷えこんで寒かったが、きょうは穏やかな日和がもどってくれた。すこし遅めの朝食は、家人がつくってくれた七草粥に、新潟村上市から取り寄せたトチモチをいれていただく。亥年は干支の最後、平成最後の初春にこうした平凡な正月を過ごせることに幸せを感じる。

 ふりかえると昨年大晦日の暮れは仕事で遅くなり、帰ったときにはNHK紅白も終盤あたりで、松田聖子のメドレーに間にあう。氷川きよしにつづいて、椎名林檎が着物姿でシュールな歌声を披露していた。
 そのあと、ユーミンがリクエストを募って歌っていたのは、デビュー曲の「ひこうき雲」(1973.10)と「やさしさにつつまれたなら」(1974.10 アルバム“ミスリム”から)。これは二曲ともなつかしの70年代前半、平成前の昭和時代のメロディーではないか。ほぼ同時代人としては、いたく共感!する。かわっての星野源でまったりとしたあと、話題の米津玄師の姿を初めて目にしてその歌声を聞いた。ゆずは、原点に返っての弾き語りだったし、石川さゆりの「天城越え」では、琵琶、筝、尺八の邦楽器と布袋寅泰のギターが共演してなんとも豪華だったなあ。トリの嵐のステージのバックには、ここ数年の災害地を訪れた映像が流れていた。もう嵐はアイドルの域を超えて、社会的な存在になっているなと思う。

 そしてラストは、サザンオールスターズの「希望の轍」(1990)、これって映画「稲村ジェーン」のなかの曲で、JR茅ヶ崎駅の発車メロディーとしても流されてる。つづく「勝手にシンドバッド」(1978)では、ユーミンとの予期せぬ?掛け声とダンスの共演で大盛り上がり、全出演者をバックにしたお祭り騒ぎ、桑田流大暴れエンターテナーぶりでおおいに楽しませてくれた。スカッとして、平成ラストのなんでもあり紅白にふさわしかったのではないだろうか。

 新しい年も元旦が仕事始め、初詣は三日の家族ぐるみの江島神社行き。この日も穏やかに晴れ渡っていた。片瀬江の島駅をでて境川を渡り、国道134号線地下道をくぐると弁天大橋へとつながる。右手相模湾のむこうに丹沢箱根の山々と冠雪を被った初富士が望める。山頂に白雲がかかっているけれどもひときわくっきりと。やっぱりこの風景を眺めると、旧年はあれこれあったけれど、ようやくいつもの新年をむかえることができたなあ、って思うのだ。
せまい参道両側にひしめくお店をひやかし、竜宮城のような門をくぐり、辺津宮、弁天堂、中津宮とすすんで上りきれば、頂上ひろばのあたり。いっそう富士の姿が迫ってくる感じで、パノラマ世界のように風景が転開していきあきることがない。
 少しアップダウンして奥津宮まで参ったあとは、いつもの江之島亭、窓際のお座敷でひと休みする。相模湾のむこうは弓状にのびる湘南海岸と街並み、そのむこうの蒼い幾重の山並み、そして富士山の秀麗としかいいようのない姿。いまの箱根駅伝復路はどのあたりだろうか、これぞニッポンといった変わることのない情景を目の前にして、一献を傾けるのはしみじみありがたいなあ。

 年々歳々日々是好日、いい歳にするさ、地に足つけて穏やかにいこう。


 弁天橋からの相模湾、湘南平、丹沢箱根富士(2019.01.03撮影)

 初春碧天空に河津桜一輪

秋、「大地の芸術祭」の里を巡る

2018年10月31日 | 日記

 深まる秋の季節、先週初めから三泊四日でことし四度目となる新潟へいってきた。これまでの記憶を辿ろう。

 前回、関越道を湯沢インターでおりたら、国道17号線をしばらく十日町方面へむかい、国道353号線と交わる地点を左折して十二峠を超え、十日町市域に入ったら、国道117号線を信州方面へ下り、しばらく走って飯山市郊外にある友人宅へと立ち寄ったのだった。
 東京生まれのその友人は、数年前に相方が古民家を求めてさきに田舎暮らしを始めていて、月一くらいで“通い夫”を続けているようで、その暮らしぶりを確かめたかったのだ。久しぶりに再会をはたし、ふたりとも元気そうで、この往復暮らしにもすっかり馴染んでいるようだった。たくさんの野菜をお土産にもらって、夕方薄暗くなるころに関田峠を越えて、新潟県上越市市域へと抜けるはじめてのルート。

 そしてこのたびの帰省は、実家の冬支度が目的だった。関越道を越後湯沢インターでおり、最初の峠をくだった353号線が117号線へとぶつかり、旧中里町と津南町の境である清津大橋を渡ったところからすぐのT字路で信濃川を縦断し、また峠をしばらく上って松之山をぬけ、池尻交差点でいつもの253号線へ合流するというルートをたどった。
 なんどかの異なった往復のおかげで、越後妻有と呼ばれる「大地の芸術祭」地域の約半分をようやく実感することができた。そこには、長野の奥地から日本海にむけて信濃川が流れ、その両岸の広大な山並、丘陵と里山のフィールドに、古代からの営々とした人々の暮らしが累積している、
 それにしても東京23区よりもはるかに広い地域(約760平方キロメートル)だけのことはある巨大なアートフィールドだ。でもこのスケールの前提は、2005年に予定されていた地方市町村合併を見据えた1996年にはじまる新潟県の地域政策のなかの広域活性化事業としてうまれたものだ。そして第一回芸術祭がスタートした2000年当初、いったい誰がこれほどの成果を予想できただろう!
 それ以来、三年おきの開催を重ねて十八年、それまで全国の中で前例のなかった現代アートによる“地域創生”の先鞭をつけた大成功例として、今に至ることになる。そのフィールドを巡る中で、これまでの蓄積と変化を実感しながら、過去の記憶を呼び覚ます道行でもあった。

 今年はとうとういうべきか、ようやく時期が熟してなのか、この地域随一の自然名所、清津峡観光トンネルが改修にあたってアート作品の場となり、会期中は空前の人出を呼んでいた。
 それが過ぎてまもなく迎える錦秋の季節をまえに、訪れた平日午後過ぎの駐車場は、行楽シーズンとはいえ満車の入庫待ち、なんと観光バスが七台も並んでいた。道中のスノーシェッド(雪よけ)や峠を越える際に出現する長いトンネルを抜ける視覚体験ですら、旅人を非日常の感覚にさせてくれる。

 ここの川岸の柱状節理の岸壁を眺めながら、ゆったりとかけ流しの温泉に浸かり、色づく自然植生のグラデーションを眼の保養とするひとときは、ほんとうに得難い痛快な気分だ。
 くわえてこのたびは、松之山から松代に入る池尻交差点脇にたつ、いつもは通り過ぎるだけだった、巨大なサイン塔「ステップ・イン・プラン」へ、はじめて立ち寄ってみた。ここは何度も眺めていたのだが、いってみてはじめてここが展望台を兼ねていることを体感して、夕暮れ前の西方が光るころだったせいか、極楽浄土から里山情景を俯瞰するような不思議な気持ちになる。

 さあ、もう小一時間も山中を走れば、なつかしい生家に到着する。その前のイントロダクションとしては、この情景はかなかないいものに違いないだろう。


 松之山と松代の境にたつサイン展望塔とポケットパーク、テキストデザインは浅葉克己。
「ステップ イン プラン」2003年(ジョン・メルテリング/オランダ)撮影:2018.10.22


 曇り空と人工池の中に描かれた青空の対比に何をみる? 十日町市キナーレ中庭のトリックアート。
「パリンプセスト」2018(レアンド・エルリッヒ/アルゼンチン)撮影:2018.9.22 


 「日本に向けて北を定めよ 74〝33`2〝」(リチャード・ウイルソン/UK)撮影:2018.9.22


秋深し 沿線秋桜華

2018年10月22日 | 日記
 秋が次第に深まってゆく。昨夜は旧暦九月の十三夜、東の空に上弦をすぎた月、ひときわ明るく輝くのはアルタイルだろうか。紅葉狩りの季節、まもなく霜降の候となる。今日からしばらくの帰省、故郷の新潟は、これから冷え込みが厳しくなるだろう。
 
 今朝はさわやかに腫れ上がって、すこし暖かくなるみたいだ。明日も晴れ予報、冬支度には貴重な晴れ間である。あちこちの庭先の柿の実がつややかに色づいて鮮やかだ。大山の山並が青青としてくっきりと連なって見える。
 私鉄線路わきにコスモスが揺れていた。青空と雲を区切る電線が五線譜のように走る。そのメロディにのって季節はすぎてゆく。


 

スマホの偶然

2018年09月18日 | 日記
 長い間、といっても五年ほどにすぎないが、愛用してきたスマートフォンを新しい機種と交換することにして、ついでに通信サービス会社も料金の安いところに変更することにした。新しいスマホは、ワイモバイル京セラ製の深いライトブルー、本体の厚みが少し薄くなった分、液晶画面がひとまわり大きくなって、シンプルとうたいながらもかなり機能がふえている。
 そのスマホは、インディゴブルーのスエードの手触りそっくりのポリウレタン素材、COSMOというブランドの二つ折りカバーにセットされて、机上のパソコンの横に置かれている。丈夫そうな造作、色合いと指に触れた感触が、昔から使っていたみたいにとってもなじむのがいい。ちなみに、Hamee株式会社というその製品の企業所在地は小田原市栄町2-9となっていて、これもお気に入りの理由のひとつ。

 さて、機種変更に伴ってメールアドレスも変わることになったのだが、まずは古くからの友人たちへその旨を知らせようと思っていたその夜に、ふるさとの中学時代の友人からスマホに最初の電話が入ったのには正直驚いた。なにしろ卒業以来、その同級生からわざわざ電話をもらうことがはじめてだったのだ。その用件は、今年11月にあらたまってふるさと同窓会を開くから都合はどうかというもので、これまたびっくりした。なにしろ中学卒業以来すっかりクラスメートとはご無沙汰で、同窓会が開かれていたのか知る由もなかったし、ほとんど気に留めることもなかった。それがスマホを変更したその日の夜、四十数年ぶりに連絡があるなんて驚き以外のなにものでもなく、スマホ変更の効用なのかもしれないと思った。電話をもらえたのは、前々回夏に帰省したときに水道開栓のことで休日対応してくれたのが、地元水道局勤務のその彼で、おひさしぶりと連絡先を交わしていたからなのである。
 そんなわけで、あたらしいスマホに替わっての初着信とその後の初メールは、その中学時代の同級生と思いがけず交わしたのだった。こんな想定外のこともあるのだなあと思いながら。
 
 そしたらである、こんどは夜中に別の友人から「メルアド変わった?」とメール着信があることに気がついた。メルアド変更の連絡をしようかと思いつつ、翌朝にあらためておこなえばいいやときめて、眠ろうとしていたそのときだから、あまりのタイミングにこれまた驚かされた。その九州在住の友人とは、年に数回くらいはやりとりをすることもあって縁はつづいていたのだけれど、なんとまあ偶然はつづくもので恐れいいった。
 そんなことで、赤瀬川原平の遺作集「世の中は偶然に満ちている」を思いだし、人はその偶然を引き寄せておもしろがったり、なつかしがったりするものだと思う。それが“スマートフォン”という、分割払いでなかなか高額であることを実感することのない定価65,736円、現代文明の利器をめぐっておきていたわけで、赤瀬川さんは「ある似たような出来事がたまたま同じ時期に重なったりする。そこに何の意味もないし、関係もないのだけれど、何かキラッと光るものを感じてしまう。」と書いている。
 今回の偶然がそのスマホの着信ボタンの青くピカッ、ピカッと点滅するLEDライトによって知らされたのがなんとも面はゆい、というかそういう時代によくも悪くも生きている自分をあらためて実感させるできごとだった。

 もうひとつ、スマホというか電話をめぐる偶然は続いていく。週末に家に連絡があって、それがふるさとの近所のかたからの電話だったのだ。母が体調をくずして夏に帰省できなかったことを心配しての連絡で、そこの方とは帰省のたびに顔を合わせていて、何かがあればと連絡先をわたしておいたのだが、じっさいに電話をいただいたのは初めてだった。話しているうちに空き家となっている実家のことも庭の草が伸び放題であろうことも気になり、やっぱり秋の彼岸中に墓参りに帰省してみようという思いが増してきて、まあこれもありがたいことだと思った。

 さらにそのサウダージな気持ちに追い打ちをかけたのが、日曜日に国立映画アーカイヴ相模原分館でみた「風の又三郎風のマント」(1989年、日本ヘラルド)である。宮澤賢治原作のリメイク版で岩手が舞台、田舎の小学生たちが主人公だ。画面につぎつぎと展開される豊かな自然、山山と川、里山の田圃、療養所とか川の連絡橋を渡る鉄道などをみているうちに、ふるさとの見慣れた情景がなつかしくなってきて、見終わったあとに、やっぱりこれは帰省しようと思っていたのだった。

 そうしたら、これがいまのところの偶然の最後なのだが、その映画のなかで重要なおばあ役を演じていた樹木希林さんがその日に亡くなられたいうニュースが流れてきてきたのにも驚かされた。横浜ご出身で実家が営むのは、野毛きって割烹「叶家」で、そこにへは何度か立ち寄ったことがある。
 来月公開の映画「日日是好日」は、主人公役が黒木華、樹木さんは茶道の先生役であり、横浜ロケということもあって、必ず観にいこうと思っている。こころよりご冥福を祈りたい。

 
 気がつくと曼珠沙華が咲きだしていた(撮影;2018.9.17 相武台)

目白台永青文庫 「良寛」展

2018年07月10日 | 日記
 夏の青空と暑い日差しがもどってきた平日、思い立って小田急線で新宿へ、乗り換えて目白駅前からバスに乗り込んだ。目白駅前は山手線のなかでも落ち着いた雰囲気の駅で、駅舎からしてベージュを基調とした柔らかでたおやかな印象だ。バス停からはその駅舎とJR系ホテルが見える。

 永青文庫(ここの地番は目白台1-1-1だ)の春季!展「生誕260年記念 良寛」を見に行くのは、ニか月ぶり二回目になる。五月若葉のころにでかけたときは、その墨跡に接するのが初めてで、ふるさと越後の高名な名僧の直筆に心が震える想いだった。
 見終わったあとにひと休みしようと別邸喫茶室へ入ろうとしたら、なんと玄関前で湯河原在住のはずの細川護煕氏にばったりと出くわしてしまい、「こんにちわ」と一言発したかと思ったら、秘書らしき男性を伴って文庫内へと歩んでいかれた。その悠然とした本物のふるまいに少なからずびっくり、まさかと声がでなかった。

 今回の後期展示は、良寛(1758-1831)が還暦を迎えた乙子神社の草庵時代以降の書簡、和歌、漢詩墨跡が中心で、前期にあった五合庵時代の漢詩二編大字楷書一巻や、相馬御風、下村観山、小杉放菴といったひとの作品が入れ替わっており、とくに御風の書は、良寛に劣ることなく心惹かれるところがあっただけに再会がかなわずにすこし残念だった(御風も新潟出身の人だから、いつか帰省の際に足を延ばして糸魚川にある記念館へいってみたいと思っている)。
 それにしても良寛の墨跡はよどみがなく流れ自在であり、誤解を恐れずに述べれば、「自由素朴で究極のヘタウマ優美」とでもいえようか。そこにはやはり清貧で純粋な人柄がにじみでていると思う。雪国での暮らしは辛かったことも多かっただろうが、そこから湧き出してくる喜びも大きかったはずで、最晩歳の貞心尼との和歌をとおした交流は、年齢差と性差も超えた人間ドラマを想起させる。

 永青文庫から神田川側の木立のなかをくだると肥後細川庭園、かついては旧新江戸川公園と呼ばれていた回遊式池泉庭園である。目白通り側の隣地は、村上春樹の小説「ノルウェーの森」第一章にでてくる「見晴らしの良い文京区の高台にある学生寮」のモデルとされる財団法人和敬塾、旧熊本藩主細川氏本邸だ。両者ともお屋敷跡だけに緑が深く閑静な雰囲気で、それは芭蕉園から椿山荘へと続く。小説では、主人公の僕が初夏この寮の屋上で、都会の暗闇の中にホタルのあわい輝きをみつけると、やがてその輝きは東へと飛び去っていく情景が描かれている。おそらくその蛍は、隣地の椿山荘で放たれたものだろう。このあたりのまちなみをめぐるとき、どこか都市のなかの現実から遊離したような不思議な感覚をもたらす。

 目白通りにでると、東京カテドラル・マリア大聖堂の尖塔とアルミ合金のクロス大屋根が、夏の太陽光を反射してひときわまぶしく輝く姿が目に飛びこんでくる。絶頂期の丹下健三が1960年代、代々木のオリンピック会場と同時期に設計したこの建物は、強烈なインパクトでそそり立ち、まるで宇宙から飛来して大地に光臨したUFOのようだ。


 和敬塾前からカテドラルの尖塔を眺める。手前オレンジ瓦屋根は講談社野間記念館。 



 夏空の雲が沸きだしたが如く、未確認物体の光臨。


 東京カテドラル聖堂前を通って、独協学園前から白新坂を下っていく。下りきるころに首都高速高架をくぐって新江戸川橋からバスに乗り、新宿区のど真ん中をぬけて曙橋から靖国通りを新宿西口へとむかう。都心のダイナミックな景観があれば、窪地に込み入った住宅地もあり、思いのほか街なかの緑が豊かであかるいことに驚いた。沿道途中にホワイトキューブ状の建物をみつける、話題の草間弥生美術館だ。
 新宿大ガードをくぐって、西口バスターミナルに到着、地下街エースタウンでレストラン「墨絵」の焼きたてパンを買って帰る。小田急新宿駅ホームに入ると、ロマンスカーLSEのラストランをみようと人だかり、そこに15時40分発のはこね41号が入ってくる。展望席つきの車両、懐かしいオレンジエクスプレスを捉えてその勇姿、かなりピンボケ!


(撮影:2018/07/10 小田急新宿駅地上ホーム)
 

わがまち、駅前さくら通り

2018年06月09日 | 日記
 住まいのあるこのまちは、昭和四年(1929)の小田急江ノ島線開通から、いまにつながる街並みが形成されてきた。それ以前は大山丹沢の山並みをのぞむ広大な原野がひろがっていて、明治二十年に道志川よりひかれた日本初の近代上水路、横浜水道みちが一直線に原野を横切っているのみだったという。もちろん当初は、そんな文明開化遺産の土地柄とも知ることなく、大学入学を機にこのまちに住みだしてから、早いものでもう三十八年目となった。そのあいだ線路をはさんで二度引っ越しの末、いまの住まいに落ち着いたものの、ずっと駅からの徒歩範囲に暮らしつづけて本籍もここにある。水道みちは、日々の駅を往復するさいの通勤路だ。

 住み始めた1980年の当時を振り返ってみると、まだ駅上連絡橋もなく改札をでると、小さな駅舎がひろばに面して建っていて、鄙びてのどかなものだったように記憶している。その当時、すでに大きな枝ぶりだった線路踏切脇の松の木(土地の開拓者にちなんで、千代の松と呼ばれる)と、広場に面して三本あったソメイヨシノ桜のうちの一本は、いまも残像のように生き延びていてくれる。
 当時から駅前に立つとまっさきに飛び込んでくる白亜の六階建て大型マンションは、都市郊外の生活の先端のようにあかるく輝いている気がしたし、そのマンションの一階部分と少し先の向かいには、二軒の大手スーパーマーケットがあって、日常食材や生活用品はたいていここで間に合わせることができた。また、数年後にできた駅ビルには、なんとレストラン・ジローやビッグ・シェフ、マクドナルド・ハンバーバー(後継はケンタッキーフライドチキン)、ブックメイツ、タイ料理店サワディもあってよく通ったが、いまはもうない。テナントの交代と改装後に戻ってきたのは、いまもよく利用するドトール・コーヒーショップくらいだ。三軒あった本屋さんが消滅してしまったのは、くれぐれも残念でがっかりだ。

 ふたつのスーパーのあいだのを蛇行してのびるのが「さくら通り」で、その名のとおり両側には見事な桜並木が枝を拡げていた。春はピンクの大トンネル、夏は緑陰のもとひんやりとした空間をなしていた。そこの両側は、大手企業健康保険組合が運営する病院敷地が広がっていたため、駅前そばというのにそれは奇跡的なくらいゆたかな緑の木々が残されていた。近年、その緑地帯は切り売りされて新しいマンションとなり、いまもまた原野の雰囲気をのこしていた駅寄りの敷地には、別の高層マンション建設の槌音が響いている。見事だった桜並木も空洞化がすすんだ老木が伐採されたり、舗道に架かる枝が切り払われたりで、一時無惨な状態になってしまっていたが、ようやく落ち着きをとりもどしつつある。
 この地域の医療に貢献してきた病院の歴史は、昭和28年(1953)、一般病棟と結核療養棟併設をもってはじまると知り、すこし驚く。戦後しばらくの当時は、まだまだ結核の克服が大きな医療問題であったことと、郊外とはいえ駅前にこれだけの敷地が確保できたという点において。どことなく遠い昔の療養院、サナトリウムの雰囲気がたそこはかとなくだようのはその由来からなのだろう。
 こうしておおきな区画割はそのままでも、このまちの昔日の面影を伺うことはもう難しくなっている。雨の日の外灯がともった頃、夜中の時間あたりにひっそりとしたサクラ通りを歩いているときに感じる微かな気配が、この土地の精霊が呼び戻されて物語るささやきのようだ。

 ともあれ、きょう九日は年に一度の病院解放デー「第24回健康まつり」である。ほんの数年前までは、親企業が提供していた国民的長寿アニメ“サザエさん”のキャラクタ-がでていたのに、いまはもう使えないのがちょっと悲しい。さらに言えば今回は、たまたま皇太子ご夫妻のご成婚25周年日と重なってた、あまり関係はないか。
 病院の正面玄関まえにはテントがいくつも張られて、物産市や植木市、売店コーナー、キッズダンスステージと賑々しい。ロービー内では、体力測定に健康相談、医療展示などがあり、せっかくの機会なので血管測定コーナーを受けてみた。結果は、なんとか年齢相応の血管健康度、今日の元気度?は「C」で、「体内元気度はまずまず、しかし油断は禁物。規則正しい生活ができていますか?ストレスに負けないような生活を心がけてください」とあったのに苦笑、医師のアドバイスよりもあたっているかな。こちらの院長は、整形外科で新潟大学医学部出身とのこと。
 うろうろしていたら、いつもお世話になっている主治医のN女医より声を掛けられた。普段着だとまるで学生のようで楽しそう。ふーむ、場の関係性が変わると、ひとの見え方や雰囲気も変わってみえるからおもしろい。


 健康まつり物産展で購入した岩手県釜石市製造の“国産サバ=サヴァ”缶、このシャレっ気がいい。レモンバジル味の緑、赤がパプリカチリソーズ味。「干しイサダ」とは、節足動物オキアミの仲間で。冷奴に載せて食べつとうまい。今晩ビールのつまみにいかが。

 
 いよいよ夏到来?今年初めて見かけたノウゼンカズラの赤い花。(駅前スーパー入口脇にて撮影;2018.06.08)

夏も近づく八十八夜

2018年05月09日 | 日記
 いまから一週間前の五月二日は、大型連休のはざまの八十八夜、新茶の季節到来だ。そして、四日みどりの日に続いて、五日は暦上の立夏となる。いつになく、いやますます時の流れは早さを増しつつあると感じる、今日この頃。
 
 ちょっと振り返ってみれば、先月からここに至るまでじつにいろんなことがあって、目がまわるような日々だった。
 先月末二泊三日の慌しいふるさと帰省、県境の遠い山並みには残雪がまだらに残って美しく、無人の田舎の家の庭に咲く一面のピンクの芝桜やツツジ、紅白まじり咲きの雪椿、白や黄色の水仙の花々は、ひと冬を越して、それでもあまり変わることなく健気に迎えてくれて心が和んだ。
 さっそく、庭の植木の冬囲いを取り外しにかかる。廃校となって“月影の郷”という名の宿泊施設に転用された元小学校の校庭には、親子の鯉のぼりがひるがえっていた。近くの川が流れる音、ウグイスの初音、空を素早く飛び交うツバメの姿、夜はカエルの合唱と、過疎の進むふるさとの春がいつものようにそこかしこにあふれていた。翌日の午前中いっぱいでどうにか懸案を済ませ、午後はお世話になっている方々を訪ね、夕方には春の彼岸遅れの墓参りもはたすことができてほっとする。
  三日目のお昼前、上越高田インターから入り、妙高から信州路へ、途中遅咲きの八重サクラ並木が見事だった小布施と横川で休憩に立ち寄った。横川では名物峠の釜めしをお土産にふたたび上信越道を走り抜けて、圏央道を経由して夕方に戻る。今年の夏は妻有アートトリエンナーレが開催されるので、それにあわせてまた帰省しようと思う。

  
 五月にはいって公私もろもろようやくひと息つけた先週末は、ちかくに暮らす母を囲んで、ここ数年の恒例行事になった食事会を催す。このあとは、足を延ばしてちかくの里山に開かれたぼたん園へ。その日、夏日の陽気に恵まれてぽかぽかと暖かく、絶好のお散歩日和。園内はつやつやとした新緑がことさらまぶしくて、ボタンの咲いたあとの芍薬の大輪が見事だった。その風景を眺めながらのゆっくりとしたひととき、田舎育ちで花好きの母が米寿となる来年もまたこの時期、このように来れたらいいなあと願いながら、しばしの時間を過ごす。こうして四季、何気ないことの繰り返し巡ることのありがたさかな。

 そして夜は、お知り合いの方の出演されるジャズライブへと足を運ぶ。その会場は小田急沿線駅からほど近い、ホール、図書館を含む複合文化施設内一階の通りに面した周囲カラス張りのシャレた「カフェ・マーケット」。夕暮れの中、灯りがともる店内は、かの武相荘の主、白洲次郎&正子夫妻もびっくりの成熟した雰囲気が漂っていて、普段着でリラックスして寛ぐお洒落な熟年でいっぱいである。
 ステージのほうは、ピアノ・ベース・ドラムス・ギターにテナーサックスのアコースティック中心編成の熟練クインテット、スタンダードばかりのオーソドックスな演奏は、当日の会場にぴったりだった。

 帰り道、駅近くに喫茶レストラン・ジロー“Giraud”のベーカリーがあったので、翌朝のパンを買い求めた。かつての“Giraud”は、お洒落なイタリアンレストランのイメージ、学生当時のあこがれが蘇ってきて、ひたすら懐かしいのだ。一時このブランドは姿を消していたようだが、数年前、立て続けに沿線近隣二ケ所にベーカリー専門店として復活してくれたときは嬉しかった。
 それにしても、学生時代からの駅周辺の様子を知っているだけに、ここ十数年の多摩郊外まほろ周辺の変貌ぶりは正直驚きである。それだけ、確実に自分自身が歳を重ねているのだ。

 翌日午前中、まほろ文学館ことばらんど「童謡誕生100年 童謡とわらべ唄展」へ。児童向け雑誌「赤い鳥」が大正七年に、都内目白の地で創刊されて百年を迎えたことにちなみ、当時の社会世相と小田原在住だった北原白秋とその高弟で小田原出身の薮田義雄に焦点をあてた展示会である。白秋が大正から昭和はじめにかけて住んだ小田原の伝肇寺境内に建てた、洋風三階建ての通称“木兎(みみづく)の家”の写真がなんとも興味深かった。あの城内小田原市立図書館から貸し出された資料である。
 ここで白秋は「木兎がほうほうと枇杷の木の上で啼いてくれる」と書いていたそうで、ふっとこれって、文学者と画家と違いはあるけれども、村上春樹「騎士団長殺し」にでてくる入生田にあるとされた雨田具彦のアトリエのモデルのひとつになっているのではなかろうかという気がしたからである。そこには、屋根裏に「みみずく」が棲みついていることからも連想がつながる。そんな遊びができるのも、文学の世界の自由さ、おもしろさなのかな。
 ちなみにいまでもその名ゆかりの幼稚園が存在していて、白秋作詞の「赤い鳥小鳥」が園歌なのだそうだ。こんなぜいたくな幼稚園なら、通ってみたいな。

 というわけで、カレンダーの休日をとくに意識することもなく、ふりかえればひたすら雑多なゴールデンウイークは過ぎていった。


追悼 江橋慎四郎先生

2018年04月28日 | 日記
 四月清明すぎの八日、高潔なお人柄にふさわしいこの時節に、江橋慎四郎先生が逝去された。御年九十七歳、心不全だったということだから、天寿を全うされたということだろうと思う。爽やかな笑顔とさっそうとされた長身のお姿が目に浮かぶ。

 その訃報が十四日付新聞に掲載されていたのを、複数の友人が見つけてメールで知らせてきてくれた。通勤途中の電車の中で気がつき、あわてて取り寄せた朝日新聞社会面の見出しには、「学徒出陣 代表で答辞」とあった。つねに江橋先生について語られるときに、影のようについてまわった言葉で、今回もまたかと苦笑されておられることだろう。
 ここに江橋先生との出逢いのきっかけとなった、三十四年前にさかのぼる青少年指導者大学講座と中野サンプラザでの同期の仲間との日々を思い起こしながら、遠くで感じ思いをめぐらしていたことを記し、僭越ながら大きな包容力のある存在であられた江橋先生への追悼の意を捧げたい。

 
 七十五年目前にさかのぼる昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会は、江橋先生との歴史的な運命の結びつきととして終生つきまとい続けられることとなった。そこにいたる経緯は、御本人の本意ではなかったことは想像に難くないが、胸の奥に秘められたまま長く語られることはなかったという。ようやく最晩年にいたって、なかば苦笑しながらも重い口をひらかれて、第二次大戦回顧と平和を巡るインタヴュー記事にも答えておられていた。わたしたち戦争を知らない平和な時代に育った世代の人間としては、なんとも複雑な思いを抱かされたのだった。
 いまその跡地に、二年後の2020年東京オリンピックのメイン会場として新国立競技場の建設が進んでいることは、歴史のおおきな巡り合わせだろうか。そのオリンピックについての「平和の尊さを味わうことが五輪開催の意味」「平和の重さを感じてほしい。平和を守るには忍耐が必要だ」と語られる江橋先生の言葉を静かに噛みしめたい。“相互理解”というより“忍耐が必要”とは、戦争体験世代ならではの発言だが、モノ・情報が溢れる現代社会との対極にある、きれいごとでは済まされない実感のこもった言葉だ。
 もし、先生がオリンピック開催までご健在であったなら、鵠沼在住の先生のことだから、新国立競技場はともかく江の島ヨット競技会場にまでなら足を運ばれるだろうと思う。

 その学徒出陣式において、時の首相東條英樹も訓示のために列席していたなか、当時東京帝国大学の文学部二年生で体育会総務だった江橋先生が学徒代表として指名されて答辞を読むことになったのは、宿命だったというしかなかったと思われる。なぜ、江橋青年に白羽の矢がたったのか、また会場を埋め尽くした満場の聴衆の感涙を絞ることとなった、“添削された答辞”を読み上げることになったてんまつは、正確に知られることがないまま、ただ歴史とシンクロしてしまったその激烈な映像の音声の記憶だけがひとリ歩きを始めてしまったのだ。

 数年前の終戦記念日の特集で、そのときの映像が偶然流れ、競技場を行進する学徒たちと答辞を読み上げる長身の眼鏡に学帽姿が目に飛び込んできて、一瞬でこれは!と驚きを禁じ得なかったのをいまも鮮烈に覚えている。その姿はまことに堂々としてして、異様な緊迫感ただよう大競技場の場において、あっぱれというほかなく演じきられていた。ひとりの人間の命運とは、このような一コマにより長く歴史として記憶され続けるものなのか、と。
 そして、江橋青年はこの歴史的な神宮外苑の壮行会のあと、ついに最前線に送られることなく、特攻で命を捨てることになった学徒も多いなか、立川陸軍基地をへて疎開先の滋賀県八日市で終戦を迎えられた。その当時のことを「モノ言えば唇寒し、みんな過去の話。自分は過去を背負って生きてはいない」と語られている。たしかに当時のエリートとはいえ、苛酷な運命の中で、この潔さ!

 戦後は、東大に戻られ、教育者として後進を育てることに尽くされた。当時の労働省青少年局を動かして、青少年指導者大学講座創設の中心になられたのもそのひとつであり、鹿屋体育大の初代学長としての大役を果されあとは、悠々と泰然自若の晩年であられたと思う。これも巡り合わせか、鹿屋の地は海軍特攻隊の出撃基地だった。しかし、江橋先生は「目的がまったく違う。平和を愛好する人材の養成だから」とこだわることなく、人間としての器の大きさをもって真摯にその責務にとりくまれた。
 
 江橋先生のお人柄を彷彿させることとして、学生時代のニックネームは「シャイン」だったそうだ。それは、あの包容力の溢れる太陽のような笑顔からきているのだそうだ。ご自宅に招いた後進を、早朝自転車で海岸のサイクリングロードへ誘われていたという。その理由は、爽やかな朝日を浴びて走ったあとの朝飯は格別にうまいからと、にこやかに笑われて言われていたそうだ。苦難の時代を乗り越えてこられたからこそ、平和な世に心身ともに健やか過ごせるありがたさを実感され、よくわかっておられのだろう。

 江橋先生のとりくまれたことひとつにレクレーション論とその実践があるが、「レクレーション」とは「リ・クリエーション=人生の再創造」といわれていたことを思い出す。それは、政治的イデオロギーから離れた、先生の人生論そのものでもあったに違いない。
 また、いまでも九州の友人の結婚式に来賓として招かれた先生の祝辞を思い出す。それは「人生において持つべきは愛妻と友人、よきベターハーフとなって」という、人生讃歌、エールの言葉である。
 
 仰ぎ見るばかりで、ちがう世界のひとと決めつけてしまい、なかなか心をひらいて向き合わせていただくことができなかった不肖のわが身、わが卑屈さが悔やまれます。前向きに生きていくことを身を以てお示しくださった、江橋慎四郎先生、ありがとうございました。

 この緑爽やかなよき季節、あらためてご冥福を心よりお祈り申し上げます。


まほろば三輪、里山の春

2018年03月17日 | 日記
 ここのところひと月のあいだ、春のきざしをもとめて、まほろば三輪の里山へと通い続けている。

 弥生にはいってすぐのころ、成瀬街道から鶴川方面へと走る。TBS緑山スタジオの広大な敷地横の坂を上り切ると、右手には三輪緑山住宅がひろがる。そのさきはずうと下りとなり、鶴見川のすこし手前にみえてくるのは、シャクナゲの寺として知られる見星山三輪院高蔵寺だ。室町時代の開山でこじんまりとしているがこのあたりの真言宗の名刹、その横に車をとめて歩き出す。三輪の里は農作業の準備がはじまりだし、よく手入れされた畑地一面には梅の紅白の花であふれんがばかりだった。




 畑地は、よく見ると緩やかな檀々状になっていて、中世沢山城跡の二ノ丸三の丸なのだろうか。(2018.03.07 撮影)

 それから十日後、けさの三輪の里のみたびの風景。晴れ渡った青空がひろがって、大気はひんやりとして気持ちがよい。ほのかに桜の開花を期待して、車を降りて高蔵寺の前の小道を歩き出す。
 道端には、じつに鮮やかな大ぶりの黄色の花、水仙の群生が見頃だ。さて、桜はどうだろう。濃い紅の緋寒桜はふくらみ始めて一部は咲き始めていたけれど、大島桜と枝垂れ桜はまさに開花直前だった。ここにはソメイヨシノとはまた別の種類の桜が多数生い茂っていて、それがとてもいい。前回楽しませてもらった一面の紅白の梅はすっかり散ってしまった分、つかの間の地味な里山風景にもどったかのよう。やがてあとほんの数日で、いっきに華やかな自然の生命を謳歌する情景がひろがっていくことだろう。



上の写真手前の黄色はサンシュユの花。里山は幾分気温が低く、いまがようやく花の盛り。下は沖縄産実生の寒緋桜。




 道端のミツマタと菜の花。桜が咲き始める直前、この時期、里山は黄色い花花が主役。



 茅葺古民家ギャラリー「可喜庵」。ひさしぶりに通りかかったら前庭がきれいに整備されている。鶴見川を渡って、新旧の世田谷街道沿いにある。奥のホワイト&グリーンの二階建てはS工務店事務所、ツタの絡まった北欧的な外観がいい。ここへは何回となく建築デザインの集いや工芸展示に通わせてもらって、貴重な出会いもあった。
 駅方面手前、武相荘へとむかう街道沿いの星乃珈琲鶴川店でひとやすみ。ここはたしか、前は和風スパゲティのお店、五右衛門だった。すっかり改装されて、いい雰囲気で落ち着ける。お昼時だったので、ハヤシ風味のオムライスをいただくことにした。ここで片岡義男の新作エッセイ集「珈琲が呼ぶ」を呼んでみたらお似合いだ。
 小一時間後、店の駐車場をでたあとは、せっかく近くに来たのでひさしぶりに、木版画家の畔池梅太郎アトリエにたちよる。ご自宅の庭の奥にある、山小屋風のこじんまりとした空間、いまここを守っておられるのは、娘にあたる方とそのご家族のようだ。雑誌「岳人」「アルプ」の表紙で知られる素朴でどことなくユーモラスな、かつ力強い作風。故人は四国宇和島の出身で、その風貌もあわせて、まさに山男の雰囲気を感じさせる。

 ふたたび、鶴川陸橋をこえて成瀬方面へでる。芹が谷公園脇に車をとめて、レンガ遊歩道のさきの林に囲まれた井上武吉の野外彫刻と対面しよう。大きなステンレス製の球体で周囲の緑の風景が映り込み、その真ん中には穴が開いていて林の向こうを覗けるようになっている。
 ここに設置されて三十年、日々球体の表面に移り変わる周囲を風景を映しこんできて、何を語りかけているのか。もうすこし薄暗くなってきて、逢魔が刻だ、そっと耳を澄ます。





三輪の里は移ろいの季節

2018年02月28日 | 日記
 寒かったきざらぎの日々も晦日となり、明日からはもう三月弥生の草木萌え動く季節だ。この月はじめは日中が澄んで晴れたぶん、夜が冷え込んで厳しかった。日本海側とくに北陸地方は、例年以上の大雪が降り続いていた。故郷の空き家になってしまった実家、その屋根の積雪がひどく気になっていたら、近所の方がその様子を連絡をくださったので、あわてて雪下ろしの作業を手配してもらった。

 昨晩の帰り、頭上の夜空には、全体の七割くらいに満ちてきた上弦の月が微笑んでいる。その右隣に目を凝らすと、オリオン座三連星がみえた。もう天空は、冬から春に向けての星座配置へと移りかわりつつあるなあ。
 ちかくの散歩道や庭に咲く花も、可憐で芳しく揺れる水仙、清楚で馥郁とした香りの梅と咲いてきて、いまはマンサクやサンシュユの霞のような黄色、早咲きサクラの濃い桜色が主役となりつつあるころ。

 この中旬は、ひさしぶりにまほろ郊外は三輪の里へとでかける。このあたりは武蔵と相模の境にあたり、小田急線が近いというのに、まだのどかな里山風景が遺されていてほっとする。
 車でこどもの国手前から鶴川へと向かう道をのぼり、右手にTBS緑山スタジオを見ながらいくと、岡上営農団地から一気に眺めがひらけて爽快な気分になれる。それにしても、全国放送のドラマの数々が、いまは高級住宅地ともなった、この里山に忽然と出現するスタジオで制作されているなんて、なんとも不思議な感じがしてならない。大学生時代の春休みだったか、ここでアルバイトをしていたことがあって、本社のある赤坂とを往復していたのが、ほんとうに夢のように思える。
 
 高蔵寺で車をとめて、山門からこじんまりした境内をひとめぐりする。このあたりでふたつある真言宗の寺で、よく手入れされた境内には、ここを昭和のはじめに訪れた北原白秋の詩碑がたっている。ちかくに住んでいた白洲正子の散歩道でもあったという(“鶴川の周辺” 「鶴川日記」1979年 より)。寺の向かい側は、三輪の里山景観地で美しい風景がのこっている。もうじき、しだれ桜や菜の花が咲きだすとちょっとした桃源郷といった風情があって、これまでも何度も訪れてきたけれど、いつも変わらず心がなごむのは、田舎の暮らしを思い起こさせるからだろうか。
 畑地のさきにはちいさな社の七面堂が祀らていて、どことなく中世のもののあわれ、まほろばの里のような気配がだだよう。この一帯が私有地なのであまりつまびらかにはされていないが、戦国時代の沢山城址跡なのだそうだ。とにかく静かでひっそり人知れず、といった雰囲気がよい。

 グリーンのデミオのタイヤを新調したばかりなので、弥生の花のさかりの季節に訪れよう。それももうすぐだ。


 中世の山城跡にひろがる三輪の里山風景、ここは奈良三輪とつながる。


 高蔵寺境内、弧カムリ姿の七地蔵(2018/02/17 撮影)