日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

清明過ぎて玄鳥至る花まつり

2020年04月08日 | 日記

 きょうは、お釈迦様の誕生日(旧暦)にちなんだ「花まつり」の日、さわやかな青空が広がり、よく晴れ上がった一日となった。季節は二十四節気五番目にあたる清明とまさに春爛漫のはずが、新型ウイルス感染拡大で行く先の見えない閉塞感が充満している。
 
 人命よりオリンピックの延期都合を優先させて、遅きに失した感のある政府による史上初の「緊急事態宣言」で文字通り世の中は閑散としている。だが、こうなったら嘆いてばかりはいられない。これを機会に普段見えていなかったことに注意をむけて、あたらしい視点からの発見と創意工夫をしていくチャンスでもあると発想の転換を図りたい。  
  
   ポカポカ陽気だった清明の日は、相模川べりの座架依橋たもとの河原土手の桜と見納めのスイセン畑を眺めに出かけた。風が強く吹いていて閉口したが、相模川を隔てて大山と丹沢の山並みがくっきとと見渡せる爽快な気分だった。
   帰り道、座間キャンプちかくの一軒家レストラン「ラ・リチエッタ」へ久しぶりに立ち寄ると、駐車場はがら空き、玄関で茶色のラブラドール犬が人物査定よろしく出迎えてくれていた。午後一時半すぎの遅めのランチタイム、天井の高い店内の隅の席で、ひき肉カレーセットをとった。付け合わせのサラダ野菜は、地元のものらしく新鮮でせっかくだからピザにワインでもと思ったが、ひとり車運転なのであきらめよう。  

 そこから急いで帰宅し、パソコンからYou-tubeライブ午後三時配信のズーラシアンブラス結成二十周年公演「ズーラシアンカーニバル」を見る。インターネットによる生中継ははじめての体験なので、どんなものか興味津々だったが、なんとも観客のいないホールの舞台演奏会とは不思議なものである。さらに動物キャラクターのオーケストラメンバーが並ぶステージ光景は、観客のいない客席と対比するとシュールだ。スタジオライブとも違ってカメラアングルは切り替えられても編集がきかないし、当然ながら司会者がいなければ演奏者だけでは成り立たない。それでも、生配信ということで見ても、その熱演と迫力がすばらしくて感動した。  

 今宵、花まつりは満月と重なる。中庭に面したベランダから覗いてみると、月は東の空にきっきりと浮かんでいる。朗々とした月下の夜、昨今の騒動をどう考えたらよいのだろうかという想いが募る。
 ウイルスは、細菌とも異なり無生物と生物の間に漂っている奇妙な存在である。多くのウイルスは宿主と共存しているが、ときに個体の死をもたらすということの輪廻にも似た現象は、自然界全体の摂理を想わざるを得ない。それはいわば“生命系の黙示録”=サイレントボイスと呼ぶべきものだろうか。
 静謐な満月のもとに夜桜は咲き残り、沈黙の声に耳を傾けながら、人類を脅かすかのように振る舞う新型ウイルス騒動がやがて落ち着いて(それは必ず犠牲をともなうけれども)共生していくことを願う。


  余談:清明の日のおやつは、地元のお菓子屋「松月」で求めた桜もちとどら焼きの二本立て。どうして季節ものにどら焼きの組み合わせかというと、この四日は「あんパンの日」(銀座木村屋)と並んで「どら焼きの日」なんだそうだ。だいたいにおいて加工した食べ物にちなんだ記念日は食品業界からの提案によるものが多い。案の定、こちらは平成20年に島根県米子市の菓子屋京丸製菓が公称している。まだ一般的ではないから、地元のお菓子屋さんも知らなかった!
 そのココロは、桃の節句と端午の節句に挟まれた日、カステラにあんを挟んだどら焼きを食べて幸せ(4合わせ)になろうと洒落たからという。ならばいっそのこと、この季節らしく桜餅とどら焼き、ということで日本茶で味わった和の甘味はなかなかに結構なものでした。

 
町田郊外三輪の令和最初の桜の里山風景。  
さまざまなサクラが次々とスイセン、菜の花などと競うように咲く(撮影:2020.3.30)

 
 同じく三輪、民家の裏山に咲く山桜。こんもりした土盛(墳墓?)の上に鎮魂のごとく。  


「波」と「図書」

2020年03月15日 | 日記

 先月末のこと、第三種郵便紙製封筒入りで「波」が、ゆうメール扱いビニール包装で「図書」が自宅宛て同時に届いた。いづれもA5版サイズ小冊子、年間購読は千円、それぞれ新潮社と岩波書店の読者向けPR誌である。ことし二月号から定期購読を申し込んでいたものだ。

 定期購読を申し込んだのには、それぞれにそれなりの動機がある。「図書」のほうは、新聞読書欄の一月号広告において、さだまさしと立川志の輔の対談、さらに巻頭言が佐伯泰英、新連載エッセイでは片岡義男があるのを知り、まとめて読んでみたいと思ったからだ。一方の「波」は、たまたま町田久美堂本店で無料配布を手にしたところ、永田和宏の新連載が目に留まったことがきっかけだ。
 この機会に、即席の読書人読書家ぶってみるのも自尊心がくすぐられていいかもしれないし、そしてこれがとても肝心なのだが、両冊子とも持ち運びやすく手によく馴染む体裁なのである。

 もう少し興味の内容を明らかにしたい。まずは「波」における永田和宏さんの生い立ちと歩みを振り返る連載「あなたと出会って、それから・・・・・・」(・数は掲載原文のまま)は、一月号の第一回「湖に降る雪」にはじまって、「風のうわさに母の来ること」「消したき言葉は消せざる言葉」と続く。永田さんは細胞学者であり、妻の河野裕子とともに歌人として知られるが、その人生を振り返る内容とともにひかれたのは、生まれの地が琵琶湖の西岸、湖西地方の北に位置する村と書かれていた。滋賀県高島郡饗庭村、現在の高島市新旭町である。
 琵琶湖とりわけ西岸は、比叡山のお膝元の坂本から堅田あたりを過ぎれば、かつては裏近江とでもいうような寒村地帯となり、歴史風土的にはとても興味深いところだ。ここをゆかりとする近現代の人物として、桜美林学園創立者でクリスチャンの清水安三(1891-1988)とフランス文学者である自身のルーツを探った自伝「故郷の廃屋」を書いた饗庭孝男(1930-2017)のふたりがいる。
 つながりのなさそうな三人がふるさとが同じということで結びついたことがおもしろくて、このことは改めて別の機会に記述しようと思う。

 そして「図書」一月号である。2019年十月に行われたさだまさしと立川志の輔の対談を読むと、お二人は同年二月に行われた武道館ライブで共演している仲だった。ここでは新年号にふさわしく、ふたりの恒例となっている公演(志の輔は、横浜にぎわい座の新年カウントダウン寄席のことに触れている)などについて語り合っている。岩波書店のPR雑誌を意識しているのか、社会世相との関わり、とくに震災などの災害と芸能活動の有り様、置かれた立場のなかで考えていることをお互いに持ち上げながらもけっこう真面目に吐露していておもしろい。

 巻頭言の佐伯泰英「惜櫟荘が文庫を」の惜櫟荘(せきれきそう)とは、吉田五十八設計の旧岩波茂雄熱海別荘のことで、いまは作家自身が仕事場として所有している建物だ。2012年岩波書店より刊行された「惜櫟荘だより」を読んでから熱海を訪れた際のこと、ブルーノ・タウト設計の旧日向荘の見学の後に近くだからと、本の記述と掲載写真を頼りに現地を探して尋ね歩いたことがあった。海際の崖っ淵なのに松ではなくて櫟、すなわちクヌギの木というのはちょっと植生的に意外な気がして、これは信州諏訪出身の岩波茂雄だからなのかと思ったりもした。
 駅から東方面に国道を戻っり途中から海側へと下ると、石畳のある昭和初期に分譲されたという住宅地があり、その一角をさまよいながらも、とうとう写真にある門構えを見つけることができたときはうれしかった。そこからは家屋も庭の様子もうかがい知ることができなかったが、初めての探索としてはうまくいったと思う。こちらの風呂に浸かった窓からの相模湾の眺めは、素晴らしいと聞く。今回は、続編「惜櫟荘の四季」が岩波現代文庫に収録されるに際しての感慨をつづったエッセイである。

 つぎに片岡義男といったら、かつての角川書店のイメージだから、新連載エッセイと岩波書店との取り合わせが意外だ。二月号に掲載された「ハーボのブルース」が興味をひく。片岡氏が町田タワーレコードの棚を見ているところから始まり、エッセイタイトルからその曲を収めたフィービ・スノウ「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」(1974年)の印象的な横顔ジャケットがすぐに思い浮かんだ。
 学生時代、ロバータ・フラッグ、ジャニス・イアンと並んで愛聴したアルバムであり、ポール・サイモンのグラミー賞アルバム「時の流れに」中の一曲、「ゴーン・アット・ラスト」(1975年)のデュエットも記憶に残る。たった一曲だけだったが、いつもながらポールの才能を見極めるセンスに脱帽したものだ。タイミングよくフィービ・スノウの来日公演が東京グローブ座であったときにそのステージを目の当たりにして、リズムを刻むギター、特徴のある地声裏声とうたいまわしが印象に残っている。

 この一連のエッセイ、片岡さんは玉川学園から町田への散歩中、お気に入り喫茶店である「カフェ グレ」の一角で書かれたのだろうか、と想像してみるのも楽しい。バロック音楽が静かに流れる店内で、ここのコーヒーと自家製チーズケーキの取り合わせは最高だ。この先いつか「ハーボのブルース」に動かされた片岡さんの短編小説が書かれた暁には、ぜひ手に取ってみて読んでみたい。

 というわけで、これからは通勤途中にこの二冊を読みながら、さまざまなことに考えをめぐらすJR横浜線となりそうだ。


初春の空はぬけるように青く、陽光は次第に長く

2020年02月13日 | 日記

 ここ数日、日中はよく晴れて暖かく春近しの気配はあるけれど、日が暮れると冷え込みがぐっと厳しい。

 ロサンゼルスのハリウッドで第92回米国アカデミー賞が発表されたばかりだ。韓国映画「パラサイト 半地下の家族」が最高栄誉の作品賞を射止め、韓国人ボン・ジュノが監督賞や脚本賞、国際映画賞を合わせて四冠となった。昨年のカンヌ映画祭最高賞パルムドールに引き続いての快挙で、新聞一面扱いのおおきな話題となっている。同じアジアである日本において、商業的にもアカデミー受賞は大きいニュースなのだろう。その流れに乗るわけではないが、立て続けに三度ソウルを訪れて、その社会や地理歴史・文化への関心が高まっているところだったので、この映画への興味をかき立てられしまい、機会を見つけて観に行こうと思う。

  振り返ってみると、前回2018年のカンヌ映画祭最高賞は、是枝裕和監督の「万引き家族」だったが、こちらはビデオデッキに入ったままで未見である。とにかく、新作映画に限っても次から次へと話題づくりが先行して、実際に映像作品を見て記憶にとどめ、反芻されるということが実はとても難しくなっている。

 そんななかで、2019年5月のカンヌの正式招待作品(コンペ外)として上映されたクロード・ルルーシュ監督の最新作を観てきた。タイトルは「男と女 人生最良の年代」、原題英訳は「The Best years of a life」と拍子抜けするくらいオーソドックスだ。邦題の冒頭「男と女」は配給会社がつけたもので、内容からして続編であることはそのとおり、一般大衆へのアピールなど商業的に必要と判断されたものだろう。この三文字のおかげで、53年前のカンヌで賛否両論の渦の中、パルムドールを取ったあの第一作目「男と女」の代名詞とも言えるタイトル曲の電子音メロディー、あのスキャットが流れてくる。

 それにしてもルルーシュ監督82歳、ともすれば恵まれた美男美女の恋愛メロドラマとなりかねないところを、絶妙のバランスで乗り切って変わらぬみずみずしさ、人生の肯定賛歌を奏でている!年齢を重ねることは、悪いことではなくて、経験を重ねた分、深く味わい広く地平が見えてくるのだと思わずにはいられない。新旧の映像が交互にまじりあい、演じる俳優と役柄の時間の経過が重なっているのは、まさしく53年の時を隔てて、主要なスタッフ、子役を含めた主要キャストが奇跡的に結集してできた作品だからだろう。

 とても残念なことに、女主人公アンヌの夫役、事故死してしまうスタントマンを演じたピエール・バルーが、2016年12月に82歳でほんとうに突然、この世を去ってしまった。彼は「男と女」に出演したあと、映画の相手役で今回もアンヌを演じたアヌーク・エーメとしばらく結婚していた。そして、作曲のフランシス・レイも、この映画への楽曲提供を最後に昨年亡くなっている。でも、そのふたりの面影はこの映画の中に変わらずに生き続けているのだ。

 冒頭から印象的なのは、年老いた男ジャン・ルイの暮らす老人施設を同じように年を重ねた女アンヌが尋ねてゆき、芝生の庭で再会を果たすシーンだ。前髪を書き上げる女のしぐさに、男はかつて愛して別れたひとの面影をみる。虚と実が入り混じる懐かしいような不思議な場面だ。若いころはお互いに訳ありだったふたりが、いまは年を重ねてすこし饒舌になっていて話すほどに寄せる想いがよみがえってくる。

 そして回想の中に、第一作のパリ街区を車で疾走するふたりのかつてのシーンが挿入される。粗い粒子のモノクロとカラーが交錯する前衛的で斬新な映像構成に驚く。ルルーシュはこのとき28歳だったはず。さらには五十年ぶりに再会したふたりが、パリ郊外ノルマンディの海岸までの地平を対話しながらドライブするシーンもいい。フロントガラス越しに笑顔で話すふたりの顔に道両側の木々の枝葉と空が重なって映る。流れるような光と影のモンタージュー手法の魔術とでもいえようか。

 女が男をつれてゆく海辺のリゾートホテルの部屋は、かつてふたりが初めての情を交わしたであろうその部屋である。そのときのふたりの表情がアップされ、微かな口づけと抱擁が切り取られてモノクロシーンとしてフラッシュバックする。それは過ぎ去った時間と苦い後悔としてではなく、失いかけていた長い空白の記憶の確認であり、これからの人生肯定の想いへと連なっていく。

 二人が並んで歩く海辺の水平線は夕焼けに染まって輝いて、純粋な感情の高まりの中に真実の一瞬があり、最良の日々は人生の黄昏に訪れるだろうという、クロード・ルルーシュのごく自然な確信で締めくくられる。ふと思ったのは、待てよこれって「竹内まりあ「人生の扉」のテーマそのものじゃないか。人生、健康であれば、男と女はいくつになっても愛おしい?

 そう、ルルーシュ監督は53年ものあいだその確信の時を待ち続けて、とうとう幸運にもこの作品を生み出すことに成功したのだ。ストーリーが甘いとの批判もあるが、変わらぬそのイノセントな恋愛賛歌を通した人生を肯定する姿勢が好きだ。


2020年はどんな年になるのだろう?

2020年01月31日 | 日記

 きょうで、2020年元号“令和”最初の正月もおしまいの区切り。明日というかあと数分で暦上は如月へと変わって、一年の十二分の一が過ぎていこうとしている。うかうかしていると何もなしえないまま、時の流れだけは年々早くなっているように感じるのは、どうしてだろうか。

 令和の年号は、万葉集の「初春の月令しく、気淑くて風和らぐ」から来ている、という。これは天平二年正月に太宰府の大友旅人邸宅で、梅見の宴が開かれた際に読まれた歌三十二首が納められた巻五の序文に述べられていると、美術史家の高階秀爾さんが新聞連載エッセイ「美の季想」で書いていた。

 高階さんが格調高い文章で取り上げていた表題は「初春の白梅」、江戸中期の詩人にして画家としても有名な与謝蕪村(1716-1784.1.17)とその高弟松村月渓(呉春)についてだ。蕪村は教科書でも出てくるくらいで大方に知られているが、さすがに呉春の名は一般的に知られてはいないだろう。その呉春の師に捧げたという「白梅図屏風」画(逸翁美術館蔵)とそれにまつわるエピソードは、いまの季節と相まってなかなか興味深い。それは何かというと、蕪村の臨終の床での句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」が、呉春の六曲一双の屏風画「白梅図」と呼応しているというもので、高階さんは「蕪村追慕の情の表れと言えるのではないだろうか。」と考察している。

 このエッセイ上段には、その「白梅図屏風」の写真が掲載されている。それをしげしげと眺めると、青みがかった薄明かりの背景にぽつぽつと咲き出した一本の白梅の情景のとなりに蕪村の亡霊が浮かんできそうな気配すらある。まさしく「ようやく夜明けの気配が忍び寄る暁闇の涼気のなかに、玲瓏たる香気を漂わせて独り立つ白梅の姿」であって、蕪村の弟子高井几董の記述をひいて「蕪村が世を去るにあたって思い浮かべていた世界」と結論づけている。こうなると関西に行った折にはこれを所蔵する大阪郊外の地にあるという美術館を訪ねてみて、ぜひとも本物の屏風画と対面をしてみたいと願わずにはいられない。

 ところで、エッセイには元号と月が旧暦表示であることが示されていないため、蕪村の68歳没年の西暦年表記が一年ずれて(1783)とあったりする。臨終の12月とは新暦ではほぼひと月あとになるから、命日である天明三年12月25日(旧暦)は、新暦だと1784年1月17日にあたる。そう読み直してみれば時系列的にすっきりと納得がいく。
 旧暦12月の史実については、新暦との混合とそこからくる誤解が生じやすいものと留意を要するだろう。九州大宰府でも梅は、いまの師走月大晦日では硬いつぼみのまま、睦月の半ばから如月はじまりの時期になってぽつぽつと咲き始めるもの。さきの万葉集の序文に書かれた令和にふさわしい時候は、旧暦の正月すぎ、新暦でいうともうしばらく先の立春の如月四日すぎあたりからだ。

 新年あけての江の島詣でのあとは、二度目のお伊勢両参り、そして三度目のソウル行きから戻ってきたばかり。なにかと公私ともにいつになく慌ただしかった。今宵、天空にはまだらの雲影、その間から覗く星々と切れ長眉のような三日月が冴え冴えと耀き、その分冷気は澄みきっている。すでに日の出は六時半過ぎ、日の入りは17時過ぎ、すこしづつ日は長くなりつつある。(書き出し:1月31日、校了は2月4日)


 睦月のロウバイ(撮影:厚木郊外上荻野 2020/01/21)


 如月のマンサク(撮影:町田天満宮 2020/02/03)


ソウル行滞在記

2019年09月28日 | 日記
 二十数年ぶりの海外旅行が、初めてのソウル行き三泊四日だった。一時帰国していた娘の戻りに合わせて、彼女の語学遊学先と滞在アパートの確認、周辺環境を確かめに行こうということになったのである。

 パスポート申請から始まって、八月中旬にそのための往復航空券と宿泊先手配のために旅行代理店に出向き、ようやく出発一週間前になって2019年8月21日発行と記載された日本国政府発行パスポートを受領し、そのようにしてバタバタと出発の準備が整った。
 それからの日々のいろいろ、知り合いの方のジャズトリオのライブが地元のイタリアンパブであったので、仕事帰りに聴きに立ち寄ったり、夏のなごりの花火の打ち上げを酒匂川べりの開成まで見物にいってきたり。楽しみにしていた村上春樹のFMラジオDJ番組JAZZライブ収録(半蔵門FM東京ホール)を聴いていたら、山中伸弥教授が登場したのに驚かされたり、音楽家生活40周年を記念した三枚組CD発売に前後して掲載された、竹内まりあのインタヴュー新聞記事「語る 人生の送りもの」全15回を毎回読んでは切り抜いたりしていた。仕事の関係では、事務所隣にある消防署出張所まで救命講習にいき、三つの演奏会の会場運営もありとけっこう忙しく過ごしていた。
 そうしているうちに旅立ちが近くなってきたのだが、よりによって出発前日の朝になって、愛用のパソコンが壊れてしまい、やや動揺しての月末の旅立ちとなってしまった。

 あれからもうひと月が経とうとしている。月またぎの慌ただしい旅行ではあったが、振り返ってみれば、やはりそれなりに得るものあったと思う。帰国後に、台風15号の影響で公共交通が大混乱した。すこし心配しつつ、田舎の様子をみに帰省してきたりで、ようやくパソコンの新規購入をはたし、あたらしいダイナブックのディスプレイに向かってソウル滞在記のために、キーボードを叩いている。もう、おだやかな初秋の時候となって、ひと月のことを振り返るにはよい時期かもしれない。

 ソウルへは、成田13時55分発大韓航空704便で向い、インチョン空港へ夕方の到着だ。飛行時間はわずか三時間たらずで、たとえれば福岡の少し先の感覚、沖縄へ行くよりも近い。日本列島本州上空を横断して信州から能登半島をかすめたら日本海上空を北西へと進む。朝鮮半島を斜めに横切っていったん海上へでたら、完成してまだ新しいピカピカのインチョン空港へ到着した。日本と同様まだ外気は熱く、やや乾燥している感じがする。緑も多いが、日本ほど広葉樹は多くないように思える。街路樹のあちこちに松の木が目に付く。

 ともあれ、先導役の娘のあとについて鉄道に乗り換え一時間半あまり、ソウル市東大門区のアパートがある回基(フェギ)駅まで向かう。このあたりはソウル中心街からやや郊外の東側周辺にあたるにぎやかな学生街だ。地図でみてみると三つの大学が徒歩圏内にある。アパートは一階にセブンイレブン、二階に居酒屋が入居している建物の三階で、セキュリティはしっかりしていて、室内はきれいかつ十分な広さで、電磁調理器つきのキッチンがありひとまず安心。まだ、引っ越したばかりなので机にベッド、タンスに洗濯機、テレビ、レンジなどの生活用品とシンプルな空間だ。まだ壁時計がなく、エアコンは備えてあり、外窓が小さいがまずまずの環境。

 部屋を出たら、外はすっかり暗くなっていて駅にもどり、私たちの宿泊先がある「乙支路4街ウルチロサガ駅」まで行き、チェックイン。昔からの電気器具専門商業地と新再開発ビジネスビルが混在する地区の大通に面した21階建て大型ホテルの9階だった。
 窓ガラスの先には岩肌ののぞく小高い山々がみえて、その手前からこちらまで市街地が続いているようだ。もう、あたりはネオンと外灯またたき、すこし離れた旧市街は暗く沈んでいる。アジア独特のカオスも残っていて、これがはじめてのソウル市街の情景だった。
三人して部屋の中ですこし休んでから、ソウルきっての繁華街であるミョンドン明洞へと出てみる。屋台で賑やかな通りは若者を筆頭に、老若男女すごい人出だ。ちょうど新宿と原宿竹下通りをあわせたような感じ、横町にはいったビルの二階、庶民的な食堂で夕食にする。前菜は食べ放題のキムチ、骨付き鶏肉の入った韓国鍋におおぶりの水餃子、ビールで満腹になる。
 
 あすはすこし早起きをして、ホテル周辺の街歩きをしてみよう。


 仁寺洞通りの街並み。古美術店、伝統喫茶、工藝店、画廊ギャラリーが点在する。
近代的ビルにレンガつくりの教会、伝統家屋瓦屋根が混じる。(2019.9.1撮影)


インチョン仁川空港ロビーにて、うねる天井にネオンサインの色彩が変化する現代アート。


八月の週末、テレビを見ていたら故郷に出会った

2019年08月19日 | 日記
 ことしの八月に入ってからの猛暑は大変なもので、立秋を過ぎた14日のこと、新潟県上越市高田では、台風10号のあとのフェーン現象のため、気温が40.3℃まで急上昇して、この夏の国内最高温度を記録、ニュースとなった。さらに辛かったのは、その暑さと並んで湿度の高さだっただろうと思う。

 その少し前の週末朝、出勤前にNHKニュースをつけていたら、「土曜すてき旅」というわずか五分あまりのコーナーがあり、女性アナウンサーが上越を旅してきたというので、はたしてどこが紹介されるだろうとちょっと興味をもって見た。
 そうしたら真夏ということもあったのか、日本海を遥かに臨む山の中腹からパラグライダーで大空を飛び回る様子が映されるではないか。ここ尾神岳はふるさとのすぐ近くであり、約三十年前に日本初の公式大会が開かれた場所だったことが契機になって、地元にレジャーとして定着したということも知ってうれしくなった。けっこう、中年や初老の男性が楽しんでいる。
 尾神岳といえば“大出口泉水”という名水の地でもあり、いつか帰省のおりには足を延ばしてこの爽快な体験してみたいと思う。鳥のように大空に飛びだしたら、眼下には頚城(くびき)平野の水田、名峰米山山麓のさきには蒼い日本海がどこまでも広がる情景がせまってくるだろう。

 つぎに紹介されていたのが、とあるキャンプ場にある雪を利用したおおきな倉庫。固有名詞こそ出なかったが、安塚キューピットバレースキー場、夏の情景であることはすぐにわかった。「雪室ストア」と呼ばれていたひんやり倉庫内には、地元でとれた米、穀類、キュウリ、トマトなどの野菜やニンジンジュース、お酒などが籠に盛られて並んでいる。その冷気は天然の雪を集めて保存したものを使っていて、豪雪地帯ならではの逆転の発想で自然エネルギーを活用した知恵だ。
 そして隣接した牧場には、除草作業と搾乳を兼ねて四十数頭のヤギたちが飼育されていて、自然の豊かな山村ならではの一石二鳥役を果たしてくれているというわけだ。ここはスキー場なので、夏のシーズンにリフトが動いていれば菱ヶ岳まで登れて、そのむこうはもう信州、千曲川を臨む飯山市郊外の高原がひろがり、そのとなりは野沢温泉だ。そう実感できたのは、大学時代の友人が飯山にセカンドハウスを持ったことを聞き、昨年はじめて立ち寄らせてもらって、その帰りに峠越えをして空き家となってしまった実家に帰省してからのことだ。
 テレビ番組にでてきたのはここまでだったが、さすがに番組としてうまくまとまっていたという印象。帰省のおりには夏も冬も楽しめる、というのを改めて短い時間の画面を通して実感したのだった。
 ここはほかにログキャビンや天然温泉もあって、ゆっくりできる。市街からくる途中には、地場の物産館と十数年ほどの前にできた「小さな空」という武満徹の曲と同じ名前の雪むろ蕎麦屋があり、山菜の天ぷらが美味しく、川瀬の音をききながら気持ちよく過ごさせてもらっている。少し離れてはいるが、市内北方の地にいくと明治の中頃、頃川上善兵衛によって創業された「岩の原葡萄園」という、やはり早くから雪の石室を利用してワインを成熟させていることで知られる日本草分けのワイナリーがある。「深雪花」というのがこのブランドで、数々のコンクールで入賞を重ねている名品だ。

 年を重ねると、離れた故郷の良さがすこしずつわかってきて、知らなかった思いがけない側面を発見したりで、つれなくしていた故郷が愛おしくなる。


 薬師池畔、シラカシの枝にたたずむ、碧い宝石“カワセミ”翡翠 (2019/07/28 撮影)

半夏生

2019年07月02日 | 日記
 きょうは半夏生、夏至から数えて十一日目にあたるとされるが、令和元年はちょうど十日目になる。田舎では、田植えを済ませた農家がひと息つく頃で、梅雨がまだ明けきらないこの日に降る雨を半夏雨(はんげあめ)と呼ぶと知った。むかしはこの雨で豊作を占ったそうだが、ことしは曇り空、さてどのような夏の時候になっていくことだろう。
 田植えといえば、通勤途中の電車が国道246号を跨いで横浜方面へ向かうときに、車窓から都心方面へと目をやると、恩田川沿いに田園風景が残っていてほっとする。そしてそこにひろがる水田に規則正しく植えつけられた稲の伸びきらない苗が、風にそよいでいるのを見ることができる。
 もう花ショウブやアジサイ、タチアオイの盛りは終わってしまって、夏の兆しはあちこちに感じられ、気がつけばノゼンカズラのオラッパ型オレンジ色の花がツル先いっぱいに咲きだしている。こうなるとキョウチクトウの鮮やかな色が見れるのももうすぐだし、池の土中からすくうと伸びた蓮のツボミも開花のときを待つ。その膨らみはうすっらピンク色をおびて、はちきれんばかりだろう。

 今週末、名古屋で私鉄へ乗り換えて、鈴鹿・津経由で橿原経由で奈良へと入る予定だ。おそらく旅のころには、梅雨はあけてくれるのではないだろうかと楽観しているが、さてどうだろうか。小暑にあたる七夕から、市内高畑町の天平石仏十三体が残る土塔跡そばですごし、翌々日上弦の月夜に帰ってくるという旅。この土塔、僧玄昉の頭を埋めて、その鎮魂のために築かれたという俗説もあり、なにやらいわくありげで謎めいている。もしかしたら夜半すぎにその古墳のどこからもなく、ちいさな鈴の音が聴こえてくるような気がする。

 以前におとずれたときは一面の原っぱだった平城京条理跡に、平成に入って再建された大極殿と朱雀門がある。そのあたりのたたずまいを眺めることは初めてなので、いまからちょっと天平奈良時代を空想して高揚している。
 ほかに見たい近現代建物は、吉田五十八の設計した大和文華館と奈良市写真美術館(黒川紀章)、能舞台のある国際春日野フォーラムの三つ。大和文華館は、正面からのアプローチと背後のあやめ池側に面したたたずまいと対照が際立って鮮やかということで、前から実物を見てみたかった。

 奈良の庭園は、東大寺横にある依水園がいい。東大寺と若草山が借景の池泉回遊式庭園からの眺めに、ああ、奈良を訪れているんだという気分がいやがおうにも高まってくる。園内にある古代中国の青銅器や陶器類をあつめた美術館は落ち着いてみて回れるし、食事どころ三琇も、麦めしに鰻ととろろの取り合わせがはじめてで、じつに美味しかった記憶がある。
 それから、奈良ホテルに隣接した旧大乗院庭園。ここにはかつて木造風情のJR保養所があって、三十年近く前に泊まったときは、朝に目覚めたら庭先に奈良公園からの鹿たちがやってきていて、びっくりした。いまはきれいに整備されて、ホテル付属庭園のようになっているらしい。保養所の縁側越しに、池と朽ちかけた通行禁止の赤い太鼓橋がかかっているのが見えたのを思い出す。

 初日の夜はしずかに部屋ですごし、二日目になったら、早朝奈良公園あたりの散歩からはじめて、お昼は庭園と古墳めぐりで過ごし、中川政七商店本店ギャラリー遊をのぞき、夕暮れには、元興寺極楽坊の旧なら町あたりを酔い覚ましにそぞろ歩く。かるく夜風に当たって目がさめたなら、すこし早目に高畑町まで戻るとしようか。
 
 まほろの都の夜はしずかに呼吸し、迷宮のように奥深く、慈悲深いだろうから。



 雨の日の森を変転させてたたずむステンレス球体“my sky hole 88-4”(芹ヶ谷公園)。
 この彫刻の作者井上武吉(1930-1997)は、奈良県宇陀郡室生村の出身。

 
 

帰省、そして時代の変わり目に見たふたつの茶室

2019年04月30日 | 日記
 もうじき平成三十年の時の長さに区切りがついて、新しい元号による時代が始まろうとしている。この春は自身の人生歴の区切りである還暦を迎えて、文字通り社会的な「異動」と空間的な「移動」の時期だった。
 所属先の再任用による「異動」があり、職場環境が都心から郊外へ変わり、自宅からは私鉄二駅とJR二駅の乗り換えで到着し、随分と距離的に近くなった。新しい勤務先は、三社構成からなる所属の異なる立場の人たちの集まりである。組織的異文化交流の見本市のような感じで、最初はてんやわんやの手探り状態だったが、ようやく方向性が見えつつある、といったところだろうか。

 その一方で、個人的な空間の「移動」もあれこれと続いた。

 四月上旬、サクラ開花の時期に津久井湖畔の知人宅へお招きいただき、ログハウスのベランダで眼下に湖面を見下ろしながらの花見会。遠く視線のさきには、城山城址から続く山並みとそのふもとの里山風景と街並みが一望できる。ダム湖である津久井湖のむこうは、リニア開通を見据えての再開発が著しい橋本の市街地だ。部屋の中の西側窓からは、対岸の又野からこちらの三井地区に架かる吊り橋の赤い名手橋が正面にみえている。どちらも額縁のなかの絵画のような構図の風景を愉しむことができる空間での語らい、一期一会の贅沢な時間を過ごす。

 23日からは二泊三日の里帰りで、圏央道から関越道を通って新潟上越までの往復だった。道中の新緑に遠くの山並の残雪が美しかった。山の中腹には、煙るようなうすみどりに混じって、ところどころに山サクラがまさに見頃だったし、高速道路を降りてからは沿道に花々が咲き誇って春爛漫といったていであった。
 田舎のひと冬無人のままだった実家の庭にも、雪椿が雪に負けないで紅白とさみだれに咲き誇っていたし、家の敷地周囲には水仙が列をなして咲きだしていた。もうだめだと思っていた芝サクラもけなげに残っていて、紅白の絨毯となしていたのはうれしかった。急いで玄関と居間のある縁側の羽目板をはずし、ツツジや山茶花、紫陽花、南天、ヤツデといった植栽の冬囲いの縄を解いてあげた。家の屋根は、思ったほど目立った傷みがないようで、ほっとした。
 
  すぐ家のとなりには、宿泊体験施設“月影の郷”(旧月影小学校、2001年3月閉校)

 着いた翌日は、ひがな庭の草むしりと落ち葉の掃き掃除に精をだし、昼近くに墓参をすませた。午後からは買い出しと二階部屋の剥がれかけていた障子戸の張り直しをして、すっきりできたと思う。最終日は雨でもやがかかる中を松之山から魚沼をぬけて、雪解けの急流が滔々とながれる清津峡へとむかう。清津川のほとりのひなびた日帰り湯、その名も「よーへり」(方言で、ゆっくり湯にお入りくださいの意)に立ち寄り、にわか仕事でこわばった筋肉を温めてほぐしてから帰路に就いた。

 四月最後の週末は、待ちかねていた静岡浜松までの新幹線旅である。天竜川中流にある秋野不矩美術館「堂本印象展」とその美術館敷地内に昨年できた「望矩楼」(2018年竣工)、そして浜松城公園に隣接した「松韻亭」(1997年竣工)と、現代建築家による二つの平成時代の茶室を見にいく。おなじ茶室でも建築家の資質違いを反映していて、まったく趣の異なる佇まいであるのがおもしろく、それは命名された“楼”と“亭”にも端的によくあらわされている。
 「望矩楼」は高台にあって、下から見上げるとなんと楕円形の茶室!、三本の柱で空中に浮かんでいた。設計者の藤森照信さんによれば、イノシシみたいになったというけれど、それよりもマンガの主人公パーマンが野武士になって被ったヘルメットみたいな風貌がユーモラスで、超アバンギャルドだけれども妙になつかしい。ワンパク少年のような藤森さんのまなざしが伺えて、ここの山間の風景にすっかりなじんでいる。
 
 「望矩楼」の壁周囲と床下は、銅版の人手によるタタキ張り。青空のもと、チベット王宮のような秋野不矩美術館。

 もうひとつの「松韻亭」のほうは、谷口吉生らしくモダンなつくりに伝統をいかしたクールなつくり(施工は水澤工務店)で、前庭のアプローチからのコンクリ塀による空間の切り取り方がシャープだ。うすく水平に左右へと伸びる屋根から来る効果だろう。この建物は、豊田市美術館(1995年)と東京国立博物館法隆寺宝物館(1999年)の中間に竣工している。ここで立礼の抹茶をいただいたあとに、奥庭から横長に伸びた茶室棟をながめてみると、縁側からの張り出し舞台が芝生庭にうあまくはまって効果的であるし、全体にイロハ紅葉を主体とした庭との調和も見事だ。その一方、少々庭のメンテナンスに難ありで、小川の流れが停まっているままなのが残念、設計者の意図が十分には活かされていないのがもったいない。

 それでもこのふたつの茶室建物は、あとで振り返ってみれば周囲のことなる環境のなかで対比して眺めると見ごたえ充分であって、平成の締めくくりにふさわしい体験であったといえるだろう。
 たったの一泊二日だったけれど、浜松天竜めぐりは郊外ローカル線道中あり、夜の肴町散策あり、記憶と体感が深まった忘れられない旅となった。
 

ニ月最終月曜日の新聞

2019年02月26日 | 日記
 如月は最終週月曜日の朝日新聞紙面から、いくつかの気になった記事や目に留まった記事や広告について記す。いつもは一面にとりあげられた大きなニュースに目を通しても、あわただしく日常に流されてしまい、あまり長く気に留めることは少ない。ところが、今月平成最後の如月25日の紙面は、「池上彰のニュース斜め読み」ではないが、いくつかの気になったことがあった。

 この日の一面トップニュースは、沖縄普天間基地移設をめぐる沿岸部埋め立て是非を問う県民投票の結果についてだ。「辺古野“反対”7割超」と目立つ白抜き見出しで、朝日新聞の一般的カラーからすると当然の扱いだろう。その7割超反対の補足として、投票率52.48%、知事選当選者の得票を超す、の補足がある。この併記は民意を深く考察するうえで重要であり、あとは一面紙面全体のバランスがどうかになる。
 それでは、ほかの項目の扱いはどうかというと、「象徴を模索する道ははてしなく遠く」の見出しで、天皇陛下在位30年の政府記念式典(国立劇場)を報じる記事が続く。こちらは沖縄ニュースの脇に押しやられる形で、思いのほか目立たずに小さい扱いだ。

 もうひとつは、紙面左側六段抜きで「ドナルド・キーンさん死去」「96歳 日本文学海外に紹介」とある記事。前日、すでにインターネットでは流れていたが、個人的にもっとも知りたかった記事だ。三面には、詳しく評伝や池澤夏樹、瀬戸内寂聴さんのコメントも寄せられていた。あわせると相当大きな扱いであり、おそらく朝日読者層の関心を反映したであろう紙面構成だ。コメントの人選については、朝日人脈の作家となっているが(ご両人とも紙面連載を持っている)、同じアメリカ出身の文学研究者、ロバート・キャンベルさんなどの発言もあったならば、さらに興味深かったと思う。
 キーンさん自身については、新潟県柏崎に記念館があったりすることや、都内の旧古河庭園に行った折に、隣接したマンションのお住まいを見上げて、その生き方や暮らしについて関心を抱いていることがあるので、別に機会にまとめて書きたいと思う。

 文学関連ではもうひとつ話題が重なった。一面右側紙面ピックアップ欄に写真付きで、「村上春樹さん パリで語る 30面」とあり、そして社会面トップをみると23日、パリ国立コリーヌ劇場での「海辺のカフカ」上演最終日に開かれた読者との交流会に登場したときの発言が紹介されている。やがて70歳に届こうとする人気作家は、舞台上にジャケットにスニーカー姿で現れ、90分にわたって学生らの質問に答えたという。
 記事から読み取れる限り、政治、社会状況についての発言しか書かれていないので、すこし意地悪く解釈すれば、まるでノーベル文学賞を意識したプロモーションのようにも読める。もしかしたらこのような印象を持ってしまったのは、記事を書いた記者側の問題なのかもしれない。ともあれ、日本においてこのような機会は望めないであろう。最近数回にわたり日本のFMラジオ局でDJとして自ら選曲したという音楽を流しながら話していた気の置けないユーモアのある内容とのかい離は、作家の意図だったのかどうか。

 ふだんの日本では、ほとんどマスコミに登場しない人気作家が、ここでは聴衆に気を許したように「正しい歴史を伝えあるのが僕の世代の生き方だと思う」「僕が十代のころに抱いていた理想主義を何らかの形で受け渡さないといけない」という発言はたしかに素晴らしいが、これまでの小説からは正面切って読み取れないし、あまりにもベタすぎると思う。海外で語ったことでスマートにうけとられるだろうが、やや大家の教訓じみた気がして面白みに欠けてしまう気がするのは、日本人同士だからだろうか。
 作家の中での年齢とともに、現代社会への責任感の増加、デタッチメントからアタッチメントとへという意識の変化があるにしても、小説テーマと社会的発言はやはり別であるといったほうがすっきりする。

 最後に口直しの話題を。ここのところ、小さな連載広告で掲載を楽しみにしているものがある。「天声人語」欄の左端、博物館明治村「本物の歴史がここにある。」と題した、不定期に園内建築物などを紹介している囲み広告である。
 初回は二月四日立春の日で、明治村の顔ともいえるF.L.ライト設計の「帝国ホテル 中央玄関」(東京千代田区より移築)からはじまり、劇場「呉服座」(大阪池田市)、「西郷従道邸」(東京目黒区)、「蒸気機関車12号」(イギリス製、新橋と横浜間を走行)、そしてこの日の「聖ヨハネ教会堂」(京都)と続いている。この企画は写真もカラーで見栄えがして、添えられた短文も要領を得ていて、とてもいい。
 そのうちに、東京千駄木にあった「鴎外・漱石旧住宅」や、故郷の雪国から移築された「小熊写真館」(新潟旧高田市)も続いてほしいと願っている。

 追記:と書いたら、今朝の朝刊に「森鴎外・夏目漱石旧住宅」が掲載されている!(2019.02.27)


フクジュソウ、春を待つ(撮影:2019.02.20)


 自然林の通路脇に二輪咲く。その花のひらいてとじての繰り返し、一週間で次第に葉がのびてきた。(2019.02.26)

 



如月立春大吉

2019年02月10日 | 日記
 新暦年が明けたと思ったら、あっという間に二月である。新元号に改元される今年の旧暦元旦にあたる如月立春は大安と重なり、文字通りの立春大吉でめでたし、めでたしの年となってなってほしいものだ。

 昨日夜は、寒波の影響で小雪が舞ったりしていて、今朝起きたら空気はひんやり、植栽のうえにはうっすらと雪がつもっていた。それもよく晴れた冬の陽光のもとで、午前中にはほぼ消えてしまっていた。こんなお休みのときには、家の中にこもっているものもったいなく、あてもなく自然の風景をみにでかけたりするに限る。
 梅が咲き始めているだろうから、ちかくの里山風景がのこっているところにいってみようと車を走らせる。国道16号を横断して相模と武蔵の国境あたり、TBS緑山スタジオの脇をすぎていくと、やがて鶴川に近い三輪の里につく。郊外にある中世の山城あとが懐かしい里山風景として残されているところだ。

 ここにある立派な風神雷神像のある山門を構えた高蔵寺は真言宗のお寺。こじんまりした境内はよく手入れがされていて、いつきても気持ちがいい。境内の池からは、段々に水がくだって流れるようになっていてもう少しすると水芭蕉が咲いていたりする。この季節、庭にはロウバイがあちこちで咲いていているが、ボタンの花芽はまだ固い。ムクロジの大木が一本、二本の松がきれいに藁縄で雪つりされている。
 昭和のはじめには、当時都内世田谷にすんでいた北原白秋がここを訪れて詠んだ歌が碑に刻まれているのをみると、柿生の里や東の高野山といわれた王禅寺もちかく開通したばかりの小田原急行(いまの小田急)線を利用したのだろうかと想像する。どんな契機だったのかは知らないが、どうも夫婦ふたりで巡ったらしい。

 

 高蔵寺のむかいに残された里山はよく手入れされた三輪の里、かつてののどかな農村風景の原型を遺している貴重な一帯だ。奥まった本丸あとには、産土神なのだろうか七面堂が祀られていた。遠目には紅梅が見事でやがて白梅が咲きだし、緋寒桜、枝垂れ桜、山桜と次々に乱れ咲きだす。黄色い菜の花との競演が見事でもあり、懐かしくもある幻想的な情景となる。
 いまはまだその時期には少し早く、じっと息をひそめて春の到来を待ち続けているかのようである。毎年の変わらぬ風景、いつもでもそうであってほしい。

 
ことしもまた同じ風景。年々歳歳花相似たり、歳々年々人同じからず