師走に入ってすぐ、二泊三泊の近場旅をしてきた。幸い天候に恵まれ続けて、大船をベースに鎌倉山、横浜三渓園、江の島サムエルコッキング苑と展望台を巡る旅。共通していたのは、初冬快晴の青空と対照的に真っ白な冠雪を抱いた富士山の姿がいたるところで望めた。それは清々しく霊峰不二の尊称に相応しい。
初日は大船から路線バスに乗り込み、モノレール高架の下を伝うようにして鎌倉山住宅の入り口まで行く。そこには小さなロータリーがあって、中央の植え込みには「鎌倉山」と刻まれた由緒あり石柱が建っている。昭和初期に分譲された都市近郊別荘地という歴史と風格を感じさせる佇まいだ。
上り坂を進んでいくと早くも高台の緑の相模湾の向こう、あちこちの住宅の切れ目から富士山が秀麗な姿をのぞかせている。吐く息はあがってきているけれど、もうそれだけで気分は上々、視線もすこしづつ広がってくる。しばらく進んですこし平坦なところに差し掛かると、それらしき瓦屋根の門構えが檑亭の入り口である。ここから望める斜面に高低差がある回遊庭園が広がる。一番眺望が良い道路側に立つ古民家が蕎麦どころとなっている本館だ。ちょうどお昼時、かつての豪農の旧宅を移築した個人別荘だったという店内のあがりで、蕎麦に天ぷら、ビールの杯を重ねる。
余談になるが、檑亭の“檑”って雷のなにかと思っていたら、実は“すりこぎ”のことなんだそうだ。もともとこの地には山椒の木々が生えていて、そこからの命名だと知る。山椒の幹で作られたすりこぎは最上のものだから、この料亭にふさわしい名前であるに違いない。
食事の後は、もう一度店先の平石のまえに立ち、じっくり富士山と対面だ。絵になるという月並みな表現がぴったり、ここの庭先から眺める森のさきの白霊富士の姿は素晴らしい。梅や桜の時期なら空と海に映えて息をのむようだろう。よく晴れた遠い視線のさきには、こんもりと深い緑の杜が続いている。足元の庭の陽だまりには、もうニホンスイセンが咲きだしてほのかに香しい。たたずんでいると相模湾ごしの風もさわやかに気持ちがふっとぬけていくようだ。
ゆっくりと庭園の道なりを下って散策すれば、植え込みに石塔・灯籠と石仏の数々、朽ちかけた茶室、夢殿を模した八角堂。竹林をぬけて羅漢群、石造十王像のなかには閻魔大王の姿もある。銀杏の大木は、すっかり全体が黄金色となって、落葉が地面を染めている。庭園全体はすこしすさんだ雰囲気もあって、さまざまな変化に富んで、われら新参者を飽きさせない。
帰りは裏門を通してもらって「高砂」というバス停から西鎌倉駅までゆき、湘南モノレールに乗る。山肌を縫うようにして走る懸垂式モノレールは、その浮遊感がたまらない。途中のトンネル潜りもスリリングであり、まるで遊園地みたいだ。車窓から富士山との対面を愉しみながらいると、あっという間に大船に戻ってきてしまった。
わずか半日なのにひと旅して帰ってきたような満足気分に浸ることができ、そしてようやくの再会にほっとした。あとはこれからゆっくりと過ごす時間が待っていてくれることが嬉しい。
四月なかば、信州諏訪への旅つれづれ。盆地真ん中にある湖畔サイクリングロードは海抜759mの高地にある分、まだ幸いにもソメイヨシノと枝垂れ桜が見ごろだった。この春は寒さのあとの暖かさで、ふたつが同時開花にしてしまったのだという。そんないつもと異なる季節に巡り合わせて幸運だった視覚と皮膚感覚で味わう旅。
信州への旅の始まり、でも旅の時は長野とは言わずに決まって“信州”と呼ぶのは、その語感により旅情を感じるからなのだろうか。八王子駅四番線ホームに立ち、しばらくの間、新宿からの特急「あずさ9号」到着を待つ。やがてパープルラインカラーの車体が滑り込んできて、待ち合わせの7号車に乗り込む。さきに四谷から新宿経由で乗車していた沙羅が目配せをくれた。中ほどの座席の隣り合わせに座り、車両は一路中央本線を下ってゆく。多崎つくるの目に映る色彩映像が諏訪への巡礼をいざなう世界の始まりだ。
笹子トンネルをぬけると視界が広がって甲府盆地へ、車窓にぶどう棚が広がっっていた。最初の停車駅甲府駅を過ぎ、おしゃべりに夢中になっていると次第に両側には山並みが迫ってきていた。右手方向に見えていたはずの八ヶ岳も見過ごして、気がつけば車両は小淵沢を過ぎて茅野から上諏訪駅へと滑り込んだ。
駅からタクシ―に乗り、湖畔にそびえる滞在先まで荷物を運び入れる。きょうの晴れのうちにまずは諏訪湖をぐるり一周しよう。フロントでレンタサイクルを借り出したいと話すと、湖畔の遊覧船・ボート乗り場まで連れていってくれる。その日初めての利用者みたいで、車庫のシャッターを開けてくれたフロントマンは「電動車も含めて、どれでもお好きな車種をどうぞ」とうながす。晴れた空と風の吹き抜ける湖面色に似あうターコイズ・ブルーの二台を借り受けて、簡単なコース説明を受けたらスタートだ。
道なりに進んでいけば、間欠泉施設を過ぎるとすぐに下諏訪町に入る。ここらあたりから鉄路は湖畔を離れて下諏訪駅に向かう。
やがて大きく弧を描くシルバー色の大屋根が見えてきて、看板には諏訪湖博物館赤彦記念館(1993年竣工)とある。その豪華さはバブル後期に計画された建物に違いないが、この時期人の姿もなくどことなく物寂しい雰囲気が漂う。
もしやと思って調べたら、このアルミメタル仕様のポストモダンな建物は、伊東豊雄建築設計事務所によるもの。伊東の生まれはソウルだが、幼少から中学生までを祖父と父方実家の下諏訪町で過ごしている。この当時すでに有名建築家であった伊東が、故郷に錦を飾ったであろう巨大な公共施設、じっくりと見損ねたのはなぜだろう。たぶん全体のフォルムが優美というよりも大味な印象であったからだが、改めて補足すると諏訪湖周囲の山並みをモチーフに、伊東少年の目に焼きついた諏訪の原風景が映されているのかもしれない。夕暮れに訪れたらまた印象が異なってくるのだろうか。
まもなく岡谷市に入ろうとする湖畔の浅瀬、葦などの水生植物が広がるあたりは、原野っぽい様子が残っている。そこから視界が開けた対岸の街並みの遥か向こうに、天候に恵まれれば富士山の見事な冠雪が望めるらしい。やがて満開のソメイヨシノが咲く御影石のモニュメントの建つ公園へ、すぐそばには風格のある老舗のウナギ屋の建物が並んでいる。
その隣にある釜口水門に到着する。こんどの旅で訪れてみたかった場所のひとつ、ここから天竜川が始まるのだ。流れは伊那木曽路をくだり県境を越え、遠州浜松から駿河湾へと注ぐ流れを想像して見る。なんといっても諏訪湖は天竜の水源、湖から流れ出す河川はこの天竜川一本だけと知ると、この水門の位置する背景がわかる。やはり大河の始まりにたって滔々と流れる水流を眺めるのは、心が踊らされる。
湖を隔てた対岸がちょうど上諏訪駅の方向となる眺めも相変わらず最高だ。右手さきの山すそには、中央自動車道岡谷ジャンクション高架がのぞいている。名古屋方面と長野方面信越道への分岐点。この地点は陸路と水路の分岐点が重なるのだ。
諏訪湖釜口水門。天竜川水流はここから駿河湾へと下る。(2021.04.12)
水門を振り返り、湖水反対側の諏訪市街地、茅野、八ヶ岳方面を望む。
遠くに安曇野方面、乗鞍や木曽駒ケ岳、明石山脈、八ヶ岳と諏訪盆地をぐるりと囲む山並みを眺めながら、左手に湖面を見ての16キロメートルに及ぶであろう平坦な道なりの周遊は、ときに盆地に吹き抜ける風に散る桜の花ふぶきを受けながら、なかなか軽快に進んでゆく。
一周を巡ってみると諏訪湖周辺のなかでも、上諏訪はハイリゾートという雰囲気になりきれていないが、行楽地すぎないところがいい。昭和の高度経済成長期以降、急速に観光化された温泉地という感じがする。小海線沿線や蓼科高原と松本の中間的地理が微妙であり、地元の人以外は大抵通り過ぎてゆく町なのかもしれない。その一方で下諏訪あたりは、中山道と甲州道が交わる諏訪大社の門前町であり、ひなびた雰囲気を残す文人玄人好みの温泉宿場町だ。
明治以降になると諏訪盆地は養蚕と製糸業、昭和に入ってからは精密機器工業で栄えてきた街の歴史をまとうようになり、その象徴が昭和初期に完成した片倉館でスクラッチタイル張り塔屋つきの中世ヨーロッパ古城然としたたたずまい、中身は地の温泉の恵みを生かした大衆浴場と交流施設というのがおもしろい。設計の森山松之助は、おもに台湾において総督府などの官公庁建築を遺した建築家だという。現地には片倉館に先立つ公共浴場施設も残っているというから、来年あたりに台湾を訪問することができたらそれらのいくつかを訪れてみたいものだ。
お城といえば、二日目の雨の夜に訪れた高島藩高島城は、当初の湖畔べりの干拓により地理的に内陸となってしまい、さっと見た感じ城下町の名残も薄く随分と控えめな存在だ。ここに来たかったことのひとつは、徳川家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の存在である。
実父家康から疎まれた末に左遷を受けた不遇の人物は、変遷の末最後はこの城下で幽閉の身となっていたという。とはいえ、諏訪湖に泳ぎに行くなど自由気ままに過ごしていたようで、本人は自身の半生をどのように思っていたのだろうか。当時として大変な長寿の92歳で没している。その数奇な運命の片鱗を忍びたかったからだが、夜露にぬれてライトアップされた桜に思いを深くした。
菩提寺は上諏訪駅からほど近い高台にある貞松院月仙寺、そこの枝垂れ桜が見事だというのは、旅から戻った後から知った。
いまに至る諏訪湖自体の姿を含め、湖面に映る周囲の風景は大きく変わってきた。唯一その昔から変わらないのは、盆地周囲の山並みの風景だろうか。この先三度目に訪れる機会があれば、こんどは下諏訪地区に泊まって、早朝の下社春秋宮参拝をしたあとに外湯巡りをしながら、新旧混じる宿場町横丁を隅々まで歩き回って、川のほとりに鎮座する万治の石仏に「よろずおさまりますように」と祈りを捧げよう。
(2021.4.28 初稿了)
春まだ浅き如月初め、箱根へと出かけた。旅の目的地は箱根湯本から登って行った先の強羅、明治大正時代からの歴史ある別荘地だ。一昨年秋の台風による山崩れ被害から運休していた箱根登山鉄道が復旧したので、湯本駅ホームでロマンスカーから反対側の車両に乗り換えて向かう。向かい合わせのボックス席に座り、まだ眠りから半分目覚めたばかりといった山肌風景を車窓から眺めながら、途中大平台、塔ノ沢をスイッチバック方式で昇っていく。宮ノ下、小涌谷、彫刻の森と車窓は移り変わり、そのさまが次第に高まる旅気分と連動していくかのよう。
午前十時前、標高六百メートルにある終点強羅駅へと到着する。山小屋風の駅舎外観は四十年と変わらない。駅前広場はひっそりとして、観光客の姿も見かけない。平日午前とはいえ、昔ながらの商店の様子も閑散としていた。それでも旧別荘地には、かつての老舗ホテルや保養所と入れ替わって、いくつかの新しい建物ができていた。まずは思いのほか急な坂道を強羅公園方面へと向かう。
上りだしてすぐに「強羅餅 石川菓子舗」と書かれた看板が目に入る。初めて強羅を訪れたときにも、この店舗に立ち寄った懐かしい記憶が蘇り、レトロな木枠ガラス格子窓から中の様子をうかがう。狭い店内のガラスケースの中にその銘菓が並んでいる。ほのかなユズの香りのする求肥地に溶岩を模して小さく刻まれた羊羹の粒が入った地元の銘菓だ。別荘地・保養所時代華やかなりしころ、大抵のお茶請けはこの強羅餅だったという。これがいまどき手作り一個110円の良心的値付け、いま一度味わいたくなって今宵の滞在用に五個箱入れにしてもらう。
強羅公園すぐ横の滞在先に荷物を預けたら、坂を転げるように下ってふたたびの駅前へとでる。登山電車線路沿いにあるレトロな看板が目印の「強羅花壇」へと向かう。ここの旧閑院宮別邸ですこし早めの昼食をいただくのがお目当てだ。
駅から徒歩で三分ほど、線路を横切って敷地石段をくだって洋館の前にでる。学生時代以来だろうか、畏敬の旧友に再会できたみたいで気持ちは高鳴る。ここは屋根裏部屋を含めると赤瓦三階建てのハーフ・ティンバー様式、1930年六月二十日竣工だから、築九十年を超える。
玄関口で来館を告げると、着物姿の女性が中へと招き入れてくれる。入ったとたんに感じる不思議な既視感、なんと凛とした品のある空間なのだろう。いくぶん天井は高めで、奥にある窓際のテーブルに案内される。ガラス窓の外には、傾斜にそって植えられ、丁寧に手入れのされたお庭が広がっていた。寒気の残る中ほころび始めた白梅、その清楚な立ち木姿がりんとしている。ランチ前菜に目の保養とはこのことかもしれない。
ふたりして花乃膳の種類を変えてお願いし、蕎麦と炊き込みご飯、カキフライを分け合っていただくことにした。閑院宮様肖像画が掲げられた洋間、調度のしつらえも出される先付け器も結構、ビールで乾杯すれば自然と五感が満足して笑顔がほころぶ。
食事の後に平成の始まりに改築された宿泊ロビーを見学させていただく。そのロビーへの手前、玄関口をすぎた洋館二階へ上る階段が目に留まる。踊り場のステンドグラスの外光を通してみる輝きがすばらしい。
さらに進んで洋館と新館のあいだを天井の高い木柱格子でつないだ解放性のある長い回廊がのびている。この改修設計は竹山聖、京都大学および東京大学院原広司研究室出身の建築家で早い時期の代表作のひとつ。いまトレンドの木材をガラスとコンクリートと鉄のモダン建築に持ち込んだはしりではないだろうか。それをようやく目の当たりにできる喜び、思い起こせば三十年越しである。
谷側にむかった傾斜には宿泊棟が伸びていて、すぐ山側脇が登山鉄道だというのに、世俗から離れた自然の別世界が広がるようだ。こんなところにいつか泊まってみたいと思わせるが背伸びしても届かない高値の華、八月の大文字のころは、ロビーや部屋からの眺めは素晴らしいのだろう。いただいた見通しの良い喫茶コーナーの割引券は次の機会の愉しみにとっておこう。お土産コーナーの品々もよく選ばれている。ちょっとしたミュージアムショップのようなオリジナル工芸品がおかれていた。
ロビーには巨大な植木鉢があって、伸びた笹類に那岐の木が寄せ植えされていたが、これにもびっくり。鉢の後方、ガラス張りのむこうに白洲石を敷き詰めた庭のむこうが宿泊棟になるようだ。安易に全容がうかがい知れないところが旧宮家別荘の系譜をひく伝統とあいまって、正統的な隠れ宿の雰囲気を保持しているのだろう。
強羅花壇をあとにして駅方面へともどる。駅の反対側から、函嶺白百合学園の正門前からの急坂を回り込んで、大正昭和別荘地の雰囲気が濃厚に残る路地を強羅公園方面へとむかう。
箱根強羅において、フランスの聖パウロ修道女会によるキリスト教カソリック学園の存在は不思議な気がするが、そのルーツは戦前の疎開学校にあると知って納得した。幼稚園から高校までの学園として独立したのは戦後1949年のことだ。それ以来、箱根登山鉄道を通学手段(観光ではなく!)として、地元別荘氏族やふもとの小田原からの富裕層良家子女が、俗世界を離れてこの清浄な地に学び集ってきた歴史は、外部者からみても興味深いものがある。もちろん校章は白百合の花をシンボルとして、その精神は「従順・勤勉・愛徳」にあるというから、俗人にとっては制服姿に畏敬の念を抱くとともに、うーん少々恐れ多い。
息をきらしながら、滑り止め用丸輪模様の刻まれたレトロな坂道を登っていくと、途中校舎から漏れ聞こえてくる卒業式練習の歌声とピアノ伴奏が聴こえてくるではないか。ここも少子化の時代の波に押され、1981年幼稚園が廃止となったことに続き、とうとう小学部も2020年四月を最後に新規募集を停止したという。
今年の桜の季節には新一年生を迎えることが叶わなくなり、鉄道車両内の雰囲気と強羅駅前の通学風景も少しづつ変わっていくに違いない。月並みかもしれないが、明治大正時代からの古き良き別荘地としての強羅、大きな溶岩石に囲まれた区割りのあるまち並み風景の変遷とも重なって、それはもう決して戻ることのない郷愁の世界なのだろう。(2021.02.21書き始め、02.26校了)
この度の小さな旅で舌の記憶に残っているのは、山の上ヒルトップホテルのルームサービスでいただいた朝食。やわらかな朝の光が障子戸を通して注く少し遅めの朝、畳敷きの上のベッドでまどろみ、ようやく目覚めてからシャワーを浴び寛いでいたころ、濡れ髪が乾くかどうかといったタイミングでベルが押される。戸惑い気味にドアが開けられると若いボウイがしずしずとワゴンを運んできてくれる。
和洋二つ、和定食のほうは焼き魚、出汁巻き卵に大根おろしは絶品で、焚き物に数個の小鉢がつき、ちょっとした昼定食のように品数が多くて豪華だ。どれも丁寧に調理されていて、うつわも吟味され品があるもの。いくぶん気だるさと熱っぽさが残った身体には、梅干しとちりめんを載せたおかゆに味噌汁が胃にやさしい。添えられたお新香も程よい塩梅で結構でした。
チェックアウトは正午なので、時間までゆっくりと滞在を愉しむことに。せっかくなので五階まで上ってみて、最上階から螺旋状の階段周りを覗き込んでみる。静かなウエディング案内のスペース、黒く光った大理石手摺と真鍮製の手添棒、深紅の絨毯が地階まで続いていて吸い込まれそうだ。
二階まで降りていくと宴会場が二つあって、ここを会場にして開かれた「山の上ホテル作家展2017」トークショーにきたのは、もう三年前の夏のことだ。それを含めてここに滞在したのは、近くの神田猿楽町に事務所のある青少年団体のパーティーにお招きいただいたときの合わせて三度目になるけれど、いつ来ても落ち着いて穏やかな雰囲気があるのがヴォーリズの空間だと思う。
一階のショップでインク壺を模した容器に入ったパール玉チョコを買い求め、地下二階のコーヒーパーラーへ立ち寄ることにした。地下階とはいえ、高低差のある錦華坂へむかって下っていく位置にあるため、窓が外へ向かって大きく開けていて明るく開放的な室内空間だ。パーラーという名称のとおり、どこかレトロな雰囲気があってウエイトレスの節度ある衣装にも自然と萌えてしまう。
差し出されたメニュー表にしばし迷いながら、ここは思い切ってプリンアラモードを選ぶと、友人のほうはきっぱりと“伝統のババロア“を注文する。どうやら「名建築で昼食を」というBS番組と冊子で見て、最初からこれをいただくことに決めていたようだ。
しばらくして紅茶と一緒に運ばれてきた正当派アラモードには、イチゴ、ブドウ、メロン盛りとともに由緒正しきスワンがホワイト生クリームの上で鎮座していた。その愛らしい姿に顔を見合わせてにっこり。甘味替え目でフルーツはとびきり新鮮である。わざわざ“伝統の”と形容詞がついたババロアは、どんな味だったのだろうか。
ヴォーリズが設計したアールデコの小さなホテルから坂をくだり、錦華公園の横を回ってから、明大通りの坂をのぼったさきにはニコライ堂がある。ヴィザンチン様式の大聖堂青銅色ドームを真近で眺めた後は、御茶ノ水駅から東京駅まで出て横須賀線に乗り換え南下一路、いざ鎌倉行きだ。
揺られること小一時間、駅からタクシ―で由比ガ浜へ到着。荷物を降ろした後、鎌倉文学館へと向かうがあいにくのお休み。その足で長谷寺の本堂まで行き、海に向かって開けた高台から相模湾の情景をあきることなく眺めていると、辺りは次第に冬の夕暮れの気配がしてくる。
初冬の夜はつるべ落とし、暗くなって大気が冷え込んでくる前の夕餉は蕎麦に日本酒、帰路は肌染めて潮騒を子守唄に揺蕩う時間が愛おしい。
明日は若宮大路を歩いて鶴岡八幡宮へ、新装なったモダニズム建築の名品と対面だ。
喫茶“風の杜”から望む、鎌倉文華館鶴岡ミュージアム。天空を鳶が優雅に旋回する。平家池に張り出したテラスを持ち、水面に反転してゆらぐ“白い宝石箱“のごときモダニズム建築は、旧神奈川県立近代美術館(設計:坂倉準三、1951年竣工)。
喫茶「風の杜」は葉山日影茶屋の経営。栗のパフェとプリンをいただく。店内にある鎌倉彫りは、朴木に柿の実や栗、ブドウ蔓、野菜などを彫った漆器で、鶴岡八幡太鼓橋そばの鳥居横に店舗を構える老舗、博古堂製のもの。池側の窓ガラスのそばには、ミモザの大木が水面にむかって枝を伸ばしている。その全体に鮮やかな黄色い花々が咲き誇る早春のころもいいだろう。
暖かくなった来年春の季節にまた来よう。
御茶ノ水は、けっこう思い入れのある街だ。遥かにさかのぼる高校生三年の夏、予備校の夏期講習で通って、はじめてひとりで都会と向き合った街なのである。
足立区に伯父と叔母が住んでいたため、東京といったら信越線の終点上野駅に着いて、そこから京浜東北線に乗り換え、王子駅で下車した駅前の風景が原点だ。駅改札を出ると正面には、いまはもう新しいビルに生まれ変わっているが、古ぼけた五階建てくらいのビルの姿が飛び込んできた。長らく放置されて一階以外は廃墟のような姿が哀愁を帯びていて、深く印象に残っている。
そことは対照的に、ホームからは当時できたばかりの白亜のレジャービル、東武サンスクエアが堂々とそびえて見えたものだ。入り口デッキに当時大流行していたボーリングのピンを模した広告オブジェが建っていて、それが都会を象徴しているように見えたものだ。ボーリング初体験はここだったろうか。
すぐそばの飛鳥山公園は上野公園よりもお馴染みであり、周囲を三百六十度見渡せる回転式のドーナツ型のエレベーターで昇る展望台があった。そのすぐ下の路面を都電が走っていて、飛鳥山のふもとを大きくカーブして上り下りしているさまは今も変わっていない。
王子駅から御茶ノ水駅へは、上中里、田端までくるとぐんと視野が広がり、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野、御徒町ときて、秋葉原で黄色の車体の総武線に乗り換えること九駅だから、東京都内の電車移動と乗り換えという行為は、考えてみればこのルートが初体験かつ原風景だ。
御茶ノ水駅に着くと聖橋寄りの改札を出て、そこから幾らかの緊張感を抱え神田川沿いに淡路坂を下り、いまの日立本社ビルのある角を曲がって、かつての千代田予備校へと通ったように記憶している。予備校校舎のビルは白い5階建てほどのこじんまりしたビルだったがいまはもうない。住所でいうと神田淡路町二丁目、ちかくの神田駿河台ニコライ堂の青銅色ドームがこのあたりを象徴しているようで異国情緒満点だった。
約束をしたその日、待ち合わせの友は少し遅れるという。駅前の丸善書店や画材店画翠レモンのある姿は変わっていないが、駅舎は改築中で改札口の位置が変わっていた。改札ちかくの山小屋風の「喫茶穂高」はビルに建て替わっていたが、入り口の雰囲気はそのままでいてほっとする。せっかくだから入ってみたかったが、残念ながら日曜日は休業だった。十時前に改札からでてくる友の姿を見つける。笑顔でちょっと照れたような再会のあと、わらわらと歩き出す。
まずは明大通りから右の折れてマロニエ通りを明大リバティータワーの裏手に出ると、通称ヒルトップ、山の上ホテルの姿がみえてくる。五階建てアールデコ調のこじんまりとした佇まいだ。ヴォーリズ建築事務所の設計で1937年の竣工、ホテルとしての開業は戦後の1954年のことだ。正面両脇の銀杏とヒマラヤ杉の大木は当時からのものだろうか。いいアクセントになっていて銀杏のほうはいい具合に全体が色づいている。車寄せから正面入り口へと進み、ほどよい広さのロビーと小さな慎ましい受付カウンターにほっとした気持ちになる。ここで荷物を置かせてもらったら、午後すぎまでぶらぶら都心散歩の時間としよう。
ホテルから駿河台下交差点まで下って、一ッ橋で首都高速高架を潜り抜けると毎日新聞社の入るパレスサイドビルの脇にでる。そのすぐさきは皇居東御苑へ向かう平川橋前で、文字通りの都会の中心に広がる神聖な空間だ。
平川門をくぐってツワブキの黄色い花を眺めながら、二の丸庭園へとすすんでいくと、紅葉には少し早い武蔵野雑木林となる。そこの休憩所で一休みしたら庭園の池周りを一巡り、前方には大手町のオフイスビ群、振り返れば本丸のぽっかりあいたみどりの空間だ。この対比こそが歴史を重ねた空間と現代のダイナミックな姿で素晴らしい。思い立っての休日散歩はなんとも爽やかで、新型コロナウイルス禍の世相から解放された気分になる。
ベンチで日向ぼっこしてしばしの会話で何を話したのだろう。汐見坂から楽部脇をとおって大奥御殿跡の芝生広場をまわり、石垣で囲まれた天守台に上ってみる。ここからの眺望はまさしく今様お殿様気分、丸の内・霞が関・永田町をはじめとする都心が360度見回すことができる場所だ。北の丸公園方面には、日本武道館の青銅色八角屋根上に金色に輝いた擬宝珠がのかって見えている。天空は青く抜けるように晴れ渡った小春日和のひととき。
北詰橋門から下城したら、竹橋駅から地下鉄で四谷三丁目にむかう。地上に出ると新宿通りと外苑東通りの交差点だ。ここらあたりで空腹を満たそうと町中華の時間、「南昌飯店」でこの時期限定というカキのみそ味ラーメンをいただくことにした。給仕のおばさんが陽気でにぎやかしい。
お隣の鳴門たい焼き店で“天然もの”の小豆と金時入りを買う。個別に焼き上げたものを天然、まとめて鉄板で焼いた場合を養殖もの、と呼ぶのだそうでふたりして顔を合わせて納得。通りの反対側にわたって「大阪酢八竹」へと立ち寄り、夜の部屋食用に詰め合わせ寿司をテイクアウト。四谷にこんな名店があるとは知らなかった。
おみやげを手に愛住町を探索することにした。この横丁、おそらく江戸時代の町民区割りそのままで、左側の窪地にむかってお寺が四軒並んでいる。そのむこうと右手外苑東通り方面には、ごく普通の民家が建ち並んでいるさまは都心であることを忘れさせる。新宿繁華街と皇居東宮御所のあいだにあって緑が多く、スーパー丸正、銭湯もあって暮らしやすそうな町のようだ。ここでひとり丸の内ガールして頑張っている若者にエールを!
愛住町をぬけたら、外苑東通りを渡って荒木町の迷路空間にはいり、さらに三栄町公園脇をとおって四谷しんみち通りへとすすむ。休日のせいなのか、人出は少なく休業のお店が多い。お目当ての支那そばやと老舗ジャズ喫茶の前を通るとやはりお休みで立ち寄ることはできなかったが、この次の散策の愉しみとしよう。
ようやく駅前にでると、四谷第三小学校跡にできたばかりの高層ビル、駅のむこうには聖イグナチオ教会と上智大学の校舎群が見えている。
四谷駅から総武線に乗り、水道橋で下車して坂を歩くとすぐにアテネフランセ校舎が現れる。いまでもピンクと紫色のコンクリート壁、ステンレス増築部分が斬新すぎる。その先どことなくロマネスク風アーチの薄明るい入り口が中世修道院の雰囲気を醸し出している文化学院跡(かつて受験して合格はしたけれど入学を躊躇してしまった)にたたずんでみる。ここの創立は大正時代にさかのぼる。和歌山県新宮出身の教育者にして建築家西村伊作の夢の跡だ。
午後三時過ぎ、ようやくヒルトップへと戻った。疲れた足を休め、ゆっくりとするにはちょうどいい時間となった。
山の上ヒルトップホテル。黄金のイチョウ大木が駐車タワーを覆い隠す。手前はかつてのホテル別館跡、火災事故のあとに再開したがほどなく閉館してしまった。結局明治大学に売却されて、その敷地に校舎増築かと思われたが、空き地のまま緑の蔦で囲まれている。白雲たなびく駿河台、明治大学もよいことをしてくれた、どうかかこのままであってほしい。
五階から覗き込んだ地階への階段。
赤絨毯と磨かれたらせん状の手すりが美しく、壁足元回りの渋い色合いのタイルが連続したアクセントとなっていて風格がある。
晴れた休日の昼前、箱根湯本駅を降りると外国人の姿が結構目につく。先月の台風19号から約ひと月、その影響は表面上なく、にぎやかなメインストリートをしばらく歩けば、レトロな洋風建築の湯もち本舗「ちもと」本店につく。まずはここでお土産のお菓子セットを買ってから、国道一号線を左にそれてすぐ、早川にかかる湯本橋をわたると、湯場といわれる箱根湯本温泉発祥の地だ。橋のたもとには、老舗蕎麦屋に行列が並び、正面つきあたりには木造の古い三階建て温泉宿が見えていた。学生時代からもあまり変わらぬたたずまい、昭和の古き良き温泉街の情景が残されていてどこかほっとした気分にさせられるのは、こちらが年齢を重ねたからだろうか。
まずは温泉宿の奥まった熊野神社に参拝する。参道階段のわきでは源泉櫓が今も現役だ。そのすぐ脇に「箱根温泉発祥之地」の碑があり、「百一歳 高橋輿平」と刻まれている。この長寿の主は、この地区の老舗旅館創業者の名前だ。新潟県旧松之山町の出身で、上野御徒町の鮮魚商店として身を起こし、昭和八年(1933)に箱根のこの地に隣接してあった湯本館を買収して「吉池」として開業し、五年後に隣接して売りに出いていた旧三菱財閥岩崎小弥太別邸の買収に成功していまに続いている。なかなかの立志伝中の人物だったらしく、「吉池」の名は田舎生家屋号か、そのちかくにあった池の名をひいたらしいと聞く。
ひとまず参拝のあと、日帰り入浴受付開始時間には間があったので、湯本方向にもどって炭火焼き魚の店「喜之助」で、アベックに挟まれてカウンターで昼食をとる。午後一時半、ふたたび吉池へと戻って受付でタオルを受け取り、長い廊下を通って大浴場室へ進む。五月の母の米寿祝いに泊まって以来だ。まだ、だれも利用客の姿は見えない。大浴場は、かつての温室を利用したというジャングル風風呂でゴムの木が生えている。湯舟はひと泳ぎできるくらいに広くて、湯量が豊富だ。続いて庭園に隣接した露天風呂へ。まだ紅葉に早くてすこし残念だったが、こちらも広々として気持ちが清々する。
午後の陽ざしがでてきて、水面に反射して揺らぎ、湯気を浮き立たせている。ここは自家源泉が六本もある正真正銘のかけ流しで、循環装置なしの自然流下式だそうだ。浴槽内の岩に背中をもたらせ、空の雲を眺めて大きく深呼吸する。股間が漂流物と波間の海藻みたいにゆれるのは愛嬌としよう。どこからともなくアントニオ・カルロス・ジョビン「メディテーション」のメロディーが脳天に浮かんでゆったりと流れてゆく。
湯上りに旧岩崎別邸のなごりをとどめる山月園となずけられた庭園を散策する。一万坪あるという回遊式庭園の大池には、須雲川からの豊富な水が滔々と引き入られていて、何匹もの錦鯉たちが悠々と泳ぎまわっていた。サイフォン式と思われる噴水がいくつかの場所で見受けられて、これは水流が豊富な証拠だ。木造瓦屋根拭きの平屋別荘建物は明治42年(1902)の竣工で岩崎家の恩恵をいまに形として残す。今秋、小田急ロマンスカーCMに庭園風景とともに映像が流され、おもな駅ポスターとして掲出もされている。そのコマーシャルソング「ロマンスをもう一度」(気恥ずかしくなる!)を若手シンガー青葉市子が可憐な声で歌っていて、これがなんとも郷愁と旅愁をかき立てるのだから。
中島にある大きな雪見灯篭は、同じものが大阪城にもあるそうで、明治時代に三菱の財力でこの箱根の地に運び込まれたのだろうか。かつては庭の中央、池を見下ろす場所に明治42年、ジョサイア・コンドル設計の二階建てヴィラ風洋館が建ち、大正12年の関東大震災で倒壊してしまうまで威容を誇っていた。その瀟洒な姿はフロント壁面のモノクロ写真に残っている。そんな庭園にしばらくたたずんでいた。
さあ、晩秋の日はそろそろ傾きつつある。ぶらぶらと駅まで歩いて、帰りはロマンスカー箱根56号湯本発午後3時56分に飛び乗って、家路につくとしよう。
旅館入口にある旧岩崎別邸庭園案内板。岩崎彌之助についても記している。
庭園シンボルツリー、ヒマラヤ杉の大木。大正時代、この右横にコンドル設計の ヴィラがあった。
ソウル滞在二日目の朝、ホテルをでて地下鉄を乗り換え、アングク駅安国洞ちかくの娘おすすめ飲食店「onion」へ。韓国伝統家屋をリノベーションして人気のいまどきベーカリーカフェで、中庭を臨みながらの朝食をとる。ソウル市内でもちょっとした観光地や繁華街にはおしゃれなカフェがたくさんあって、若者や観光客でにぎわっているのは日本と変わらない。
このあたりは、ソウル漢陽都城内の中心にあたり、朝鮮王朝の宮殿遺構がおおく残っている地域だ。そのひとつ町中にある雲峴宮ウンヒョングンを訪れる。韓国歴史ドラマに出てくるような瓦屋根木造の伝統家屋が立ち並んでいる。住居部分の土台は石造りのオンドルと呼ばれる暖房の高床方式になっていて、ほかの建物と回廊でつながっていて、敷地全体は寺院のように壁で囲まれている。
つぎは九代王の成宗が三人の王后のために建てたという広大な昌慶宮を訪れる。通りに面した広場のむこうには、日本でいうところの山門のような巨大な極彩色をまとった敦化門がそびえていて圧倒される。ここから正殿である仁政殿へと続いていくのだけれど、なんだか一見して増上寺か東大寺のような仏閣とそっくりの空間構成に見える。
世界遺産として整備されすぎているのか、信仰空間ではないせいもあって、あまりにもそっけなくガランとして感じられるのだ。そういえば、奈良でも復元された平城京跡はもっと広々とした原っぱに南大門や正殿が建っていたから、政庁跡としてはこのようなものかもしれない。後宮である昌徳宮はさらにそのずうと奥の高台に広がっているようで、たどり着くことができないまま安国駅に戻り、新しくできた施設美術館に併設されたカフェで一休み。
夕方からは観劇予定があったので、地下鉄で昨日と同じ明洞へとでる。人気のロングラン現代劇「Cookin’ NANTAナンタ」を見るためだ。ナンタとは、乱打の韓国読みのことだそうで、キッチン=調理場のコックたちとマネージャー、その甥っ子を主人公にしたこの舞台劇は、1997年10月10日に始まりブロードウェイ進出もはたして、韓国内に専用劇場が三か所もあり、なんと上演22年目を迎える。その韓国に行くなら、ぜひこの目で確かめてみたいからと、事前に予約をしていたのだ。
劇場は繁華街のまさにど真ん中、ユネスコ韓国事務所ビル三階にあった。もしかしたら、そのうちにこの舞台が無形文化遺産として認定される日がくるのかもしれない。講堂かなにかの空間を改造した二階席もある劇場で、だいたい三百人余りくらいの定員だろうか。飲食とグッズ販売コーナーがあってシネマコンプレックスとよく似た雰囲気だ。壁にはその日の上演の俳優写真が出ていて、ロングランのためいくつかのチームが交代で出演しているのがわかる。場内には打楽器のリズムに通奏低音が強調された音楽が流れていて、これからの上演への期待感を高めている。
2019.9.1明洞ナンタ劇場
舞台上には調理場のセットが組まれていて臨場感たっぷり、さあこれから何かとてつもなくワクワクする舞台が始まるぞっ、と思っていたら、音響が大きくなるとともに場内明かりがフェイドアウトしていき、明転したと思ったら男二、女一のコックたちが飛び出してきて舞台が始まる。いきなりハナから引き込まれる展開だ。
ストーリーはいたって単純、三人のコックたちが意地悪なマネージャーのからの無理難題を力をあわせて立ち向かっていく過程をコミカルかつリズミカル、スリリングに描く。その無理難題とは、その日夕方の結婚披露宴の料理を一時間後の午後6時までにデザートまで合わせて完成せよ、というもので助っ人としてマネージャーの甥っ子が送りこまれる。ところがこの男がまたとんでもなく役立たず人物で憎めないキャラクター、すったもんだの悪戦苦闘の末の最後は、四人組力を合わせて調理に取り組んで、なんとか披露宴に間に合わせることができて大結団を迎える。
しばし登場する調理シーンが見もので、韓国の伝統的なサムルノリのリズムで、お鍋をはじめとして台所用品はなんでも楽器と化する。まな板を包丁で叩いたかと思うと、食材をあっという間に切り分け、お玉でフライパンの野菜中身を左端から右端へと渡しながら踊るように調理皿へと振り分けるコック姿の俳優たちの身体能力の高さにビックリさせられる。調理しながらの跳ねたり回転したり宙返りしたりのアクロバットシーンの連続。男優たちの力強い打楽連打シーンもまさしく“NANTA!”の表題通りの見ものだが、キュートな女コック役がへそ部分をくりぬいた調理服姿のまま、長い髪を振り回して跳び回る姿は、まるで歌舞伎の連獅子かサムルノリのシャーマン姿を彷彿とさせて妖艶かつ息をのむくらいの迫力だ。約一時間半のショーのあとは、ちょっとした脱力感に襲われる。
劇場を出ると、休日夜の町中はさらにあふれんばかりのすごい人込みだ。通りの向こうの丘の上に南山ソウルタワーがそびえたつ。せっかくだから、熱気覚ましも兼ねてタワーのある山頂までソウル市街の夜景を眺めにいこう。そう決めてミョンドン通りの賑わいをかきわけぬけると、大通りの地下道を渡り麓途中にあるロープウェイ乗り場を目指す。もう人通りのない緩くくねったうす暗い道中、閉じてしまった個人商店やゲストハウスの看板 が目につく。
一時見えなくなってしまっているタワーのライトアップされ空中に浮かんだ雄姿を思い浮かべながら、いま異国にいるんだ、という感覚がからだを満たしている。ここが家族三人で歩いている路地裏、韓国ソウルなんだ、と。
帰国前日、北村プクチョンの憲法裁判所裏通り。漆喰塀にノウゼンカズラのオレンジが色がよく合う。
それは二十数年ぶりの奈良行きが待ち遠しくて、訪れてみたら過ごす時間のありがたさ、もったいなさに気持ちが静かにふるえていたらしいこと、記憶の彼方からフラッシュバックしてきたかのような既視感におそわれたこと、そしていいしれぬ五感の深まりにあるのだろうか。
奈良に滞在中、夏の兆しを感じることがあった。到着の日の午後、奈良公園をぬけながら鷺池にある浮御堂のベンチに腰かけて眺めたおだやかな風景と風にふかれて咲き始めていた百日紅。二日目はよく晴れて、県庁横のバスターミナル屋上から三百六十度の視界に広がる奈良盆地の山々のみどりがまぶしくて鮮やかだった。その近く依水園の池には真っ白なハスがいくつも咲いていて、瓦のむくり屋根の寧楽美術館をみてまわったあとに、鰻とろろ御飯をいただいた茅葺屋根の家で、床の間にかかる巻物が吹き抜ける風に揺られてカタコトと壁をたたく。南大門を望む庭園にあるネムノ木は咲きだすまではあとすこし。気がつけば水面上をトンボが飛んでいた。
宿のすぐそばの石仏像が幾面も埋め込まれた不思議な頭塔のたたずまい、夜の土塀の続く横町の薄明かり、夕暮れ天神社の頂からのならまちの眺め。昔ながらの商店街をさまよって汗ばんだところで、小さな民家カフェでひと休みして、宿にもどったあとのいくえにも深くてたおやかな夜の時間。
深夜から明け方にかけてふった雨が、早朝にはあがって晴れてきて、馬酔木茂るささやきの道から迷い込んだ春日大社境内。大仏殿から参道をにけて鹿のたわむれる公園散策のあとに、高台の奈良ホテルでしずかに向き合ったアフタヌーンティーの時間、窓の外に鹿の姿がみえた。
滞在最後の九日朝早くにひとり散歩した旧大乗院庭園では、大池水面が鏡のように静かで松の木と赤い欄干の太鼓橋と曇り空を反転して映し込んでいた。随分と前のこと、いまは夢の跡形無きこの地内のJR保養所に泊まって静かな朝を迎えたことがまぼろしみたいだ。
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誰もいない旧大乗院東大池に映る、梅雨の明けきらないあおによしならのなつそら(2019.07.09)
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史跡頭塔(土塔)、奈良時代の僧玄昉の頭が埋められた墓?半分が復元されて、半分は露出のまま。
インドネシアジャワ島ボロブドール遺跡を連想する。瓦屋根の下には浮彫石仏、塔頂には五輪塔。
いったん宿に戻って茶粥の朝食をいただき、帰り支度をすませて高畑町のしずかな住宅街を奈良市写真美術館まで歩く。新薬師寺はそのすぐ隣り合わせというか、美術館を含むあたり一帯がかつての新薬師寺境内だった。境内左手には会津八一の歌碑があり、国宝本堂に入ってのご本尊、十二神将とひさしぶりのご対面、こちらの宿坊に泊めて頂いたのは十一月の冷え込む時期で、はじめての五右衛門風呂で温まった。
しめくくりは、ならまちを巡っての元興寺極楽坊、しぶいな。本堂正面には、極楽曼荼羅にちなんだかのようなハスの鉢の数々。境内に集められた石塔まわりの紫キキョウ、ハギの長い枝がのびてぐるり本堂を囲んで裏手に回ると日焼けしたオレンジ色天平瓦の大屋根がみえた。1994年、壮大な一大絵巻!として東大寺で開かれた世界遺産記念音楽祭「OANIYOSHI LIVE」のときに、ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディラン、ライ・クーダー、喜納昌吉、レナード衛藤、ボン・ジョヴィを聴き、ここの門前旅館に泊まった早朝、境内を散歩してみあげた大屋根瓦だ。
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境内の奈良時代礎石と紫キキョウ、ハギの茜紫はあとすこし。
ひさしぶりの箱根湯本だったけれど、にぎやかな駅前通りをぬけて箱根見番のある一本裏側のとおりにはいると、早川にかかる湯本橋から先に見えてきた風景は、湯のまちらしい風情であまり変わることなくほっとさせられる。橋のたもとには、自然薯つなぎの元祖とうたう「はつ花そば」店舗があって、その向かい木造三階建ての「知客茶屋」もほぼそのままのたたずまい。とおりの突き当たりも、雰囲気のある木造三階建て旅館である。
そこから左に折れた通りの右側一帯がその日の宿「吉池」だ。ひろい玄関前の木製看板が老舗らしく、手水鉢に自家源泉湯がひかれている。一見なんの変哲もない普通の鉄筋コンクリート造りのやや年数の経た旅館にしかみえないが、なかにはいってみると印象がかわる。ロビーが思いのほか広く、正面ガラスの向こうには、植栽の茂る背後の庭からの流れが岩石組を伝わって、錦鯉のゆうゆうと泳ぐ池に落ちていた。
宿の創業は、昭和八年にさかのぼるそうで、初代オーナーは新潟県松之山の出身、いまもその一族が経営を担っている。母の思い出話によると、その伝手をたよったのか、かつてはふるさとの実家によく出入りしていた人の親族が働いていたこともあったという。そんなこともひとつの縁かもしれないと思い、この機会に泊まってみようということになったのだった。
もうひとつの大きな理由は、この旅館の一万坪あまりの広大な庭園敷地の由来に興味をひかれたからである。なんと明治大正昭和初期をとおして、旧三菱財閥の岩崎家三代(弥之助、弥太郎、小弥太)別邸であったこと。明治三十五年(1902)に建てられた木造家屋(平成十年に国登録文化財)が当時の雰囲気をそのまま伝えている。
造営当時の設計は三菱お抱えの建築技師清水仁三郎で、棟梁は柳木政斉、大工は鳥羽からわざわざ呼び寄せたとある。工期が長期にわたったためか、その子孫はこちらの気候が気に入って、いまも江之浦にすみついているという。建物そばの山サクラの大木が咲くころの写真をみると本当に絵になる、という言葉がぴったりだ。あとから移築された德川家ゆかりの茶室真光庵も付属していて、興味はつきない。
庭の中央の芝生広場の大きなヒマラヤ杉のすぐ隣には、ジョナイア・コンドル設計のレンガ造り洋館もあって、当時の様子を映したモノクロ写真がフロント背後の壁面に掲げてある。この洋館が関東大震災で倒壊していなかったら、東京台東区湯島にある旧岩崎庭園の洋館和館と対をなしていただろうにと思うと残念でならない。こちらは江戸時代、越後高田藩主榊原氏の屋敷を当時の新興財閥であった岩崎家が所有したわけだから、箱根湯本の岩崎別邸とはちょうど逆の経緯をたどっており、そこが歴史の偶然の面白いところ。岩崎家と越後高田は、意外なところでつながりがあるものだ。
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箱根湯本 岩崎別邸洋館の面影(J.コンドル設計、1909年)
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幾多の変遷を経た庭園と歴史的な建物、箱根の山中から引き入れた豊かな渓流に緑鮮やかな植栽。
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旧岩崎庭園の新旧を同じアングルから偶然にも撮っていた! 木造平屋の別荘建築は、往年の姿を遺す。
建物右側、屋根をおおうような緑は、みごとな山桜の大木。池の端の灯籠も当時のままで、大きく茂った植栽がながい年月を語る。
それにしても、ロビーに入ってからその先に広がる庭園のいわく有りそうな雰囲気は、やはりそれ相応なものであったということか。あまり(まったく)大きく宣伝されていないおかげで、ゆったり思いのままに池泉回遊式の由緒ある庭園を存分に味わうことができるのだ。
広大な庭を縦横に流れる豊かな渓流は、本館から和館の脇をぬけてさらに奥にある庭園の先へとさかのぼり、須雲川からひきいれたもので、初夏には蛍も飛び舞うらしい。この時期は、水芭蕉によく似たカラーの真っ白な花が咲き誇っていた。
ここの最大の愉しみは、庭園の緑の木々に囲まれた源泉かけ流しの温泉露天風呂。その湯質は単純泉であって、透明でさらさらといつまでも浸かっていてもよく、すばらしく開放的で申し分がない。この時期は、早朝の明けたばかりの陽光が水面に反射するゆらぎのなかで、湯気のなかに静かに身を横たえて深呼吸、手足を伸ばしたり縮めたりしながらゆったりと浸かっていると、浮世の出来事から遠ざかって天国にのぼったような気分になってくるのだ。
ふたたび車両のひととなると小ぶりの饅頭を頬張りつつ、小一時間ほど鉄路に揺られていく。信州松本を訪れるのは、二十数年ぶりで二度目のことだ。降り立った駅前ロータリー周辺は、当時と余り変わっていない。車道を横切りパルコ(なんと松本には80年代からパルコがあり!)の脇をぬけて、しばらく歩いた女鳥羽川手前のふるい洋食屋二階でお昼をとることにした。ミール皿に地もの新鮮野菜サラダをつけたセット、ゆるい流れるひとときがこの先のよき滞在を予感させた。
すこし迷いながら、この日を過ごす松本民芸調度の落ち着いた宿をみつけて、受付で荷をおかせてもらう。まずは城のお堀端まで歩いてバスに乗り、里山辺の松本民芸館へと向かう。林のなかに囲まれていたかのように思っていたら、住宅地からほんのすこし入ったあたりで意外な気がした。長屋門のある佇まいは、後から思い起こせば、白洲次郎・正子夫妻の武相荘に似ているような印象がある。門の前でたまたま通りかかった女性から声をかけてもらい、記念のツーショット、なんとこちらの館長田中さんだった。
長屋門を入ると雑木林の中庭があって、そのむこうがナマコ壁に瓦屋根のL字型家屋がたたずんでいた。ここは二階からのブドウ畑と民家の先のアルプスの山並みが望める窓からの眺めと、吹き抜けを隔てた最後の土蔵を移築したという空間がいい。黒びた板間に置かれたテーブルをウインザーチェアと松本家具の椅子が違和感なく囲んでいる。そのさきの畳の間と塗り壁に天井灯り、障子戸から差し込む外光の気配。
民芸館から宿へ戻って三階へ案内をされるとそこは奥まった角の部屋、二方向に窓があるのがうれしい。大浴場で温まったあとの夜は、ちかくの横丁をぬけた先の蔵構えの居酒屋で野沢菜、桜肉と信州みその茄子田楽をいただき、最後はキノコ入りのおじやで締めることにして、松本の夜は更けてゆく。
翌朝、やはり城下町松本にきたからには、ということで冷えた空気の中をお城まで向かう。今年に入って壁面に漆を塗り直されたばかり、黒々とした野武士のような雄々しい本丸をぐるりと一周して回る。お濠に逆さ姿の本丸が映り込んでいる。
その足で、大正ロマン通りと名付けられた道を女鳥羽川方向へと進み、大橋をわたるとそのたもとには、民芸茶房まるもが以前と変わらない姿で佇んでいる。はじめての松本はここに泊まったのだった。三階建ての三階の部屋だったろうか。宿の格子戸入口もそのままで残っているのが時間が停まっていたかのようだ。
硝子格子のドアを開けると、低い天井の店内、喫茶室のほうは初めてだろうか。年配の先客が何人か、こちらは窓際のテーブルについて、ブレンド珈琲のブラウニセットを注文する。流れている音楽は、ヘンデル1のオペラアリア「オンブラ・マイ・フ」(懐かしい木陰)、1987年の洋酒コマーシャルで耳にした懐かしい一曲だ。あのときのテレビCMは、純白のドレスを纏った黒人女性キャスリーン・バトルが新緑の湖畔で大きく両手を広げて歌う姿があまりにもまぶしく鮮烈でいまでも臨場感をもって脳裏に残っていた。そして久しぶりに再訪した喫茶店の片隅のなかで、その同じ一曲が古い録音の男性歌手のう声、そしてピアノ演奏と繰りかえし流れてくるのことに、不思議な気持ちにさせられるのだった。
松本の旅は、忘れかけていた机の引き出しの中の記憶を呼び起こす。いまを生きる中で、新しい過去が懐かしい未来とつながる。