日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

この夏 小布施から越後妻有へⅡ

2018年08月13日 | 旅行
 小布施の小さな西洋旅籠といった雰囲気の宿で一夜をすごしたあとの目覚め、しばしの微睡、夢のような世界。ようやく寝ぼけ眼で起き出すと、庭には昨夜の台風が去ったあとの木々の緑に雨のしずくが残されていた。そのしずくが時おりの風にふかれて、ぱらぱらと落ちてくるのをよけながら、朝食場所へと移動すると、中庭の木の枝に蜘蛛の巣に雨が光っている。身支度を整えたあとに、部屋の入口の軒さきでハーブティーを飲みながら、デッキテェアに揺られてしばしくつろぐ。
 
 奥には蔵づくりのコーヒー焙煎のお店があり、静岡出身で奥さんの実家である小布施に移住してきたという若きオーナーとしばし雑談をする。テイクアウトのアイスコーヒーも持って、さあいよいよ出発だ。小布施をでるまえに、地元和菓子店に併設されている栗日本人画家の作品を収集展示している「小さな栗の木美術館」に立ち寄る。よく手入れされた緑豊かな流水のある庭園があって、館内は静謐なこじんまりとした小さな空間があり、この雰囲気はとてもいい。

 小さな美術館をでたら、新潟の大地の芸術祭の里へと一路千曲川沿いを走る。台風が去って行ったなごり雲がのこる青空のもと、おおきく眺望がひらけた風景がひろがる。いかしたドライブのおともは、山下達郎「COZY」(1998年リリース)。このアルバムは、達郎&メリサ・マンチェスターとのデュエット「愛の灯」が聴きもの。個人的には、連続朝ドラマのテーマ曲でもあったストリングス入り「ドリーミング・ガール」がとくに大好きな曲。雄大なメロディー、ハミングでこの走りには最高、ぴったりかもしれない。
 北アルプスの山並を眺めながら途中、道の駅「千曲川」に立ち寄ってのランチタイム。地元食材をつかった食事はこなれた盛り付けでおいしかった。しだいに山並が迫る国道ルート117号を北東にのぼっていき、栄村の宮野原で橋をわたると県境、ここからは新潟県域津南町だ。そしてルート沿いの千曲川は、信濃川へと名前を変えてゆく。

 ここをふくむ周辺で「大地の芸術祭」越後妻有アートトリエンナーレが開催されるようになって18年、越後妻有という名称はすっかり浸透したけれど、それまではあまり地元でそう呼ばれることはなかったように思う。いったい、この「妻有」という呼称はどこからきたのだろうかと思って、手元のガイドを参照すると、そのルーツは古く、中世後期の室町・戦国時代の「妻有郷」へと遡り、それが明治の廃藩置県以降すたれてしまったのが、平成にはいって広域観光エリア名称として復活して、芸術祭の名称に取り入れられて有名になった、ということになる。
 芸術祭総合ディレクターの北川フラム氏によれば、「妻有」の語源は「とどのつまり」にあり、地理的に雪深い行き止まりであるところからきているという。その妻有に越後をつなげることで、雪深い山奥の集落に暮らす人々のアイデンティティを表現したのであるというから、なかなかこれは芸術祭の本質につながる非常に興味深い名称だとあらためて思う。
 
 さて、車は十日町の手前でルート117号を右折して、清津峡方面へとむかう。ここからは、時を隔てて、懐かしい情景の記憶がアート作品とともに広がってゆく。その河岸段丘のひろがる情景は、ことばで語るよりも画像がふさわしいだろう。


 真っ直ぐにのびた農道両側の水田の緑と青空と朱の対比が鮮やか。これはアート作品ではないけれど、それと見まごうような巨大な赤鳥居。


 「たくさんの失われた窓のために」(2006)内海昭子
  台風12号が去ったあとの余韻が残る夏空、風はまだ残って強く吹いている。昼過ぎの陽射し、本格的に暑くなってきた。
 

 「ポチョムキン」(2003)カサグランデ&リンターラ建築事務所(フィンランド)
 川辺と欅の大木と北欧ゆかりのモニュメントの対比、かつてここでフラムさんがガイド乗車しバスとたまたま出会った。川面のむかって風に吹かれてのブランコの気持ち良さ。いつか、ここでスイカをほうばってみたい。さて、冬のあたり一面の雪の風景はどうだろうか。 


 「カクラ・クルクル・アット・ツマリ」(2009~)タダン・クリスタント(インドネシア)
 ここへはすこし迷って辿り着いた、出逢いたかった懐かしい風景と音の世界。竹とブリキの風車が奏でるモンスーン地帯の農耕風景、大地への感謝の響き。やがて、あたり一面の田園は実りの秋へと向かうだろう。 

この夏 信濃善光寺から越後妻有へ

2018年08月04日 | 旅行
 ほんとうに久しぶりだ。いつも高速道路で通り過ぎるばかりで、信州長野へ立ち寄ったのは、三十年ぶりくらいだろうか。

 上信越道を長野インターでおりると、そのまま北上してJR線長野駅南口にぶつかる。目指す建物は駅のすぐとなり、まずは宿泊先で荷物をとく。部屋の中でひと休み、これからのたびの旅程をあれこれ思案したあと、まだ日が明るいけれど汗を流しに展望風呂へ。浴室に入ると東から南方向に大きく開けたガラス窓のさきに信州北アルプスの山並がひろがり、眼下には新幹線と平行して在来線のホーム、線路がのびている。ここの浴槽にはまだ誰もいない、またとないだろう一番風呂の愉しみを全身で味わいながらの街並みを俯瞰できる爽快感。

 夕暮れどき、まちにでる。駅舎は建て替えられて新しくなり、以前の寺社建築風の面影を一新してモダンになっている。にぎわう駅前からバスに乗り、やるやかにのびる参道をのぼっての善光寺詣りへ。1998年、いまから二十年前の冬季オリンピックが契機だったのだろう、参道は石畳と植栽で整備されてすっかり整えられている。両側にみやげもの屋や老舗飲食店が連なっているが、もうほとんど人のすがたはなく、しずかな店じまいの時間である。
 仁王門のあたりからずっと宿坊がいくつもならび、このあたりの歩いた記憶が蘇ってくる。仲見世どおりをぬけて山門までいくと、国宝本堂はもう眼の前だ。ふりかえると真っ直ぐ下った表参道の両側に門前町が広がる街並みがよくわかって、言葉もなく感動する。


 夕暮れの善光寺仁王門、ライトアップされた門のあいだから仲見世の灯り、本堂、その背後は大峰山。(2018/07/27 撮影)

 翌朝、台風12号の影響ですこし雨模様のなか、ふたたび善光寺へ。大門ちかくの蔵つくりのお店の囲炉裏端で、汗だくで焼きおやきをいただく。このお店をふくむこの一角、かつての商家や蔵のまちなみを再整備、再生したらしく、植栽の木陰や木のベンチ、露地に入り込んだような先に気の利いたお店がいくつもあって楽しい気分にさせられる。
 途中雨があがって、宿坊街、仲見世をひやかして山門へ、ここは1750年寛永年間の建立で重要文化財。昨夜はできなかった登楼体験をしようと、せまくて急な階段を上がると市街を見下ろせる絶景が待っていた。恐る恐るといった感じでぐるりと一周、赤い欄干の太鼓橋のかかった放生池には、うず紅色の蓮の花が咲く。楼上からの威風堂々とした本堂の姿が美しい。やがて正午の鐘の音が衝かれ、あたりに鳴り響くと、それにつられるように学校かどこかのチャイムの音が流れ出す。その新旧の連鎖におもわず顔がほころぶ。ここ仏の都のひとたちは、古来ずっとこれで生活の時を知るのだろう。
 境内をすすんで、内陣へあがらせていただく。こちら善光寺は創建以来の独立寺院で無宗派であり続け、一光三尊阿弥陀如来がご本尊だ。念願のお戒壇めぐり、ウルシ塗の紅い擦り階段をおりて真っ暗闇を手壁に触れながらそろそろとひとめぐり、ややあっけないくらい。善光寺詣りのハイライトはこうして無事にすませることができた
 
 ふたたび仁王門を通って、ちかくの門前茶寮弥生座でせいろ蒸しの昼食を楽しむ。ここは江戸時代からの町屋を改装して食事処としていて、使っている器類もよくできた民芸品が選ばれている。カウンターの向こうのおおきな戸棚が信州民家らしい。添えられた瓜の漬物もうまかったが、女将のサービスでいただいた手づくりのオレンジとブルーベリーのアイスクリームが口直しに最高で得した気分になる。

 さあ、これから仲見世を冷やかして宿駐車場までもどり、千曲川を超えて一路、小布施のまちへ。長野を拠点としていた建築家宮本忠長が景観づくりに深くかかわった美しく小さい町、北斎と栗菓子のまちだ。そこでゆっくり一泊滞在したあとは、JR飯山線沿いに国道117号、通称善光寺街道を北上していく旅、いよいよ三年ぶりの越後妻有アートトリエンナーレ大地の芸術祭の里山地を訪れよう。


 ハスの花 咲く極楽の浄土にうかぶ三門威風堂々(善光寺の夏)

 

葉山三ケ岡風光絶佳

2018年04月01日 | 旅行
 先週末の早春桜の季節、三浦半島への旅をした。その二日目は、葉山町三ケ岡周辺のまちなみを巡る。寒さが緩み、空気が澄んで陽光がきらめくもと、県道207号からすこしそれて、住宅地のなかを縫うようにのびていく、風化した佐島石を積んだ擁壁の小径をあるいていくのはこのうえなく楽しいひとときだ。
 
 最初に訪れた山口逢春記念館は、新緑萌え出した三ケ岡を背景としてゆるやかな傾斜にいだかれるように、相模湾にむかって明るくひらかれていた。邸宅入口への小路の両側には、サクラ、モクレン、スイセン、ボケなどが盛りで、ゆっくりと玄関まで誘ってくれる。
 邸宅の中の展示は茶の湯がテーマで、逢春の小作品とお茶にまつわるコレクション、茶道具や陶器などが並べられていた。ここの記念館のメインはやはり、吉田五十八が設計した画室空間と相模湾方面にむかってひらかれた大きなガラス窓からのながめだろう。ことにソファにふかく腰をおろして庭をながめてくつろぐのが最高の贅沢だ。
 中庭には、甘夏のだいだい色の果実に足もとはシャガ、クリスマスローズなど、ミモザの木を見上げれば、その枝の先に黄色く色づきはじめた花房が半島の陽光にふさわしく、いまにも咲きだそうとしていた。その先には、これからの初夏に白い大きな花をつける泰山木とここの温暖な風土にあうのだろう、常緑のナギの木も大きく枝をひろげていた。イロハモミジは芽吹きまえで繊細な枝ぶりのさきにエネルギーを蓄えている。
 中庭から眺める画室は、三面のおおきなガラス戸と細身のベランダ手すりのシルエット、そのたたずまいは、すっきりとしてモダンなちいさな美の宝石箱のようだ。



 中庭でひと休みした後に記念館をでたら、住宅地をぬうようにのびる佐島石こみちをぬけていく。このさきにみえてきたのは、葉山を代表する別荘建築といえる旧加地邸だ。ひよこ色の外壁に銅ぶき屋根が年輪を重ねている。正面にたつと、同時期竣工の自由学園講堂との類似もみてとれる。
 昭和二年(1927)の竣工、大谷石の門柱、階段と玄関迄の床のアプローチへの印象が、芦屋にあるF.L.ライトの旧山邑邸(1924)を彷彿とさせるのは、同時期の木造と鉄筋コンクリートの違いがあるにしろ、その両方に弟子の遠藤新(1889-1951)が深くかかわっているのと、なによりもその得難い立地であり、丘の中腹から海に向ってひらけている素晴らしいロケーションだろう。
 若き建築家遠藤新が師ライトのもと旧山邑邸の実施設計で学びつつ試行したかったことを、数年後の湘南葉山の加地邸において、ようやく自身単独の設計で変奏しつつ、表現されているようにも思える。

 ここをあとにして、相模湾にむかって御用邸脇の砂道をぬけて一色公園へむかう。ぽかぽかと暖かくコートを脱いで、砂浜をのぞむ松林の丘の石に腰をかける。すぐ眼の前に、いつかいっしょに見たかった海面の眺めがひらけている。そこからのかたむきかけた春の陽光を反射した波幾重の瀬頭がきらめきいて、時の流れのままに美しい。ちいさく海上のさきに江の島、やがてもうすこしたてば、海のむこうにうっすら富士山のシルエットが浮かびだすだろう。


江之浦からの相模湾、そのむこうには丹沢山

2018年02月07日 | 旅行
 一月の週末午前中、JR根府川駅ホームへと降りたつと、そこからはもう眼前にあっけないくらい圧倒的な相模湾が広がっていた。ホームから跨線橋を渡って熱海からの切符を小さな箱にいれ、改札を通り抜けて小さな水色に塗られた木造駅舎駅舎へとすすむ。若き日の茨木のり子が、終戦後の帰省で通りかかり、
 「東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅 たっぷり栄養のある大きな花の向こうに いつもまっさおな海がひろがっていた」(根府川の海)
と青春のかがやきを記した、まさしくその海の見える駅舎だ。
 もちろん、冬の季節にカンナの花はなく、駅舎前の広場の向こうの土手には、いまが盛り水仙の花の群生が目に入ってくる。そして夏になれば、いまもホーム脇にカンナの花は咲く。

 迎えのシャトルバスに乗りこんで、曲がりくねった旧道135号線を左手に海をみながら、ゆるゆると真鶴方面へとしばらく進むと、やがて目的地の小田原文化財団“江之浦測候所”へ到着する。
 バスを降りてゆるやかな坂道をのぼると室町時代に鎌倉に建てられたあと、幾度かの変遷をへてここに移築された明月門が目に入ってくる。その先がガラス張りの待合棟、右手相模湾方向に突き出すように、直線で百メートルあるという、ギャラリー棟がまっすぐに伸びていた。

 そこの高台からは、相模湾の広大な蒼い海原が澄んだ碧い冬空のもとに望める。目線のさきの海岸線の続くむこうに小さく小田原市街が見えていて、その背後には低く東方向に曽我丘陵、そして相模湾へ流れ込むように三浦半島が伸びていた。小田原市街地のさきの曽我丘陵を抱くように、大きく左手に連なってるのは、大山と丹沢の山並みだ。冬の季節にふさわしく、黒い山肌に鮮やかな白雪模様を交えていた。いつも自宅から眺めている方向からは、百八十度移動して廻り込んでいて、逆方向に連なっていく山並みのパノラマ風景が不思議なくらい新鮮に見える。はるか遠くまで視界がさえぎられることがなく、澄み切った大気の中をすうっと気持ちよく伸びていく解放感と壮快さは得難いものがある。そうだ、かつてはここに一面のミカン畑がひろがっていたのだ。

 ここになんと思いがけず、といった感じの京都市電の軌道敷石を敷き詰めた(廃止前に乗った記憶がある)という庭園をぬけて、茶室「雨聴天」へとすすむ。あの京都大山崎、待庵の寸法を写し取ったつくり。床の間掛け軸には「日々是口実」とあり、そこは庵主杉本博司らしい過剰な諧謔趣味とウイットを感じる。このすぐ近くには天正18年(1590)小田原合戦の際に、豊臣秀吉の命で野点を献じた千利休ゆかりの天正庵跡があって、この茶室の屋根は地元の古びたミカン小屋のトタン屋根が使われている。雨の日にはトタン屋根をたたく雨音を聴きながら、お茶を喫すことが風流だとばかりの“有頂天”な庵主の顔が浮かぶ。にじり口の踏み石は、割れ目の入った厚みのある光硝子で、四季の移り変わりを取り込み、春分秋分の日の出には組石造りの鳥居を通して陽光が輝くのだそうだ。
 杉本流現代侘び寂びの世界、利休そしてM.デュシャンへのオマージュなのか。草庵の手前両脇には、ほころびはじめた白梅と紅梅が対になって植えられてあってその構図は、熱海MOA美術館で昨日見てきたばかりの尾形光琳「紅白梅図屏風」を思い起こさせた。

 ここの野外舞台石畳の客席からは、海面がまぶしく光ってみえていて、その洋上には初島や伊豆大島、そして真鶴半島も望める。冬の空、晴れ渡った太陽のひかりは明るく、海から吹く風は野外にたたずむ身にはまだ冷たい。
 こんなとき日本海側の故郷の新潟は大雪だろう。こうしていてもしんしんとふり続くふるさとの雪とそこに暮らす生活を思う。


 江之浦からの相模湾。遥か先には白雪まだら模様、大山丹沢の山並みがみえる。(2018.01.27)


 “冬至光遥拝隧道”と命名された寂びた鋼鉄製通路の先端のさきに相模湾の水平線が切り取られ、ふた筋の潮のみちがうねる。

四条大橋西詰 東華菜館と喫茶室フランソワ

2017年12月21日 | 旅行
 その日のお昼過ぎ、妙喜庵を辞した後は、待庵のある生け垣を横目にみながらわき道をぬけて、少し離れた阪急大山崎駅まで歩き、そこから一路四条河原町まで出る。あすの聴竹居との初対面にむけて、ちょっとした気持ちの切り替えに街中へと、でもこれがまたなかなかの建築三昧のひととき。

 すこし遅めのランチを四条大橋西詰たもと、東華菜館でとることにしていた。W.M.ヴォーリズによる大正十五(1926)年竣工の五階建て、もともとは西洋レストランで、現在はあとを引き継いで老舗北京料理店となっている。反対側東詰にある、同時期の昭和二年(1927)竣工、当時の最先端建築様式だった表現派風デザインの外観をみせるレストラン菊水と対になるレトロモダン建築で、来るたびにいつも気になっていた。
 全体の外観と屋根瓦はいちおうスパニシュッ・バロック様式といわれているが、中に入ったアラベスク文様や特徴のある塔奥のデザインはイスラム様式の雰囲気を遺していて、とにかく不思議な印象がする建物だ。正面玄関のファサードからしてすごい。テラコッタ製のライオン、魚、タコ、貝などが踊っていて、訪問者をにぎにぎしく出迎えてくれる。右手のエレベータは、1924年製造アメリカ輸入のOTIS製とのことで、蛇腹式扉、時計式のフロア表示、運転は手動式で当時の最新式設備にびっくり。ちなみに外観で目立つあの塔屋なかは、エレベーター機械室なのだそう。
 四階についてうやうやしく窓際席に案内されると、そこからは南北にのびる鴨川と改修工事中の南座大屋根と祇園の街並みをみおろせて、東山から清水方面を展望できる風光絶佳のながめが拡がって、おおいなる感動ものなのだ。凝った床面の埋め込み模様、オリジナル家具調度の類もなんとも重厚で年代を感じさせるから、思わず背筋がしゅんと伸びる。
 ここでいただいた料理は、名物の水餃子に酢豚、生菜包(海鮮ミンチ炒めを新鮮なレタス菜で包んでたべる)にビールで二人前五千円は、たっぷりのお茶のサービスに建物の歴史的価値、そこからの眺めも入れて十分なくらいのお値打ちだと思う。これはぜひ、夏の川床や屋上のビアガーデンのころになったら、また訪れてみたいものだ。

 大橋をわたって四条通を祇園方面へそぞろ歩きすると、夕刻でさらに人出がましたのか混雑していた。もうひとつの目的地、京都現代美術館「何必館」へ立ち寄る。一階がギャラリーでここに入ると表の雑踏とは大きく異なる静謐な空間が広がっている。山口薫、村上華岳、魯山人の作品と対面、山口薫の絵画を意識してみるのは初めてだ。ここの印象はやはり、茶室のある最上階空間の空中庭園、光庭の印象である。館オーナーの隙のない美意識に敬意を表したいところだが、そのよく演出されたこだわりにちょっとした綻びをみつけてしまって、まあそれも人間らしい一面だろうと思う。

 ふたたび四条大橋を渡って、先斗町を通り抜け、廃校になった元小学校前でUターン、四条の交差点から高瀬川のすぐ横の通りをくだり突き当たった先に貫録のある白壁に瓦の建物が目に入ってくる。その村上重本店で冬の時期の名物、かぶらの千枚漬けを買い求める。この小さな通りは、雑踏からすこし抜け出ただけで落ち着いていて、両側には個性的なお店が並びなかなかのいい雰囲気だ。
 ひと昔前に一度泊まったことのある小さな旅館の玄関ももかわらぬ佇まいで健在だった。三階建ての裏に回ると高瀬川のせせらぎに面していて、こちらの部屋でそのせせらぎを眺めながらおいしい朝ごはんをいただいた記憶がよみがえった。ほんと、こんなところがあるんだ、京の都のふところの深さ、街中の町屋でゆっくり寛げてよかったなあ、こんどは桜の季節に泊まってみたらいいだろうな。

 もうひとつ、名店めぐりはつづく。おしまいに立ち寄った、喫茶室フランソワも変わらぬことの良さを感じさせるお店の代表格。じつに昭和九年の創業というから、この時世において愛されてるのはほんとうに立派で奇跡的というしかない。小さな扉の先は別世界、給仕するアルバイト女性たちの制服が、なんだか西洋メイドさんのようですてきだった。思いのほか、若いカップルや男性も多い。壁面の木製飾りのねじりアーチが印象的、かつての画家や文化人たちが集ったというその同じ白い空間でほっとひと息つく。

 京の街中、澄んだ夕暮れに肩寄せてのあちこちそぞろ歩きは、ノスタルジックでいいな。すっかり夕暮れた河原町交差点に出て高島屋の地下へと下り、阪急で大山崎への帰路につく。

妙喜庵から聴竹居へ そのⅠ 市中の山居

2017年12月16日 | 旅行
 年の暮れ、冬至まであと二週間というこの時期、念願かなって関西方面を旅してきた。

 早朝の新横浜から新幹線で名古屋まで行き、そこで在来線へ乗り換えて大垣経由関ヶ原を超えて、お昼前に大津へ到着した。駅前のなじみのお蕎麦屋さんで昼食をとったあとは、湖方面へむかってゆるやかな下りを歩き、大津港横の広場へと出る。花崗岩列柱が二列にならぶここの広場全体のモニュメントは、彫刻家井上武吉の遺作(1997)になる。やや広すぎてさびしい感じがする広場の中央にほつんと一本の楠がシンボルツリーとして植えられていた。もうすこし年月がたって楠が大木となり、周囲の半円上の石段が遺跡のように古びれば、もっと全体の見立てがよくなるだろう。

 その広場でしばらく佇んで湖面をながめているうちに小雨が降り出し、ちかくの遊歩道を三井寺まで詣でることにした。参道から山門をくぐるとすっかり紅葉が落ちてしまって地面を覆っていた。本堂まですすみ、参拝記念に近江八景のひとつ、三井の晩鐘を衝かせていただく。思いのほか長い余韻が響きわたり、その間手をあわせてこの旅の無事を祈った。
 高台に上って、はるか市街と琵琶湖方面を展望する。しだいに夕暮れがせまるなか雨が増してくる。京阪浜大津から、宿最寄りの石場駅までゆき、その日は琵琶湖畔で一泊した。大浴場からの夜景がきらめく。
 翌日、まだうす暗い空が朝焼けの湖面ともにしだいに透明に輝きだすと、湖をぐるりとめぐる近江の山並みのシルエットが浮かびだしてくる。この日は快晴になるだろう、その夜明けの雄大な自然の情景を心象の中に刻もう。
 すこしねぼけの目覚めにぴったり、金柑の自家製コンポートをいただく。金柑は冬至の七草のひとつなんだそうで、名前に「ン」がつく食べ物は“運盛り”とも言われて縁起がよいという。
 湖畔にでて、ひんやり空気の中を大津プリンスホテル目指してそろそろと歩く。風はすこしあるが静かな湖面に波はわずかでやはり湖国はいい。シャトルバスで大津駅まで乗せてもらう。

 ふたたび大津から東海道線に乗り、約三十分ほど、京都駅を過ぎて天王山ふもとの小さな駅舎で下車する。ここは山城国乙訓郡大山崎町、山崎駅のホームはずれが京都と大阪の国境となっている地だ。歴史的には戦国時代に秀吉と光秀の天下取り古戦場となり、地理的には桂・宇治・木津の三川が合流して淀川となって大阪湾へとくだっていくところ。
 まずは荷物を駅前の宿に預けてから、駅前広場のすぐ横の生け垣に囲まれた妙喜庵を訪ねる。まったく拍子抜けする位に駅の目の前で、すぐそこに高名な国宝茶室があるなんてにわかに信じられないくらい、でも確かにあるのだ。ここは東福寺につらなる臨済宗の小庵だそうで、思っていたより若い50歳前後の住職がてきばきと出迎えてくれる。
 さっそく案内をいただき書院へすすむ。すぐ目の前には小さいけれど、よく手入れされた植木、庭石と苔のすがしがしい庭が目に入る。まさしく、いまは市井のなかの山居といったたたずまいだ。その茶室は書院に付属してすぐ目の前にあった。独立した茶室だとばかり思い込んでいたのでこれはまったく不意打ちをくらったような意外なことだった。

 いったん庭に降りて、南側の躙り口のある正面にまわり、茶室待庵とのはじめての対面である。ややひろめの躙り口、東側の障子窓からひかりはすでになく、二畳敷の室内は薄暗いが濃厚な気配が漂う。黒ずんで練り込まれた藁の茎がはがれて模様のようになった塗壁に囲まれたムダのない、というかスキのない内空間と表現したらいいのだろうか。なんだかどろりとした薄眼をあけた肉厚で質感のつまった、それでいて柔軟な利休の気配のようなものを感じる。ここで利休と秀吉が対面いや対峙したときの四百年余り前の時代の空気を想像してみる。その遺構は、正面の床の間、角がとられた床柱、塗壁、斜めの化粧天上などに残っている気配がしていた。隅に切られた炉は使われていなくなって久しいというから、いちおう窯はおいてあるもののだだの飾りにすぎない。
 次の間は一畳板間付、茶の間と一間のしきり襖には木枠がなくて全体が障子張りとなっている。建物の外壁は、もちろん何度となく塗り直されていることだろう。こちらの住職によれば、午前中早く東側の障子明りが差し込む時間と午後からとでは、当然ながら室内の様子がことなるといっていた。やはり、これは機会をつくって、ぜひ午前中の光の内に訪れてみなくてはならないだろう。

 すこし、息を抜いてみようとあらためて庭を見回す。ふと、モッコクの木の横、茶室の南西の門にあたる位置に珍しいナギの木が植わっていることに気がつく。熊野権現のご神木で八咫烏とともに描かれる南方系の常緑樹だ。この小さな庵に植えられたのは近年のことだろうがとりあわせが面白い。
 書院にもどって茶室の水屋につながる入り口をみる。広間からは一段下がったつくりになっていて、一畳ほどの広さだ。この茶室が陣中にあったという天正十年(1582年)六月、利休が秀吉に茶をたてるために水屋をくぐっていく様子を想像してみよう。

 帰ってから、赤瀬川原平「千利休 無言の前衛」(1990、あとがきには1989.12.19と記されている)を開き直す。中ほどの129頁「待庵の秘密」の項には、赤瀬川さんの描いた「待庵空間」と題する著者のイラストが掲載されいる。その一見脱力感あふれるイラストと本物の印象を対比すると、この茶室の語りつくせない本質の一面がみえてくるのではないかと思う。まさしく簡素な「無言の前衛」という言葉のなかに、この草庵茶室と千利休という歴史的存在の本質が言い当てられている。

 今宵の駅前の宿は、三階建てのひよこ色の壁に木枠縁飾りの窓、プチホテルといった風情で、一階にベーカリーと喫茶室、二階に雑貨屋を併設している。翌日、ここから線路を渡ってすこし山麓を上っていけば、いよいよ念願の聴竹居との対面だ。

 
 京都府乙訓郡大山崎町小字竜光56。正面にある門柱に、ここの小禅庵の歴史的史跡事項が刻まれる。
 
(2017/12/16 書き始め、12/18初校校了)



九月の都電、小さなセンチメンタル・ジャーニー

2017年09月29日 | 旅行
 ことしの九月が過ぎていこうとしている。先月末からいつになくいろんなことがつぎつぎと起きては過ぎ去っていった日々だった。なんだか慌しくもあり、そのなかで忘れない情景の中の時間と記憶を振り返ってみる。

 ほんとうに久しぶりで都電に乗って、雑司kヶ谷鬼子母神を訪れる機会がああった。遠路はるばる友人が来てくれて、新宿駅南口構内のドトールコーヒーショップ前で待ち合わせる。さきに到着していた友人は、髪を短くしえてさっぱりと、白いrシャツにロングスカート姿がまぶしい。お互いに笑顔をあわせると「急いできて暑かったの」と、背中にいっぱいの汗。それからいっしょに山手線で恵比寿へと向かう。前から訪づれてみたかった東京都写真美術館で開催中の「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-」を見てまわる。途中のコーナーには、自宅ベランダから見える豪徳寺周辺の空が日々写されてあって、そのモノクロームの世界に込められたせつない情感と人間臭さに胸がツンとふるえた。
 美術館をでて、中庭で開催中の物産市を覗いてから、山手線をまたぐアメリカ橋のすぐ脇にある古いアメリカンブリッジビルの階段を上って、二階のお店「ローカルインディア」へ入った。座ったテーブル側の窓からは、行きかう電車を眺めることができる絶好のポジション、友人はお気に入りでここにくると寄るらしい。ここからの眺めととりとめのない会話を楽しみながら、カレーランチをとる。

 食事の後は電車に乗り目白まで行き、建築家吉村順三のオフイスだったギャラリーで「葉山 海の家」展をじっくりみる。それからバスに乗って目白台の和敬塾前で降り、そこの洋館を横目でみながら新しく整備された肥後細川庭園を巡ったあとは、神田川沿いをぶらぶら歩いて駒塚橋を渡り、正面にリーガロイヤルホテルを見て右方向、早稲田通りの停留所から都電に乗り込んだ。

 ゆっくりと動き出した二両編成の後方車両座席は進行方向とは反対向きで、ふたつめの停留所「面影橋」を過ぎると大きく右方向に曲がって、明治通りと並行した専用軌道勾配をゆるやかに上っていく。このすこし勾配のある学習院脇を通り抜けるときの高揚感が、なんとなく小学生の遠足気分に誘われるようでわくわくとしてくる。
 やがて目白通りにかかる千登世橋の下をくぐったかと思うと、明治通りをそれてあっという間に「鬼子母神前」停留所に着く。ここから歩いてすぐに欅並木参道入口アーチが迎えてくれる。都会のど真ん中ににありながら鄙びた雰囲気が漂い、鎮守の杜へとつながるなんとも懐かしいアプローチだ。

 (2017/09/10 撮影)
 
 欅並木参道の両側には、ふるい長屋を利用したカフェや金工細工・アクセサリーの店、仕立て屋、陶器金継ぎのお店など、こんなところこんな雰囲気のショップがあったらいいなあと思えるような佇まいに、ふたりあちこちと覗き込みながらのそぞろ歩き。友人によると家探しをテーマにしたテレビドラマシリーズの舞台に取り上げられたことがあって、いちど訪れてみたいと思っていたんだそうで、横顔がうれしそう。このあたりのアパートなら、いちど住んでみたいなあ、と話しながら。
 
 参道の並木が終わるところで左直角方向に曲がると古い家屋の先に、銀杏の大木が四方に大きく枝を伸ばしている。ここは村の鎮守、そんなことばが鬼子母神にはよく似合う。最近できた立派なトイレがあった。境内中央にはトタン屋根の駄菓子屋さんが変わらずに佇んでいて、田舎のこどものころに戻ったような懐かしさが溢れる。ここで駄菓子をおねだりされてみたり、店番のおばあさんのことばがとってもやさしいよ。
 正面本堂へ進んでのお参り、それからたくさんの赤い鳥居が奉納されたちょっと不思議な雰囲気の一角を通り抜けて、ふたたびさきほどの参道にもどる。
 
 ようやく目白駅の方向に向かって歩きだせば、日が暮れてきたことに気がついて、いままですごした時間と情景にノスタルジックな気分、夢みたいだ。やがて辿りついた駅舎の向こうには、新宿の高層ビルのあかりが摩天楼のことく瞬きはじめている。
 
 九月の夕暮れ、虫の声、季節はもう秋。いつか眺めた風景をみたび行ったりきたり、無口になるふたりのセンチメンタルな旅、1984-2017-。

小暑七夕、静岡への旅

2017年07月12日 | 旅行
 早朝、私鉄の終点小田原でJR東海道線に乗換える。相模湾から駿河湾へと連なる風景を眺めながら、在来線を乗り継ぎ、西へと向かう旅。空模様は曇りだけれども、おそらく雨降りにはならないだろう。根府川ホームでしばらくの停車、遠く水平線の境目がつながっているように見えるくらいの明るさ。
 そうして約二時間ほど、車窓を眺めながら西方へと移動につれて海辺が近づいたり、街並みの向こうに隠れたりしながら、午前十時半すこし前に静岡駅に到着した。そのまま構内新幹線改札前での待ち合わせ時間を待つ間、ほんとうにうまく再会できるのだろうかという思いは、うす空色のショールをまとった夏姿を改札の向こうに見つけたことで杞憂に終わった。ゆっくりとした静岡の時間がはじまる。

 まずはシャトルバスに乗りこみ、日本平へ向かう。駅から南に下って約三十分、標高三百メートルほどの小高い丘陵にひらかれたゴルフコースに隣接したホテルの芝生広場は、南東方向にひらけていて清水港と三保の松原のむこうに駿河湾が一望できる風光絶佳の眺め。もしこの暑さによる水蒸気が上がっていなければ、東方の山並みの視線の向こうには、日本平の名にふさわしく富士の霊峰が望めるはずだ。芝生のなかの木陰に入れば、海の方向から吹き上ってくるそよ風がひたすら心地いい。谷の向こうからウグイスの鳴く声がきこえてくる。のんびり、ゆったりとした時間が過ぎていく。
 ホテルのラウンジに戻って、ガラス越しの芝生に点在するいくつかの庭石と緑と遠い海を眺めながら冷たい飲み物でひと休み。ここでは、地上の喧噪は遠い世界のことのようだ、ほんのすこしの距離なのに。


 晴れてきた日本平から清水港、三保の松原を望む(2017.07.07)

 ふたたびシャトルバスで街中にもどったら、遅めのランチをとったあとに駅の反対側、駿府城公園口へと出て歩き出す。その名の通り、中心に池を配した日本庭園を抱えるようにして、浮月楼と呼ばれる日本家屋と中層ビルに囲まれた一角。駅前からすぐなのにそこには大木が茂ってこころもちか少し涼しい。 
 こじんまりとした庭園の植栽のうち、そのシンボルは水辺に枝を伸ばして緑陰を作り出しているハル楡と日本家屋の脇にある大きな泰山木だろう。泰山木は庭から見上げてもわからないけれど、建物八階の窓から眺めると大きな白いよく目立つ花をいくつか付けている。もう少し早い時期なら、たくさんの花々模様が緑に映えて見事なことだろう。もうひとつ珍しいのは、その泰山木のすぐ近くで見つけた温暖系樹木ナギの木で、厚手の青々とした葉を茂らせている。神がつかわした八咫烏がくわえている姿として描かれ、縁起モノとして尊ばれていたりする。
 もともとの庭園中央池のなりたちは、安倍川の伏流水が噴出して集まってできたものらしく、復原されたと思われるせせらぎが二方向から注ぎ込んでいた。橋の手前には蘇鉄、竹林、半夏生、百日紅など、説明書には作庭小川治平衛とあるけれど、現在の姿からはその面影は薄い。かなり当時の敷地が失われてしまっているのだろう、それでも貴重な緑と歴史的遺構がいまに健在で活用されているはいいことだ。
 池に架かる弓反り橋に立って眺める向かいのお茶室は、ライトアップされると壁面の黄金色が妖しくて、外からは想像ができない情景だろう。そのまぶしさに惑わされたのか、池の水面に月の浮かぶ姿が映っていたのかどうかは、見損ねてしまっている。

 夜の静岡の街中をそぞろ歩き、駿府城公園の手前までいって暗くなってしまった園内に入ることはあきらめた。市庁舎の角から繁華街の方向へもどって、宿の近くの渋いたたずまいの居酒屋へ入る。大正時代の創業なのだそうで、にぎわっていて、まちなかでみんなに愛されいるのがその中に入った瞬間から伝わってくる。安くておいしく、昭和時代の堆積した空間でしばしの寛ぎ、よき静岡の七夕の夜。
(2017.07.12 書出し、07.16 初校)

喫茶去でココアを

2016年11月20日 | 旅行
 冬支度のため新潟に向かう。圏央道経由で藤岡ジャンクションから信越道に入って、一路ふるさとへ。
 
 碓氷峠のトンネルを抜けた妙義山のあたりでは、雨雲に隠れて奇岩の連なりは見ることができない。小諸までくると雨は上がってきて、右手方向のさきに浅間山の雄大なすそ野が広がっていた。長野から須坂の先、小布施サービスエリアで二回目の休憩をとる。駐車場の向こうには戸隠飯綱連峰が望める。またすこし雨模様になってくる。このさきの県境ちかくになると雄大な妙高山がみえるはずなのだが、あいにくの天候で上から半分は雲に覆われてしまっていた。

 上越高田インターチェンジを下りたのが午後三時過ぎで、ここから高田市街を抜けて、刈取りの澄んだ田園地帯をひたすら東へと走ってゆく。やがて平野が頚城丘陵へと入るあたり、雨脚は次第に強くなり、山高津字鞍馬というところで沿道に民家を改装した軒先の白い暖簾が飛び込んでくる。鞍馬とは気をひく名前だが、戦国時代の武将上杉謙信にちなんだ名前だという。
 このあたりではまったく珍しい喫茶専門店だ。だいぶ前の帰省の折に立ち寄って以来、変わらずに営業を続けている様子になんだか嬉しくなり、玄関前に車を停めて中をうかがう。吹き抜けの天井に黒々とした梁が組まれた空間、土間にいくつかのテーブルを並べた店内に客は誰もいない。まだ三十代くらいの若い夫婦らしきふたりの姿がみえた。ミシン台を再利用したテーブルの椅子に座って呼吸をすると、すこし煤けた匂いが残っている。温かい飲み物が欲しくなって、ココアを注文した。

 ココアを飲みながら、吉野登美子「琴はしずかに」の頁をめくる。その副題にあるように、齢三十歳前で夭折した詩人八木重吉の妻が、出逢いから死別までのわずか六年ほどの思い出について、詩人没後五十年を機に回想して綴られた文章である。この著者は、旧高田藩士であって日本画家だった父をもつひとで、まさしくふるさとゆかりのひとだ。一方の八木重吉は多摩のはずれ、旧堺村相原生まれで豪農の二男のクリスチャン、夫人とは池袋の下宿先で家庭教師とその生徒の関係で知り合ったことをきっかけに、生涯の伴侶となっていく。まことに短い生涯であった分、その無垢な魂の交流の純度は、痛々しいくらい崇高に感じられる。夫人は夫との死別後、数年して愛するこどもたちを次々と結核で失いながらも夫の原稿を守り抜き、戦後は巡り合った高名な歌人の吉野秀雄と再婚したのちも、吉野の理解のもと八木との魂の交流を描くことなく、平成十年にその稀有な人生の長寿を全うされた。

 本書では、夫人が幼い時代を過ごした明治期の高田時代のことや、吉野秀雄との出逢いについては殆ど触れられていないのが残念なことだ。その中でふたりが新婚時代を過ごした兵庫県御影時代の様子が記されている。それによると、ココアは重吉の好物であったそうで、英語教師であった重吉が勤務から帰ると、まずココアを飲んでから詩作に励んだのだそうである。

 さて、ここからふるさとの家まではひとつ峠を越えたら、もうすぐだ。


 落ち着いた構えの“喫茶去”骨董と手作りケーキの店とある。
 喫茶去とは、禅語で「お茶をどうぞ」の意。さり気げなくも人生の極意を表わす。
 店の脇には、移築された鋳物製の外灯が地方文明開化を感じさせる。

薫風大山詣で

2016年05月22日 | 旅行
 相模国大山、シンプルでそのものズバリのいい名前だ。

 現代における大山詣では、鉄道、バス、上り参道を徒歩で、最後のケーブルカ―に乗り継ぐことで、あっさりと行くことができる。阿夫利神社にお祭りしてある大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)は、美人の誉れ高い木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)の父神にあたるんだとか。ということは大山と富士山とは信仰上、関係が深いことになる。

 爽やかな五月晴れの休日、友人二人と待ち合わせて小田急線で合流し、伊勢原駅からバスに乗ること約30分で終点の大山ケーブル下に到着する。そのさきの両側にみやげ物屋や食事処が並ぶレトロな雰囲気の通称“こま参道”を通り抜ければ、ケーブルカー乗り場だ。五十年ぶりに更新された新型車両は、大阪で製造された後、大型トレーラーでヤビツ峠にあるヘリポート基地まで運ばれ、そこからはなんと空輸で吊り下げられて、ケーブル駅仮設置場まで移動したのだそう。レール、枕木とケーブルを更新し、車体枠は旧型をそのまま利用して組み立てを現場で行い、すべて完成したのが昨年九月のこと。それから八か月、鮮やかなブリリアントグリーンの車両が新緑の季節にいっそう映えている。このフロントに太いゴールドと細めのレッドラインをあしらったスタイリッシュなデザインは、いささかまぶしすぎて面はゆい感じもするが、室内に入ってみると円弧を描いた高い木目天上と、広いガラス窓から注ぐ明るい陽光が、日常からすこし離れての観光気分を盛り上げてくれる。

 午前十時過ぎ、そのケールカーに乗って緑のトンネルを抜ける遥か下界の真っ直ぐ先に、うっすら江の島が望める。そうしているうちに、五分余りで終点駅ホームへ着いた。そこからすこしまわり込んで見上げた先の参道石段を上ると大山阿夫利神社の下社拝殿前にたどり着く。久しぶりと振り返れば、視野一杯に広がる相模平野と相模湾が飛び込んできた。やや右方向の高取山の先、相模湾に面して横に細長く大磯丘陵が伸びていて、中継塔の突き出たあたりが湘南平か。ここ標高約七百メートルからの眺めは、天上から下界を俯瞰するといった感がある。陽を透かしての周囲のモミジの新緑が目にしみいる。その緑陰でたたずむと、吹き渡る涼風の心地よさにしばしゆったりと寛ぐ。

 拝殿の左手に回ると浅間神社があって、大山と富士山の関係が記されている。正面に掲げられた祭り神は木花咲耶姫と姉君の磐長姫で、神道に詳しい同行の友人によると、姉妹神両方の名前が記されてるのは珍しいという。とくに磐長姫は神話の世界では最初に名前が記されるのみで、その後の存在が不明のちょっとミステリアスな雰囲気の女神なのだそう。そんな話をこの場所で聴くのも面白いものだ。

 参拝を果たしてから、ふたたびケーブルカーに戻って下山し、こま参道をひやかしながら、地元産きゃらぶき新物と山椒昆布焚きを土産に買ってから、大山講宿坊の面影を残すとうふ料理屋でひと休み。お座敷からは広くはないけれど手入れされた小さな池と風情ある庭が望める。食事をしているとその庭先から、まるで計らったかのようなタイミングでウグイスの鳴声が聴こえてくる。なんとまあ機微をわきまえたウグイスなのだろうと、耳を澄ましながらうれしくなって思わず雰囲気がなごんだ。
 いのち溢れるよい季節、今夜は満月の夜だ。


 大山阿夫利神社下社境内から、相模平野と相模湾方面を望む(2016.05.22)

 2016.05.22初校、24改定