日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

明治神宮外苑周辺を歩く

2017年07月23日 | 音楽
 この夏、新装なった日本青年館ホールの竣工記念演奏会を聴きに、久しぶりに都心に出る。ちょうど三年後に迫った2020年東京オリンピックの開閉会式場、陸上会場となる新国立競技場建設のため、旧敷地を提供して外苑前駅寄りに新築移転したのだ。
 東京駅から中央線快速を四谷駅で各駅停車に乗換えて、最寄りの千駄ヶ谷駅でおりる。駅前の東京体育館を横切ったさきのぽっかり生まれた空き地に大型クレーンが林立している。ここが新国立競技場の建設現場で、いまは基礎工事の真っ最中だ。
 その設計コンペ選考結果を巡ってひと騒動の末、当選したザハ・ハディド設計案の白紙撤回、そして再公募による隈研吾+大成建設案による新プラン決定を経てのようやくの着工開始だ。いっそのこと、名誉ある撤退か、五十年前のオリンピックの遺産である旧競技場の改修案、あるいはここがもし建築物がなにもない大都会に出現した原っぱのままでいこうという英断がなされていたならば、未来にむかっての豊かな環境形成におおきく貢献していただろうと夢想する。はたして、いまここに三年後のオリンピックを迎える高揚感はあるだろうか。
 暑さのせいもあって、いささか重苦しい雰囲気が漂う巨大クレーンのそのむこうには、外苑聖徳記念絵画館を巡る緑がひろがっていて、都心の高層ビルがスカイラインを突き破って立ち並んでいる。
 
 外苑西通りを日本青年館へとむかって歩く。この季節のこの時刻まだ日は長く、演奏会開演までにはまだ少し時間がある。通り沿い行列店、ホープ軒のカウンターに連なり、白濁スープのラーメンでお腹を満たすことにした。外観が黄色のビルは、間口は長いが奥行きは極端にせまく、厨房のすく先に裏通りが見えている。もとはタクシー運転手が深夜立ち寄るうちに、次第に評判を呼んで繁盛店となっていった古くからの店舗をそのラーメンの売り上げだけで、ついに四階建てのカミソリ型ビルを建てるにおよんだのだろうか。
 すぐさきの仙寿院トンネルの交差点、その角には窓がまったくない巨大な白い箱型のビクター音楽スタジオビルがある。ここではサザンオールスターズをはじめ、有名ミュージシャンのレコーディングがいくつも行われていて、ポピュラー音楽業界では有名な場所らしい。たしか、原由子さんの新聞連載エッセイで読んだかな。

 その交差点を渡った通りの右側は、いまは再整備のため、高い鉄板にかこまれてしまってる。かつての明治公園および古びた都営霞が丘住宅があった場所だと気がつく。そのまま少し進んで、旧日本青年館のあった場所を右折して神宮球場が近づいてくると、見えてくるのが15階建の真新しい建物、一般財団法人日本青年館ビルだ。
 一階のエントランスとロビーは、通りに沿って間口は長いがさほど広さは感じられない。建物二階から四階に新しいホールを内包し、そのうえの中層階がオフイスフロア、そして九階以上の高層階が宿泊施設となっている。前に比べると敷地が狭くなった分を高層化していて、やや味気ない感じがするのは仕方ないか。せっかくだから、九階のホテルフロントまであがってみる。エレベーターをでた先のロビーは全面ガラス張りの眺望のよさで、なんと神宮球場を一望に見下ろすことができる。もちろん、外苑周辺の森一帯や秩父宮ラグビー場、青山通り沿いや港区方面の高層ビルなどもこれぞ都会風景!といった感じでそのままに望める。このあたりでは貴重な公共的ホテルは八月一日が正式オープンとのことで、いまは招待客の宿泊期間中で、本番開業の予行演習もかねているらしい。フロントスタッフの様子がどことなく見習い風の雰囲気がしたのはそのせいだろうか?まあ、余り気取られるよりも、そのほうがいいかな。

 しだいに球場のカクテル光線がきらめきだす。内外野スタンドがそくぞくと観客で埋まりだした。フィールドでは、キャラクターのぬいぐるみたちとチアガールたちの華やかなショーが始まっている。今夜はプロ野球の公式戦があるらしい。そのうちに選手たちがベンチ入りをはじめた。やっぱり、こころから野球を楽しむには、ドーム内ではなく、屋外で汗をかきながらでなくては!

 その夕暮れの空のもとに広がる情景に見とれながら、ロビーのソファーで、再読をはじめた村上春樹×川上未映子「みみずくは黄昏に飛び立つ」の読みかけの頁をめくる。この都心には、みみずくは棲息してはいないだろうけれども、ひょっとしたら明治神宮の深い杜には、野生のコノハズクくらいは何羽か棲みついていてもおかしくないだろう。そのコノハズクは球場のカクテル光線が消えた後に、夕暮れのビル街を飛び回っているのかもしれない。


 新国立競技場建設のクレーン、左側の黒い影は東京体育館の屋根(2017.07.22)


 日本青年館ホテル九階ロビーからの眺め。神宮球場の芝生、秩父宮ラグビー場と青山通りのビル群。

 夜の演奏会のほうは「日欧室内楽の夕べ」のタイトルにふさわしく、前半が筝・尺八・津軽三味線の邦楽器三重奏、A.ドヴォルジャークの弦楽三重奏、さらにその両方の全楽器がジョイントした現代曲「アース・スペクトル」(これが美しいアンサンブルでよかった)、後半が男性兄弟ピアノデュオによるリスト「ハンガリー狂詩曲」、A.ピアソラのモダンタンゴをジャズ風にアレンジ、最後が全員による現代曲でにぎやかなフィナーレ。なんとも真新しい舞台に映えての明るくまぶしい印象の演奏だった。

 演奏会が終わってまだ日中の暑さが残るなか、もうすこし都会のさんざめきの余韻を楽しもうという気分になる。ほんとうに久しぶり、外苑前から青山通りをそのまま表参道入口まで歩いて地下鉄駅にもぐると、ちょうどやってきた郊外乗り入れの列車に乗って帰ることにしよう。

(2017.7.23 大暑の日に記す)

追記:この文章をアップした翌日、青山通りの老舗ベーカリー「アンデルセン」の閉店ニュースを夕刊新聞で目にした。広島市中心街にレンガ造りの本店があって、住まいのちかくのデパートにも支店があるが、ここはシャレた青山通りに面した暖かい雰囲気のレストランを併設した大好きな店で、若き友人がしばらくの間、アルバイトをしていたのを思い出す。今月31日までの営業だそうだが、それまでにもういちど訪れてれてみることは叶うだろうか。

春お彼岸のバースデー

2017年03月20日 | 音楽
 春のお彼岸中日、昼の長さと夜の長さが半分半分となる日、太陽が真東から昇って真西に沈む「春分の日」である。ということは、きょうからは昼間の時間のほうがすこしづつ長くなっていくわけで、ソメイヨシノのサクラ前線も気がつけば、あと一週間ほどで中部から関東地方へとやってくる季節となった。

 この記憶すべき春分の日に重なった今日は、1955年生まれのエムズ62thバースデー! ファンとしてはやはりうれしく、その記念にささやかながら祝意を表して、ちょうど十年前の2007年にリリースされたアルバム「デニム」を聴く。プロデュースは山下達郎&竹内まりやご両人名義、アレンジと演奏には名古屋発の長いバンド歴を持つ、センチメンタル・シティ・ロマンスが参加していて、このアルバムのいつもと違った多彩な色合い、方向性を決めていると思う。その「シンクロニシティ(素敵な偶然)」「人生の扉」の2曲は、いずれも聴くほどに履きなれたジーンズのようになじんできて、忘れることのできない懐かしさを呼び起こすような魅力を感じさせる大好きな曲。
 演奏メンバーのクレジットを見るとピアノは細井豊、ペダル・スティールギターと間奏マンドリンソロは告井延隆と記されており、NHK「ソングス」での映像が記憶によみがえる。その映像は八ヶ岳高原音楽堂で収録されたもので、終わりにタイトル曲「人生の扉」が歌われていたのを鮮やかに思い出す。
 アルバムでは、一曲に松たか子がバックコーラスに参加して華を添えている。
 
 このアルバムは、冒頭の「君住む街角」以外は、すべてご本人の作詞作曲で、とくにラスト曲「人生の扉」は、五十代となった彼女からの同世代に向けたアンサーソング、応援歌、人生讃歌と呼べる珠玉の一曲だろう。最初の頃はそれほど感じなかったのだけれど、聴くほどにしみじみと胸に沁み込んでくるのは、そのストレートなメッセージがまさしくいまの自分がその世代と重なって同感することが多々あり、とっても勇気づけられるからだろうと思う。
 ジャケット写真が写された建物は、おそらくは故郷出雲の門前にたたずむ老舗日本旅館と思われ、瓦屋根、畳部屋、その縁側、ふすまに障子戸、庭園の緑と、ここにも不思議な懐かしさが満ちている。スリムなデニム姿に白シャツ、またはノースリーブ、夏を感じさせる素足がいい。いつか、出雲大社を訪れたときに泊まることができたらと思う、きっとね。

 歌詞の一節、「気がつけば五十路を超えた私がいる」とは、まさしくただそのとおり、「信じられない早さで時は過ぎ去ると知ってしまったから」日々を後悔のないように生きていきたい、現実はなかなかそうは簡単にいかないけれど。そして「五十代はナイス=素敵だ」といえるような過ごし方を自問自答しながら、そう思い至れる僥倖の日々は確かにあったし、これからもそうあってほしいと願っている自分が在る。
 二十代のときのあの出逢いがなければ、その僥倖の日々は訪れてくれなかっただろうし、三十代、四十代はあっという間に過ぎして待ったような気がするのに、良くも悪くも確実にいまにつながっているのだと、お彼岸の中日、運命の不思議さに感じ入る。
 
 

大磯へ、県道63号線線を南下する

2016年12月29日 | 音楽
 大磯と相模原の間にどんなつながりがあるのだろう。その両者のイメージにはまるで結びつく要素などなさそうに思えていたのだけれど、地図を眺めていてひとつある符丁のようなものに気がついた。それは県道63号線、通称相模原大磯線と呼ばれる地方道路の存在である。
 県道63号線を相相模湾に面した大磯町国府本郷まで南下していくと、終点の国道1号線にぶつかるあたりには、ちょうど大磯プリンスホテルが立地している。そのすこし北には「月京(がっきょう)」という不思議な響きの地名も残っていて、古代に相模国府がおかれていた地域であると推定されている地域でもあり、どのような歴史的意味が込められているのだろうと不思議に思っていた。
 
 この県道63号線は、大磯から北に向かうとすぐに東海道新幹線高架をくぐり、平塚から伊勢原市内で小田急線、東名高速道路と交わり、厚木から愛川と抜けたあと、高田橋で相模川を渡る。そこからは相模原市田名となり、橋本の少し北手前で国道16号線にぶつかる、ざっと三十キロメートルあまりのルートになろうか。相模川より西側よりを南下して、相模湾にいたるこのつながりをどのようなキーワードで捉えることができるのか、これまで全く思いつかなかった地名が「湘南」である。それにしても、海に面した大磯はともかく内陸の相模原が湘南で括れるのかと思っていたら、明治時代中期の旧津久井郡にその名もずばり「湘南村」が存在していたのだった。1906年(明治39)創立「湘南小学校」がいまも相模川右岸の山間の道沿いに忽然という感じであるのは、その様な歴史があるからだ。なにしろ、この小学校ときたら旧湘南中学、いまの湘南高校より15年も古いというから、ちょっとした驚きである。

 「湘南」のもともとの語源ルーツは、中国内陸の湖南省の洞庭湖に注ぐ河川、湘江周辺の景勝地を指している。禅宗とゆかりが深い地域で、日本でも水墨画的光景で知られる桂林あたりが代表的な名勝になる。とすれば、山中湖を洞庭湖、相模川を湘江に見立てれば、山梨から相模原あたりの渓谷沿いの地域こそ、日本の元祖「湘南」と呼ぶこともあながち見当外れではないだろうという気がしてきた。中国名所と似たような国内地形を本家に見立てることは、日本が大陸文化を取り入れる場合によく行われてきたことであるから。
 いま、湘南といったら相模湾に面した茅ヶ崎・藤沢あたりから逗子・葉山にかけての海岸地域のイメージが強いけれども、なんのことはない、もともとは内陸の渓谷沿いの景勝地を指していたわけで、相模川上流地域の旧津久井郡内の二村が、明治22年の合併の際に湘南村と名づけたことについては、それなりの妥当性?もしくは当時の村長に先見性があったと軍配をあげたくなる。当時の知識人、とくに自由民権運動を先導した人にとっては、「湘南」の二文字には中国文化、漢詩や室町時代に渡来して広まった禅の世界への憧れが反映しているからこそ、輝いてみえていたのだろう。

 いまの大磯はどうだろう。東海道線の相模湾に面した小さな駅舎だが、降り立つとどことなく落ち着いた品格を感じさせるのは、元祖湘南の地の高級別荘地としての歴史的ブランド力なのだろう。手前、平塚の花水川あたりから、前方にこんもりとしたお椀の伏せたような高麗山を望むと、そのふもとには旧東海道の松並木が残っていて、宿場町だったころの雰囲気が感じられる古き街道だ。高麗や唐ケ原といった地名にも中国大陸や朝鮮半島との交流の歴史を遺していて、どことなくミステリアスな気分になる。
 国道一号線を進んで大磯駅前、大磯港を過ぎたあたりの両側は、明治維新以降の殊勲者たちの別荘が立林していた時代の面影を残す風格ある地域が広がる。豪商の邸宅跡なら、駅前すぐの聖ステパノ学園・沢田喜美記念館となっている三菱財閥岩崎家と、県立城山公園となっている三旧井家邸宅など。
 くわえて、西行ゆかりの地でもあり俳諧道場として名高い鴫立庵や、意外にもといった感じの旧島崎藤村旧宅やその墓がある地福寺の存在がある。また、同志社学祖新島襄は旅の途中、旅館百足屋において47歳でなくなっており、ここ大磯の国道脇が終焉の地なのである。
 随分と前のことになるけれど、ここを散歩していると偶然、劇作家で評論家の故福田恒存旧宅のその標札を見かけた。そしてなんといっても、大磯はあの村上春樹の住まいがあることでそのステータスを高めるだろう。かつて村上は鵠沼に住んでいたというから、よっぽど湘南海岸あたりの別荘地がお好きなのか、あるいは出身地兵庫の芦屋あたりの風景に近いものがあるからなのだろうか。

 ここにもし、旧三井邸敷地内に存在した国宝茶室如庵が犬山市に移築されずに邸宅とあわせてそのまま残り、伊藤博文旧邸宅滄浪閣が旧吉田茂邸とともに保存公開され、湘南ゆかりの禅の臨済宗名刹があって、さらにF.L.ライトか遠藤新設計の別荘などが建っていたら、一層のこと建築巡礼の聖地として名をあげていたのにと夢想する。たとえば、芦屋の旧山邑邸ヨドコウ迎賓館(大磯羽白山のふもと高田公園あたりの地形とよく似ている)、西宮の旧甲子園ホテルのように。

 山側に上って小一時間、湘南平からの相模湾の広がりは、まさしくいまの澄み切った冬の空気のなか絶景、西方に真白き富士山の威容が、末広がりの裾野までまぶしく輝やかせて、神々しいくらいだろう。
 来春、プリンスホテルに温泉施設が新装開業する工事が進んでいる。その時期、村上春樹の新作小説が発表されたら持参し、ライトグリーンのデミオに乗って行ってみよう。行きのルートは県道63号線を南下して、帰りは海岸沿い国道一号線を東へ向かって。

(2016.12.23書出し、12.29初校)

1941年、ボブ・ディランとポール・サイモンは同い年生まれ

2016年11月03日 | 音楽
 11月はじめ曇り空のもと、まほろ天満宮の骨董市へ行ってきた。駅改札をでてすぐのマクドナルドでまずは朝マック。ここの店舗は、ガラス張り円筒形二階建ての造りで元平和相互銀行だったところだ。その二階の席からは街中が見渡せる。その昔、広島アンデルセン本店が旧日本銀行広島支店銀行なのを知り、しかもその設計が長野宇平治であることに驚かされたが、ここも元銀行の融資フロアがいまはファーストフード店というのがなんとも不思議で、時代の変転を物語っていている。正面にはジーンズ専門のマルカワ本店が見えている。ここの建物外観は、シースルーエスカレーターにイルミネーションつきのエレベータと、いまとなっては懐かしい1980年前後の流行の香りを漂よわせている。

 駅から街頭をぬけて約十分ほど歩くと、同じ目的で会場へと向かう人々の流れに合流する。JR横浜線跨線橋を渡ると、もうすぐに雑多な陳列品が並ぶ境内入口に至る。思いのほか、外国人の姿が目について、交わす言葉に耳を傾けているとフランス語、韓国語が聞こえてきて、その姿格好からするとおそらくは在日なのか、エキゾチック・ジャパンを目指して、はるばると東京郊外まで熱心に足を延ばしているのだろう。
 しばらく境内を見て歩くと、ちょうど欲しかった美濃焼だろうか、夫婦湯飲み茶わんが格安値段で出ていた。作者名書き入りの桐箱つきで、骨董初心者としてはちょっとした満足感をくすぐられるようですぐに手に入れる。あとは、軽く流してアンティークジュエリーで掘り出し物があればくらいの気持ちで見て回るのは、休日初日にふさわしく楽しいものだ。駅近くのはずれまで戻って、地中海料理「コシード・デ・ソル」で昼食。店主が標榜する地中海料理の中身は、スペインやイタリア風のメニューのようで、安くて美味しいから、平日も近くのホワイトカラーやアベックたちでたいそうにぎわっている。

 ボブ・ディランがノーベル文学賞発表後二週間の沈黙をへて、事務当局に対して受賞の意志を伝えていたことが先月末に報道された。沈黙の理由として「受賞に唖然として、何というべきか言葉を失っていた」というのだから、七十五歳の年齢もあわせて考えると、実に等身大のディランがそこにいて、世間並みの人間臭さを感じさせたものだ。これは、やはり素直に喜ばしい出来事で彼が述べたとおり、「素晴らしい、最高だ。いったい誰がこんなことを想像しただろう」に違いない。

 そこで、ふと思ったのはこの次に受賞してもおかしくないミュージシャンは誰だろうということ。すぐに頭に浮かんだのは、ポール・サイモンで、この二人年代的にも近いと思って調べてみたら、なんと1941年生まれの同い年でディランが五月生まれ、ポールが10月生まれである。となると、今回のニュースを知って真っ先にそのように思ったのは、初期の頃ディランに影響を受けて詞を書き始めたと公言しているポール・サイモン自身かもしれないと想像する。もうひとり、ここのところの日本人の文学賞受賞予想候補の常連、村上春樹の場合はどうだろうか。これは大方の予想としては、ディランの受賞によってより可能性が高まったとみるのが妥当だろう。
 
 
 村上春樹自身が「三十六歳の誕生日に第一校が完成した」と語っている『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年刊)には、ディランの「激しい雨」(1963年の「フリーホリーイン」収録、1976年アルバムタイトル)の一節が引かれていて、その歌声は「まるで小さな子が窓に立って雨降るをじっと見つめているような声なんです」と形容されている。ひとつの楽曲が、二十年を経て日本のひとつの小説作品世界に象徴的に登場し、ようやく五十年を経て世界文学の可能性を拡げたと公認されたのだから、小さな波紋の広がりと時間軸の長さを示していて、その事実の前にしばしの沈黙が生じるもやむなし、と思うのだ。
 ともかくもこの機会に発売と同時に買ったあと本棚にしまい込まれたままの「世界の終わりに」向き合ってみよう。その中で「激しい雨」はどう響くのだろうか。

ボブ・ディランを巡るノーベル文学賞騒動と村上春樹はどう関係するか?

2016年10月28日 | 音楽
 昨今のボブ・ディランを巡るノーベル文学賞受賞騒ぎの中でふと蘇った記憶に、1980年ころだったか大学入学試験が終わった帰り、回り道をして田安門から北の丸公園に入って、日本武道館の脇を通りかかったその時に、正面入口真上に大きく「ボブ・ディラン武道館公演」の看板が掲げられているのを見かけた。そうか、今夜があの有名なアメリカ人歌手の来日公演が行われるのかと知り、ここに開演時間まで残っていてその歌を聴いてみたいような衝動というか、たまたま遭遇した同時代性にひどく興奮した思い出がある。

 また、ボブ・ディランの詞については、本屋へいくたびに晶文社から出されていた片桐ユズル、中山容両氏による「全訳詞集」の厚い背表紙を音楽関係書籍の棚で見かけては、その中身を確かめないまま気になっていたのだった。最近まで存在した京都の同志社大学近くの喫茶店「ほんやら胴」には、そのディランに代表されるカウンターカルチャーの匂いが濃厚に残っていた。その昔、京都へのフリー旅の際に、ヒッピームーブメント名残のある店の前を通りかかっては、その中を覗き込んでみたい衝動に駆られつつも、ついぞ果たせせないまま建物自体は消失してしまった。まったく、ボブ・ディランの存在の壁は高かったのである。
 いくつかの有名な曲、たとえば「くよくするなよ」「風に吹かれて」などは、カバー曲としてほかの歌い手による歌唱は聴いたことはあった。前者は、なんと70年代アイドル歌手シンシアこと南沙織のアルバムで取り上げられていて、実に素直な歌唱のシンプルないいメロディーだと感じたし、後者のほうは、この曲を有名にしたピーター・ポール&マリーの三人組によるものだった。何故かどうしても、作者本人のアルバムに向き合って聴いてみようとすることは、その後の三十六年の間ついぞなく、ディランの名前だけが心の隅に引っかかかったままだった。あの初期の頃のそっけなささえあるしわがれ声や時代に立ち向かう社会的な姿勢に勝手に気おくれし、苦手意識を持っていただけなのかもしれない。

 それが昨今の騒ぎのなかで、向き合うきっかけを与えられたというか、機が熟して時間の流れがその気にさせてくれたのか、ようやく先週末に「フリーホーリン・ボブ・ディラン」を手に入れて聴きだしている。これは1963年5月発売の二枚目のアルバムで、「風に吹かれて」、そして「くよくよするなよ」といった、よく知られる曲が含まれている。なによりも、アルバムジャケット写真が当時のブロンド長髪の恋人と手を組んだ姿で、雪の積もったニューヨーク街頭を歩く若き日のディランを捉えているのが興味をひく。アルバム裏写真はさらにそのアップで、よくディランがこの写真の使用を了解したものだと不思議に思えるくらい、いまも変わらぬ普通の二十代前半の恋人どうしの微笑ましい姿だ。その愛らしいイタリア移民系の恋人、スーズ・ロトロこそがディラン本人に公民権運動とのかかわりをもたらし、人種差別や反核運動に関心を持たせた存在だった。その女性は、数年前に此の世を去っていると知った時に、やはり時代の流れの中の感慨を覚えずにはいられない。
 ノーベル文学賞のニュース映像の中には、当時の面影がいまも残るこの通りから中継をしてる局があって、なかなか気が利いていると感心してしまった。もしかしたら、音楽ファンの中でこの通りは、ロンドンのアビーロードスタジオ前通りと並んで、ニューヨークではもっとも有名な通りの光景、観光名所になるのかもしれない。

 さて、そのアルバム、収録曲訳詞は、すべて片桐ユズル氏によるもの。
 この中の「はげしい雨が降る」が聴いてみたかった曲のひとつで、村上春樹が36歳の時の書き下ろし「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月発行)に引用されている、と今月中旬の「天声人語」に紹介されている。当時のキューバ危機によるアメリカとの緊張が高まり、核戦争が現実性を増す中で作られた曲であることは、この小説を構想するムラカミハルキの頭にもあったのだろうと想像するに難くない。そうであれば、当のディランが受賞したのだから、次のムラカミ文学の受賞も近いのでは?また、ミュージシャンの受賞により、文学の定義を拡げようとしたのであれば、映画監督、たとえばマーティン・スコセッシや亡くなってしまったアンジェイ・ワイダの受賞も十分ありあることだろうと思う。

 この曲の誕生から半世紀近くがたった今年、オバマ大統領の意志により両国の国交はひとまず回復し、「時代は変わる」ことが実感されたかのように思える。しかし、ディランによれば、この歌詞の真意には「人々から自分で考えることを奪ってしまうような、メディアで流される嘘っぱちの情報」のことも歌っていたのだというから、その時代を見通す感性の鋭さに驚かされるばかりだ。
 戦争ではなくとも、原子力エネルギーによる放射能汚染の環境危機とインターネットで情報があふれかえり、世界がつながったかのように思い込まされるこの時代こそ、「はげしい雨」の中の歌声に耳を澄ますことが何よりも必要とされているだろう。

 そのボブ・ディランは、ノーベル命日の12月10日にストックホルムで予定されているーベル文学賞受賞式に、はたして顔を表すのだろうか? タキシード姿で受賞講演にのぞみ、ストックホルム市庁舎の晩餐会で乾杯するディランの姿など想像できなくて、いっそのこと北欧の国民的音楽家シべリウスゆかりのホールで受賞記念コンサートを行ったらどうかと空想していたら、ノーベル財団事務局のコメントがあって、受賞講演を受賞コンサートとすることも可能らしい。それならば、これまでのディラン側の沈黙は、授賞式当日のサプライズにむけての、財団事務当局とのひそかな約束事なのかもしれない、と思ってみたりもする。

(2016.10.27書出し、10.28初校了)

70´sバイブレーション~佐野元春「新しい夜明け」

2015年12月14日 | 音楽
 前回、鳥取の植田正治写真美術館を訪れる佐野元春のことに触れた。それに誘発されてこの夏に横浜で開催された、1970年代日本ポピュラー音楽文化をめぐる展覧会の関連イベントとして行われた彼のトークショーの様子について記すことにする。なお、この記述はわたしが直接会場で体験したものではなく、後日の録音からメモした資料をもとにしている。

 八月二日、新港埠頭の赤レンガ倉庫3Fホール、トークのお相手は、60年代から70年代にかけての同時代アメリカン・カウンターカルチャーの生き証人、ビートニク派詩人で今様ボヘミアンのムロケンさん、16時スタート。全体の進行構成は、お二人が70年代を中心に影響を受けた、またはエポックメイキング的と思われる欧米のポピュラー曲をそれぞれ六曲づつセレクトしてきたものを流して、その曲そのものの魅力と時代に与えた影響を語り合うというもの。最初は、ムロケンさんからの選曲。

1.オーティス・レディング「サイティスファクション」(1967)
2.ジミー・ヘンドリックス「星条旗よ、永遠なれ」(1969 ウッドストック・ライブ)
3.クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング「ティーチ・ユア・チィルドレン」(1970)
4.ニール・ヤング「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」(1970)
5.グレイトルフ・デッド「トラッキン」(1970)
6.ジョニ・ミッチェル、CSN&Y「ゲット・トゥゲザー」(1969)

 1は、黒人人気シンガーが白人であるローリングストーンズの有名曲をカバーしたという事実が人種の垣根を越えた象徴的事例とされたもの。2は伝説のウッドストックコンサートライブ音源、次第に電気的に増幅され、歪んだアメリカ国歌メロディーと増加するノイズ音を初めて聴く。当時の時代状況の中では、じつに衝撃的かつ象徴的なパフォーマンスだったのだろう。3は爽やかなメロディーとハーモニーに乗せて、当時の世代間対立をシニカルに歌っている。この曲を聴くと思い浮かべるのは、映画「小さな恋のメロディー」で、CSN&Yよりも、よりハーモニーの美しさとエモーショナルさで、ビージーズ三兄弟の歌う「ラブ・サムバディ」の印象のほうが強い、特にイントロのハープとパーカッション。
 6は様々な世代や地域、信条の対立を乗り越えようと呼びかけた60年代を象徴する曲との解説だったがその背景がよく呑み込めていない。
 
 後半は、佐野元春のセレクト曲で何を選ぶのか興味深々だったが、以下の通り。

1.リッキー・リー・ジョーンズ「チャッキーズ・イン・ラブ」(1979)
2.ヴァン・モリソン「クレイジー・ラブ」(1970)
3.エルトン・ジョン「テイク・ミー・ザ・パイロット」(1970)
4.ジョニ・ミッチェル「ヘルプ・ミー」(1974)
5.ミルトン・ナシメント「ブリッジ」(1968)
6.ザ・バンド+etc 「アイ・シャルビー・リリースド」(1976)

 意外にも指向性にとらわれない選曲、若かりし頃の佐野元春は素直だった?そんな感じがしたのは私だけだろうか。特定のエッジをきかせ方を発揮するのではなくて、間口が広くて柔軟性がある。
 最初のリッキー・リー・ジョーンズのデビュー曲はリアルタイムで聴いていた唯一の曲。このセレクトはなかなか親しみを持たせる始まりだった。4曲目、ジョニ・ミッチェルは大好きな歌手のひとりで、この後の変貌ぶりに目をみはった。20年くらい前の奈良東大寺境内での世界遺産ライブが記憶に残る。5のミルトン・ナシメントは唯一欧米意外のアーティストでブラジルの至宝、この曲はサイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」と並ぶ同時代のメモリアル楽曲だろう。6の作者は、もちろんボブ・ディランの超有名曲で、閉塞感ただよう時代にこそ、自由を希求して歌い継がれるものだろう。

 おふたりの対話の中で音楽以外に出てきたもの、おもな人名や書籍のタイトルはつぎのとおり。
 精神分析フロイドとユング、「カッコーの巣の上で」、「結ぼれ」D.H.レイン、ビート世代文学を代表してアレン・ギンズバークとジョン・ケルアック「オン・ザ・ロード」(最近見たこれを原作とした映画のほうはつまらなかったが)、1970年スタートの世界環境の日アースデーに関連して、チャールズ.A.ライク「緑色革命」(1970)、B.フラー「宇宙船地球号」(1969)、S.ブランド「全地球カタログ」(1968)、アン・アローベル「地球の上に生きる」は、いずれも転換期の時代にもうひとつの選択や価値観を示したものとみなされる。いまはまた時代がひとめぐりして、大震災と津波や原発放射能問題などにより、当時の課題が再考されるときが来ているのだろうと思う。



青い影 水の影 月の影

2015年11月28日 | 音楽
 関越道を六日町ICでおりて、夕暮れの田舎道253号線を西に向かってひた走る。途中のトンネルをいくつか抜けると、雨が止んで下り峠の先、黒々とした雲の切れ目から日没後の暗闇に至る直前の輝きが見えていた。その情景を眺めながら、頭の中では自然とあるメロディーが巡りだす。
 冒頭のハモンドオルガンによる教会カンタータ風メロディーが印象的な「青い影」は、イギリスのロックバンド、プロコルハルムの1967年デビュー曲である。原題は“A whiter shade of pale”で、直訳すると“境界の蒼白な色合い”ということになろうか。夕暮れ時なのか、または夜明け前の白々した時間帯の地平なのか、いずれかを連想させるようなタイトルがこの曲調にふさわしい。バンド名はラテン語で“遥かむこうの彼方に”とでもいったような意味らしく、このデビュー曲タイトル名とも共鳴して、なにやら暗示的ですらある。
 
 

 先週末11月20日、関越道経由で新潟へ帰省していて、日曜夕方に戻ってきたばかり。ずうと車中流していたのは、松任谷由美のデビュー40周年記念ベスト盤三枚組(2012.11.20発売)、帰省した日と偶然一緒!だった。そのラストを飾るメモリアル曲がプロコルハルムをフューチャーした「青い影」。アルバムリーフレットに目を通してみると、この一曲だけは、わざわざイギリス本国のアビーロードスタジオにプロコルハルムを招いてのレコーディングとの記載があって、ユーミン自身の長年のこだわりがようやく成就したことをうかがわせる。ご本人がインタビューで語るところによると、いまに至る音楽の原点にあたる曲であって、ひときわ想い入れの深い曲であるようだ。その一端は、曲目構成にも現れていて、「青い影」直前におかれた曲はご本人のデビュー曲「ひこうき雲」(1973.11.20リリース)であり、ベストアルバム発売をこのデビュー曲の発売日と同じにしたのは、時系列の連鎖を意識したものだろう!
 この曲は白血病と思われる不治の病で若くして昇天していったひとを追悼する曲であり、オルガンのイントロが印象的だ。おそらく「青い影」から影響をうけて、その曲に敬意をもって捧げているに違いないと想像する。デビュー曲なのに、いやだからこそ現在に至るユーミンの資質がすでに現われていて、詞に描かれた世界、メロディーともに記念碑的な曲。

 この三枚組アルバムの中で、もうひとつ心に残っている曲がある。それは1980年のアルバム「時のないホテル」のラストに収録されていた「水の影」。人生や恋の別離を綴ったミステリアスな歌詞とマイナーな曲調、とりわけ間奏のヴァイオリン独奏が印象的で、初めて聴いたときから惹かれ、それはいまも変わらない魅力を放つ。その歌詞の第一節は次のようにはじまる。作詞はもちろんユーミン。

 たとえ異国の白い街でも 風がのどかなとなり町でも 
 私はたぶん同じ旅人 遠いイマージュ水面におとす
 時は川 きのうは岸辺 人はみなゴンドラに乗り 
 いつか離れて 思い出に手をふるの

どことなく、現世から彼岸に向かっていくような、かすかに死の予感を漂わせた不思議な感覚に陥り、光とともに揺らいでいる水の影は、いったい何を映したものなのだろうか、といつも思う。


 最後は“月の影”。

 故郷の実家の庭先からすこし下がった先に旧小学校のグランドが広がっている。夜の就寝前、二階のべランドからは周囲のしんとした杉の木立のシルエットが望めて、その先に続けて寂々とした冬空が広がり、南天上の雲の切れ目に上弦の月が浮かんでいた。時おり忘れたくらいの感覚で家の前の道を車のヘッドライトが通り過ぎていき、少し耳を澄ませると川の水音が聴こえてくるくらいの侘しい山間に沈んだ里。
 取り立ててなんのとりえもないようなこの過疎の山肌の集落が、かつては“月影”と呼ばれている地区と知ったら、おおよその他人は拍子抜けがしてしまうことだろう。ここにある二十一世紀のはじまりに閉校してしまった旧小学校舎の校歌作詞者は、糸魚川出身の良寛研究家で詩人・書家の相馬御風。旧校地にはその歌詞が刻まれた記念碑がたつ。わが母校、なのである。その校歌は古風な七五調で、次の通りにはじまる。

 永久にさやけき月影のその名において幾千歳
   
(2015.11.26 書初め 11.28校了、12.3改定、画像追加)

スマホとホームWi-Fiのこと

2015年10月04日 | 音楽
 ここのところ、といっても八月中旬から九月にかけてのことだけれども、長く変化のなかった時代遅れの電子通信をめぐる個人的環境に相次いで変化があった。
 具体的には、まず八月十八日、これまでの携帯電話をスマートフォンに移行することに。シャープ製の“シンプルスマホ”という初心者向けの操作性の簡易なもので、OSはグーグル社のアンドロイドらしい(実は、IT関係はあまり詳しくないのだ)。どうして移行したのかというと、娘がアップル社アイフォーン機に変えたため、一台使用していない機器が生じていたためでこの機会に遅まきながらようやく時流に乗ることができたという、極めて消極的な事情から。でも、インターネット接続機能やカメラ機能で撮りためたスナップ画像については、従来のガラケーでは不満足で閲覧に不便さを感じていたし、より大きな画面で見てみたいと思っていたのは確か。
 最初は指先のタッチ感覚になかなか慣れなくて、おぼつかないメール操作だったがそれもようやく慣れて、文字通りスマートになってきたかな。

 それから九月十八日には近くの家電量販店に出かけてきて、ホーム用のWi-Fi親機(ルーター)を購入し、リビングルームに取り付けてパソコンの無線LAN環境が整った。その結果、いままではモデムから有線で繋がれたリビング机でしかインターネットやメールができなかったのが、自室でも可能になった。ちなみに前回のブログがその環境で作成された最初のものだ。
 こうして、ようやくわが身においてもにIT環境が人並みに時代に追いついた?かたちとなったので、メデタシ、めでたしともろ手をあげたいとことだが、どうも少し違和感、というか何か感覚が異なっている感じがあるのだ。自由に好きな時に自室でインターネット、というのはこの時しかできないという切実感が少なくなった分、無駄なこともできてしまって集中力に欠けるのかもしれない。
 たとえばスマホですが、駅ホームや電車の中の風景、座席のほとんど人が手中の小さな画面を覗きこんでいるが何をしているのかというと、大抵はゲームかラインのやり取りか、商品購入かニュースサイトなどのネットサーフィン(このコトバももはや古いか)であろう。つまり、暇つぶしなのである、それも他人から与えられる一方の、多少は自らの意志もあるかな。座席の両側でスマホに夢中の人に挟まれると、なんだか居心地が悪く感じたことはないだろうか?別に迷惑をかけているわけでもないのに何故か、それはその当人が周囲の関係性とあまりに隔絶しているからではないのだろうかと思うのだ。あるいは、あまりに一方的な情報の受容からの思考停止状態。せめてもうすこし、ぼんやりとでもいいからまわりの風景や環境に気を巡らしてもいいのではないかしら。やや大げさに言えば“いま、ここ”でどう生きるかである。

 さて、今回当たり前のことでふたつ、ようやくわかってスッキリしたことがあった。ひとつめは、Wi-Fiを導入するにあたって、その「ワイファイ」っていったいどういう意味ってこと。いまさら聞くのも気が引けて、自分で調べれてみれば意外と簡単、「Wireless Fidelity」の略で、直訳すると「無線における忠実度」「無線(環境における高い)性能」っていうことでした、なるほどね。詳しい仕組みはわからないけれど、そういえばすでに聞きなれた言葉で「Hi-Fi」ってありますが、これなんか「高性能」の略だろうから、語源的にはその延長線か親戚というわけか。
 それでは最後に。これもいまは当たり過ぎてな~んも疑問に思われなかった「ブログ」って何のこと?このコトバがでてきた十年前ほど前にはどう説明されていたのか覚えていないのだけれど、簡易ホームページだったかな、なんとなくしっくりこないままだったのでこの機会に調べてみました。なんと「Web Log」の省略、ということは「蜘蛛の巣状の記録または日誌」、つまり“インターネット上の個人日記”を意味していたのでした。
 元が分かってしまうと、ふたつとも拍子抜けするくらいなんとストレートな表現!


 この時期のスナップ、今年の中秋の名月を近くの教会からのぞむ(撮影:9月27日)

夏の終わりの青い朝顔

2015年09月23日 | 音楽
 本日は秋分、旧暦では八月十一日にあたり、すでに日の入りの時刻は夕方六時となっている。世の中五連休の最終日は、昼と夜の長さが同じになる日だ。
 連休中はずうっとよい天候に恵まれて、日中さすがに夏日とはいかなかったが、その直前の29°Cまで達した暑い日も数日続いた。そのせいか、時おり思い出したかのような夏の名残の蝉の鳴き声“ツクツクホーシ、ツクツク”も聞こえてきて、うれしいような半面すこし感傷的なような複雑な気分にさせられた。連休初日の19日に所用があって出かけた逗子では、駅前から市役所に向かう途中手前の亀ヶ岡八幡宮境内を通り抜けようとする際には、アブラ蝉の「ジイージイイ」という声が聞こえてきて、湘南だけに夏の残り度合いが内陸とはすこしちがう気がしたものだ。

 夏の名残りといえば、住宅地を通ると青空に向かって咲き残った百日紅の枝先の鮮やかな緋色が目についたが、ベランダに植えたままの朝顔も今月の上旬くらいまでしぶとく薄い青色の花を咲かせていた。休日の朝にいよいよ季節替えでもしようかと伸びて巻きついたツルをはずし、その青色の小さな花を二輪、摘んで、室内においた小さな壺屋焼きの容器にいれて生けてみた。はかなげなブルーの色合いがなんだろう、夏の終わりにふさわしい。
 「ああ、朝顔を生けるなんて珍しい」となんだがその昔、安土桃山時代の千利休と秀吉の逸話みたいな気がして、ひとり悦に入っていた。さすがに一輪だけ、というのは難しくて、かといって三輪だと投げ入れた容器が小さすぎてバランスが取れない。結局、直感で二輪を向きを少し変えて、ひとつは上方に横向きに、ひとつはその花の向きをすっと真正面に向けて生けることにした。その様子を後から振り返ると、ひと夏の幻想が思わせるのか、可憐でありながらなんだか艶めかしい感じがしてきて、ほんの少し息苦しくなってくるのはどうしてだろう?

 そうしたらじつに朝顔の花の命ははかなくて、ものの三十分余りもたたないうちにみるみるしぼみだしてしまった。そのほんの一瞬の生気を放った瞬間が潔くて尊い気がした。千利休もそうして覚悟し、自害していったのだろうか、ふとそんな思いがよぎった。
 

オークラ・ランターン

2015年09月08日 | 音楽
 九月、しとしと秋雨が続く。先月末で、ホテルオークラ東京本館が建て替えのため、営業を終了した。昭和高度成長の時代、東京オリンピックに先立つ1962年5月の開業で、きたる2020年オリンピックを見据えての営業判断のようだ。別館は残るが、建替え後の新館は、ミラーガラス張りの垂直高層ビルが二棟が建つ予定だそうだ。
 「ホテルオークラ 見納め」と見出しがある朝日新聞夕刊8.26付には、共同設計者の谷口吉生氏のコメントが寄せられている。父親の谷口吉郎が設計した本館ロビーについて
 「現在のものを復原しつつ、現代にふさわしいものとして生まれ変わらせる。ホテル二棟と大倉集古館に囲まれた広場も設計する。次の50年、100年も生き続けられるデザインを目指す」とあって、これはもう惜しむよりも期待して待つしかないだろう。
 最近の話題になった近代建築建替事例としては、旧東京中央郵便局のファサードを遺して背後に高層ビルを実現した「KITTE」(賛否両論があったが完成したビルはうまく前者の記憶を取り入れて現代的な再生をなしている)と隈研吾が関わった新・歌舞伎座などがあげられるだろうが、はたしてオークラの場合はどうなるだろう。

 名残のオークラ本館を最終日の前日、閉館を惜しむかのような雨の中、お別れ見学に出かけた、その際の本館ロビーの情景から。なんといっても、天井から吊り下げられた、和風モダンという表現がぴったりな「オークラ・ランターン」が落ち着いた空間に静かに浮かび上がる、その飴色のひかりと造形の美しさ!五角形面の切子ガラス玉をつなげたようなデザインで、古墳古代の宝飾をモデルにしているらしい。その連なりがメインロビー天井には八本二列に下がっている。庭側に面して雪明り障子と柱ごとに床おきの角行燈がおかれた落ち着いた空間は、静謐な心地よさにあふれている。
 床には、ベージュ系の市松模様のカーペットが敷きつめられ、梅の花を模したという低いテーブルと椅子は、別れを惜しむ人々でひっきりなしの状態だった。NHKの撮影クルーも来ていて、やがてその様子は特集番組となって放送されるようだ。
この本館、竣工が53年前でほぼこれまでの自分の人生歴と重なるのが、遇縁とはいえなんだか感慨深い。

 本館正面はいってすぐの六連の明り、この先に掘り下げられた高い天井のロビーが拡がる

 



 ロビー銘版:玄関広場 メインロビー 1962 設計:谷口吉郎 壁画:富本憲吉  
ホテルオークラ設計:大成観光株式会社設計委員会 施工:大成建設株式会社 竣工:昭和37年5月31日