日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

17才の夏

2015年07月26日 | 音楽

 今週初めに梅雨があけたと思ったら、その後の数日は真夏の兆しでまぶしい陽射しが続いた。大暑の23日午前中は、ひと雨が来て酷暑もひと休み。中庭にはたくさんの夏トンボが旋回している。

 全国高校野球選手権神奈川県大会もいよいよ大詰めが近い。17才の娘の在学している高校野球部は小田原球場の県立高校同士の初戦であえなく惨敗してしまったけれど、球場の外で最後にメンバーが勢ぞろいしてのキャプテンの挨拶は潔くて、若者らしい清々しさにあふれていた。その後もマネージャーさんはほかの球場の手伝いに駆り出されていて、娘にとっては20日の大和スタジアムでのアナウンス役が高校時代最後の野球部としてのお勤めだったようだ。だた見守るしかできなかったけれど、彼女なりに頑張ってやりぬいた結果に後悔はないだろうし、親バカでもよくやったよね、ってほめてあげたいと思う。このかけがえのない経験は、これからの進路や長い人生に少なからずよい影響を与えて、苦しいときの支えとなってくれることだろうな、いま気がつかなくてもそのうちにきっとわかるよ。

 考えてみたら、二度と取り戻すことのできないまぶしい17才の夏真っただ中、なのである。自分自身の四十年近くも前の1970年代半ば、高校時代の夏を思い起こしてみても、とりたてて劇的なことや出会いがないままに時の流れがすぎてしまって、遣る瀬無い心持ちになる。
 それでも17才っていう年齢は、ふたつのポピュラーソングとともに記憶の奥に刻印されている。七月蟹座生まれのアイドルのはしり、シンシンこと南沙織のデビュー曲「17才」と、彼女のあこがれのひとでもあったジャニス・イアン「17才の頃 At seventeen」である。南国生まれの爽やかなイメージでさっそうと登場した日本のアイドルと対照的に、かつて1960年後半に天才少女として騒がれ、その後の沈黙の数年間を経て、1975年に発表されてその年のグラミー賞を受けたユダヤ系女性ニューヨーカー歌手。時おり、そのふたつのメロディーを聴き直すたびに、当時の行く先の定まらない不安ともつかないような若い時代の胸の内が思い出される。

 いま、その南沙織「17才」(有馬三恵子:作詞、筒美京平:作曲)のシングル盤を手に取って眺めると、ジャケット写真には、ニコルブランドの蟹のイラストのTシャツを着た本人が映っていて、内側にはプロフィールと歌詞、楽譜が掲載されている。すこし熱を帯びやような、十代にして大人びたエキゾチックな表情、撮影は立木義浩のクレジット。昭和49年に購入したメモが残っているので、高校三年生のときに駅前のレコード店でカーペンタ―ズの「イエスタディ・ワンスモア」などと前後して手に入れた、ごく初期のレコード盤だと思う。

 彼女の同時代LPアルバムを手に取ると、当時のアイドル歌手が歌謡曲のほかにどんな洋楽ポップスをカバーしていたのかが伺われ、その選曲そのものが時代を映しているようで興味深い。ファーストアルバム「17才」のB面のカバー楽曲を列記してみる。「ローズ・ガーデン」(1970年、リン.アンダーソン)、「そよ風にのって」(1965年、フランス人歌手M.ノエル)、「ビー・マイ・ベイビー」「ハロー・リバプール」「オー・シャンゼリーゼ」など。「
 「ローズ・ガーデン」は、「17才」のメロディーラインと実に良く似ていて、順番からいえば後者が前者を参考にした?となるのかもしれないが、堂々と一枚のアルバムの中に取り上がられていて、当時のおおらかさのようでもあり、日本人が西洋ポップスをどのように消化して日本歌曲に取り入れていったのかの検証になっているように感じる。
 逆に「そよ風にのって」は、西洋人それもフランス人が歌う楽曲を日本のアイドルとして取り込もうとしたレコード会社の思惑があって訳詞がついたであろうと想像される曲で、当時はアメリカ一辺倒でなくてひろく欧州、とくにフランス、イタリアあたりの同時代曲も入ってきていた。
 
 2003年にリリースされた竹内まりやによるお気に入りカバー曲集「ロングタイム フェバリッツ」にもこの曲は収録されていて、シンシアのひとつ年上のほぼ同世代のせいか、いま聴いてみるとふたりの姿がダブって、どちらが歌唱していてもわからないような気がして不思議な気持ちになる。
 このお二人のその後のシンガーとして歩みは対照的であり、片や芸能界を引退して超有名写真家夫人、かたや現役のオシドリ夫婦にして日本ポップスの大御所とも言える存在、それでも同時代に生きてきた証しは芸能人として生きる前や初期の時代の楽曲の数々に重なって示されている、といえるのではないだろうか。

(2015,7.23書出し、7.26初校)




四月になれば APRIL COME SHE WILL

2015年04月24日 | 音楽
 朝日の爽やかな午前中、ふと思い出して引っ張り出してきた、サイモン&ガーファンクルのアルバム「サウンド オブ サイレンス」(1965年)九番目のトラックは、この季節にふさわしい「APRIL COME SHE WILL」、“四月になれば彼女は”というタイトル。
 同曲は、作者ポール・サイモンの同時期にリリースされたソロアルバム「The Paul Simon song book」のなかの四番目にも収録されている。わずか二分弱の短い曲だが、半年の短い時の経過とともに移り変わる恋人同士の関係性を月名称が韻を踏んで繰り返される印象的な歌詞にのせて美しく謳われる。永遠の青春時代の名曲のひとつ、といって良いだろう。

 あらためてその歌詞を聴き直してみると、とても不思議な内容であることに気がつく。はじまりは四月、僕のもとに彼女はやってくる、五月になれば彼女はここに落ち着くだろう、ぼくの腕の中でふたたび眠りながらと、ここまではいいのだが、六月になると彼女の気分は変わって落ち着かなくなり、七月彼女は予告なしにどこかへ飛んで行ってしまう。そしてなんと、八月に彼女は死んでしまい、九月になると僕はこれまでの愛を回想していて新しい成長を予感する、といった内容だ。その先にはまた冬を通り過ぎてやがて早春に至り、ふたたび彼女と出逢うのであろうかと思わせるような仏教における“輪廻再生”的な余韻を感じさせる世界がひらけている。
 どこかミステリアスな世界観は、村上春樹「ノルウェイの森」のワタナベ君と直子の関係を連想させて、新学期に大学キャンパスで出会った若者たちの繰り返される出会いと成長、別れの風景にふさわしい。もしかしたら、この曲は「ノルウェイの森」のモチーフのひとつになっているような、そんな気もしてくる。おそらく村上春樹は、ポール・サイモンを意識しているであろうし、そもそも両者はそのずんぐりした風貌や生まれと育ち、ノーブルで知性的な作風はもちろん、支持するファン層からして類似しているのではないだろうか。

 もうひとつ、S&Gの1964年のデビューアルバムのタイトル曲「水曜日の朝、午前三時」という曲について。こちらは、若気の至りで窃盗犯罪に手を染めてしまった若者が、真夜中にベットの隣で眠っている恋人の寝顔を眺めながら後悔の念にかられて夜明け前にそのもとを去っていくであろう情景を歌っているやさしげなメロディーが印象的な曲。ここでの水曜日にはどのような意味が込めらているのだろうか?休日明けから始まったウイークデーの中日、週末までにはまだ数日あり、どちらつかずの中途半端な曜日に若者の漠然とした不安や閉塞感を象徴させているようにも思える。そして午前三時はふつうは深く眠りに落ちている時間帯、この時間に目覚めてしまうなんて!最近の私みたいな気がして何があったんだろう、と。やっぱりね、嵐が吹いて遠くで雷が鳴り、光っていたのかもしれないし。
 
 ほかに曜日がタイトルの印象的な曲といったら、カーペンターズが1971年にリリースした「雨の日と月曜日は」がある。週明けの月曜日、雨の日と同様に感じるメランコリーな感情をほのかな恋愛感情に重ねて謳ったもので、イントロで流れるハーモニカのメロディーが印象的な曲だ。週末、主人公になにがあったのだろうか?日常感情のちょっとした行き違い、あまりふたりの関係はうまくいっていないのだろうか、あるいは倦怠期を迎えて何か新しい局面を期待しているのだろうか、この週明けの憂鬱で複雑な気分はそのせい?そんな大人びて聞こえる内容のビター&スウィートな曲で、今週の月曜日は曇りのち雨模様、まさしくこのタイトル曲にふさわしい天候なのでした。

 今日は金曜日、春爛漫の季節にふさわしい天気で庭の花水木やツツジが美しい。そろそろ、部屋を抜け出して近くのまほろ牡丹園を訪れて、いまが見頃の大輪の花々を眺めてこようか。

(2015.04.19書始め、04.24初校)
 

熱海聖地で光琳アート三昧

2015年02月15日 | 音楽
 週末土曜日の早朝、小田急線が藤沢に到着するすこし手前のJR東海道線を跨ぐ鉄橋からは、ちょうどビルの間にのびた鉄路の遥か先に、白き冠雪をいだいた富士山の姿が望める。JR東海道線に乗り換えて、8時52分発熱海行きに乗車すると、この先の車窓からは進行右手方向に富士山を眺めながらの風景を愉しむことができる。平塚を過ぎるとその姿はいったん湘南平に隠れてしまうが、大磯を経て國府津を出るとすぐ足柄の山並みの先に、大きくクローズアップされた真白な山頂が再び顔を出してくれる。それが鴨宮あたりではさらに迫力が増したところで、まもなく小田原に到着した。小田原からは、しばらく相模灘の眺めに見とれながら、根府川、真鶴、湯河原ときて県境を越え、泉越トンネルと三つの短いトンネルをすぎるともうそこが熱海である。

 目指すは大観山麓にひろがるMOA美術館、20数年ぶりの来訪か。駅からバスでわずか10数分程度上った場所なのに、文字通り俗塵から離れて、相模灘を一望する世界救世教の天上聖地巡礼である。美術館入口前広場の右手には、教団本部である救世会館の真っ白な巨大な建物。あたりにはチリ一つなく奇妙ななくらいの清潔感が漂う。にこやかに迎えてくれるスタッフはみなさんおしなべて親切、おっとりとした感じの方ばかり。宗教らしさや教団の宣伝臭などいっさい感じられないのが逆に不思議なくらいだ。美術館入口から続く山中トンネル内に設けられた長大なエスカレータ―を数台乗り継ぐと、ようやく美術館本体のエントランスに到着する。この序奏はなかなかのもので、これから体験するであろう至上の芸術世界への期待感?と浄化作用をいやがおうにも高めさせてくれる前戯のようでやや大げさだけれど生物の体内を通過するような恍惚感に包まれる。

 エントランスから一度外に出て、ヘンリー・ムアの彫刻「王と王妃」が展示された屋外広場に出ると、正面に伊豆大島が浮かぶ見事な眺望、この高さからは熱海市街はことさら隠れて見えない、絶景である。そこに据えられたムアの彫刻自体はさほど感心しないが、青空と紺碧の海を臨む建築環境の中では映え渡っていて、白洲正子が「MOA美術館を見て」(1982=昭和57年4月)で思いのほか好意的に述べていることが実感を持ってうなずける。ここからは、大階段が本館二階へとつながり、見上げる高低差も威圧感がなく見事だ。本館は薄ベージュ色のインド砂岩を割り肌仕上げで囲った四角い箱を横につなげた形状で、右側の立方体には海に向かって大きく四面のガラスとなっている。三階建ての上品で豪華な建築だけれど宗教色は感じられない。竹中工務店と鹿島建設の設計施工で1982年の竣工。

 一階美術館の入口に戻り、エスカレーターで二階のメインロビーへ、ここで入場券を購入していよいよ展示室へと向かう。展覧会名称「光琳アート」には、「尾形光琳300年忌記念特別展」とあり、尾形光琳(1658-1716)の過去100年、200年忌の歴史をふまえての構成である。今回の展示の目玉は、なんといっても、「燕子花」と「紅白梅図」屏風が同時公開されることで、これって皇太子ご成婚を記念した1959年=昭和34年の根津美術館での開催以来56年ぶりだそう。56年ぶりっていうことは、ちょうど自分が生まれて現在までの年数と重なるわけで、ちょっとした偶然にして感慨深い。しかもこの梅の季節にそのふたつを対面させて展示する粋な計らいに心動かされた!
 はじめて見る本物、300年以上たっているので、当然描かれた当時と異なり、背景の金箔や川の流れをあらわす泥銀もくすんで渋い風情である。当時の自然のひかりの具合でみた印象を想像すると、現在の経年による全体の深まりがいっそうおもしろい。また「燕子花」が描かれたのは、光琳40代のころ、「紅白梅」は晩年の60代と推定されるそうで、そんな年代の違いも興味深くて見飽きることがない。しかも日本画なのに、構図の巧みさを“デザイン”の視点からたたえられるあたりが光琳のモダン性なのだろう。白洲正子くらいになると、随筆においてこの有名作品にはほとんど触れることがないが、手垢にまみれていない独自の見方を伝えてもらいたい気がする。

 ひとしきり展示ケースをよく見ると「紅梅梅図」屏風の下には、紅白の梅の花ビラが散らばっておかれている。ちょっと粋な演出と思っっていたら、こちらのほうは、現代アーティストの須田悦弘の光琳画とコラボした作品であることを後で知った。この展覧会のもうひとつのおもしろさは、琳派の系譜を現代美術に探っていていること。なるほど、チラシをよく見ると小さく「光琳と現代美術」と書かれてはいるけれど、あまり前面には出ていないのは、美術館運営母体の教団の奥ゆかしさか?こちらのほうが現代人には興味をひく点で、今回企画の特質といえるだろう。

 教祖の岡田茂吉は、若きころ茨城県五浦にあった日本美術院の岡倉天心を訪ねた折り、「これから日本美術再興には、光琳の再生が必要だ」とのことばを聴きとっていたそうで、この事実には驚かされた。まさしく岡倉天心の意志が、今回出品されている現代美術作品とつながっていて、彼の予言した歴史的流れの正しさを証明しているかのようだ。福田平八郎「漣」、加山又造「紅白梅」「群鶴図」、田中一光の一連のグラフィックアート、村上隆、会田誠、福田美蘭などの作品に琳派の影響を重ねてみると、日本美術における無意識下の水脈を感じ取ることができるだろう。
 やはり特別なのは、高解析デジタルカメラで撮影されたという杉本博司の「月下紅白梅図」屏風と「華厳滝図」掛け軸表装の二点。以前、その撮影風景をNHKがドキュメント放送していて月光下の華厳滝はさもありなん、だが「紅白梅」のほうは意表を突かれた感じがした。光琳屏風図は梅の枝姿の構図と花の紅白の対比の印象が強くて、暗闇では白が浮かんでさて赤はどんなものだろうと思ったからだ。それが杉本の「月下紅白梅図」では、赤も白と同じように薄明かりのように闇に浮かんでいた。これは、おそらく心象風景に近いものなのかもしれない。ここではデジタルモノクロ精密画像を伝統的な屏風仕立てと掛け軸表装にしたところがミソで、静謐な闇の中に凛として馥郁とした香りがあたり一面に漂うかのようだ。

 最後にひとつ、「紅白梅図屏風」の中央の川の流れ、もともとは群青の川面に流れ模様を銀で描いたものが年月により酸化して現在の色調に落ち着いたのだろう。この川の流れ、わたしには不遜かもしれないが、農家の軒先にできた「スズメバチの巣」の表面模様とそっくりのように見えてしまった。そして光琳の描く川辺には“あえて”なのか、草木がいっさい省略されて描かれていないのはなんだか奇妙な感じもするが、どうしてなのだろう。より水面のながれをシンプルに様式化して表したかったのだろうか。いずれにしてもこれは都市生活者の視点であり、江戸にして現代につながる光琳のモダン性を感じるのである。

 
  相模灘のさきに正観音浄土か、伊豆方面を眺望する。
 


   聖地巡礼。熱海の世界救世教水晶殿(設計:岡田茂吉、あの山田守を彷彿させる)、海も空も紺碧のひとこと。


付記:夕暮れの県立小田原高校訪問記

 熱海の帰り道、小田原で下車してお堀端の市民会館小ホールで「宮廷音楽への招待状」を聴く。チェンバロとヴァイオリンの共演で、中野振一郎さんのトークが大阪人らしく軽妙洒脱で、なかなか愉快かつ優雅な演奏会だった。
 演奏会の余韻を引きずりながら、お堀端を歩いて馬出門から城址公園に入り、いまが見頃の紅白梅を眺めて歩く。そこから報徳神社の横の坂を上り、競輪場の先の県立小田原高校まで歩いてみる。明治時代創立で県下の名門校、先代の校舎は現在のグランド側にあったらしくほとんど建替えられてしまって当時の面影は少ないようようだが、体育館と武道場だけは当時のままだろうか。戦国時代はこの八幡山と呼ばれる校地が小田城の中心だったとの説明板が建っていた。高台にあるグランド端からは、相模の海が臨める素晴らしいロケーションで、訪れた時は野球部の練習中だった。正門前を通りかかると長い歴史と伝統を伝える校訓碑、さて校章のモチーフは何の植物だろうか。
 夕暮れの闇が迫りつつある中、球庭場横の通称“百段阪”階段を下り、城山中学校脇を抜けると新幹線ホームの端が見えてきた。ここから小田原駅はもうすぐだ。エスカレータをのぼり、コンコース内売店で家へのおみやげに、ようやく念願の箱根湯元の和菓子店ちもと謹製の「湯もち」を買って帰る。

(2015.02.15初校、02.17改定)


Peace to BAGU's memory!

2015年02月13日 | 音楽
 愛犬、といっても母とずうと同居していたキャバリア犬雄のBAGUが、先月の28日深夜から29日早朝にかけて、天国に旅立っていった。生まれて間もなくに近所からもらわれてきて、全体が白と茶色の二色、そのときはまだ尾っぽの毛並がしっかり伸びきってなくて、幼い感じがたまらなく愛らしかった。

 あれから11年、何度こちらと新潟の実家を車に乗って高速道路で往復してくれたことだろう。すっかり車に乗るのが好きになって、助手席から窓ガラスに前足を延ばしてずうと外を眺めていた姿を思い出す。夏は新潟の実家で母と過ごして、野良仕事にも付き合ってきてくれていたようで、冬に入る前にこちらにやってくると、炬燵まわりでジャレついて食べ物をおねだりしていた。人懐こくて穏やかな性格、母の散歩の友にして、娘が幼稚園の小さいころから時々の遊び相手をしてくれてた。けっして必要以上に近づき過ぎず、お互いに適度な距離を保ってくてれてとてもいい関係だったように思う。そうかと思うと、時々はキャバリア=騎士の名称どおり、猫やイタチらしきニオイがしたり姿を見かけると、祖先の猟犬としての血統が騒ぐのか、激しく鳴いて反応するのが意外にもたくましかった。

 この夏に年齢もあって新潟ではすこし体調を崩していたが、こちらに戻ってきてからは、体毛も綺麗に生えそろって見た目には、また元気になってくれたかのように見えていたのに、突然という感じだった。数日近くの動物病院に入院してから、一度お見舞いに行ったときは、点滴中の身体で起き上がってきて、きょとんとした顔で尻尾を振ってくれてた。最後まで迷惑をかけないように、両前足のあいだに顔を伏せていつもの眠るようなやすらかな姿で、夜中静かに黄泉の世界に旅立っていってしまった。もどってきた姿は眠っているようでぬいぐるみといっしょ、やっぱり、ずうと一緒にすごしてくれた生き物だから、亡くなってしまったことでいろんな思い出を引き寄せてくれるものだなあ、となんだか切ないような感慨深かった。
 翌30日は朝方目覚めると一面の雪、お見送りにはことさら印象的な日となって、雪国で半分を過ごしたBAGUとのサヨナラに相応しかった気がする。願わくは彼の魂よ、安らかなれ!


 2014年7月下旬帰省した時のBAGUの姿、すこし元気を回復していたがこれが遺影となった。
 沖縄の海で拾った材料と貝殻で飾ったフレームは、高校生の娘の手作り

追記:山下家のグーフィーのこと
 最近、竹内まりあCD「SOUVENIR」を購入した。これは、2000年初夏に行われた武道館と大阪城ホールでのライブステージを収録したもの。このアルバムは、彼女というか山下家の長男?のシュナイザー犬Goofyの魂に捧げられている。このグーフィー、じつは1984年のアルバム「VARIETY」の裏ジャケットにすでに登場していて、それだけでなく、「本気でオンリーユー」(夫の達郎氏との結婚にいたる思いをモチーフに歌った内容)曲中にまで鳴き声で客演?しているのだ。そして、今回手に入れたアルバムリーフレットの最後には、1982年にまりやさんがステージを降りてから、再びステージにあがる2000年までの18年間、いつも家族のそばにいて幸せな思い出を作ってくれたその愛犬の写真が再び、掲げられている。

武道館ライブ、清水ミチコと竹内まりや

2015年01月22日 | 音楽
 今年の初ライブは、お正月二日江の島初詣のあとに「清水ミチコ 一人武道館 ~ 趣味の演芸」を家族三人揃って楽しんだ。そのレポートを綴ろうかなと思っていたら、当日予告されていた17日WOWOWオンエアがすぎてしまって、さらに驚いたことには!19日の朝日新聞夕刊の文化欄にその公演評が掲載されたりと、すっかり乗り遅れた感ありでこれはしまった、というところです。
 
 清水ミチコさんは、けっこうまめに自身のブログを更新されていて、日本武道館ライブ前後のことやその後の鎌倉横須賀家族散歩、熊野行きのことなど日常の動きが軽快なタッチでつづられていて楽しい。また、ツイッターでも、お知り合いから朝日新聞掲載のことが寄せられていたり、芸能人と普通人の間を自在に行き来しているような感じ。
 あの舞台でのミチコさん本人のはつらつとしたエネルギーの発散振りと元気の良さ、会場のワクワクした空気感までをあますなく伝えるのは限られた紙面では難しいだろうな。朝日新聞の評文は、まあそのとおりの模範的な内容であるのは仕方ないかもしれないとして、むしろあの「清水ミチコライブ」がついに!朝日新聞に取り上げられたという快挙!?に拍手すべきかも。きっと、みっちゃんファンの評欄担当文化部記者がいて、音楽ライターの湯浅学氏に執筆を依頼し、サブカル的要素も度量広く受け入れる余裕のデスクの英断をほめるべきでしょう。
 さて、ライブそのものの白眉は、実弟イチロウ氏のベースとミチコさんのピアノ弾き語りによる細野晴臣曲のデュオに違いないのだけれど、矢野顕子生き写しとはこのこと、この姉弟の芸達者ぶりはいったい何なんだとあっけに取られた。弟さんは故郷の高山から「早朝5時に出てきました」と話していたけれど、一体何をされているのだろう、余裕の趣味人である。最初は三味線を弾いて江戸小唄を聴かせ「小唄の神髄はジャズに通じる」なんて言って、ミチコさんに「おいおい、山下洋輔さんが客席にきているのに、なんと大胆な!」とたしなめられていたのがこれまたおかしかった、仲がいいんだろうな。でも、一流の芸は相通じるものがあり、その通りだと思う。
 個人的に気に入ったのは、瀬戸内寂聴さん説法篇とTATSURO作曲法による歌唱、笑った!さすがに誰もがやりそうなサザン桑田佳佑モノマネはなし、逆の意味でTATSURO夫人まりやさんの真似もなしなのは正解だろうな、と思う。あと数日で55歳のお誕生日を迎えられる清水ミチコさん、水瓶座(蟹座も)、B型、大好き!


開演前の日本武道館正面。額の下、青海波をバックに鶴亀と干支の羊が描かれて
「趣味の演芸~九段坂下一本勝負 千鳥ヶ淵、越えてもらいます」とある。まさにこの日、皇居一般参賀の帰りらしき人並みの流れに抗うように千鳥ヶ淵を越えたものだけが、ミチコワールドを生体験できる高揚感!!!


 その竹内まりやさんは、昨年末12月20、21日に全国ツアーのラストをここ日本武道館の舞台で締め括っていて、そのコンサート評も、朝日新聞一月五日付夕刊に掲載されている。清水ミチコ記事には、右下サイドからピアノ弾き語りのじつにカッコイイ姿が載っていたが、まりやさんのほうはトラッドスーツ上下にストライプシャツ、ネクタイ姿でギターをかき鳴らす、これまた男前にキマッた写真だ。こちらのほうのステージは残念ながら未見だけれど、おそらく「マイ・スイート・ホーム 家に帰ろう」ほかのロック調ナンバーを歌唱しているのだろう。筆者の小倉エージ氏によれば、ラストには「静かな伝説」と「人生の扉」が感慨こめてうたわれたそうだ。
 昨年12月28日のFM番組で共演したご両人はこの公演を振り返って、「プラスティック・ラブ」(1984年「バラエティ」収録曲)の間奏中に、突然「次は俺も歌うから」って囁いて、舞台上のまりやさんはあわててしまったと語っていた。TATSURO氏好みのリズムパターンの曲でさもありなん、文字通りの夫婦唱随とはこのこと、なんとも微笑ましいエピソードで、ファンは大喜びだったことだろう。

 TATSURO氏とのパートナーシップ振りは、伝わる限り互いの信頼のうえに無理がなく自然体であこがれの理想像として映る、ほんといいね! 武道館公演も成熟した大人の音楽人生が凝縮された、和やかで心温まるステージであったと想像します。
(2014.1.22初校、1.23修正追記)

2014年も暮れて紅白に思う

2014年12月31日 | 音楽
 週末からカレンダー通りに休暇に入ったと思っていたら、あっという間の大晦日を迎えてしまっている。ここ数日の出来事について書き出してみよう。
 
 28日朝、TBSサンデーモーニングを見ていたら、今年亡くなられた方々の惜別録が流されていて見入ってしまった。その中で放送されなかったけれども忘れられない方に、安西水丸さんと赤瀬川原平さんのお二人がいらっしゃる。テレビという大衆的なメディアではやや一般的ではないのだろうけれど、翌日29日の朝日新聞の回顧特集「惜別 亡くなった方々」には掲載されていて、紙媒体との親和性を感じた。青山表参道あたりを歩くと事務所のあった安西さん(と共作の多かった村上春樹)を想いだし、玉川学園「ニラハウス」は赤瀬川さんがお住まいだったところ、そしてこのお二人には俳句を通してのつながりがあったことを町田市民文学館企画展「文学と美術の多面体 赤瀬川原平×尾辻克彦」の展示物で知って、へえっと思った。ご冥福を心よりお祈りします。

 この日は、年末大掃除の手伝いを命じられて、リビングのワックス掛けとサッシ網戸の水洗いを役割分担する。ここをいかに心を込めて乗り越えるかで残りの日々が平穏に過ごせるかの分かれ目?となるのだが、我ながら真面目に取り組んでいたせいか次第に楽しくなってきて、お昼過ぎに家人より無事お許しがでた。で、年末の買い物に出かけることにして、「CASA ブルータス」2015年1月号と来年のNHKテレビテキスト「岡倉天心 茶の本」を購入。家にいちど戻って、午後2時からのFM東京「サンデー・ソングブック」をインタネットラジオで聴く。山下達郎氏が案内する長寿番組を初めて聴いたのは、その日のゲストがご夫人の竹内まりやさんであり、そのかけあいに関心があったから。21日に全国ツアーを武道館で打ち上げたばかりの、ほっとした声が伝わってくる。すこしハスキーで落ち着いた声のトーンと響きがとても心地よくて、クセになりそう(もう、なってる)。番組中、達郎氏のことを「タツロウ」のほかに時々「たっつあん」と呼んでいたのがおもしろかった。ふたりとも2014年は「よく働いた」そうで、2015年はまりやさんも年女、いよいよ素敵な還暦を迎えるのだそう。
 夕方は、自宅が書道教室になるので、時間調整のために23日にオープンしたばかりの東林間「CHIEZO CAFE」にいくことにした。その真新しいゆったりした空間で、雑誌特集「ニッポンが誇る名作モダニズム建築全リスト」のページをめくる。表紙はホテルオークラロビー、ナマコ壁の横に伸びる外壁と薄い緑色の軒先、柔らかな障子越しの差し込む明り、切子玉形の数珠のようなランターン、1962年だから東京オリンピック前の竣工で和風モダニズムの極致だ。来年9月までのオリジナルが無事なうちにもう一度訪れなくては、という思いを強くする。

 29日、新宿でムロケンさんと久しぶりに顔合わせ、靖国通り「DUG」で音楽談義の続きのあと、年末で58年の歴史に幕を下ろすという「新宿ミラノ座」ラストショーで「エクソシスト」を見る。テーマ曲「チューブラーベルズ」が有名だが、思ったほど本編では流れることがなくてやや拍子抜けの感あり、悪霊と対決する除霊師がイエズス会神父だったとはね!

 30日、伊勢原に出かけて、年末用に食べたい地元食材「おおやま菜漬」をJA市場で買い求める。せっかくだからその足で15分の大慈寺まで歩いて、渋田川沿いにある太田道灌の墓参り。あたりは一面に畑と田圃が拡がり、すぐ脇を国道264号が伸びている。そしてその先の巨大な東海大学病院の向こうに大山が望める。


 国道246号をてくてく駅まで戻りながら、途中の伊勢原大神宮の茶店「常若」でひと休み、お汁粉をいただいて駅前をぶらぶらと帰路に就く。相模大野で下車して、2015年の手帳二冊(一冊は、星の王子様の天文ダイアリー)を買って帰る。
 夕食後、うたた寝をしていたら「ほら。始まりましたよ」って起こされ、「レコ大賞」番組中流された今年の竹内まりや全国ツアーライブシーンを見ることができた。大阪アリーナだろうか、黒地にラメ入りのシックかつ華やかなドレス姿で「静かな伝説」を歌っていたけど、達郎氏の演奏姿もチラリ、ご本人の歌唱もお化粧も!とても自然ないい感じでしばらく見入る。

 今日大晦日の午前は、今年の締めの映画、オードリ―・ヘップバーン主演の「シャレード」(1962年アメリカ、監督:スタンリー・ドーネン)を見る。シャレたラブサスペンスドラマで、音楽が名手ヘンリー・マンシーニだ。帰りがけに洗車をして、新年を迎える準備はひとまず完了。自宅に戻って夕食前に、DVD録画「SONGS 竹内まりや」(2007年4月放送)を、家人にまた?と半ばあきられながらも!再び見直す。信州川上村海の口、八ヶ岳高原音楽堂を主な舞台にして、山梨北杜市にある神代桜を訪れる風景が「人生の扉」歌詞にあわせてだろうか映されたり、全体に50代を迎えたまりやさんの心境を綴ったドキュメンタリーではあるのだが、どこかミュージックビデオ風なのは、前作「DENIM」の発売時期にあたっていたこともあるのだろうか?スリムな身体にまとったチェック柄のシャツにジーンズのラフな姿とドレス姿の対比が目をひく。ともあれ、センチメンタル・シティ・ロマンスとのセッションは素敵だった。

そして大晦日の夜、NHKテレビでは「紅白歌合戦」の最後の盛り上がり、嵐そして松田聖子のステージの最中だ。その直前は、予定通り?サザンオールスターズのサプライズ横浜アリーナ生中継の「東京VICTORY」でジーンときて、さらにその前が中島みゆき「麦畑」、美輪明宏「愛の讃歌」と今年の紅白は心から楽しめた。タモリと黒柳さんの出演もよかったし、一月からのブラタモリの復活が愉しみ!
 最後は「ふるさと」で大合唱、人のつながりや思いやり、感謝といったことが素直に心に沁みた。来年もさらに充実した良い年でありますように、柔軟な心持ちで謙虚に、日々の暮らしを大切にしながらも日常に埋没することなく、楕円の軌跡をイメージした複眼思考でいこう。
(2014.12.31初校、2015.1.1改定追記)

夜景を眺めながら聴く、東京タワー極上ボサノヴァ体験

2014年10月31日 | 音楽
 横浜から夕刻、京浜急行で品川まで出て反対側ホームの車両に乗り換えると、そのまま都営浅草線に乗り入れていく。大門駅で下車して地上に上がり、増上寺へと至る通りをまっすぐ歩いていけば、右側に花岳院、常照院というふたつのお寺と隣り合わせで煉瓦造りの堂々とした、まるで小ぶりの慶応義塾大学図書館を連想させるような洋館が目につく。ここが有名な高級レストラン「クレッセント」(三日月の意味)だ。いつも外観をながめるだけでもちろん入ったことはないけども、その歴史も含めて気になる建物だ。その前の日比谷通りに沿って伸びた芝公園の楠の大木の黒いシルエットの先に増上寺の山門が見える。視線を右方向上にむけると、覆いかぶさるかのように鮮やかなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーとのご対面!

 増上寺とオリンピックの1964年に開業した東京プリンスホテルの間の通りを抜けていくと、見上げた先に東京タワーがせまってくる。かつて紅葉山と呼ばれた景勝地跡に、東京オリンピック前年の1963年に開業して今年が55周年にあたる。このあたりの景観は、江戸時代の面影から高度経済成長期の時代、とくにオリピックを契機に大きく変わったことが理解される。
 展望券売場で900円の入場券を購入、地上150メートルの東京タワー大展望台に上ってみるのは本当に久しぶり。エレベーターを出ると平日夜なのに意外にも予想以上ににぎわっている。二層ある展望回廊は人工の光の海に囲まれた感じで、超高層ビルがここ20年くらいで随分増えたことに改めて驚く。浜松町の世界貿易センタービルは最上屋がライトアップされていてランドマークのままであるし、その先にレインボーブリッジのイルミネーションも見える。南西の方向には六本木ヒルズ、西方には虎の門ヒルズ、真近の神谷町にはオランダヒルズと、森ビルによる再開発高層ビルがやたらと目につくのだ。オランダ大使館横の芝給水地敷地はビルの谷間のなか、ブラックホールのように真っ暗だ。浄瑠璃寺と心光寺部分も静かな暗黒の世界。
 タワーの足元を眺めると意外にも暗闇、つまり寺社、公園などの緑地が多いことに気づかされる。芝公園一帯はかつての景勝地の系譜をひいているのだろうし、なによりも川家菩提寺である浄土宗大本山の増上寺は戦前までこのあたりの広大な敷地を占めていて、東京プリンスホテルやプリンスタワーの敷地だって、西武資本に終戦後売却されるまではもともとは増上寺境内だったそうだ。
 おもしろいのは、かつてテレビ東京(現東京タワースタジオ)があった建物のとなりの東京タワーボーリング跡地が純日本建築の数寄屋造りの高級料亭「とうふ屋うかい」に替わっていたこと。展望台から見下ろすと暗闇の中に日本料亭らしき建物屋根の連なりと庭園灯が点々とあって、東京タワーとの対照的なな組み合わせに驚かされる。

 さて、本日の目的は単なる夜景観賞というわけではなくて、地上150メートルの都心夜景のなかでのライブがどんなものか、お気入りのアーティストの生演奏で実感してみたかったというわけで、大展望内のライブスぺース“Club333”での中村善郎ボサノヴァ演奏会を聴きにきたのでした。
 久しぶりの善郎さん、共演の長岡敬二郎(パーカッション)とのシンプルな組み合わせ、これが素敵に素晴らしかった。ほとんどがボサノヴァのスタンダード、A.C.ジョビンの「メディテーション」などは文字通り、瞑想しているような夢見心地の世界で、150メートルの空中ライブにふさわしく浮遊しているような心持ちだった。ラストは「ブラジルの水彩画」と「イパネマの娘」でクローズ、素晴らしいライブパフォーマンスで、わざわざ来て本当によかったなあ。

 帰りは、永井坂を飯倉交差点へ下る。右手に木造小屋組の聖オルバン教会の変わらない姿、設計はA.レーモンド。交差点のむこうには、『2001年宇宙の旅』にでてくるモノリスのような黒色の円筒形と下部煉瓦を組み合わせた異形のNOAノアビル(1974年15階建、設計:白井晟一)が墓標のようにすくっと立ち上がっている。地下鉄神谷町駅まではもう近い。

自由学園明日館 講堂~シルクロード音楽会

2014年10月01日 | 音楽
 よく晴れた初秋の日曜の午後、休暇をとってJR湘南ラインに乗ると横浜から池袋までは意外と近いことを実感する。“ペルシャから東西へ、シルクロードを行く弦の旅”という副題がつけられた、ウード・リュート・19世紀ギター・筑前琵琶とうたが共演する音楽会シリーズ「月の沙漠コンサート」を聴きにいってきた。

 会場となっている自由学園明日館講堂は、遠藤新の設計により1927年(昭和2年)に竣工した重要文化財の建物で、通りを挟んだ向かいにはその遠藤と師匠のF.L.ライトの共同設計による、やはり重要文化財の明日館本館(1921年=大正10年の一次竣工)が池袋の高層ビルを背景に芝生広場を囲んで両翼を拡げるかのようにたたずんでいる。この二つの建物(さらに同時期に竣工した旧帝国ホテル新館=正面玄関部分を明治村に移設)はそのなりたちからして兄弟のようなもの、簡素でありながら調和がとれていて意匠的にも美しく、学園の建学精神である“簡素な生活、高き理想”を現しているかのよう。そこを会場としたサロンコンサートのような音楽会であれば、それだけでもって期待感でワクワクしてくる。

 何度か訪れたことはあるものの、会場内に足を踏み入れると教会堂のようなすこし崇高な雰囲気を感じてしまう。舞台の両側大谷石のプロセニアムの存在感、傾斜のある天上、中央部分が平土間の椅子席、両脇が高土間席で二階席も含めて300席ほどの客席はほぼ満席の様子。少し考えて舞台に向かって上手側高土間の舞台全体がちょうどほどよく見渡せる位置に座ることにした。長椅子席に落ち着くと窓から見渡せる建物周囲の樹木の葉が、午後の陽だまりの中で風にやさしくそよいでいるのが目に映ってきて、ゆったりとした気分になる。この建物空間に独特の抱擁力とおおらかさが感じられるのは、来年竣工後88年米寿を迎えるからなのだろうか。

 音楽会前半は、まずはウードの調べから。ウードはアラビアンナイトにも登場する中近東の民族弦楽器で、大きなイチジクの実のような本体に太めのネックがつき、ギターやリュートなどの源流となったという優美な響き。今回のものは11弦が張られていて、フロント面には太陽と月を模した飾り模様が美しい。トルコの古典器楽曲をふたつ続けて聴く。
 続いて登場のリュートは、形態がほぼウードと同じ、でもその響きはもう少し西洋的に洗練されてかつ繊細な感じがする。カノンで知られるJ.パッヘルベル(1653-1706)の組曲で、タイトルすべてに「恋人」がついているロマンチックなバロック曲。
 前半の最後は、19世紀ギターの伴奏でF.シューベルト(1797-1828)の歌曲を大城みほさんのソプラノで聴く。モダンギターよりも小ぶりで素朴かつ温かみのある響きが、大城さんの澄んでささやくような歌い方にもよく合う。うっとり聴いているうちになんだか首筋が暖かく感じられ、ああ音楽のせいかしらと思ったら、午後の傾き始めた初秋の陽光が差し込んできたためでした!
 
 後半の最初は、窓にブラインドが下ろされて舞台に照明が当てられ、ウードの伴奏で童謡「月の沙漠」から始まる。大正12年(1923)つまり、関東大地震の年に発表されたこの童謡は、房総御宿海岸の砂浜の情景からから着想を得たものだそうで、アラブとオリエンタルの世界が混じったなんとも懐かしく不思議な印象の曲調だ。あらためてウードの調べにこの歌詞を聴くと、月のひんやりとした光のもと沙漠をしずしずと進んで行く二頭の駱駝に乗った王子とお姫さまを描いたアンリー・ルソーの絵画のような静謐な情景が浮かぶ。内陸の砂漠ではなく、あくまでも海岸沿いに拡がる“沙漠”の風景。日本には駱駝はいないはずだが、シルクロードから大陸を隔てて空想の世界で東洋の果ての日本とつながった情景なのだろうか?
 ふたたび、ウードによるソロがあり、次はいささか振幅の幅が大きい感はするけれど、歴史的にはアラブ民族弦楽器をルーツとして“縁(えにし)の糸”のつながりで結ばれた筑前琵琶の登場で、平家物語の語りを聴く。そしてウードとソプラノでアラブ歌曲が歌われ、盛りだくさんの舞台の最後はすべての縁の糸=弦楽器が登場しての合奏とうたでフィナーレ。

 すこし涼しくなり始めた帰り道、JR山手線沿いを目白駅を目指して歩く。道中、“縁の糸”か、そういえば、竹内まりやの新アルバム「TRAD」最初の曲は、まさしく「縁(えにし)の糸」だったな、なんて思いながら駅前までくると、学習院正門の向かい側、かつての「コマース」という商業ビル跡に、駅舎横のJR系列ホテル「メッツ目白」とはいい並び感で、新しいレンガ外壁のシックな四階建てビルがほぼ完成して外観が望めるようになっていた。何気なくビル名を見るとなんと!「TRAD MEJIRO」と書かれていて、そのあまりの偶然にオープニングテーマ曲?としてどうかしらと思ってみたりして。
 帰ってからこの商業施設HPを見ると「TRAD=伝統的な変わらぬ良さを意味し、目白の暮らしや歴史、自然を守りながら地域とつながり、まちの文化を創造・発信する施設になるという思いを込めた」とあって、尾張川藩当主がお住まいの川ビレッジはすぐ近くだし、椿山荘やかつての目白文化村の伝統もある目白ブランドを捉えた真っ当なコンセプトに素直に感心してしまった。
 ちなみにテナント構成はというと、高級スーパーマ―ケットの伊勢丹クイーンズ、札幌から宮越珈琲店、原宿に本店がある広東料理の南国酒家、イタリアンレストラン、コンビニエンスストア、、医療機関、地階には地元小林紀子バレエスクール(以前のビルからあった)、そして2フロアを占めるのが結婚式場である。目の前の学習院や川村学園の卒業生をターゲットにしているのだろうか?このテナント構成、はたしてコンセプトにかなっていて地域住民を満足させることができるのかどうか。

 「TRAD MEJIRO」の開業は11月20日、この先ちょっと気になることではある。(書出し9/30、初校10/1)

竹内まりやの語る「人生の贈りもの」

2014年09月13日 | 音楽
 9月に入ってすぐの朝日新聞夕刊の連載欄「人生の贈りもの」に五回連続で、竹内まりやのインタビュー記事が掲載された。10日に新アルバム「TRAD」発売と11月からの全国ツアーを控えたこれ以上はないくらいの絶好のタイミングで、スマイルカンパニー(所属事務所)スタッフの用意周到さを感じさせるけれど、そのことはさておいて、そのインタビュー記事内容は、これまで知らなかったひとりの人間としての側面、少し上の世代の人生の先達?としていろいろと興味深く思うところが多かった。

 竹内まりやは、1955年(昭和30)島根県出雲の生まれで、実家は古くからの旅館、父親は地元の名士らしい。連載二回目には、五歳のころ防音壁の部屋でピアノに向かう本人提供写真が掲載されていて、よくステレオの前で父母や兄姉の影響?もあり、早くから欧米ポップスを聴いて育ったと語っている。そこから伺えるのは、地方の裕福で円満な家庭育ちの様子だ。
 小学生四・五年のころTVコマーシャルで、ビートルズ「ア・ハード・デイズ・ナイト」の一節を耳にして、たちまちそのとりこになったそうだ。いささか早熟な感もあるけれど育ちの環境もあるのだろう、本人によるとその出会いはまさしく衝撃的で、その後の彼女の人生観・生き方を変革した、といっていいものだったようだ。この出会いの感受性、気負いのない素直さにちょっと驚かされる。そんな人生を変えるような出会いの衝撃って、自分の人生にはあったかしら?と同じ日本海側地方育ちとしては、実にうらやましい限りで、運命の定めのようなものすら感じてしまう。まあ、それぞれの人生、比較すること自体おかしいのはわかっているんだけれどね。

 高校時代のアメリカ・イリノイ州へ留学、パーティーでロバータ・フラックの「やさしく歌って」(以外!)を披露したと語っている。帰国後の慶應大学入学とそこでのバンド活動、やがてそれが1978年のアルバムデビューへとつながり、まさしくトントン拍子にサクセスストーリーを駆け上がっていく。どうも彼女には、自然と回りを味方に引き込んでしまう天性のオープンな人柄と才能があるようだ。
 順調すぎる中での突き当たった大きな壁は、芸能界における代理アイドル的役回りへの周囲の期待感だったそうで、あくまでも音楽に対する自然体の姿勢を望む本人には相容れない“違和感”だったようだ。そこは聡明な彼女、並みのアイドル化現象に陥ることなくしっかりとテレビをはじめとするメディアへの適切な距離感を学び取っている。その頃に現れたのが、現在の夫君であるところの山下達郎氏で、1982年4月の結婚(挙式は六本木の東京出雲大社)やいくつかのエピソードを交えてこの二人のおしどり音楽夫婦ぶりはすでに知られた通り。

 連載最終の5回目は、長女出産後の29歳のときに発表した「VARIETY」(1984年)からの先を省いて、最新作アルバム「TRAD」に飛躍する。まあ。活動再開後の活躍の様子はみなさんご存じのとおりです、ということなのかな。個人的には、ビートルズと出会う前のこどもの時代に触れた彼女の音楽体験の揺り籠ともいえる1950~60年代前半の欧米音楽を全曲カバーしたアルバム「ロングタイム・フェイバリッツ」(2003年)についても取り上げて、その中での大瀧詠一氏との唯一のデュエットとなってしまったF.シナトラ「恋のひとこと」のいきさつなど話してほいしかったのだけれど。このアルバムは、おそらく唯一の本人名義のプロデュースとなっていて、彼女のビートルズとの出会い以前の時代の音楽体験の原点が聴ける実にユニークなものでゆったりとした気分に浸れる(ただし、ジャケット写真が黒のスリムな上下姿でドラムセットにギターのバンドスタイルがややミスマッチ!)。

 「TRAD」に関しては取り上げた楽曲の窓口の広さが特徴となり、その中で7月に先行発売された「静かな伝説」(TV番組「ワンダフルライフ」のエンディング曲)の生まれたいきさつを語っていて、吉田拓郎のラジオ番組に出演したときがきっかけで、間奏のハーモニカは彼女自身が演奏している。拓郎といったら、かつてはシンシア=南沙織ファンで知られたこともあって、新たに知った意外な結びつきがおもしろかった。ちなみにシンシアとまりやお二人の音域はともにアルト域で歌い方や耳へのなじみ方もとて近いものがあると感じている。
 お二人の直接の結びつきはないようだが、今回アルバムの中には「YUOR EYES」という一曲、これは夫君達郎氏が1982年のアルバム「FOR YOU」で発表し、ジャズ歌手のナンシー・ウイルソンもカバーした英語歌詞の超有名曲なのだけれど、この作詞が昨年5月に亡くなってしまったアメリカのシンガーソングライター、アラン・オデイという人で、南沙織1975年のLP「シンシア・ストリート」内密かに!3曲を提供していた。当時としては画期的だったと密かに思っているこのアルバムのクレジットをいま改めて確かめたら、協力になんと小杉理宇造氏の名前があり、氏は達郎・まりあが所属するスマイルカンパニーの代表であるのだから、シンシア(南)-まりやのつながりもここにようやく見出せる!というわけ。 

 このアルバム制作は、前回の「DENIM」に引き続いて、達郎&まりやの共同プロデュース名義となっている。タイトルロゴは、5月15日の新聞広告一面に掲載されたときには、赤のタータンテェックでデザインされていたけれど、群青色の地に白抜き文字と変更されている。ジャケット表紙には、実家の旅館階段に腰かけたヘリンボーン仕立てのチョッキとズボン、ネクタイ姿のトラッドな装いの本人が映っている。曲そのものについてはまずは聴いてみるのが一番だし、あれこれ感想を記すにはもうすこし聴きこんでみてからではないとね。
 
 ブックレット最終ページにはいつものように、関係者や親族への感謝の辞が記されているんだけれど、スペシャルサンクスの最後には昨年他界してしまった長年にわたる音楽仲間、大瀧詠一、青山純(ドラマー)、アラン・オデイの三人の名前が特別に記されている。                 
(2014.9.7書出し、9.13初校・改定)


附記:『ささやかな幸せ』について
    無料ブログページには、冒頭文のあとに必ずPR欄が自動的につく。
    「TRAD」発売の10日、何気なくこのブログを開いてみたら、
    その日はなんと「TRAO」発売中の告知だった!
    そんな広告なら歓迎、うれしくなった。しばらくして別の広告に変わってしまったが、
    本日13日にも再び見かけたけど、これからもまたあるといいなあ。


ワンダフルライフ

2014年08月10日 | 音楽
 毎週日曜日にフジテレビ系で今年の四月から放映中(まさにいま、野田秀樹が出演している)の「ワンダフルライフ」は、リリー・フランキーが聴き手となって、毎回一人のゲストを招いての対話番組なんだけれど、正直ほとんど気に留めたことはなかった。

 それが正面に出てきたのは、竹内まりやの新しいシングルCD「静かな伝説」が発売されるにあたって、その番組のエンディングテーマ曲であると知ってからだ。リリー・フランキーが出ていることも、同時期にNHK土曜ドラマ枠で6月14日に放送された村上龍原作「55歳からのハローライフ」を見た後にようやく意識した。このドラマは主役がリリー&戸田恵子の夫婦で二人とも、なかなか中年夫婦の倦怠感とでも呼ぶだけでは表しきれないようないい味を出していて、同世代である自身にとって文字通り身につまされる内容だった。ここではじめて、リリー・フランキーという存在を認識して、「ワンダフルライフ」という番組も見てみたいと思うようになった。

 それで初めて見た時のゲストが阿川佐和子さん、いつも落ち着いて聴き手としては優秀な印象のリリーが珍しく少し、いやあきらかに上がっていたように見うけられた。毎回変えて被ってる帽子がなんともお洒落で才人っぽく、相手の話に低くうなずくリリーが好印象。もうひとつ、オープニング曲が、ビートルズの「IN MY LIFE」(アルバム「ラバーソウル」1965年から)のギターイントロで始まるのも、ちょっとした意表を突かれたが、リリーの一見飄々とした雰囲気にマッチしていてじつによかった。この曲のセレクトは、リリー自身かプロデューサーかいったいどちらなのだろう?いすれにしてもセンスを感じる秀逸な選曲だ。

 そして、エンディングが竹内まりやの「静かな伝説」であり、番組冒頭のテーマ曲、ビートルズ「IN MY LIFE」とのカップリングが絶妙であると思う。前者は、同世代を代表して活躍する仲間たちへの讃歌で、前作「人生の扉」の発展系という感じだし、後者のビートルズの曲は、これまでの人生を懐かしくも振り返りながら、いま愛する女性に出会った喜び、これからのふたりの将来への希望を歌った内容で、その対比もいい。1955年出雲生まれの竹内まりやは、ビートルズフリークを公言してはばからないし、この組み合わせを一番に喜んでいるだろうな。