日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ローカルトーキョー町田 “The CAFE“ にて

2014年07月26日 | 音楽
 予約しておいた竹内まりやの新譜CD「静かな伝説」が発売されて、受け取りにまほろ市内CDショップへ出かける。公式発売は7月23日だったんだけれど、休みの都合で一日遅れになってしまった。

 アルバム表紙には、サラブレッドの手綱を弾いているご本人の横を向いた上半身の姿の写真。背景は薄いブルー、それは空なのだろうと思ったけれど、プレゼントポスターを開くと全体の背景が映ったショットが使われていて、砂丘の上で撮られたものとわかる。背後には砂丘の地平線と日本海?とおぼしき水平線も映っている。どうもこの砂丘は島根の隣の鳥取砂丘ではないか、と思ったりする。いずれにしても動物と一緒に映ったアルバムジャケットは初めてで、すこし意表をつかれた感じがした。

 まだ、昼間の暑さが残る夕暮れの町並みを歩きながら、すこしひと休みしてこのアルバムを開いてみようと、「The CAFE」に向かう。このカフェは、5月19日にオープンしたばかり、床の全面がオーク材のフローリング、室内カウンター壁の一面の赤煉瓦ブロックが目に飛び込んでくる印象的な空間。テーブル席の背後には、昭和30年代の町田の光景を映したモノクロ写真のパネルが何点か飾られていている。ここの前身は1958年に誕生した「喫茶の殿堂プリンス」だ。当時は小田急線踏切のちかくにあったらしい。1980年頃の駅前再開発の際にこのビルに移転したようで、大学時代には目にしてよく前を通っていたけれど入ったことはなかった。というのも、店内が観葉植物やら西洋骨董品やらで埋め尽くされていた不思議な“悪趣味”一歩手前のような異空間だったから。なにしろ喫茶の“殿堂”である、最近は「まほろ駅前多田便利軒」にでてくる喫茶店のモデルになったりして、地元ではちょっとした有名店だったらしい。あたらしい店舗はそれと打って変わったモダンでありながらシンプルで力強く、以前の店舗「喫茶プリンス」にリスペクトを示しつつ、落ち着ける空間に変身していた。 

 カウンターと反対側のテーブル席に腰をおろして、アルバムを開いてみる。タイトルの「静かな伝説」は、4月からフジテレビ系で始まった、毎回一人のゲストを招いてリリー・フランキーが聴き手を務めるトーク番組の書き下ろしテーマ曲。その歌詞を目にすると、なんだか以前2000年からNHKで放送されたドキュメンタリー「プロジェクトX」で、中島みゆきが歌って大ヒットした「地上の星」を連想してしまう内容だ。ただし、曲調はゆったりとして力み過ぎずいい感じがする。むしろこの曲の話題は、竹内まりや自身の発案で実現したという、桑田佳祐&原由子の参加。曲のエンデイングでラララ~と山下達郎&まりや夫妻とハモッてる、たしか同世代だよね、この二組は。
 二曲目、なつかしいご本人1979年デビュー曲の「戻っておいで・私の時間」(2011年バージョン)。服部克久編曲でストリングス、ブラスセクションとコーラスが入り、なかなかゴージャスで軽快な仕上がり。50代後半になってもさわやかな歌声、若いころよりもむしろすこし甘ったるい感じを出しているのはご愛嬌、としよう。日本語と英語が交互に混じったアイデアが輝いていた作詞の安井かずみと作曲の加藤和彦の才能あるお二人は、若くしてもう、いない。あれから35年の時の流れを確実に感じさせる。
 三曲目は、ビートルズのカバー「Tell Me Why」(どのアルバムからだろう?)、杉真理バンドのバックで60年代風にロックン・ロールしてる。
 

 過ぎた時間は戻ってこないが、記憶の連鎖の中でそれぞれの人生は様々に織りなされる。だだ、いまを生きていくだけだ。


   町田 “The CAFE“にて、 特製水出しコーヒー ¥842。特製ボトル、木製トレー付き。        (7.25書出し、7.26初校、8.1改定)

ラリー・ネクテルというピアニスト

2014年06月03日 | 音楽
 水無月に入ったばかりというのに、いきなり連日の気温三十度越えの真夏日で暑さが厳しい。横浜三渓園やまほろ近郊の薬師池公園のハナショブがぽつぽつと咲き始めた。もうすぐ、梅雨入りも近いのだろうか。アジサイも色づき始めて雨を恋しがっているかのようだ。

 さて、ラリー・ネクテル Larry Knechtel(1940.8.4-2009.8.20)について書こうとするとき、その名前を意識したのは、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970)における印象的なイントロを弾いていたピアニストとしてだろう。このとき、彼は30歳になる直前だったんだ。ポール・サイモンのゴスペルの伝統を踏まえた楽曲の素晴らしさ、アーティー・ガーファンクルの一世一代の歌唱がこの曲を後世に残るであろう名曲たらしめているのだけれども、ラリー・ネクテルのピアノ演奏なくしては、少なくともその輝きは幾分かの価値を減じていただろうと思う。
 ラリー・ネクテルの風貌にこの機会に初めて接したが、がっしりした野性味のある印象のカントリーボーイらしく、晩年は牧場を経営していたらしい。ピアニストではあるがベースもいけたそうで、その華麗なセッション歴からは度量の広い人間性や器用さとともに、自己をわきまえて主役を立てることで、結果的にいぶし銀の輝きを放つセッションミュージシャンとしての存在感がある。

 五年前の夏に、69歳でこの世を去ってしまったラリー・ネクテルの名前を最近、思わぬところで発見して驚いた。ここのところ聴き直している、竹内まりやのサードアルバム「LOVE SONGS」(1980年3月リリース)において。このアルバム中、「さよならの夜明け」「ロンリー・ウインド゛」「リトル・ララバイ」の三曲でネクテルの演奏が聴ける、ということを初めて“意識して”聴いた。とくにラストの「リトル・ララバイ」に於いては、冒頭からアコースティックピアノが前面にフューチャーされていて、「明日に架ける橋」から10年後のネクテルのピアノ演奏が存分に聴ける。
 このアルバムの演奏クレジットを改めて見直すと、林哲司、山下達郎、加藤和彦といった日本人スタッフと編曲ジーン・ペイジ、ジム・ゴードン(ドラムス)そしてラリー・ネクテルといった西海岸の売れっ子ミュージシャンの競作から成り立っている作品であり、実に豪華な制作だったことがわかってきて、またまた驚かされた。個人的にも愛聴盤として、のびやかで心地よいサウンドと歌唱をよく夏の北軽井沢のアルバイト先で早朝に浅間山の噴煙を眺めながら聴いていたことを思い出す。竹内まりや侮れず、サードアルバムにして力まず臆することなくこの堂々たる歌唱、MGMビクターのRCAレーベル時代からさりげなくインターナショナルだった!
 冒頭曲の「FLY AWAY」は、ピーター・アレン(1944-1992.6.18)のオリジナルで竹内まりやの歌唱で知った後、輸入盤を買いもとめて本人の歌声を聴いた。このアルバム「I COULD HAVE BEEN A SAILOR](1979)においても、ラリー・ネクテルは計四曲参加しているから、ほぼ「LOVE SONGS」と同時期の演奏、これも今回の“発見”である。

 好きな曲やアルバム、アーティストをたどっていくと、それらがラリー・ネクテルでつながっていることが発見できて、なんだか不思議な気分になっている。確か竹内まりやも、当時の好きなミュージシャンとしてピーター・アレンの名前を挙げていて、この当時のサウンドは時代の潮流としてもアメリカ西海岸指向だった。いまのほぼ全面、山下達郎“夫”プロデュースの国内向けアルバムもよいけれど、この当時の竹内まりやはもうすこし背伸びして?アメリカを意識していたように思われる。若かったんだなあ、じつに。その分、いまは地に足がついて人生の深みを増してそれがアルバム制作姿勢にでている?昨年発表された市制周年記念で依頼をうけたという「わが愛しの出雲」なんて、タイトルからして大御所的のようだし・・・。

 つけ加えると、竹内まりやの声質と歌唱はじつはジャズアレンジによく対応していると思うから、そちらの方面に幅を広げていったら面白いだろう。四枚目の「Miss M」中の「雨のドライブ」は本人の自作だけれども、清水信之のアレンジとピアノ+ドラム、ベース編成のジャズテイスト曲でその可能性を示していた。また2007年の「Denim」の冒頭、「君住む街角」は、まりや自身のプロデュースで服部克久の編曲によるビックバンドをバックにして、リンダ・ロンシュタットばりの歌唱を聴かせる。
 このようなチャレンジを34年後のいま、軽やかにやってもらいたいものだとふと思うし、ぜひもっと聴かせてほしいな。

M.ルグラン~S.グラッペリ/おもいでの夏

2014年05月25日 | 音楽

「ルグラン グラッペリ Legrand~Grappelli/おもいでの夏」は、フランス人音楽家の巨匠ふたりが初共演したシンフォニック・ジャズアルバムで、名門レーベルのヴァーヴより、いまから22年前の1992年にリリースされた。そのCDを聴きながら、ふと気になってジャケットを見直したら、今日がなんと!そのCD収録曲をふたりがレコーディングした記念すべき日にあたることに気がついたのだった。そこで急きょ、この稿を起こすことにしたというわけ。

 このCD、発売翌年の1993年4月に購入していた走り書きがある。シャレたイラストの二人の姿とピアノとヴァイオリンとが描かれたCDジャケットのクレジットには、「Digitally recorded on May 25,26&27,1992 in Paris」と記載されており、パリと東京の時差は8時間東京のほうが進んでいるにしても、このマスターピース全15曲が22年前の今日から3日間かけて収録されたことがわかる。そうか、そうなんだ、たったそれだけのたわいのない偶然なのだが、敬愛すべきふたりの姿が浮かんできて嬉しくなってくる。そして開いたリーフレットには、手を取りあっている両巨匠の柔和な笑顔のモノクロ写真が掲載されていて、これまた幸せな気分になってくる。
 収録されているのは、すべてがよく知られた名曲のカバーで、ミッシェル・ルグランが作曲した「おもいでの夏」(1971年)、「シェルブールの雨傘」(1964年)や、珍しいステファン・グラッペリ作曲の「5月のミル」(1989年)も収録されていて、50人編成のフルオーケストラとコーラスをバックにしてゴージャスで粋な音を聴かせる。長いキャリアの誇る二人の初共演が意外なくらいだけれど、さすが息がぴったりと合い適度にリラックスした演奏がとても素晴らしく(ほかに言葉がない)、生きているっていいなあとなごやかな気持ちにさせてくれる。

 アルバムタイトル曲は、映画「おもいでの夏」のテーマ曲で、原題を「SUMMER OF ´42」といい、避暑地における主人公の少年と夫を戦争で亡くしたばかりの美しい女性とのひと夏の物語。その少年は大戦中の1942年夏、訪れた別荘の一室でその女性の哀しみを埋め合わせるように誘われて、童貞を捧げるのだが、一夜を共にした翌日の夏の終わりとともに女性は少年のもとを行先も告げずに去ってしまう。そう書いてしまうといかにも通俗的な青春映画のように聞こえるだろうが、主演のジェニファー・オニールの長い髪と哀愁ある表情がたまらなく美しかったのと、ルグランのロマンチックで繊細なカスケードを思わせるピアノのメロディーが実にマッチしていて、いまでも思い出すと恥ずかしくも胸キュン!となる思い出の映画なのである。都内の名画座スクリーンで見た後しばらくして、渋谷東邦生命ビル内レコード専門店でオレンジ色のジャケットデザインのサウンドトラックアルバムを見つけて求めたのは、大学生時代の1981年のことだったなァ。
 もう一方のステファン.グラッペリのステージには、幸運にも二度接することができた。初来日が80才を越えてのことだったと思うけれど、最初は渋谷シアターコクーンであり、二回目が1995年ころの神奈川県民ホールでその時はすでに車椅子姿だったが、力量はいささかも衰えていなくてまさしく弦で歌うかのような流麗さで実に感慨深く、驚嘆の演奏だった。この来日が結果的に最後となり、グラッペリの訃報に接したのは、それから間もなくしてからだったと記憶する。

 ふたりの共演アルバムには、ほかに「聞かせてよ、愛の言葉を」や「セ・シ・ボン」「枯葉」などのよく知られたシャンソンの名曲の数々も入っていて休日をゆっくりと過ごすのにはうってつけ、幸せな気分にさせてくれる。今日・明日・明後日とグラッペリを偲び、またルグランの健康長寿を願い(叶うことならふたたびオーケストラを伴っての来日公演を!)、この季節にもふさわしい愛すべき珠玉の演奏を聴き続けることにしよう。


 映画「五月のミル」(監督:ルイ.マル、1989年)は未見だが、作曲のグラッペリに敬意を表してその五月にふさわしいのびやかな一枚を!町田ぼたん園・民権の森の広場に翻る鯉のぼりたち。いい感じ!                            
(5.25初校、5.26追記改定)

竹内まりやニューアルバム「TRAD」

2014年05月18日 | 音楽
 今朝は六時前に目覚めたのだけれど、すでに春の陽光が中庭に面したマンション別棟の白い壁面をまぶしく照らしていた。住まいのベランダから望める中庭の風景は、この季節の新緑がほんとうに豊かで鮮やか、日々眺めていて見飽きることがない。シンボルツリーの二本の欅を中心に、ツツジ・サツキ・ハナミズキと春の花々が季節を彩り、常緑の椿・モッコク・ヒイラギも新緑が美しい。べランダ正面にあるユズリハにはよく野鳥がやってきて葉をついばんでいた(ユズリハの葉っぱってどんな味がするんだろう)。本数は少ないが、メタセコイア・ウメ・モミジ・ドウダンツツジ・アジサイも見ることができる。ケヤキの樹形がマンション棟の壁面に深い影を映して、そこにやがてくる夏の予感を感じさせる。
 駐車場のある北側斜面には深堀川につながる自然林が残されていて、ここにも豊かで稀少な植栽があることはすでに記した通りでこのような環境に暮らしていることに感謝したいし、この緑が普段の生活様式や日常の考え方に影響を与えてくれているのだろう。

 さて前回、竹内まりやの現時点での最新アルバム「Denim」のことを書いたあと、15日の朝刊を開いたらびっくり!竹内まりや7年ぶりのニューアルバム「TRAD」9/6発売告知が全面カラー!で掲載されていた。うーん、こういうのをまさしく、“シンクロニシティ(素敵な偶然)”と呼ぶんだろうな、とちょとうれしくなった。たとえて言うと、早朝目覚めてある人のことをぼんやりと思いながら、たまたまPCメールをひらくとそのひとから早朝のメッセージが届いていて、すこし先の水無月の予定について書かれていたことを読んだときと同じような嬉しさ!なのかもしれない(やや無理がある?まあ、歌詞の内容にもはまりすぎだしね)。

 竹内まりやについての個人的なことを記すと、じつは自分でも驚いたことにその名前をずっと最近まで“まりあ”だと思っていた。“まりや”は本名だそうで、勝手にクリスチャンなのかと思い込み、それでうかつにもマリア様から“まりあ”と連想してしまったのかも。いまから思うと貴重な体験に違いないが、80年代前半に一度だけ、まほろ市にある百貨店地階の赤レンガ通ショップの招待で開かれた彼女のコンサートを聴きに行ったことがある。まほろのことを神奈川だと思っていたことや、少し前にとなりの相模原で行ったコンサートのこと(会館前の桜並木通りが広くて立派だったetc)をステージ上で話していたっけ。彼女の歌の何に惹かれるのかというと、よくできた無理のなく親しめる(だから飽きがこない)ポップス性にあるのだけれど、なんといってもそのナチュラルで落ち着いた声質が愛される所以だろう。聴いていてほっとするというか、安心するというか、近くによると照れてしまい、遠くで憧れるひと、といった印象ではある。
 好きな建築との関連では以前、NHK「ソングス」に竹内まりやが登場した動画をネットで見つけて、そこに吉村順三が設計に関わった八ヶ岳高原音楽堂を訪れている姿が映されていた。実際に何をうたったのかの映像ははカットされていたけれど、思いがけない取り合わせに目がクギ付けとなった。この音楽堂、以前はセゾングループの西洋環境開発がリゾートホテルの目玉として建設したもので、主にクラシック音楽演奏家に利用されていて、謳い文句では武満徹やリヒテルが音響上のアドバイサーに加わっていたというから、相当の箔がついている音楽堂なのだけれど、そこに竹内まりやの登場がそれなりの意味を付与されて飛び込んできたのだ。

 ニューアルバム「TRAD」のロゴは、赤のタータンチェックの柄であり、彼女の1978年デビューからの35周年記念にあたるのだそう。発売予告コピーには、このアルバムが(おそらく)時代に流されない世代を超えて愛されるエバーグリーンな楽曲集であろうことが期待感をもって書かれていて、トラッドなVネックセーターを白いシャツに羽織った本人の若々しい写真が大きくアップさている。
 還暦前!というのにデビュー当時とさほど変わらない風貌には驚かされるけれども、正直にもっと年齢相応の年の重ね方がでていてもいいのではという気がする。たとえば、駐日大使のキャロライン.ケネディさんのように、相応の顔の年輪や白髪交じりの髪などに共感できる年代だ。プライベートとは違うにしても、少し人工的な感じがして、もっとナチュラルでいいのになあ、と少し残念に思う。
 ともあれ、9月のアルバム発売を心待ちするとともに、7月23日に先行してニューアルバム「静かな伝説」が初回盤DVD付で発売されるそうだから、生まれて初めて音楽ショップに購買予約してゲットしよう!


補足:
 前回のブログで、まりやと山下達郎との音楽上の初めての公的つながりを4thアルバム「MISS M」からと記したが、今回その前作「LOVE SONGS」を引っ張り出してみると、その中で「さよならの夜明け」作曲者と「不思議なピーチパイ」のコーラスメンバーに達郎名義がクレジットされていて、当時同じRCAレーベル所属だから、デビュー当時からつながっていたのかな。

竹内まりや「人生の扉」

2014年05月10日 | 音楽
 今月の上旬、故郷新潟へ帰省していた。この時期の山間は、緑と生命溢れる季節、春の陽光と大気にいのちが洗われる。すこし山間を上って棚田を見下ろす位置からは、山里風景と遠きに冠雪をいただいた長野との県境の美しい山並みが望めた。ああ、人間は自然の中で生かされているなあって、つくづく実感させられる。
 戻ってきて、まほろの住まいの裏の自然林の緑もいよいよ濃くなり、ヤマザクラ、ヤマブキに代わって稀少植物のキンランが可憐な花を咲かせている。今年はうれしいことに初めてギンランも二株、植生を確認することができた。こちらはよく注意しないと気がつきにくらい緑の下草にまじってひそやかに清楚に白い小さな花を咲かせてくれている。

 帰省の前後、ほんの少し上の世代にあたる竹内まりやのCD「Denim」(2007年)を聴きだす。1978年の慶應大学生時代にデビューして、当初は女子大生アイドル的なスタンスで売り出されていたのだけれど、セカンド「ユニヴァーシティ・ストリート」、サード「ラブ・ソングス」あたりから、アメリカポップスカバーと自作オリジナル曲を前面に出すようになり(もともとそれが彼女の本領だった)、特に後者は私にとって思い出深いアルバムになった。大学生時代の夏休みに北軽井沢の嬬恋村にある会員制別荘地でアルバイトをしていたのだけれど、そこでよくひとり早起きして浅間山の雄姿を望みながらカセットテープ!で聴いていた曲が、竹内まりやの「ラブ・ソングス」だった。冒頭の「FRYAWAY」(詩C.B.セイガ-/曲ピーター・アレン)の伸びやかな歌声が、爽やかな避暑地の早朝にぴったりだった。そこですっかりはまってしまい、帰ってから4THアルバム「Miss M」(1980年)をよく聴いたのを思い出す。それはいまも手元に愛聴盤としてあるのだけれど、このアルバムの中で山下達郎が二曲「エブリイ・ナイト」「モーニング・グローリー」を提供している。これが、まりあと達郎のはじめての接点でいまにつながるきっかけだったと思う。

 さて、前置きが長くなったけれど、この「Denim」の中のラスト曲が「人生の扉」なんだ。じつをいうと竹内まりやは「Miss M」以来、しばらくご無沙汰していてた。達郎&まりやの理想の音楽カップル、才能のある夫を支える主婦専業シンガーソングライターという世間レッテルに少々の反発も感じていた。久しぶりに「インプレッションズ」をひっぱりだしてその良さを再認識してまた聴きだしたのだけれど、あまりによくできたスタンダードともいえる楽曲の数々に満足して、ほぼその範囲の中でとどまってしまっていた。
 ところがである、ドライブ中に何気なく「Denim」を流していて、ある日歌詞の中の「気がつけば五十路を越えた私がいる」というフレーズにはっと気が付いた。このおおよそこれまでの彼女の音楽イメージらしくない言葉と自分の年代が重なり合った瞬間、これまで「デニム」というタイトルにピンとこなかったけれど、この「人生の扉」って曲は竹内まりあが自分と同世代にむけた人生肯定の応援メッセージソングだったんだ、と。そう気が付いて、改めてCDリーフレットに記載された竹内まりや自身の文章を読むと、ちゃんと以下のように書かれている。

 アルバム「Denim」について

 人生はまるでデニムのようだと、私は思う。
 青春をおろしたての真新しいインディゴ・ブルーにたとえるとすると、
 年を重ね人生が進むにつれて、そのデニムの青は少しずつ風合いを増しながら、さまざまに変化していく。
 ある時には糸がほつれ、穴が開いたりもする。
 けれど、歴史とともに素敵に色褪せたその青には、若き日のあのインディゴにはなかった深い味わいが生まれているはずだ。

 この中の「人生の扉」という曲はタイトルからして、気負いもてらいもなく人生賛歌にそのまま向き合っていて逆に、彼女の余裕のようなものを感じる。ピアノ主体の演奏や落ち着いた歌唱も真っ向勝負の大人の曲そのものですがすがしい。リーフレットの写真には、デニムスカートやジーンズをまとった竹内まりやのショットがあって、舞台となった瓦屋根の日本家屋はクレジットされてないのだけれど、はたしてどこだろうと想像するに、おそらくこれって島根出雲地方出身の彼女の生家の旅館ではないだろうか? ちょうどこの春が去ろうとする季節、帰省したばかりのタイミングに相応しい心象も相まって、この歌曲の歌詞を引いてみるので、もし興味をもってくれて機会があったら聴いてみてほしい。

 人生の扉

 春がまた来るたび ひとつ年を重ね
 目に映る景色も 少しづつ変わるよ
 陽気にはしゃいでした 幼い日は遠く
 気がつけば五十路を 超えた私がいる
 信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったから
 どんな小さいことも 覚えていたいと 心が言ったよ
 
 (作詞・作曲/竹内まりや、編曲/山下達郎、センチメンタル・シティ・ロマンス)

 

臨済宗常福寺ライブ-死を想え  

2014年04月16日 | 音楽
 このあたり、まほろ周辺のソメイヨシノの季節は過ぎてしまったけれど、八重・ボタンなどほかの桜の花々の季節はまだつづく。すこし郊外に出てみれば、いまが盛りの相模川新磯地区の芝桜が見事だ。今月末くらいまでは大丈夫だと思うから、次の休日に散歩にいってみようっと。

 常福寺は、その芝桜の名所からもほど近い相模線相武台下から徒歩すこしのところ、大山丹沢の山並みを望む新戸集落の縁にある臨済宗建長寺派のよく手入れされた庭園のあるお寺。ここで毎年4月上旬の桜の季節にひらかれる恒例の講演会と演奏会「常福寺ライブ ‐be‐」を聴きに行ってきた。副題が“メメントモリ”、ラテン語でmemento mori「 死を想え」、30年くらい前にそのようなタイトルのアジア・インド放浪記が話題になったっけ。案内には「生も死も“生死”と一括りにして、話す人も、奏でる人も、桜の下でひとつ溶けあう。」とある。

 その言葉通り、本堂前の石庭には見事な染井吉野が大きく枝を拡げている。ライブ当日はその桜がちょうど満開で、会場の明け放れた本堂からは、額縁の絵画のようにサクラと孟宗竹が望める。4日午後1時過ぎに、すこしできすぎたかのように設えられた舞台で講演会が始まった。今年は(も)異色の顔ぶれで、山田圭輔(金沢大学がん哲学外来医師)、大友良英(音楽家)、今井道子(元医師、登山家)の順番でそれぞれ一時間づつ、生と死をめぐるテーマについての語りに耳を傾ける。
 山田氏は、大学病院麻酔医師で自身の職業上の経験を深く掘り下げての「いまを肯定して生きることと、やすらかに死ぬことの哲学」を丁寧な言葉で語る。大友氏は、「あまちゃん」のヒットでポピュラーになったが、知る人ぞ知る映画やドラマへの楽曲提供や自身の前衛音楽活動で大活躍の昨今、どんな話なのか注目していたが、なかなか人の気を逸らさない話上手ぶりには感心した。十代をすごした福島での、3.11震災直後からのアクティブな音楽活動を生き生きと語るその姿に魅了された。自身を“職人音楽家”と称する姿勢に同感、人を巻き込むことの上手なオーガナイザーという印象。
 今井さんは、医師というよりも登山家として余裕の語り口。人間が自然と共生すること尊重すること、人間がひろく自然に内包されいることの大事さの実感を語られていたと思う。ひとことでいうと、“くよくよするなよ!なるようになるさ”っていう感じで、山登りに関しても無理なく経験を積んで周到に準備を重ねていけば、山の頂がその人を呼んでくれる、って話されていた。う~ん、なるほど!

 夜の演奏会まで、石庭に面した書院で茶をいただきながら、枝垂れ桜の上方の下弦の月を愛でる。いい春の宵だ、裏庭の相模線のもっと先、相模川のむこうには丹沢の山塊が望める。
 

 18時、ふたたび本堂に戻って、八木美知依(21弦筝、17弦筝、歌)+ベース、ドラムストリオによる演奏会。この楽器による即興を主体とした演奏はずっと聴いてみたいと思っていた。八木さんは、沢井忠夫・一恵門下の古典をふまえた前衛的演奏に取り組んでいるのが興味深い。外国人にとっては、なおさらオリエンタルな印象に違いなく、北欧の中心にヨーロッパで受けるというのもわかる気がする。昨夏は、同じこの常福寺で、フランス国営放送の音楽ドキュメンタリー収録があったそうだ。きっと座禅とか声明に世界に通じるものがあるのだろう。前衛とされるものがじつは究極の原点=オリジンであることの好例。当夜は、やや場を意識したおとなしい?演奏だったが、コキリコ節に使われる木棒で弦を押さえた奏法など、その片鱗がうかがえた。オリジナル曲よりも、映画音楽“ローズマリーの赤ちゃん”やアンコールの“サクラサクラ”変奏曲のゆったりした深い弦の響きのほうが余韻と間が生きていて、よりしっくりきた感じがした。
 演奏会のあとは、本堂で予約したお弁当をたべての交流会。主宰の常福寺原住職も参加者の間を回られて語り合い、春の宵は過ぎて行った。

PINK MARTINI&SAORI YUKI 1969

2014年03月14日 | 音楽
 音楽と時代の話を続ける。

全体が薄水色で左隅に小さく男女が寄り添って歩く写真に、白抜きで「PINK MARTINI&SAORI YUKI 1969」とタイトルがクレジットされたジャケットデザインのCDがある。一見洋楽のような印象だけれど、一昨年2012年に、海外から日本に飛び火した形で突如?ブレークした日本人歌手由紀さおりとアメリカ西海岸オレゴン州ポートランドに本拠をおくビッグバンドのコラボレーションアルバムだ。2011年の暮れくらいだったか、まほろ市のいまはもう無くなってしまった輸入盤と中古版を扱うお気に入りのCDショップ店頭で初めて目にして以来、気になっていたアルバムをようやくブックオフで手に入れた。このCDのヒットにより、由紀さおり&ピンク・マルティーニは、アメリカとイギリスを含むヨーロッパツアーを敢行して盛況だったというから、あの「スキヤキ」以来の大ヒットだそうで恐れ入った。その様子の一部はNHKでもドキュメンタリーとして構成、放送されて興味深く見ることができた。

 さて、このアルバムデザイン、どこかで見たような気がしていたがしばらくして気が付いた。サイモン&ガーファンクルのアルバム「明日に架ける橋」の裏面のレイアウトと色調にそっくりなのだ。ちなみに「1969」のほうは、写真のクレジットにハービー山口!、デザイン&レイアウトにマイク・キング(ポートランド、オレゴン州)の名前が掲載されている。「明日に架ける橋」は1969年の作品なので、このビジュアル上の類似は、もしかしたら同時代のタイトルからその辺を意識したある種のリスペクト?からくるものなのかもしれない、と思っておこう。

 このアルバムに興味を引かれた理由はほかにもふたつあり、そのひとつはタイトル「1969」の意味するもの、もうひとつは昭和40・50年代歌謡曲全盛時代の歌手イメージのある(ややレトロな世代に属する)由紀さおりと、共演のピンク・マルティーニ(まるで酒場のカクテルメニュー!のようなヘンな名前だ)という殆どの日本人が知らないであろう楽団がいかにして結びついたか、である。

 1969年すなわち昭和44年は、このアルバムの成立に即していえば、由紀さおり(姓名というよりもよくある日本女性の名前を重ねたような芸名だ)が、山上路夫作詞、いずみたく作曲の「夜明けのスキャット」でデビューした年であり、その年に日本でラジオから流れていた曲を和洋問わずにセレクトして、ピンク・マルティーニの演奏のもと由紀本人が歌うという企画が本アルバム「1969」ということになる。選ばれたのは、歌謡曲6、洋楽5の計11曲+新曲。ベタ歌謡曲もこうして今の時代に聴くと妙に新鮮に聞こえるのが不思議だ。あまり、統一感は感じられないが、かえってその何でもアリ感がおもしろい。以下その曲目リストをあげてみよう(タイトル後※が洋楽)。
  
 1.ブルー・ライト・ヨコハマ
 2.真夜中のボサノバ
 3.さらば夏の日※
 4.パフ※
 5.いいじゃないの幸せならば
 6.夕月
 7.夜明けのスキャット
 8.マシュ・ケ・ナダ※
 9.イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?※
 10. 私もあなたとないていい?
 11. わすれたいのに※
 12. 季節の足音(2011年曲)

 CD解説文には、この選曲にあたっては日本人プロデューサーの意向とともに共演者側、とくにバンドリーダーのトーマス・M・ローダーデールの意見も取り入れられたと記されている。トーマスは1971年生まれとあるから、40代前半と意外にも若いことに驚く。両者の出会いは、彼がポートランド市内の音楽店で、たまたま見つけた由紀さおりのデビューアルバムLP(1969年)を“ジャケ買い”したことに始まる。その中の由紀さおりの歌声に魅了され、彼がリーダーを務めるバンド、ピンク・マルティーニのアルバムでカバーし、それが「YOU TUBE」を通して日本で関係者により発見され、あれよというまに両者の関係がつながって共同アルバムの制作に行きついたという、インターネット時代ならではのエピソードだ。
 ピンク・マルティーニというボーカルも入った12人編成の楽団自体が、昨今の音楽シーンとは一線を画した存在のようで、1940年代から60年代にかけて流行した古き良き時代のジャズ、映画音楽、ミュージカルを主なレパートリーとするバンドらしい。いわゆるダンスホールミュージックを奏でるイメージで、日本だと40年から50年代の歌謡番組の演奏を受け持っていた楽団テイストと似通っており、その意味では歌謡曲との親近性はもともと高かったのだろう。

 このCDの中で、欧米人の持つオリエンタルな印象をくすぐるであろう楽曲が、イントロに琴をフューチャーリングしたオリジナルを黛ジュンが歌った「夕月」(1968年、三木たかし作曲)で、選曲したトーマスの素直だけれどなかなか絶妙な商業センスが感じれる。また、久しぶりに聴くこととなった「夜明けのスキャット」(1969年、いすみたく作曲)は、浮遊感のあるエキゾチックな印象で、高度成長期の時代を象徴するような感がある。この曲の冒頭、ギターで導かれるイントロがサイモン&ガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」のイントロとかぶるのは、洋楽通のうちでは有名なエピソードだそうで、グッチ裕三がお笑いネタにしているのをテレビでも見ていて、なにも知らずに彼のネタのハマり具合に喝采してのだけれど、あとで自己の無知を恥じた。でもこれは、パクリというよりも本歌取りのようなもの?で日本人の器用さ、固有性に対するあいまいさの表れのようなものだと思うのは、日本の伝統?的文化の弁護にもなっていないだろうか?
(3.12書き出し、3.14校了)

 

洋楽ヒット全集1964-1976年は昭和の香り

2014年03月09日 | 音楽
 今年2014年1月22日にソニー・ミュージックから「青春のゴールデンポップス イン SHOWA40S」という、いまどき和様折衷のなんともアカ抜けないタイトルの2枚組のCDが突如(という感じで)発売となった。その広告を朝日新聞で見つけて、曲目リストを見た途端にこれはすぐに購入したいと思い、まほろ市内の新星堂で手に入れたものをたったいま聴きながら、このブログを書いている。流れているのは、
 サイモン&ガーファンクル「コンドルは飛んでゆく」(1970)
 ブラザース・フォア「七つの水仙」(1964)
 プロコル・ハルム「青い影」(1967)
など、1964年以降の洋楽ポップス・ロックのヒット曲の数々である。まさしく新潟の田舎の少年が小学生から中校生にかけて、ようやく洋楽に触れだしたころのオリジン的楽曲の数々だ。洋楽なのに昭和40年代(1965-1974)の洋楽ヒットとして括ってあるのがなんとも日本的感性にかなっていておもしろい。おそらく、この企画盤のプロデュサーは1960年前後生まれの世代だろうと想像する。

 いろいろ能書きを書き連ねるより、このCDの楽曲とアーティストを列記したほうが、はっきりと時代状況が明晰に浮かんでくるだろう。そして何故このようなことを書いてみたくなったのかを雄弁に語ってくれるはずだ。

 「シバの女王」(1969)/レーモン・ルフェーブル・オーケストラ
 「雨のささやき」(1969)/ホセ・フェリシアーノ(盲目の天才歌手といったら、日本では長谷川きよしか)
 「ブラック・マジック・ウーマン」(1970)/サンタナ(「同じサンタナの「哀愁のヨーロッパ」はストリップ劇場の定番BGM)
 「ひまわり」(1970)/ヘンリー・マンシーニ楽団(S.ローレン主演の大人の映画だった)
 「ある愛の詩」(1969)/アンディ・ウイリアムス
(いわずと知れたシネマ「ラブ・ストーリー」テーマ曲、日本では「愛と死を見つめて」を彷彿)
 「マンダム 男の世界」(1970)/エンゲルベルト・フンバーディング
   (「ウ~ン、マンダム」、C.ブロンソンを一躍ポピュラーにした男性化粧品のCMで大ヒット!) 
 「カントリー・ロード」(1971)/ジョン・デンバー(O.N.ジョンでも大ヒットした。あちらアメリカの南こうせつ!?)
 「アローン・アゲイン」(1972)/ギルバート・オサリバン(奥歯をかみしめたような歌い方が・・・)
 「ゴッドファーザー 愛のテーマ」(1972)/アンディ・ウイリアムス
 「この胸のときめきを」(1970)/エルビス・プレスリー
 「愛の休日」(1972)/ミシェル・ポルナレフ(中学時代強烈にはまった。ユーミンもリスペクトしていると知って、やっぱり!)
 「天国への扉」(1973)/ボブ.ディラン
(黒人シンガー、ランディ・クロフォードの歌唱で初めて聞いたけれど、B.ディランと知って驚いた) 
 「ローズ・ガーデン」(1970)/リン・アンダーソン(南沙織「17才」の原曲?と噂されたポップス、さすが筒美京平!)
 「愛するハーモニー」(1972)/ニュー・シンガース(これも初期の南沙織LPで聴いたアメリカンポップスの甘酸っぱい想いで)
 「カルフォニルアの青い空」(1972)/アルバート・ハモンド(実によく流れていた。シンシアののびのびした歌唱が爽やか印象的)
 「天使のささやき」(1974)/スリー・ディグリーズ(ソウルを越えた?ブラックポピュラーミュージック)
 「エマニエル夫人」(1974)/ピエール・バシュレ
             (青い未熟な高校生は性の誘惑に二見書房ブックスを隠れ読み、えーと主演女優は?S.クリステル)
 「あまい囁き」(1973)/ダリダ&アラン・ドロン
(二人の歌と語りのかけあいが見事、いま聴いても新鮮だ!パローレ♪パローレ♪のリフレイン)
 「愛の贈り物」(1975)/バリー・マニロー(ピノキオのようなお鼻が印象的なあまいあまい声)
 「17才の頃」(1975)「ラヴ・イズ・ブラインド」(1976)/ジャニス・イアン
(高校生の頃の記念碑的楽曲、本格的に洋楽女性ボーカルに入れ込んだ)

 こうして、振り返ると個人的に洋楽が日常的にリアルタイムで入ってきたのは、1970年以降になることがわかる。それらのきっかけは、ラジオの深夜放送と当時のアイドル歌手で英語でポップスも歌えた、シンシアこと南沙織だったということになるだろう。その意味では、シンシア(現在の篠山紀信夫人)は、「ローズ・ガーデン」(1970)/「愛するハーモニー」(1972)/「カルフォニルアの青い空」(1972)などのヒット曲を同時代に取り上げていたし、J・イアン提供の楽曲も歌っていたのだからなかなか貴重な存在だった。
 1975年ロスアンゼルス録音の全曲オリジナル作品「Cynthia Street」は、A面が安井かずみ作詩、筒美京平作曲、B面が現地ミュージシャン(G.クリントン、A.オディーなど)が参加した当時としては非常に意欲的なアルバムでじつに!画期的だったとひそかに思っている。もっともっと歌手としての可能性が拡がってもよかったのになあ、と少し残念に思うのだ。

ありがとう、大瀧詠一さん、そしてサヨナラ!

2014年01月06日 | 音楽
 大瀧詠一さんが昨年末30日午後に亡くなられたのを知ったのは、大みそか31日のお昼の出勤前、パソコンで知り合いの方に近況伺いメールを送った際に偶然覗いたヤフーニュースだった。どうして、こんな年の瀬にと一瞬我が目を疑ったが、ネット上では次々とその突然の訃報が広がっているようだ。なんでも30日夕方5時過ぎに都内瑞穂町の自宅で突然倒れ、搬送された青梅市内の病院で亡くなったらしい。友人がメールで「リンゴを喉につまらせた~?」と教えてくれたが、大瀧さんらしい?冗談のような気がしてその時は何のことやらわからなかった。
 とにかく、邦人アーティストによるトリビュートアルバム2002年「ナイアガラで恋をして」と1989年リマスターの「B-EACH TIME L-ONG」をひっぱりだしてきて聴くことに。30日の夕方といえば、自宅で和室の障子張り替えを終えてひと息ついたころで、偶然にもアップル!レーベルのアーリービートルズソングを聴いてくつろいでいたころ、その時にこんな信じられない悲しい出来事が起きていたなんて!

 元旦の新聞には、その解離性動脈瘤による急死を知らせる記事が載り、3日の朝日新聞夕刊には、早くも内田樹氏の追悼記事が掲載される。それによると「(大瀧さんは)ふつうの人は気づかないものごとの関係を見出す力において卓越した方でした。」とあり、「はっぴえんど」時代の代表曲「春よ来い」(もちろん、相馬御風作詞の童謡やユーミン作とは違う)は、「地方から都会に出てきた青年の孤独と望郷の念をうたう、春日八郎や三橋美智也にも通じる楽曲でした」と述べている。じつは大瀧さん、岩手県の生まれで「日本語ロック先駆者」「実験的なサウンド」という常套句よりも、よほど本質を突いたものと共感する。創造とはまさしく「誰も気が付かなかったものごとの新しい関係性を見出すこと、そしてそこに新たな意味を付与すること」にあると私自身信じているから。

 いま、改めてLPジャケットを眺めながらナイアガラサウンドを振り返ってみる。

「A LONG V-A-C-A-T-I-O-N」(現題はすべてアルファベット表記)は、永井“ペンギン”博画伯!による南方の海辺を思わせる無人のプールサイドの鮮やかで透明感あふれるイラストレーションが、実に印象的なジャケットで1981年のリリース、ちょうどなつかしい大学時代と重なる。そして卒業した84年には、輸入盤仕立ての新譜「EACH TIME」が発売され、すぐさま購入して聴き続けた。井上鑑のストリングスアレンジの素晴らしさと相まって、このアルバムの白眉はなんといっても「ペパーミント・ブルー」だろう。二作品とも作詞松本隆とのコンビ作。85年の小林旭「熱き心に」の歌いだし「故郷の~」後に続くストリングスの調べにぐっと心が揺さぶられた。ツボにはまったオブリガートとはこのようなものだというお手本のようなアレンジははたして大瀧さんのものか?また、シリア・ポールの「夢であえたら」を初めて聴いたときはそのキュートな魅力に参ったが、いまから思うと大瀧さんのコニー・フランシスを思わせる楽曲の魅力が大きかった。そして89年「B-EACH TIME L-ONG」は、なんと前二作の代表曲をフルオーケストラサウンドのイントロでボーカルとともに聴かせたナイアガラサウンドの集大成のようなアルバムで季節を問わずに愛聴した。個人的には、この三作をもってナイアガラサウンドは頂点に達したものと思っている。

 そもそも、大瀧さんの名前が初めて刻印されたのは、70年代中高校生のころの若き秋吉久美子の水着姿がまぶしかった「三ツ矢サイダー」CMサウンドの作者としてだった。なんてシャレたコーラスとメロディーなんだと、洋楽の豊饒な世界を知らない片田舎の少年の心をとらえたものだ。それ以来、上京してから少しずつLPを買い求めていって、コミックバンド風な洒落や冗談にも並々ならぬ才気を感じずにはいられなかった。いまにして思えば「ナイアガラ音頭」なんて、大瀧さんの薀蓄と余裕であったに違いない。福生と相模原と横浜横須賀が国道16号線で結ばれていることをただただうれしく思ったものだ。大瀧さんが小津安二郎ファンで、映画ロケ地めぐりが趣味というのも親近感を覚える。
 

 永遠の「ロング・バケーション」に旅立たれた大瀧さん、リンゴを食べている最中に倒れられるなんて本気であなたらしいのかもしれませんね。大瀧さん、生まれて65年の音楽人生は、望んだとおり「はっぴいえんど」=「幸せな結末」でしたか? 
 生のステージに接することは叶いませんでしたが、同時代にあなたの音楽を聴くことができて本当に幸せです、ありがとう!ございました。

 
  2013.12.31町田東急ツインズイースト 新星堂店頭にて、出勤途中に。


 
   
  2014.1.6 町田モディ タワーレコードにて。「大瀧詠一ファースト」「ナイアガラ トライアングルVOL.1」を購入。前者には「三ツ矢サイダーCM」につながる楽曲も聴かれ、後者には若き日の山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子の声が。
 
 

サイモン&ガーファンクル「So Long,Frank Lloyd Wright」(1970年)を巡る断章

2013年11月26日 | 音楽

 サイモン&ガーファンクルは、1960年代から1970年までのたった5枚のオリジナルアルバムと1枚の映画サウンドトラックアルバムだけで、青春へのオマージュ、賛歌を捧げる音楽シーンの象徴的存在となった。
 デュオとしてのラストアルバムである「明日に架ける橋 Bridge over troubled water」こそが、もっとも彼らの有名なかつ金字塔的アルバムだろう。収録された全11曲すべてがメロディー・ハーモニーの美しさとリズムの多彩さにおいて全く駄作がなく、ポールの綴る歌詞の世界を含めて何度聴いても新しい発見がある。この作品を発表した当時の二人の年齢(ともに20代後半)と葛藤を重ねた両者の関係性を知ると、まさに名作は人智の与り知らぬ様々な要素の奇跡の中にしか生まれないもの、という思いを新たにする。

 アルバムのタイトル曲「Bridge over troubled water 明日に架ける橋」は、友情に結ばれた静かな祈りのような序幕から、後半のストリングスを交えた盛り上がりがやや過剰なくらいのドラマチックな印象の名曲で、ガーファンクルの一世一代?の名唱だと思う。
 このアルバムの中でさほど有名ではないけれでも大好きな曲が三曲あって、そのなかの一つ、建築好きには外せない「So Long,Frank Lloyd Wrght」について記そうと思う。30年前の大学生当時、この曲を初めて聴いた際は、フランク・ロイド・ライトって誰?といった程度の関心だった。この一曲、アルバムの中ではともするとうっかり聴き流してしまいそうな地味な曲なのだけれども、なかなか味わい深くいぶし銀のような渋さで心に残る。

 S&Gの片割れ、アーティー・ガーファンクルはコロンビア大学で建築を専攻した学生だった。そのガーファンクルがアルバム制作にあたってポールに、ライトをモチーフとした曲を作ってい欲しいと要望したのがこの曲の誕生のきっかけだったという。作中のライトは当然、アーティー・ガーファンクルを暗示していて、なかなかうまく行かないアルバム作りのなかでポールが精いっぱいの抗議の意思を歌ったものらしい。
 全体がボサノバ調のメロディー&リズムで淡々とポールのアーティーに対するかつての親密な交流と一転してその後の行き違いと諦めの心境が綴られているかのようだ。当時アーティーは映画撮影優先のため、アルバム制作のスケジュールを後回しにしていたため、それがポールとの確執を生んでいたようだ。有名になるにつれて、必然的にどうしようもなく生まれてくるエゴのぶつかり合い、そのような緊張感のなかで、結果的に時代に残る名作が生まれたとは皮肉な話だ。
 
 この「So Long,Frank Lloyd Wright」を聴くたびに、二人の苦い思いを追体験したような感覚に陥る。そしてボサノバの曲調から、同じユダヤ系ニューヨーク育ちのアメリカ人歌手、ジャニス・イアンの代表曲「At Seventeen=17才の頃」を連想し、ポールと近い世代であるジャニス・イアン、二人の天才シンガーソングライターのシニカルでありながらも屈折した大人の感性に思いが至る。