また、ずいぶんと大仰な標題にして何を!と思われるかもしれない。わざわざ“広大な”という形容がついた「自然」に、これまた“永遠”という時間軸を限定しない流れの「眠り」を重ねあわせているのだから。この一文は何かというと、この季節の味覚パーシモンの花言葉なんだそうで、いったい西洋人は何をして中国原産の地味な柿の花に、このような深遠すぎるとも思われる意味を付与したのだろうか。それとも日本人のよく知る柿の花の形容とは異なるところからきているものだろうか?
柿の花は初夏のころ、うっかりすると気がつかないくらいわりと地味に咲くものだし、この花言葉はなんだか、柿の効用にちなんだ西洋神話の世界のような気もして、どうもよくわからない。
日本では、柿はその熟れた果実の鮮やかな色合いが寒々とした初冬の空に映えて、この季節ならではの深い情感を沸き起こさせる。とくに白地に青と文字通りの柿色の染付の有田焼陶磁器の美しさといったらほかに例えようがないものだ。わたしが好きなのは、その厚みと艶のある葉に発酵させた魚の切り身などを包んだ柿の葉寿司。それを織部の器に盛って頂いたりすることがあれば大満足してしまう。今回は葉つきの柿の実を枝ごと器においてみた。地の薄黄土色と釉薬の深緑色に、柿の実の取り合わせがぴったり。
織部の器は、ちかくの古道具屋で目にした愛用の骨董品。
秋の味覚に関連したことでもうひとつの話題は、最近生協を通してシイタケの栽培キットというのを購入して育てている。木くずを固めた円筒形の床にシイタケ菌が植えつけてあり、すでに全体に白い菌が行く渡っている。その全体をビニール袋で覆い、毎日霧吹きをかけてあげて、夜間は外の冷気にあて、日中は室内に入れて少し暖かい環境のなかでおいておく。一週間もすると、円筒形の菌床全体にゾクゾクとそれはまあ、ひしめき合うように大量のシイタケが生えてきた。その様子があまりに生命力に満ちていて立派だったので、収穫した後に竹籠にあふれんばかりに盛ってみた。この後、夕食のほうとう鍋に田舎から送られてきたカボチャと一緒に入れて食べ、残りは翌日の朝食のバター焼きでおいしくいただき、一両日シイタケの食べまくりで胃袋はご満悦。
柿の花は初夏のころ、うっかりすると気がつかないくらいわりと地味に咲くものだし、この花言葉はなんだか、柿の効用にちなんだ西洋神話の世界のような気もして、どうもよくわからない。
日本では、柿はその熟れた果実の鮮やかな色合いが寒々とした初冬の空に映えて、この季節ならではの深い情感を沸き起こさせる。とくに白地に青と文字通りの柿色の染付の有田焼陶磁器の美しさといったらほかに例えようがないものだ。わたしが好きなのは、その厚みと艶のある葉に発酵させた魚の切り身などを包んだ柿の葉寿司。それを織部の器に盛って頂いたりすることがあれば大満足してしまう。今回は葉つきの柿の実を枝ごと器においてみた。地の薄黄土色と釉薬の深緑色に、柿の実の取り合わせがぴったり。
織部の器は、ちかくの古道具屋で目にした愛用の骨董品。
秋の味覚に関連したことでもうひとつの話題は、最近生協を通してシイタケの栽培キットというのを購入して育てている。木くずを固めた円筒形の床にシイタケ菌が植えつけてあり、すでに全体に白い菌が行く渡っている。その全体をビニール袋で覆い、毎日霧吹きをかけてあげて、夜間は外の冷気にあて、日中は室内に入れて少し暖かい環境のなかでおいておく。一週間もすると、円筒形の菌床全体にゾクゾクとそれはまあ、ひしめき合うように大量のシイタケが生えてきた。その様子があまりに生命力に満ちていて立派だったので、収穫した後に竹籠にあふれんばかりに盛ってみた。この後、夕食のほうとう鍋に田舎から送られてきたカボチャと一緒に入れて食べ、残りは翌日の朝食のバター焼きでおいしくいただき、一両日シイタケの食べまくりで胃袋はご満悦。