日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

妙喜庵から聴竹居へ そのⅠ 市中の山居

2017年12月16日 | 旅行
 年の暮れ、冬至まであと二週間というこの時期、念願かなって関西方面を旅してきた。

 早朝の新横浜から新幹線で名古屋まで行き、そこで在来線へ乗り換えて大垣経由関ヶ原を超えて、お昼前に大津へ到着した。駅前のなじみのお蕎麦屋さんで昼食をとったあとは、湖方面へむかってゆるやかな下りを歩き、大津港横の広場へと出る。花崗岩列柱が二列にならぶここの広場全体のモニュメントは、彫刻家井上武吉の遺作(1997)になる。やや広すぎてさびしい感じがする広場の中央にほつんと一本の楠がシンボルツリーとして植えられていた。もうすこし年月がたって楠が大木となり、周囲の半円上の石段が遺跡のように古びれば、もっと全体の見立てがよくなるだろう。

 その広場でしばらく佇んで湖面をながめているうちに小雨が降り出し、ちかくの遊歩道を三井寺まで詣でることにした。参道から山門をくぐるとすっかり紅葉が落ちてしまって地面を覆っていた。本堂まですすみ、参拝記念に近江八景のひとつ、三井の晩鐘を衝かせていただく。思いのほか長い余韻が響きわたり、その間手をあわせてこの旅の無事を祈った。
 高台に上って、はるか市街と琵琶湖方面を展望する。しだいに夕暮れがせまるなか雨が増してくる。京阪浜大津から、宿最寄りの石場駅までゆき、その日は琵琶湖畔で一泊した。大浴場からの夜景がきらめく。
 翌日、まだうす暗い空が朝焼けの湖面ともにしだいに透明に輝きだすと、湖をぐるりとめぐる近江の山並みのシルエットが浮かびだしてくる。この日は快晴になるだろう、その夜明けの雄大な自然の情景を心象の中に刻もう。
 すこしねぼけの目覚めにぴったり、金柑の自家製コンポートをいただく。金柑は冬至の七草のひとつなんだそうで、名前に「ン」がつく食べ物は“運盛り”とも言われて縁起がよいという。
 湖畔にでて、ひんやり空気の中を大津プリンスホテル目指してそろそろと歩く。風はすこしあるが静かな湖面に波はわずかでやはり湖国はいい。シャトルバスで大津駅まで乗せてもらう。

 ふたたび大津から東海道線に乗り、約三十分ほど、京都駅を過ぎて天王山ふもとの小さな駅舎で下車する。ここは山城国乙訓郡大山崎町、山崎駅のホームはずれが京都と大阪の国境となっている地だ。歴史的には戦国時代に秀吉と光秀の天下取り古戦場となり、地理的には桂・宇治・木津の三川が合流して淀川となって大阪湾へとくだっていくところ。
 まずは荷物を駅前の宿に預けてから、駅前広場のすぐ横の生け垣に囲まれた妙喜庵を訪ねる。まったく拍子抜けする位に駅の目の前で、すぐそこに高名な国宝茶室があるなんてにわかに信じられないくらい、でも確かにあるのだ。ここは東福寺につらなる臨済宗の小庵だそうで、思っていたより若い50歳前後の住職がてきばきと出迎えてくれる。
 さっそく案内をいただき書院へすすむ。すぐ目の前には小さいけれど、よく手入れされた植木、庭石と苔のすがしがしい庭が目に入る。まさしく、いまは市井のなかの山居といったたたずまいだ。その茶室は書院に付属してすぐ目の前にあった。独立した茶室だとばかり思い込んでいたのでこれはまったく不意打ちをくらったような意外なことだった。

 いったん庭に降りて、南側の躙り口のある正面にまわり、茶室待庵とのはじめての対面である。ややひろめの躙り口、東側の障子窓からひかりはすでになく、二畳敷の室内は薄暗いが濃厚な気配が漂う。黒ずんで練り込まれた藁の茎がはがれて模様のようになった塗壁に囲まれたムダのない、というかスキのない内空間と表現したらいいのだろうか。なんだかどろりとした薄眼をあけた肉厚で質感のつまった、それでいて柔軟な利休の気配のようなものを感じる。ここで利休と秀吉が対面いや対峙したときの四百年余り前の時代の空気を想像してみる。その遺構は、正面の床の間、角がとられた床柱、塗壁、斜めの化粧天上などに残っている気配がしていた。隅に切られた炉は使われていなくなって久しいというから、いちおう窯はおいてあるもののだだの飾りにすぎない。
 次の間は一畳板間付、茶の間と一間のしきり襖には木枠がなくて全体が障子張りとなっている。建物の外壁は、もちろん何度となく塗り直されていることだろう。こちらの住職によれば、午前中早く東側の障子明りが差し込む時間と午後からとでは、当然ながら室内の様子がことなるといっていた。やはり、これは機会をつくって、ぜひ午前中の光の内に訪れてみなくてはならないだろう。

 すこし、息を抜いてみようとあらためて庭を見回す。ふと、モッコクの木の横、茶室の南西の門にあたる位置に珍しいナギの木が植わっていることに気がつく。熊野権現のご神木で八咫烏とともに描かれる南方系の常緑樹だ。この小さな庵に植えられたのは近年のことだろうがとりあわせが面白い。
 書院にもどって茶室の水屋につながる入り口をみる。広間からは一段下がったつくりになっていて、一畳ほどの広さだ。この茶室が陣中にあったという天正十年(1582年)六月、利休が秀吉に茶をたてるために水屋をくぐっていく様子を想像してみよう。

 帰ってから、赤瀬川原平「千利休 無言の前衛」(1990、あとがきには1989.12.19と記されている)を開き直す。中ほどの129頁「待庵の秘密」の項には、赤瀬川さんの描いた「待庵空間」と題する著者のイラストが掲載されいる。その一見脱力感あふれるイラストと本物の印象を対比すると、この茶室の語りつくせない本質の一面がみえてくるのではないかと思う。まさしく簡素な「無言の前衛」という言葉のなかに、この草庵茶室と千利休という歴史的存在の本質が言い当てられている。

 今宵の駅前の宿は、三階建てのひよこ色の壁に木枠縁飾りの窓、プチホテルといった風情で、一階にベーカリーと喫茶室、二階に雑貨屋を併設している。翌日、ここから線路を渡ってすこし山麓を上っていけば、いよいよ念願の聴竹居との対面だ。

 
 京都府乙訓郡大山崎町小字竜光56。正面にある門柱に、ここの小禅庵の歴史的史跡事項が刻まれる。
 
(2017/12/16 書き始め、12/18初校校了)