御茶ノ水は、けっこう思い入れのある街だ。遥かにさかのぼる高校生三年の夏、予備校の夏期講習で通って、はじめてひとりで都会と向き合った街なのである。
足立区に伯父と叔母が住んでいたため、東京といったら信越線の終点上野駅に着いて、そこから京浜東北線に乗り換え、王子駅で下車した駅前の風景が原点だ。駅改札を出ると正面には、いまはもう新しいビルに生まれ変わっているが、古ぼけた五階建てくらいのビルの姿が飛び込んできた。長らく放置されて一階以外は廃墟のような姿が哀愁を帯びていて、深く印象に残っている。
そことは対照的に、ホームからは当時できたばかりの白亜のレジャービル、東武サンスクエアが堂々とそびえて見えたものだ。入り口デッキに当時大流行していたボーリングのピンを模した広告オブジェが建っていて、それが都会を象徴しているように見えたものだ。ボーリング初体験はここだったろうか。
すぐそばの飛鳥山公園は上野公園よりもお馴染みであり、周囲を三百六十度見渡せる回転式のドーナツ型のエレベーターで昇る展望台があった。そのすぐ下の路面を都電が走っていて、飛鳥山のふもとを大きくカーブして上り下りしているさまは今も変わっていない。
王子駅から御茶ノ水駅へは、上中里、田端までくるとぐんと視野が広がり、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野、御徒町ときて、秋葉原で黄色の車体の総武線に乗り換えること九駅だから、東京都内の電車移動と乗り換えという行為は、考えてみればこのルートが初体験かつ原風景だ。
御茶ノ水駅に着くと聖橋寄りの改札を出て、そこから幾らかの緊張感を抱え神田川沿いに淡路坂を下り、いまの日立本社ビルのある角を曲がって、かつての千代田予備校へと通ったように記憶している。予備校校舎のビルは白い5階建てほどのこじんまりしたビルだったがいまはもうない。住所でいうと神田淡路町二丁目、ちかくの神田駿河台ニコライ堂の青銅色ドームがこのあたりを象徴しているようで異国情緒満点だった。
約束をしたその日、待ち合わせの友は少し遅れるという。駅前の丸善書店や画材店画翠レモンのある姿は変わっていないが、駅舎は改築中で改札口の位置が変わっていた。改札ちかくの山小屋風の「喫茶穂高」はビルに建て替わっていたが、入り口の雰囲気はそのままでいてほっとする。せっかくだから入ってみたかったが、残念ながら日曜日は休業だった。十時前に改札からでてくる友の姿を見つける。笑顔でちょっと照れたような再会のあと、わらわらと歩き出す。
まずは明大通りから右の折れてマロニエ通りを明大リバティータワーの裏手に出ると、通称ヒルトップ、山の上ホテルの姿がみえてくる。五階建てアールデコ調のこじんまりとした佇まいだ。ヴォーリズ建築事務所の設計で1937年の竣工、ホテルとしての開業は戦後の1954年のことだ。正面両脇の銀杏とヒマラヤ杉の大木は当時からのものだろうか。いいアクセントになっていて銀杏のほうはいい具合に全体が色づいている。車寄せから正面入り口へと進み、ほどよい広さのロビーと小さな慎ましい受付カウンターにほっとした気持ちになる。ここで荷物を置かせてもらったら、午後すぎまでぶらぶら都心散歩の時間としよう。
ホテルから駿河台下交差点まで下って、一ッ橋で首都高速高架を潜り抜けると毎日新聞社の入るパレスサイドビルの脇にでる。そのすぐさきは皇居東御苑へ向かう平川橋前で、文字通りの都会の中心に広がる神聖な空間だ。
平川門をくぐってツワブキの黄色い花を眺めながら、二の丸庭園へとすすんでいくと、紅葉には少し早い武蔵野雑木林となる。そこの休憩所で一休みしたら庭園の池周りを一巡り、前方には大手町のオフイスビ群、振り返れば本丸のぽっかりあいたみどりの空間だ。この対比こそが歴史を重ねた空間と現代のダイナミックな姿で素晴らしい。思い立っての休日散歩はなんとも爽やかで、新型コロナウイルス禍の世相から解放された気分になる。
ベンチで日向ぼっこしてしばしの会話で何を話したのだろう。汐見坂から楽部脇をとおって大奥御殿跡の芝生広場をまわり、石垣で囲まれた天守台に上ってみる。ここからの眺望はまさしく今様お殿様気分、丸の内・霞が関・永田町をはじめとする都心が360度見回すことができる場所だ。北の丸公園方面には、日本武道館の青銅色八角屋根上に金色に輝いた擬宝珠がのかって見えている。天空は青く抜けるように晴れ渡った小春日和のひととき。
北詰橋門から下城したら、竹橋駅から地下鉄で四谷三丁目にむかう。地上に出ると新宿通りと外苑東通りの交差点だ。ここらあたりで空腹を満たそうと町中華の時間、「南昌飯店」でこの時期限定というカキのみそ味ラーメンをいただくことにした。給仕のおばさんが陽気でにぎやかしい。
お隣の鳴門たい焼き店で“天然もの”の小豆と金時入りを買う。個別に焼き上げたものを天然、まとめて鉄板で焼いた場合を養殖もの、と呼ぶのだそうでふたりして顔を合わせて納得。通りの反対側にわたって「大阪酢八竹」へと立ち寄り、夜の部屋食用に詰め合わせ寿司をテイクアウト。四谷にこんな名店があるとは知らなかった。
おみやげを手に愛住町を探索することにした。この横丁、おそらく江戸時代の町民区割りそのままで、左側の窪地にむかってお寺が四軒並んでいる。そのむこうと右手外苑東通り方面には、ごく普通の民家が建ち並んでいるさまは都心であることを忘れさせる。新宿繁華街と皇居東宮御所のあいだにあって緑が多く、スーパー丸正、銭湯もあって暮らしやすそうな町のようだ。ここでひとり丸の内ガールして頑張っている若者にエールを!
愛住町をぬけたら、外苑東通りを渡って荒木町の迷路空間にはいり、さらに三栄町公園脇をとおって四谷しんみち通りへとすすむ。休日のせいなのか、人出は少なく休業のお店が多い。お目当ての支那そばやと老舗ジャズ喫茶の前を通るとやはりお休みで立ち寄ることはできなかったが、この次の散策の愉しみとしよう。
ようやく駅前にでると、四谷第三小学校跡にできたばかりの高層ビル、駅のむこうには聖イグナチオ教会と上智大学の校舎群が見えている。
四谷駅から総武線に乗り、水道橋で下車して坂を歩くとすぐにアテネフランセ校舎が現れる。いまでもピンクと紫色のコンクリート壁、ステンレス増築部分が斬新すぎる。その先どことなくロマネスク風アーチの薄明るい入り口が中世修道院の雰囲気を醸し出している文化学院跡(かつて受験して合格はしたけれど入学を躊躇してしまった)にたたずんでみる。ここの創立は大正時代にさかのぼる。和歌山県新宮出身の教育者にして建築家西村伊作の夢の跡だ。
午後三時過ぎ、ようやくヒルトップへと戻った。疲れた足を休め、ゆっくりとするにはちょうどいい時間となった。
山の上ヒルトップホテル。黄金のイチョウ大木が駐車タワーを覆い隠す。手前はかつてのホテル別館跡、火災事故のあとに再開したがほどなく閉館してしまった。結局明治大学に売却されて、その敷地に校舎増築かと思われたが、空き地のまま緑の蔦で囲まれている。白雲たなびく駿河台、明治大学もよいことをしてくれた、どうかかこのままであってほしい。
五階から覗き込んだ地階への階段。
赤絨毯と磨かれたらせん状の手すりが美しく、壁足元回りの渋い色合いのタイルが連続したアクセントとなっていて風格がある。