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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ジョアン・ジルベルトを捜して

2020年07月08日 | 音楽

 梅雨のさなかの日曜日、一泊二日でふるさとへ帰省してきた。行きは関越道、月曜日の帰りは上信越道と一筆書きのような経路を通っての往復だった。

 
新型コロナウイルス騒動のあおりで、随分と先延ばしになってしまった今回の帰省、空き家となってしまった実家は、表面上は思ったほど傷みが進行していないようで少しほっとした。家周囲の敷地の荒れようは仕方ないが、幸いにも今年は暖冬だったため、植栽の木々の枝の痛みもほとんどなく、先月半ばに森林組合へお願いしておいた下草刈りのおかげで、なんとか苔石の生した庭らしき体裁は残っていた。

 この季節、芝サクラ、スイセンをはじめほとんどの春の花々はとうに咲き終わりか、雑草に負けてだめになってしまっていたが、幾株かのつつじと今が盛りの紫陽花だけが雨に濡れて色づいていた。少し離れた旧校舎グランドの川の向こうには、霞むような薄紅色の繊細なネムノキの花が咲いている。おとなになって知った漢字では「合歓木」または「夜合樹」などと書き、どれも夕方に細く集まった葉と葉が寄り添って閉じるさまからきているが、何やら密やかな色めき事になぞらえるほうに惹かれるのは自然なことだろう。ここに蛍などが飛び回っているさまを目にしたら、幼いころの無垢な思い出が走馬灯のように沸き上がってくるような気がする。

 さて、今月六日は昨年八十八歳で亡くなってしまったジョアン・ジルベルトの一周忌。その日の新聞朝刊のテレビ番組ページの記事中には、カラー刷り7×8センチ大の広告が掲載されていて目に留まる。
 「JOAO GILBERTO  live in Tokyo」とタイトルがあって、2006年東京国際フォーラムで収録されたジョアン・ジルベルト唯一の映像作品との説明文に、ギターを抱えた舞台上背広姿のジョアンのモノクロ写真が添えられる。ジョアンの最後文字は「N」ではなくて「O」、その上には「~」が乗っかる表記が正しいが、ここではうまく変換ができない。背景の色は上方に薄く肌色、それ以外は薄いモスグリーンの渋い色調だ。ブルーレイ規格で全21曲90分、5000円、スペース・シャワー・ミュージックというところが発売元のようだ。そこの広告担当者は、ジョアンが亡くなってしまった一周忌の七月六日に合わせて、この広告掲載を手配していたことになるから、これは追悼と敬意の表れであり、それを好ましく思うわたしがいる。

 そうして真っ白な表紙に、ほぼ同じタイトル「ジョアン・ジルベルト in TOKYO」とだけ記載されたCDを手にしている。こちらは、同じ東京国際フォーラムにおける2003年9月12日初来日のステージを収録したもので、偶然一昨年7月15日にセコハン店頭の棚で見つけて、すぐに手に入れたもの。ジョアンのギターと歌、それだけのこれ以上ないシンプルなソロライヴCD。
 同封冊子の最終ページを目にすると、そこにはこの来日プロジェクトにかかわったスタッフの名前がクレジットされていて、そこにはかつて同僚だった懐かしい人の名もある。彼はいま、どうしているのだろうか。もしやと思いつつ、その名を見つけた時になんとも言えない気持ちになって、三十年以上前高層ビル32階にあったオフイスの二十代後半の日々の出来事を、きっと昨日のことのように思いだしたりするのだ。

 昨年の8月24日には、ジョアンが亡くなったすぐあとのタイミングで公開されたドキュメンタリー映画「ジョアン・ジルベルトを探して」初日第一回目の上映を新宿シネマカリテで観ている。そのなかで若きジョアンは、ひきこもり生活のような日々を送っていたことがあり、よくバスルームの中で歌っていて、有名なボサノバ=新しい波の誕生を告げたといわれる一曲「想いあふれて」のコード進行とシンコペーションはそこで生まれたと知った、なんとまあ。 

 上映のあとに特別イベントとして、小野リサのトークショーとミニライブがあって、久しぶりに彼女の生のささやくようなやさしい歌声を耳にした。まだ彼女があまり有名でなかったころの1980年代半ば、追っかけで新宿周辺のライブハウスによく通ったものだ。あるときに、ライヴを聴きに行こうと出かけて早く着いてしまい、会場へと向かう途中だった。いまはなくなってしまった新宿厚生年金会館手前の路面に面した喫茶店のガラス窓側にすわっていた彼女を見かけた。向い側のフルート奏者の女性と一生懸命にその夜の演奏曲目の譜面を確認している様子だった。ああ、こんなふうにその日のライヴは準備されていくのだと、ちょっと秘密めいた瞬間をのぞき見したような気がした。
 その新宿でジョアンに因んだ映画のあとに、彼女の憧れの人ジョアンとの出会いのことから、リオに滞在していたときに一度だけ電話で会話したときのエピソード、そして甘くささやくような彼女の歌とギターを聴けるなんて、なんという巡りあわせだろうと思わずにはいられなかった。

 
これら一連の出来事をサウダーデ、懐かしい郷愁と呼ぶのだろうか? ボサノバのリズムとコードを刻むギターの伴奏に乗った、天上から舞い降りてくるジョアンの歌声のように。いまごろは、天国でA.C.ジョヴィンらと親しく話をかわしているだろう。


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