日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

湯河原温泉と梅の宴

2024年03月01日 | 旅行

 梅の開花だよりの季節、まだ寒さの残る湯河原へ足をのばす。湯河原行きは久しぶりで、日帰りは別にして宿泊となると40年ぶりくらい。
 1983年、研修先の小田急百貨店町田店で配属された総務課人事係の方々に連れて行っていただいて以来だ。夏のお盆過ぎの時期、休業日に自分を加えて男3、女2の総勢5人車で出かけたのだった。行き先は奥湯河原の「青巒荘」という露天風呂から滝が望めた老舗宿で、社員旅行の名残が残るノリでほのぼの和気あいあいとした雰囲気が懐かしい。女性二人がともに独身、対照的なキャラクターで面白かったし、男性社員のおふたりもいい方で若僧に対してやさしかった。いまでも思いだせば、なんともいい思い出だ。

 小田原まで小田急線にのり、JR東海道線に乗り換えて一時間ちょっとで湯河原に着く。料金は片道1000円ほど、こんなに気軽に来れるなんて。駅前の雰囲気は当時からあまり変わっていないように思えるけれど、駅正面口前の広場には大屋根が張り出していた。足湯ならぬ無料手湯の設備もできている。
 もうロータリーバス乗り場には梅林にむかう行列ができていた。一台を乗り越して、吉浜方面から幕山へと向かう。公園のなかは「梅の宴」の最中で、たくさんの屋台と人出があり賑わっていた。大気はひんやりと澄んで、肝心の梅は七分咲きといったところ、ちょうど見ごろだ。ここの梅林は山裾にそって一面に植えられている様が壮観で、これで青空が出てくれたなら咲いている紅白が映えて見事なのだけれど、あいにくの曇り空がちょっと恨めしい。
 遊歩道の両側に咲く枝垂れや紅白梅を愉しみながら、つづら折りに上がっていく。視界がだんだんとひらけていって気持ちが晴れ晴れとしてくる。少しずつ雲が切れてきた。やがてお昼過ぎ、広場の舞台では民謡と津軽三味線の演奏が始まり、折り畳み椅子席へと園内の観光客が集まってくる。文字通り、梅の宴たけなわといったのどかで平和な光景だ。

 演奏が終わるとすぐに駅への連絡バスが出るというので、会場をあとにする。ふたたび駅前に戻って、そこから街中を宿まで歩いて向かう。公園の先にその名称も懐かしい「ゆがわら万葉荘」がみえてきた。かつて公共宿泊所だったままのレトロな三階建ての建物で、広めの敷地は人工滝と池のある庭でゆったりとしている。室内も同様でひろめの和洋室、窓からは庭の全景が見下ろせ、千歳川をはさんだ低い山のつらなりは静岡県熱海市だ。川沿いにすこし歩いて行けば、海浜公園と相模灘がひろがる。

 さっそく、温泉に浸かろう。脱衣場の天井は高く、外から見た時に気になった一見民家風の三角屋根はここだったのか。さほど広くはないけれど、清潔で石張りのなかなか豪華な湯舟に浸かる。かけ流しのお湯は癖がなくて柔らかく、これぞ宿の温泉浴場といった感じで、寛げることこの上なし。 
 湯上りに千歳川沿いを上流へとぶらぶら、東海道線と新幹線高架を越えて元湯温泉方面へと向かってみるが思いのほか先なので、首大仏で有名な福泉寺を見物してから宿へと引き返すことにした。よく手入れされた境内で、こちらの本堂はなんと茅葺屋根だったことにちょっと驚く。
 夕食は大広間で揃っていただく。日曜日なのに思いのほか宿泊客が多い。おそらくゆったりとした空間で浴場もきれい、手頃な料金とそのわりに豪華な海鮮会席にリピーターが多いのかもしれない。
 
 食後二度目の入浴してから、ここ湯河原で愉しむために最後の第三部を残しておいた読みかけ小説「街とその不確かな壁」を読みはじめる。40年ほど前の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を彷彿とさせるストーリ、久しぶりの村上ワールドに浸りながら、湯河原の夜は更けてゆくのだった。


湯河原梅林と背後の幕山(撮影:2024.2.18)


2024年初頭の音楽CDに読書三昧、セゾングループ回想

2024年01月10日 | 日記

 新春は寒の入りの最中、空は青く晴れ渡ってもう鏡開きの日だ。

 令和六年の元旦早々から、不穏で物騒な幕開けとなってしまった。能登半島を襲った大地震、羽田空港の飛行機衝突と炎上、北九州市小倉駅前の飲食街火事、山の手線車両内傷害事件と立て続けにあって、三連休の最終日八日は、目白台の旧田中角栄御殿が全焼という事態。この先、いったいどうなっていくことやらと、誰しもが不安になる余りに思考停止となりそうな日々が流れていく。

 昨年11月末に久しぶりに新譜CDのまとめ買いをした。長く愛聴し続けているアーティストたちが新譜を出した時期が重なったため、町田のタワーレコードに立ち寄った。その三人のアルバム、ポール・サイモン「七つの詩編」、ジャニス・イアン「ザ・ライト・アット・ジ・エンド」、そしてパット・メセニー「ドリーム・ボックス」の三枚を手に取る。
 ポール・サイモンは81歳での新作、ジャニスは72歳で最後のアルバムと公言している。いずれもシンプルで原点に返ったかのようなサウンドの中に、いまの心境が歌われている。ポールの飽くことなき探究心、ジャニスのふっきれたような清々しさが、長年のファンとしてはとても嬉しい。
 パット・メセニーのほうは、新作と言ってもエレクトリックギターによるソロ演奏曲未発表録音の中から本人が思い立つところがあり、聴き直してみて選び出した9曲にボーナストラックを加えた全10曲構成。その内訳は、自作曲が6曲と自作以外の有名曲では「カーニバルの朝」。そしてボーナス曲はなんとキース・ジャレット作品。パット・メセニーとキースは合わない思い込んでいたので、なんだか意外な印象がする。「コーラル」という曲名、これは「珊瑚」という意味でよいのだろうか。
 ギターソロとしては、20年前のバリトンギターによる「ワン・クワイアット・ナイト」と対になるような作品であり、静かな夜更けに聴き入るような内省的な雰囲気のバラード集アルバムだ。

 そしてつぎに書籍のこと。年末12月に入ってさみだれ式に本を四冊購入した。一冊目は小説、佐藤正午「月の満ち欠け」(岩波書店)、こちらはまだ手付かずのまま。
 隈研吾「日本の建築」(岩波新書)のほうをぼちぼちと年末から読み始めて、新年二日にことし最初の読み切りとなった。B.タウトから始まって、F.L.ライト、藤井厚二、堀口捨巳とつながり、吉田五十八と村野藤吾の対比、A・レーモンド、終章では丹下健三を取り上げている。日本近代建築史を通史する記述がされていて、その人選とこれまでの建築への興味がぴたりと重なった。

 翌日三日、ともに八ヶ岳山麓に別荘を持つ人気作家と社会学者の随筆本を読みはじめたら、どんどん面白くなってしまい、一気にまとめ読みした。梨木香歩「歌わないキビタキ 山庭の自然誌」(毎日新聞出版)と上野千鶴子「八ヶ岳南麓から」(山と渓谷社)の二冊は、同日町田久美堂本店で購入したもの。
 梨木香歩を読むのは初めてだったが、帯のリード文「生命はとめどなく流浪する 深く五感に響き渡る文章世界」に誘われて読みだすと、自然誌的な細やかな視線と社会に関するキリッとした意志に惹かれた。コロナ渦の2020年6月から2023年3月までの雑誌掲載分をまとめたもので、そのあいだにおける時代状況へのまなざし、自己との重ね合わせをしながら読み進めることになった。
 いっぽう、上野千鶴子の文体は対照的であって、彼女の口調を彷彿とさせる文章リズムが小気味よい。よくある山麓の田舎暮らし記ではなくて、「自然のなかの都会暮らし」と割り切っているところが潔し。文中のイラストレーションは山口はるみで、構成に彩を添えて有り余る。本編は別荘族と定住族の生活スタイルの違い、さらには定住族におけるガーデニング派と家庭菜園派の実態など。
 最終章には、お隣さん住人の歴史家色川大吉氏との「おひとりさま」同士の浅からぬ交流がつづられていたことに驚かされた。

 1980年代後半の一時期、セゾングループの端っこに在籍した身としては、上野千鶴子と堤清二との対談集が気になる。その「ポスト消費社会のゆくえ」(2008年文春新書)ではたして何が語られていたのか、ぜひとも読んでみたいと思う。

 西武流通グループが改称しセゾングループとなったのは1980年代後半だった。本社は池袋サンシャインビルにあった。そのセゾングループについて、当時からいまに至り回想すること。
 池袋百貨店本店八階にあった旧西武美術館はスポーツ用品売り場に、その上の書籍売り場リブロは雑貨文具のロフトへと変わっている。在籍当時の1989年に西武美術館は移転し、別館の1・2階フロアを占めて華やかに新装開場した旧セゾン美術館(よくローマ字表記で読み間違えられたSAISONからSEZON表記へ変更)があった空間は、いまは無印良品大型店舗がテナント展開されている。これもまた時代の潮流だからなのだろうと納得する。現代美術精神発露の前衛たらんと意気込んだ基地が、都市における民芸運動とも読める流れにのった路面からつながる消費空間へと変貌したのだ。

 有楽町西武はすでにビルテナントから撤退して、移ろいやすい大衆の記憶からはるかに遠ざかってしまっている。そして、1987年にピーター・ブルック演出「カルメンの悲劇」で鳴り物入り開場して、西武美術館と並んでセゾン文化を象徴した「銀座セゾン劇場」は、運営に行き詰まった挙句、2000年に「ル・テアトル銀座」と名称を変えたあと、最終的には路頭に迷うように閉館してしまった。
 同じビル内にあった高級路線で宣伝していた「ホテル西洋銀座」、映画館「テアトル西友」(資本の関係にしても何故この地で西友の名称なのかわからない)ともども建物自体が取り壊され、その目に見える存在自体が消えてしまっている。もともとこの地には「テアトル東京」という大スクリーン・大型客席の単独映画館が聳えていた。

 堤清二が目指したグループ企業理念と消費社会との距離、その紆余曲折のはての大失敗、教訓と残された遺産の功罪について、単なる郷愁に押しとどめていてはあまりに勿体無い。

江之島相模湾 波のモニュメントの向こうの初春富士山


江の島サムエルコッキング苑(2024.1.8 撮影)


2023年の新潟、福岡帰省あれこれ

2023年12月31日 | 日記

 2023年も最後となる年の瀬の大晦日に、この一年を振り返ってみる。

 一言で述べると、なんといってもこれまで生きてきた人生の中でもっとも旅にでたり、外泊の頻度の多い年だった。その理由のひとつはずっと懸案だった新潟の実家の建物の取り壊しのためである。
 4月の冬支度明けのかたずけ、委託業者若社長との顔合わせから始まり、7月の草刈り作業立ち合い、夏の取り壊わし作業前後の立ち合いと確認、9月の更地となったあとの墓参を兼ねた叔母たちとの帰省も含めると、なんと都合七往復もすることとなったからだ。
 いま改めて振り返っってみると、もっと効率よく取り掛かることも可能だったはずなのに、取り壊し時期を決めてからも、ぐずぐずと躊躇気味であって未練がましかったように思う。決断と実行には程遠い、“家終い“騒動だったが、もうやるしかないと背中を追い出された思いがする。

 その過程の中で、5月には糸魚川まで足を延ばして、設計者である村野藤吾の生誕132年目にあたる15日に、その最晩年作である谷村美術館を再々訪問した。雪国の田園地帯に突如あらわれた中央アジア砂漠の遺跡か幻の城郭楼のようといった佇まいは、竣工後40年の歳月を経て、さながら大地から生えてきたかのように風格を増していた。
 さらにもう一か所、生誕100年を迎えた直江津出身の異才、渡辺洋治設計のコンクリート打ちっぱなしぶっ飛びモダニズム建築である、善導寺を念願かなって訪れている。それはまるで住宅地のなかに、空母船体が座礁したかのような迫力あるフォルムとして出現する。二階のテラスからは横一直線に伸びる北陸新幹線高架のむこうに日本海の水平線が望めるだろう。
 ふるさとに立つふたつの異色の近代建築物を目の前にして、その驚きと感慨は、本来の家終いが目的の帰省すら霞んでしまうような気さえした。

 福岡には新潟帰省の合間を縫うようなタイミングで、8月の義母三回忌法事と12月姪っ子結婚式で二度にわたり、いずれも新幹線往復の旅だった。
 8月のときには、博多から船で志賀島へと渡り、志賀海神社を振り出しに金印公園、休暇村など島周回四キロのサイクリングひとり旅を敢行した。すこし高台にある金印公園から玄界灘を望めた時には、さすがに古代史の場に臨んだという感慨が深かったなあ。
 12月は、大宰府都府楼跡から令和元号ゆかりの坂本八幡、観世音寺、戒壇院をへて御笠川沿いに歴史の道を歩き、大宰府天満宮まで至った。本殿が改修中でその前に話題の仮本殿、屋根に草木が生えているユニークなもので、仮といっても立派な佇まい。

 披露宴にあわせて、娘がソウルから合流して博多港ちかくの福岡サンパレスに滞在中、ちょうど本人誕生日の前日にあたる四日、家族三人で円筒形棟展望レストラン“ラピュタ”で、お祝いディナーをともにすることができたのは、なによりの出来事だった。



 博多港と博多ベイサイドプレイス(2023.12.3)


大宰府都府楼前 万葉歌集碑

 翌日誕生日の午前中、ソウルへと戻る娘を空港まで見送った。韓国ソウルは遠いようであっても思いのほか近く、午後の新幹線帰路途中大阪あたりで「いま、インチョン(仁川)空港へ着いたよ。」とのLINEが届いたのにはびっくり。
 わたしたちが乗車した“のぞみ38号”は、博多駅を午後2時36分に出発し、新横浜に午後7時過ぎに到着した。それでも五時間足らず、陸路とはいえ驚くほど正確で速いもので自宅には八時過ぎに無事到着。娘のほうもちょうどそころまでにはソウル市内の自宅まで戻れたようだ。
 こうなると、ソウル日本(福岡)飛行機往復も博多と新横浜新幹線往復も時間的には、ほぼ変わらない。現代交通事情の発達と恩恵、移動の妙のようなものをあらためて思い知らされた感があり。


テアトル・ド・ソレイユ太陽劇団 “金夢島”

2023年11月01日 | 文学思想

 テアトル・ド・ソレイユ、「太陽劇団」の22年ぶりの来日公演“金夢島”を池袋で観る。
 太陽劇団の初来日は、遡ること21世紀初頭にあたる2001年で新国立劇場の招聘によるものだった。そこでこのユニークな多国籍演劇集団の舞台に初めて接し、日本文化とくに文楽の手法を大胆に取り入れたオリエンタル要素の濃い演出手法の舞台に驚かされた。主宰者であるアリアーヌ・ムシュ―キンの存在については、いまも忘れない印象が残っている。彼女自身がロシア人の父とイギリス人母の間にフランスで生まれ、若き日をイギリス・オックスフォードで学んだという、多国籍文化を体現したような存在だ。

 今回の作品“金夢島”は、当初2021年日本初演とのことだったが、コロナウイルス禍のために来日が叶わず、その年の秋11月3日にパリ郊外の劇団本拠地“カルトューシェリ(旧弾薬庫)”で幕を開けた後に、ようやくの来日が実現し、東京と京都での公演に至った。京都での公演は、ムシュ―キンの2019年京都賞受賞が大きな契機と後押しになっていると思われる。
 東京会場は、池袋駅西口公園広場、通称グローバルリングのむこう、巨大なアナトリアム空間を内包する劇場だ。立教大学へと繋がっていくこの都市公園広場は、休日や夕刻ともなると多国籍なにぎわいを増してゆき、その意味ではこのユニークな劇団作品上演の場としていっそうふさわしいと思われてくる。


 ムヌーシュキンの語るところによれば、今回の新作“金夢島”は、彼女が長いあいだ抱き続けてきた日本文化についての限りない「愛情」や「憧憬」を背景にしている。若き日のムヌーシュキンが初めて日本を訪れたのは、いまから半世紀期も遡る東京オリンピック前年、1963年のことだったという。
 それからの50年ふたたび日本への夢が膨らんで、ありったけのオマージュを込めた舞台である。とくに創造上のインスピレーションを得た場所は、なんと新潟県佐渡島の存在だったという。佐渡の能舞台で演じられる祝祭能や文弥人形、民話語り、佐渡を拠点とする芸能集団鼓童の存在と協力が大きかったそうで、公演パンフレット謝辞にクレジットされている点が興味深い。

 開幕直前に掲載された朝日新聞のインタヴュー記事では、日本海の自然・文化を凝縮した佐渡島は、現代が抱えるさまざまな要素が煮詰まった「ブイヨンのキューブ」のようだと語っている。さらには、商業主義の開発脅威や効率優先の経済原則が環境や人間心理に与える影響など映し出されて「世界で起きている大きな問題を語るにはぴったりの場所」だとも。それが今回の「金夢島」の提起するテーマそのものだ。
 もちろん「金」とは、江戸時代における佐渡金山活況の歴史と繋がり、世俗的な栄華や富の象徴でもあるとともにこの世界の幻影をも意味するだろう。

 昼下がりに始まった舞台を二階のバルコニー席から俯瞰する。開演前からプロセニアム舞台の上縁部には歌川広重の「七福神宝船之図」を模した巨大な布絵が掲げられていた。
 やがて客席前方に男が進み出たかと思うと、観客に向かってだどたどしく開演前の注意事項を述べて最後に携帯電話の電源を切るように促した。そうして上手から舞台脇に引っ込んでいったかと思うと、舞台上には病院のベットに載せられた精神を病んだらしい主人公女性コーネリアと守護天使ガブリエルが静かに登場する。コーネリアが見ている夢の中で携帯電話が鳴り、舞台は空想の佐渡を思わせる世界へと変わり、島の市長山村真由美とその右腕である友人安寿や市長秘書が会話する中、対立派の第二助役が矢継ぎばやに登場してくるさまから、次第に物語は多方面へと進行していく。

 全体の舞台空間は主な演技空間となる前方部分と、後方巨大な壁の中心が左右に開閉する扉からむこうの空間に分かれていて、背後には場面に呼応して江戸から明治の浮世絵が投影される。舞台上手には、文楽における御簾内(みすうち)があり、四人の奏者によるさまざまな打楽器を中心とした生演奏がなされ、音響効果音とともに演出効果を高めている。
 そして舞台転換は、そのシーンに登場する様々な人物を演じ分ける役者たちが、たどたどしい日本語も交えて動かす移動車付平台の組み立てによって室内やときには能舞台のようにもなり、島の国際演劇祭に集まった人形劇団、香港からの劇団、市職員からなる“提灯”劇団、アフガニスタン、ブラジルからの劇団の登場に合わせて、目まぐるしく鮮やかな魔法のように変わってゆく。
 劇中、日本人登場人物名が多国籍からなる俳優の身体からわざわざ発声せられると、妙にエキセントリックな印象に聴こえてくる。それは舞台空間の美術装置や漢字、浮世絵などと相まって陶酔に似たような不思議な感覚を客席へともたらすのだ。

 にぎやかな演劇祭と並行して、島にもちあがったリゾート開発計画に絡んだ利権争いの顛末や、島内住民を巻き込んだ市長派、反市長派対立などが合わさり、やがて島全体はてんやわんやの状態に。
 さまざまな対立のあとの最後は、朱鷺なのか丹頂鶴なのかを模した三羽の巨大なトリがゆっくりと登場してどうなるかと固唾をのんで見守り中、全員が島から進み出た海上らしきところで扇子を手にして一斉に舞うことで、この壮大な祝祭劇は大円団となる。
 意表をつくようなそのシーンで流れる曲は、初めて聴いたのにどこか懐かしさでいっぱいの“We will meet again”。「より良い日は巡ってくる。また会いましょう」とやさしく包み込むように甘く歌うのは、第二次世界大戦中、戦士の恋人と呼ばれたイギリスの国民的大歌手ヴェラ・リン。さまざま対立や紛争で混乱し、殺伐混沌とした世界に希望を見出そうとするようにその歌声は響く。このエンディング曲は核戦争を描いたスタンリー・キューブリック監督映画「博士の異常な愛情」と同じでもあり、同時期に戦士とその恋人の再会への希求を歌ったドイツ戦中流行歌「リリー・マルレーン」の隠された主題と共鳴するように響く。

 この世界の現実をありのままに、それぞれの心の中に受け入れるしかない、ということから未来への一歩は始まる。この舞台はいま世界に起きている現実を写し鏡として、多国籍俳優たちによって演じられた「夢幻能」のようなものかもしれない。それはシェークスピアの格言「この世はすべてひとつの舞台、男も女も人はみな役者に過ぎない」につながっていく。

 劇場を出た後、火照った身体と脳みそをクールダウンしたくて、劇場から山手線脇を目白まで歩く。
 西池袋大通りの雑踏から住宅地域に入り込むと、突然といった感じで、都会の夜景をバックにした自由学園明日館の姿が浮かんで現れる。フランク・ロイド・ライトと遠藤新の共同設計によるその建物は、静かに両翼を拡げて、いまにも都会の夜空に飛び立とうとでもしているようだ。


 自由学園明日館(1921年竣工、F.L.ライト&遠藤新 設計)2023.10.21撮影


懐かしの池袋西武を訪れたら、八ヶ岳高原ロッジへと繋がった

2023年07月31日 | 日記

 ことしの梅雨があけた七月下旬、久しぶりに池袋を訪れた。こちらも久しぶりの東京芸術劇場は、アナトリウムの巨大さに改めて驚かされ、すぐ前の駅前西口公園を横切る際の人並の多さに街中のにぎわいが戻ってきていることを実感した。
 夕方に所用が済んだのですこしブラついて駅脇に僅かに残された古くからの飲食店を捜す。広場に面してのしもた屋風の店構えで、若き日の仕事帰りに良く通った思い出の民家調居酒屋「自在」はとうになく、雑居ビルへと変わっている。新しくなっても看板は残ってほしかったけれど仕方がない。並びの居酒屋「ふくろ」は新しくなって赤ちょうちんの飾りもそのまま、営業を続けている。

 沖縄料理の老舗だった「おもろ」はどうだろう。二階建ての外観はほぼそのままに居抜きのかたちで別の経営に変わってはいるが、雰囲気は濃厚に残ったままだ。山之口獏が命名したそうで、檀一雄、木下順二、野坂昭如など名だたる文化人が通ったそうな。そのお店の空気感は一階のカウンターや二階へとつながる階段などにいまだ面影が残っているように感じられる。

 通常ビックリガードと呼ばれていた頃もあった!山手線と西武線ガード下をくぐって東口側へと回り、池袋西武へと別館側から入ってみた。
 懐かしの池袋西武は強大なウナギ寝床だ。目白寄り別館はもともと駐車場ビルだったフロアを改装したようで、テナントとして書籍の三省堂(リブロはとうにない)と無印良品が入居していた。三階にある西武ギャラリーは、かつての西武美術館(その後セゾン美術館と改称された)の流れをかすかに汲んだ遺構なのかもしれないと思った。もっとも継承という意味では、中軽井沢に「セゾン現代美術館」が収蔵コレクション作品をもとにした展示公開活動を1981年より、地道に続けている。
 かつての美術館のフロアは本館の増築部分当初12階にあったはずで、改称時に下階に拡大オープンした記憶がある。いまは雑貨文具店のロフトへと変わってしまっている。よく通った多目的スペースの「スタジオ200」はとうに幻となり、もう存在しない。

 駐車場入り口横で目指すところを探すけれども、フロアマップにその表記はなく、受付に確認すると六階フロアと教えてくれた。その六階は高級ブテック、宝飾店などが連なるフロアでもっとも百貨店らしい雰囲気がする。目指す「八ヶ岳高原海の口自然郷情報サロン」を見つけたのは中央あたり、思いのほかこじんまりとした間口だ。
 この小さなサロンは富裕顧客を対象とした別荘販売窓口ということになるが、そこはかつての西武セゾングループのよき時代、豊かな自然に囲まれて環境のなかに八ヶ岳高原ロッジがあり、東京目白から旧尾張徳川邸を移築して八ヶ岳高原ヒュッテとし、さらに吉村順三設計による八ヶ岳音楽堂もある文化的リゾートライフを演出している。この三か所の建物の存在があってこそ、ほかの別荘地との違いを象徴している。
 その始まりは意外に古く60年前、バブル時代を遡る1963年からなのだ。そして旧徳川邸は堤康次郎時代の1968年に移築してことしで55周年、そこでのサロンコンサートが建設のきっけになった音楽堂は、子息セゾングループ代表の堤清二氏の肝いりで建設され、1988年の竣工から35周年を迎えた。
 それぞれの移築や建設に至る詳しい経緯は知らないが、いまに至るまで堅実かつ地に足をつけた経営を続けてこれたのは、思いのほかオーナー経営者の意向が介入されずに別荘族の親密なコミュニティと協調してきた現場経営側の姿勢や、時流に流されずに長期的な展望と視点があったからなのだろう。

 池袋サロンで手にした「八ヶ岳森祭」リーフレット、そこに記載された展示や記念フォーラムからもその継承の雰囲気が伝わってくる。「アーツ&クラフツ ~ W.モリスによせて」と題されたチェンバロコンサート&トーク、自然郷開拓当時の様子を写したパネル展や藤森照信さんの講演とチェロコンサートがある旧目白徳川邸移築55周年フォーラムなど興味をそそられる内容であり、すこし無理をしてでも秋のお彼岸の頃にあわせて出かけてみたい気にさせられる。ここにF.L.ライトゆかりの建物か調度品があればもう最高なのになあ。

 五月下旬に小海線の乗って清里から南牧村の八ヶ岳高原周辺を巡る二泊三日の旅にでかけて、いま目白、池袋西武、そして八ヶ岳高原がひとつの大きな輪になって繋がって気持ちも大きく広がってゆく。ようやくここまでつながる連鎖の中に人生半分にあたるであろう、四十年余りの時が流れていて不思議なものだ。

 もう、夕暮れから黄昏時になるころ、迷いなく南池袋の名店「母屋おもや」に立ち寄ることにした。ビルに建て替わってからは初めてだけれど、こじんまりした店内の雰囲気はあまり変わらないようだ。
 もつ煮込みに焼き鳥セットのお任せを一皿、秋田の日本酒冷やでいただき外に出ると、あたりはもうすっかり暗くなっている。足早に駅に急ぐ人の波、名残りはあるけれど、そろそろ帰路に着く時間だろう。
(2023.7.31書き始め、8.23 処暑 校了 9.5「母屋」追記)

追補:一世を風靡した、と枕詞のように形容されるセゾングループは、いまはとうに幻、というよりも当初から消費社会に咲いた“あだ花”と言ってもよく、DNAを各方面に遺して散っていった。
 かつてのグループの象徴といってもいい旗艦店西武百貨店池袋店で8月31日、夏の終わりに歩調を合わせるように労働組合によるストライキが決行され、一日休業したことがニュースとなった。その日の午後、親会社取締役会において外資系ファンドへの売却が決まったことも記しておく。
 当初組合設立を先導したのは、堤清二氏だったとされる。この機におよんでようやく若き日の堤氏の意向が実行され、日の目をみたのは時代の機微か、または皮肉アイロニーかもしれない。(2023.9.7)

 猛暑の季節 花二題


暑さで藤の花もビックリ!(小田急線踏切近く三角公園)2023.7.26

八月最初の日のハスの花を見に行く(町田薬師池公園)2023.08.01