あめつちにひとがいる、この想は在来のものではない。あめは天、つちは地、そしてそこに人がいる、素朴に、てん、ち、じん 天地人 について、世界を形成する要素であると宇宙空間に存在する万物とするか、ただに天を最上とし、地人の順となるようにするか。天神地祇また神祇ということを言えば、そこには人はない。天津神、国津神と、日本神話で神の分類をする。どうして天池人とするか。説明を求めて、孟子、公孫丑章句上、一節の 天時不如地利。地利不如人和 (天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)に由来する慣用句の省略形として、フリー百科事典は曖昧さ回避に言う。天の時、地の利、人の和の意で戦略が成功する三条件を示すともされる、とも言う。辞書の例には、天と地と人。宇宙間の万物。三才。さてさん‐せい 【三正】《「書経」甘誓から》天・地・人の、三つの正しい道、とあるが・・・
*名語記〔1275〕四「天地人の三つにつかさどるを王といふと尺せり」
*太平記〔14C後〕三四・和田楠軍評定事「天地人の三徳三乍ら違(たが)ひ候はば」
*日葡辞書〔1603~04〕「サンサイ。Ten, chi, jin (テン、チ、ジン)」
というように見えるだけである。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 840 雪の影響から解放された を例題にしている。コラムの解説には、この 解放された の言い方について、自然が人々を雪の影響から解放した ということは、できないとしているので、その係り受けは、自然が解放した とはならないということであろうけれど、しかし、ここにあるように、 人々が雪の影響から解放された という言い方は、可能である。コラムの解説にある 自然が解放した と言わないとするのは、その言語の捉え方である、それと同様に、人々が解放された という言い方は日本語による捉え方である。 . . . 本文を読む
語の体系は語彙となって構造を持つととらえられた。語彙体系ということなのだが、それは構造体だとなると、どのように語のまとまりを見ることになるか。いわく、親族語彙、色彩語彙、温度形容詞語彙など。そのまとまりはそれぞれに語と意味の関係を広げて体系を求めることになるから構造でなければならない、というようなことになってしまった、というのは、親族の呼称を並べてそこに順序や序列があるとするなら、それは語にあるのではないし、色彩を語に見ていくら並べてみてもそれは明度とか彩度とかによって語を区別することであるし、温度を表すのであるから低い方から高い方へ並ぶのかと思えばそうではなくて気体液体個体の状況をとらえるようなことである。ただ語彙であるのでその範囲の取り方には語と意味の関係を基準のようにすることはできるし、語彙体系であるので、言語によって異なりを見せれば、それは社会学的興味に始まる、あるいは色彩感覚の地域差のようにもなるし、気温のあらわれでは微妙なことになる。 . . . 本文を読む