日本語を漢字という文字で表すこと、日本語発音を文字にすること、文字にするとどのように表されるか、漢字は語と意識され文字は言葉となった。詞を表記することは漢字をそのままに用いることができる。漢字は詞のままにとりいれ、文字はことばとなる。日本語発音は詞と辞とでかき分ける、辞を表す文字を必要としたので漢字を用いることになる。
漢字は形音義を持つ。その漢字の発音を用いて日本語の発音を表すのに漢字の形音義のうち、形と義を変えて文字にするのは漢字そのものを言葉と捉えて新たに文字を作ることになる。漢字は真字である、作るのは真字についての仮字で、かりな かんな である、真字を、まな とし、仮字を、かりな かんな とするので、真名 仮名 となる。
新たに文字が生まれる。詞を書き表そうとするのに隷書が選ばれたのは必然である。さらに文字手習いから楷書が習得されたと推測される。それはことばを漢字で表すことであった。
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ものものし
もの もの し 物々し である。畳語による造語。おごそかで堂々としている、立派であるということを表す。時代を経て、大げさで気にくわない、ぎょうぎょうしい、こしゃくである、などの意味を表すようになった。。
日本国語大辞典より
【語誌】
(1)類義語「ことごとし」との差異については、「ことごとし」が美的でない、好ましくないものを指すことが多いのに対し、「ものものし」は、美的な、良いものを指す。
(2)平安時代の用例では、人物の容貌・容姿・声づかい・風采・人柄・地位身分・態度・扱いなどに使われることが多く、質的・内容的に充実した対象から、満ち足りた感じがおのずとあふれ出るさまを表わしている。
(3)(1)の意で中世期に、武士が強そうに武装したさまをいうようになると、それを見て大げさだと感じるところから(2)の意が生じたと思われる。
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天声人語が正しく怖がるという言い方について、寺田寅彦の随筆からの話題を書いている。ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい、ということを1935年に言っていた。それが新型肺炎SARS、サーズのことから原発事故などこの10年に未曾有のできごとをわたしたちは経験してきた。
正当にこわがると言っていたらしいから、それを、しっかり怖がると改めて、危険の遭遇などに事の対処を行うことをコラム子は言おうとしている。引用の随筆は科学者らしく見極めよと言っているのだろうと思う。天声人語の話題に、ふと、正しく暑がると言うことを思って、正当に暑がる、しっかり暑がると、そういうことを思ったからだ。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 849 足元が見られる を、例題にしている。足元を見られた と言うのは、日本語の受け身の特徴である。~は を使うと、わたしは足元を見られた となる。これは、わたしの足元を見た について、わたしの足元が見られた となる。所有者の受け身として、わたしの と言うのが、わたしは と言うことで、わたしは(わたしの)足元が見られた というふうに言うことができる。文脈上、この わたしは にあたる表現があれば、表題のように切り取って使うことがある。ただし、足元を見られる と言う慣用表現があり、これについてまとまった言い方になるので、用例検索では表題がヒットしないようである。 . . . 本文を読む