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韓国文化の紹介。

戦後70年の記憶 ㉔ 運動会

2015-05-14 05:53:05 | 日記

日本が戦争に負けて、教育方針がガラッと変わった。
進駐軍によって強制的に、変えられたのである。
普通の学習内容もそうだし、体育の内容もそうだった。

それまでは、体育と言えば、長距離ランニング、鉄棒、跳び箱、器械体操、剣道、柔道、相撲など、体を鍛える教科がほとんどであった。
いずれ軍隊に行ったときに役に立つように、体を鍛えておえと言うのである。
運動会の競技種目もそうであった。
騎馬戦、棒倒しなど、赤白に分かれて戦うものばかりであった。
これが、肉弾戦となれば、勇猛な日本兵として、米兵をおののかせた所以であったのだろう。
高等小学校ともなれば、もう、大人の仲間入りが当たり前だと言わんばかりに(まだ、今の新制中学の2年生であったが)、
暴れまくっていた。

日本が負けてから、こうした教科は、全くなくなった。
体育の時間と言えば、体操、徒歩競争、遊戯、フォークダンスなどに変わった。

mcnjが1年のときの運動会は、壮烈なものであったが、戦争に負けた年の、2年の運動会は、全く変わったものであった。
騎馬戦、棒倒しなどは、もう、種目に無かった。
徒歩競争、リレーなどは、まだあったが。
新しく取り入れられたのは、遊戯とフォークダンスであった。

男女7歳にして、席を同じゅうせず。
当時の教育方針である。
小学校低学年の席はどうだったか、はっきりとは覚えていない。
たぶん、教室は一緒だったが、席は、別だった様な気がする。
高学年、高等小学校ではどうで有ったろうか。
たぶん、教室も、別で有ったのではないかと思う。
女と遊ぶ、仲良くすると言うことは、恥ずかしいことだと言う意識は、低学年の、mcnjにも有ったかも知れない。
高学年になれば、そんな軟弱なことは、到底出来ないと、もっと、強く意識したことであろう。

高等小学校の競技になり、一番上の兄達がグラウンドに登場してきた。
遊戯の種目である。
皆、頭に、うさぎの形をした、耳の長い帽子をかぶらされて、女生徒と、手をつながされていた。
兄たちの、恥ずかしさにまみれた気持ちは、皆のその表情に現れていた。

音楽に合わせて、ぴょんぴょんと跳ねる遊戯をさせられている兄たちの、屈辱感にまみれた顔は、今でも覚えている。

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過去ログ

戦後70年の記憶 ⑥ 食糧難

腹が減っては、戦は出来ぬ。
戦争中なのに、食糧難であった。

米などは、もう、無かったと思う。
食べる物は、全部国が統制して、戦争を遂行するために使っていたと思う。
一般人の口へ入れる物は、国が配給していた。
大体、一家の人数に応じて配分されていたが、品物も、公平に行き渡るほどは用意されていない。
配給がある日は、隣組数軒が集まって、話し合って分け合っていたようだ。
家庭の好みなどもあったのだろう、要らないものや、要る物などを交換しあって、丸くおさめあっていたようだ。
我が家は、6人兄弟の大家族の方だったから、母は、不味くても、量の多い方を選んでいたようだった。
思惑通りに配分された時は、嬉しそうに、持ち帰っていた。

学校へ通う道路わきに、ヒマが植えられるようになった。
南方の石油基地をアメリカに抑えられて、原油の輸入が、思うようにならなくなったたのである。
飛行機を飛ばす、ガソリンにも、事欠くようになっていた。
ヒマの実から、ひまし油をとって、飛行機を飛ばそうと言う作戦である。

ある日、高学年生が、校庭に出て、鍬をふるっていた。
校庭を耕して、サツマイモを植えると言うのである。
グランドは、すべてサツマイモ畑に代わり、生徒たちは、その脇の、狭い通路を通って教室に入って行った。
その通路の両脇にさえ、トウモロコシがびっしりと植えられていた。
生徒達は、授業はほどほどにして、農作業に駆り出される毎日であった。

低学年のmcnj達は、草取り位が仕事であった。
午後の授業を休んで、熱い日中の日差しの中、せっせと、草取りをしたものである。
作業が終わると、駄賃に、一握りのサツマイモの茎をくれると言う。
母に渡すと、喜んでくれるので、それがうれしくて、小さい手の平に、茎が潰れるほど思い切り握って、家へ持ち帰って行った。


過去ログ


戦後70年の記憶 ⑦ 灯火管制

戦争も、末期になると、信州のような山奥にも、敵機が飛来して来るようになった。
学校や、公共施設のそばには、防空壕が掘られていたが、やがて、各家庭にも防空壕を設置するようとの指示が出された。
ほとんどの家には、防空壕が掘れる様な場所は無かった。
各戸は、玄関先や屋敷内の地下に竪穴を掘って間に合わせていた。
直撃を受けたらどうしようもないが、横からの爆風くらいは、何とかしのげそうであった。
しかし、焼夷弾などで、延焼をうけたら、ひとたまりもなさそうであった。
爆風を避けたら、飛び出して、どこか、安全な方向へ避難するためのものであったと思う。

兵達が疎開してきた学校などの施設には、資材さえあれば、兵達が、横穴式の、立派な防空壕を作っていた。
もちろん、敵機が飛来して、攻撃してきたら、兵達が避難する場所で、生徒などが、逃げ込める場所ではなかった。
防空訓練が何度かあったが、低学年は、自宅へ帰って待機すること、高学年は、校舎から離れた場所に避難して、敵機が去った後、防火作業を手伝うと言うもので有った。

松本には、都会から疎開して来た生徒が大勢おり、クラスにも、1,2名は必ずいた。
戦争末期には、そろそろ、松本も危ないと言って、さらに、山の中の山村へ、疎開していくものもいた。
実際、松本の住民さえ、疎開を真剣に考え始めていたのであった。

やがて、夜になると、米機が編隊で飛来する様になった。
暗くなると、各戸は、電球の周りに、黒布をかぶせて、灯りが外に漏れないように気を遣わされた。
敵機がこの地方へ向かっているとの情報がつたわると、サイレンが鳴って、一斉に、消灯が指示された
敵機が通過するか、他にそれるかがはっきりするまで、人々は、暗黒の中で、息をひそめていた。
サイレンが止むと、灯火管制が解除となり、黒布をかぶせた灯りが灯された。

ある晩のことである。
また、けたたましいサイレンの音が聞こえ始めた。
あちこちから聞こえてくるサイレンの音から、なんとなく、只事ではなさそうな気配が感じられた。
父と母は、近所の役割があてはめられていたのだろうか、夕がたから家にはいなかった。
暗闇の中で、ひっそりとしていたmcnjのところへ、突然、母が帰って来た。
母は、何か、忘れ物をしたらしく、真っ暗な中で、探し物をしていた。
しばらく、もぞもぞしていたが、どうしても、忘れた物が、見つから無かったのであろうか、決心した様に、
電灯のスイッチを入れた。
そして、目的の物を見つけたのか、電気を消して去って行った。

それから、数分後であった。
突然、大きな炸裂音がして、古い木造の家が、揺れ動いた。
後で聞いたのであるが、市内から、4kmほど離れた山の中に着弾したとのことで有った。
松本の人間たちは、アメリカは、誰もいない山の中に爆弾を落として、馬鹿なことをするものだ。
これでは、日本に勝てるはずが無い、と、喜んでいた。

この爆弾が、松本に落とされた、唯一の爆弾で有った。
この後、数日して、終戦になった。

あの夜、母が点灯した灯りが、着弾のきっかけだったかどうかは、わからない。


過去ログ

戦後70年の記憶 ⑧ 欲しがりません勝つまでは

3時のおやつと言うものをもらったことが無かった。
そんなものがあると知ったのも、戦後、しばらく経ってのことで有った。
家が貧乏だったことも有ったが、戦争の遂行に明け暮れしている世の中全体に、そんな余裕がな無かったのだろう。

表題は、軍部が戦争遂行のために、国民に強要したスローガンの一つである。
家でも、学校でも、こうしたスローガンを叩き込まれた。

他にもいくつか有ったが、忘れてしまった。

贅沢は、敵だ。
鬼畜米英。
貯蓄に励もう。

こんなスローガンも有ったと思う。

国民は、なけなしの生活費を削って、郵便貯金に励まされた。
貯金した金は、膨大なインフレ政策によって、只同然になり、その過程で、戦争遂行のための戦費と化して行ったのである。



戦後70年の記憶 ⑨ 大本営発表

昭和19年後半に入ると、戦況は、ますます、不利になった。
南方の島が陥落したそうで、日本本土全域が、空爆の対象となった。
B29と言うこれ迄にない、大型の爆撃機が飛来するようになった。
本土の南の方から空爆が始まり、海軍の軍事基地、重要軍需工場地帯などが、連日のように空爆された。
そのうちに、大都市も攻撃対象となり、一般市民を巻き込んだ、無差別爆撃へと拡大されていった。

松本には、陸軍第50連隊は有ったが、目立った軍需工場も無く、アメリカも、本土決戦となるまでは、重要な攻撃地点とは、考えていなかったようだった。
上空を、B29が飛行機雲を引いて通過することはあっても、攻撃してくることはなかった。
今までにない、下っ腹に響くような、B29の爆音を聞いて、不気味に思ったもので有った。

こんな戦況にも関わらず、大本営は、毎日のように、どこどこの海戦で大勝利を収めたなどと発表して、ラジオや新聞がそれを、まことしやかに報道していた。
最初の頃は、それを真実だと思って、戦況は、好転するだろうと信じていた日本国民も、東京大空襲などで、日本の圧倒的不利を知ると、大本営は、また、あんなことを発表していると思うようになって行った。
近所の大人や、学校の先生でさえ、陰では、また、あんなことを言っていやがると、悪口を言っていたものだった。
最後には、生徒が嘘を言うことを、お前の言うことは、大本営発表だと揶揄するようになった。
日本が、降伏する前のことである。


過去ログ

戦後70年の記憶 ⑩ 行進

小学校(国民学校)の体操場へ疎開して来ていた、松本50連隊の兵達は、ほとんど兵隊としてやることがなかった。
練兵場が無いのである。
校庭はあっても、もはや、薩摩芋畑と化していた。
炊事洗濯の他は、歩くことくらいで有った。
戦地での行軍の訓練であろうか、長い列を組んで、市内を歩き回ってばかりいた。

遠くから、兵達の足音が聞こえてくると、宿題を放り出して、外へ飛び出したものであった。
近所中の子供達が飛び出して来て、兵達と手をつないで歩いたものだった。
歩くと言っても、子供達に歩調を合わせてくれるわけではない。
兵達の歩く速さに、子供たちは、駆け足でついて行くだけで有った。
いい加減走らされると、さすがに疲れて、ついていけなくなり、手を放して、家路をたどった。

どう言うわけか、兵達と子供達の間には、心の絆の様なものが有った様だ。
二十歳を超えたばかりの兵と、子供たちの間には、ちょっと、歳の離れた兄弟の様な感覚が有ったのかもしれない。
軍部にしてみれば、将来の戦力として必要な、子供達のことを考えて、可愛がってやれと言う様なな指導がなされていたのだろうか。

学校でも、家でも、兵達は、お腹がすいて可哀想だと、よく聞かされた。
実際、食料が足りなくて、育ち盛りの若い兵達には、ひもじい毎日だったのかもしれない。
何か、食べるものがあったら、渡してやれ、と言う様なことを言われた記憶がある。
行進で手を繋いでもらう礼の様な気持ちで有ったろうか。
子供達は、母から渡された何がしかの食べ物を、手に握りながら、手を繋いでもらった兵に、それとなく握らせていた。
mcnjも、干した残飯を炒ったものや、炒った豆などを母からもらって、兵に渡していたものだった。
兵達は、歩きながら、渡された、わずかばかりの食べ物を、大事そうに、軍服のポケットにしまい込んでいた。
よく洗濯された兵の軍服の石鹸のにおいが、今でも、懐かしく思い出される。