1392年、季(のがないのが正しいおですが、goo不手際で、変換できません。しばらくご辛抱ください。)成柱(いそんぎゅ)は、
高麗をたおして、季王朝を建てて、国王に就き、太祖(新王朝最初の王)を名のります。
太祖の第五子、太宗は、多くの兄弟、建国の功臣たちを殺して、王位につきます。
太宗は、太祖の改革を推進して、ようやく国の基盤をかためました。
太宗の後をついだ世宗は、さらに、改革をすすめ、国の基盤を盤石なものとし、偉大なる王と呼ばれます。
世宗は、太宗のときの、兄弟争いを防ぐため、嫡出子(長男)相続の原則を固めました。
世宗は、側室を含めて多くの子をもうけますが、死後は、原則どおり、嫡出子が跡を継ぎますが、病弱で、若くして
亡くなってしまいます。
端宗があとをつぎますが、端宗はまだ、幼かったため、功臣の実力者、金宗端が後ろ盾になり、力をふるい、
政権をを思うがままにしてしまいます。
端宗の伯父、世宗の四男、首陽大君は、これを快く思わず、隙をみて金宗端を暗殺し、実権ををにぎります。
初めは、おいの面倒をみるつもりでしたが、次第に欲を覚え、端宗を廃して、自分が国王となります。
これが世祖です。
これに不満をを持った若手の学者たちや、朝廷の実力者たちは、結束して、世祖に反発します。
端宗の復位を申しでたのですが世祖は、これに怒り、筆頭の六人を罪に問い、八つざきの刑に処してしまいました。
後の時代になって、その名誉は回復され、朝鮮王朝時代の孝臣として、あがめられております。
彼らの霊廟が、ここにあります。
おまけ。