世はデジタル時代。0と1の行進。
便利な道具がたくさん出来てくるのはいいけれど、日本人の心象はデジタル世界からは遠いような気がする。見上げる月や、ふと聞こえてくる鳥の声、春の風や散りゆく桜。そのような情景から感じるものをどうやってデジタル化出来るのだろうか。
生と死。
並べると対立するものとして、その区別ははっきりしているようだが果たしてそうか。
脳死を死と定義したとしても、生から死への移行に区切りをつけるのが難しい。多くの場合は、生から死へはゆっくりと移ろっていく。
意識。心臓の鼓動。呼吸回数や呼吸の仕方。脈の強さ。体温。
いろいろな生を示す活動が徐々に死へと向かっていく。その途中に明確な区切りをつけるのは困難だ。
医者から臨終を告げられたとしても、手を握りしめその体温を感じ、顔を撫でてその柔らかさに触れれば、まだ死んだとは思えないのがふつうであろう。荼毘に附される直前でも、まだ亡くなった人の存在を確実に感じることだって有るわけだから。
多くの事象に白黒はっきり出来ない領域があることを深く認識してきたはずの日本人。でも表層的に西洋かぶれして、善か悪か、好きか嫌いか、など単純な二律背反思考に陥る人が多くなってきてないだろうか。
デジタル思考も大切だが、アナログ思考の中に心の柔らかさ、優しさが有るような気がする。自分側にだけ正義があるという硬直した考えから、争いは生まれる。
便利な道具がたくさん出来てくるのはいいけれど、日本人の心象はデジタル世界からは遠いような気がする。見上げる月や、ふと聞こえてくる鳥の声、春の風や散りゆく桜。そのような情景から感じるものをどうやってデジタル化出来るのだろうか。
生と死。
並べると対立するものとして、その区別ははっきりしているようだが果たしてそうか。
脳死を死と定義したとしても、生から死への移行に区切りをつけるのが難しい。多くの場合は、生から死へはゆっくりと移ろっていく。
意識。心臓の鼓動。呼吸回数や呼吸の仕方。脈の強さ。体温。
いろいろな生を示す活動が徐々に死へと向かっていく。その途中に明確な区切りをつけるのは困難だ。
医者から臨終を告げられたとしても、手を握りしめその体温を感じ、顔を撫でてその柔らかさに触れれば、まだ死んだとは思えないのがふつうであろう。荼毘に附される直前でも、まだ亡くなった人の存在を確実に感じることだって有るわけだから。
多くの事象に白黒はっきり出来ない領域があることを深く認識してきたはずの日本人。でも表層的に西洋かぶれして、善か悪か、好きか嫌いか、など単純な二律背反思考に陥る人が多くなってきてないだろうか。
デジタル思考も大切だが、アナログ思考の中に心の柔らかさ、優しさが有るような気がする。自分側にだけ正義があるという硬直した考えから、争いは生まれる。