82歳になりました。「長い人生」と言ってもいいでしょう。いろんな人に出会いました。
シルエット劇場『つのぶえ』の白石晴二さんと出会ったのは、昭和49年(1974年)の2月でした。彼のことは2013年5月31日のこのブログに書きました。もう一度書きます。
今日10月23日、彼の生涯を掛けたシルエット劇場「角笛」の公演を見に、中国縦貫道を走って、山崎文化会館に行きます。
白石さんと出会ったのは、角笛の西宮公演のときでした。1974年当時(ぼくは37歳)、親子劇場の主催者ということだったので、公演の間に「つのぶえ」をやっていく苦労をきかせてもらいました。
1975年には『花さき山』を、西宮市民会館で、3日間6回公演しました。前年のつのぶえの公演『ごんぎつね』/『さようならチンチン電車』が好評だったので、この公演は6000人もの子どもたち(親が連れて)に見てもらいました。大人が見ても「こころが洗われる美しい」画面でした。
子どものこころに「生涯消えない美しい画面を見せる/生涯消えない至福の時間を体験させる」仕事に生涯をささげている白石さんの、素朴で、誠実な、人柄がつよく心に残りました。
その人の味を、他の人に伝えようとしても、なかなかむずかしいですね。自分の感動を、胸にしまって生きる。そしてその感動をもったまま逝くしかないかも。
ここまで書いて寝ました。起き出して、気付きました。
「子どものこころに、生涯消えない美しい画面を、生涯消えない至福の時間を」と書きながら、実は元気盛りの30歳代の「ぼくのこころがあの美しい画面にふるえた。ぼくのこころにあの至福が刻印されたんだ」と。
同じように刻印された元気盛りの人もいます。彼はぼくらといっしょに運動しながら「つのぶえ」のステージを見て美しさと至福を刻印され、その後自分のふるさとで、つのぶえの公演を実現しました。
親子劇場やつのぶえの公演と関係なくなり、教育現場に戻ったある日、白石晴二さんが勤務する学校に「ぼくに会いに」来られました。「西宮で公演する機会に」ということでした。
ぼくの劇団への好意が白石さんのこころにとどいていたのを、うれしく思いました。
白石さんは、そんな、なにも飾らない、こころがそのまま相手にとどく、人でした。
シルエット劇場『つのぶえ』の白石晴二さんと出会ったのは、昭和49年(1974年)の2月でした。彼のことは2013年5月31日のこのブログに書きました。もう一度書きます。
今日10月23日、彼の生涯を掛けたシルエット劇場「角笛」の公演を見に、中国縦貫道を走って、山崎文化会館に行きます。
白石さんと出会ったのは、角笛の西宮公演のときでした。1974年当時(ぼくは37歳)、親子劇場の主催者ということだったので、公演の間に「つのぶえ」をやっていく苦労をきかせてもらいました。
1975年には『花さき山』を、西宮市民会館で、3日間6回公演しました。前年のつのぶえの公演『ごんぎつね』/『さようならチンチン電車』が好評だったので、この公演は6000人もの子どもたち(親が連れて)に見てもらいました。大人が見ても「こころが洗われる美しい」画面でした。
子どものこころに「生涯消えない美しい画面を見せる/生涯消えない至福の時間を体験させる」仕事に生涯をささげている白石さんの、素朴で、誠実な、人柄がつよく心に残りました。
その人の味を、他の人に伝えようとしても、なかなかむずかしいですね。自分の感動を、胸にしまって生きる。そしてその感動をもったまま逝くしかないかも。
ここまで書いて寝ました。起き出して、気付きました。
「子どものこころに、生涯消えない美しい画面を、生涯消えない至福の時間を」と書きながら、実は元気盛りの30歳代の「ぼくのこころがあの美しい画面にふるえた。ぼくのこころにあの至福が刻印されたんだ」と。
同じように刻印された元気盛りの人もいます。彼はぼくらといっしょに運動しながら「つのぶえ」のステージを見て美しさと至福を刻印され、その後自分のふるさとで、つのぶえの公演を実現しました。
親子劇場やつのぶえの公演と関係なくなり、教育現場に戻ったある日、白石晴二さんが勤務する学校に「ぼくに会いに」来られました。「西宮で公演する機会に」ということでした。
ぼくの劇団への好意が白石さんのこころにとどいていたのを、うれしく思いました。
白石さんは、そんな、なにも飾らない、こころがそのまま相手にとどく、人でした。