北條民雄“いのちの初夜”(ハンセン病文学)からみた介護論(4)<
編集委員 大岡信 大谷藤郎 加賀乙彦 鶴見俊輔『ハンセン文学全集』1(小説)皓星社:北條民雄「いのちの初夜」3~28頁
隔離収容施設に入所し、最初の夜(初夜)を迎え悪夢から目が覚めた尾田、
全身に冷たい汗をぐっしょりかき、胸の鼓動が激しかった。
深夜の病室を見渡すと、「二列の寝台には見るに堪へない重症患者」の光景が眼に映り(22頁)、
癩菌は容赦なく体を食い荒らし死にきれずにいる癩病患者の生き様に、
尾田は「これでも人間と信じていいのか」と感じ、まさに「化物屋敷」であると(23頁)。
小説を書いていた佐柄木は、筆を止め「尾田さん。」と呼ぶのであった。
同室の癩病者(男性患者)は、癩菌が神経に食い込んで炎症を起していて、一晩中呻きやうな切なさですすり泣いている。
「どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね」と、佐柄木は話す。(25頁)
ある癩病患者(男)は、咽喉に穴があいていて、その穴から呼吸しながら五年生き延びてきた。
頚部には二、三歳の小児のような涎掛けがぶらさがっていた。
癩重病患者が棲む(住む)隔離収容施設(病院)の内部は、異常であり怪奇な人間の姿が繰り広げられていた。
佐柄木は、癩病者として生きていくことへの思いを、興奮しながら尾田に語るのである。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。
・・・・ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです」
「廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。
新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです」(26頁)。
佐柄木が尾田に熱心に語ったところは、この小説の核心部分である。
癩病患者としての苦悩や絶望から抜け切れないのは、過去の自分を探し求めているからだ。
癩病に罹ってしまった自分は、
(もう)人間ではなく、「癩病に成り切る」ことで、再び人間として不死鳥の如く蘇る。
尾田は癩病を宣告され、病室に案内された後も死のうと思い松林の中に行ったものの死に切れない。
同室の重病癩者から見れば、(現在の)尾田はまだ軽症ではあるが、彼らの姿はやがて自分も同じく癩菌により体が蝕まれていく。
死への不安、苦悩、絶望を抱き、悶々としながら癩病者が棲む病院で、
初日の夜を迎えた彼は、
黙々と重病患者に対し献身的に尽くす佐柄木から、
癩病者であっても「いのちそのものなんです」「癩病者に成り切ることです」「きっと生きる道はありますよ」と話しかけられた。
尾田は、癩病者として「生きて見ること」を思いながら、夜明けを迎えた。
「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでせう」(28頁)。
佐柄木は盲目になるのがわかっていても癩病者として生きている人間の「いのちそのもの」を、
新しい思想、新しい眼で捉え、書けなくなるまでペンを持つと語る言葉に、
尾田と同じくこれからどう生きていけねばらないのか考えさせられた。
癩病が進行しこの世とは思えない「人間ではない」姿になっても、それでもなお生きており、「いのちそのもの」であること、
そして再び人間として生きていく癩病者の「いのちそのもの」を感じとった初めての夜、尾田にしてみればまさに『いのちの初夜』であった。
編集委員 大岡信 大谷藤郎 加賀乙彦 鶴見俊輔『ハンセン文学全集』1(小説)皓星社:北條民雄「いのちの初夜」3~28頁
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隔離収容施設に入所し、最初の夜(初夜)を迎え悪夢から目が覚めた尾田、
全身に冷たい汗をぐっしょりかき、胸の鼓動が激しかった。
深夜の病室を見渡すと、「二列の寝台には見るに堪へない重症患者」の光景が眼に映り(22頁)、
癩菌は容赦なく体を食い荒らし死にきれずにいる癩病患者の生き様に、
尾田は「これでも人間と信じていいのか」と感じ、まさに「化物屋敷」であると(23頁)。
小説を書いていた佐柄木は、筆を止め「尾田さん。」と呼ぶのであった。
同室の癩病者(男性患者)は、癩菌が神経に食い込んで炎症を起していて、一晩中呻きやうな切なさですすり泣いている。
「どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね」と、佐柄木は話す。(25頁)
ある癩病患者(男)は、咽喉に穴があいていて、その穴から呼吸しながら五年生き延びてきた。
頚部には二、三歳の小児のような涎掛けがぶらさがっていた。
癩重病患者が棲む(住む)隔離収容施設(病院)の内部は、異常であり怪奇な人間の姿が繰り広げられていた。
佐柄木は、癩病者として生きていくことへの思いを、興奮しながら尾田に語るのである。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。
・・・・ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです」
「廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。
新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです」(26頁)。
佐柄木が尾田に熱心に語ったところは、この小説の核心部分である。
癩病患者としての苦悩や絶望から抜け切れないのは、過去の自分を探し求めているからだ。
癩病に罹ってしまった自分は、
(もう)人間ではなく、「癩病に成り切る」ことで、再び人間として不死鳥の如く蘇る。
尾田は癩病を宣告され、病室に案内された後も死のうと思い松林の中に行ったものの死に切れない。
同室の重病癩者から見れば、(現在の)尾田はまだ軽症ではあるが、彼らの姿はやがて自分も同じく癩菌により体が蝕まれていく。
死への不安、苦悩、絶望を抱き、悶々としながら癩病者が棲む病院で、
初日の夜を迎えた彼は、
黙々と重病患者に対し献身的に尽くす佐柄木から、
癩病者であっても「いのちそのものなんです」「癩病者に成り切ることです」「きっと生きる道はありますよ」と話しかけられた。
尾田は、癩病者として「生きて見ること」を思いながら、夜明けを迎えた。
「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでせう」(28頁)。
佐柄木は盲目になるのがわかっていても癩病者として生きている人間の「いのちそのもの」を、
新しい思想、新しい眼で捉え、書けなくなるまでペンを持つと語る言葉に、
尾田と同じくこれからどう生きていけねばらないのか考えさせられた。
癩病が進行しこの世とは思えない「人間ではない」姿になっても、それでもなお生きており、「いのちそのもの」であること、
そして再び人間として生きていく癩病者の「いのちそのもの」を感じとった初めての夜、尾田にしてみればまさに『いのちの初夜』であった。
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