大きな水鏡に映る森の上のホテル いつか行ってみたい森の上
歩けなくなっても、まだまだ「できる」ことはある
(“続” ~してもらうばかりでは申し訳ない)
脳血管障害後遺症などにより
人間歩けなくなったことはショックであり、絶望に陥ったこともあった。
歩けなくなっても、まだまだ「できる」ことはある。
それは、椅子や介護用ベッドから
「立ち上がる(“つかまり立ち上がる”でもよい)」「立つ(“つかまり立ち”でもよい)」ことができれば、
独りで洋式便器で用足し(排せつ)ができる。
そうなると大きな自信となり、車いす用のトイレがあるところなら外出や外泊も夢ではない。
尿意があってもなくても、洋式便器に「坐ることができれば」、排せつができる。
障がいのない人は、誰もが「坐って排せつをしている」。
障がいのない人にとっては、坐って排せつをする。
それは、当たり前のことであり、それが如何に大切なことであることには気づいていない。
介護というのは、難しい事を支援するのではなく、
当たり前の生活ができるために、どう支援していくか。
支援していくときに、相手(要介護老人や障がい者)がどこまででき、どこができないのか、を知っていくことが
介護の大きなポイントである。
すべてをしてあげることは、優しさでもないし、かえってそれは相手の自立を損なうだけしかない。
最初、手すりにつかまって膝が折れたりしてなかなか立てなかったり、つかまり立ちも2,3秒がやっとの状態だった人が、
1週間、2週間、3週間、4週間・・・・というように時間の経過とともに
介護者の手を借りながらも、自分独りで「できる」ようになる。
90歳を越えた婆さんでも寝たきり(要介護5)から杖歩行ができる(要介護2)までになり、見守りでトイレで用を足せるようになった。
みなさん 日中用足しのためにトイレに何回行かれますか。
個人差はあるが4~6回は少なくとも行かれるでしょう(仮に日中5回としましょう)
1月で5回×30日=150回、つまり150回のつかまり立ちや立つの動作が
洋式便器に坐ったり、立ち上がったりの行為を行う。これほど素晴らしいリハビリはない。
最初、手すりにつかまって膝が折れたりしてなかなか立てなかった。
はじめてトイレにいったとき、介護者は10~9の力で介助(本人は0~1の力)だったけれど
日毎に本人の立ちあがる力、5~6になった。介護者の人は半分の力で介助ですむようになった。
そうなったとき介護者は、相手を誉めることが大切。
「爺さん(婆さん)や、足や手の力がつき、自分でつかまり立ちができるようになったから、
私たちも助かっているよ、介護がしやすくなり助かっているよ。ありがとう」などと話しかけていく。
最後には見守りだけで立ち上がりができるようになっていく。
立つ力も同じ。どの位自分の力で立てるか。
何秒立てるかで、ズボンや紙パンツの上げ下ろしの介助量も違って来る。
やってあげることは簡単だし、時間もかからずにすむ。
介護は子育て(保育)に似ているところがある。
それは相手がしようとしている基本動作を“待つ”ことにある。
待てそうで待てないのが人間の心理
ここで あみんの《まつわ》を 視聴しますか
“待つ”意味が違いますが・・・・“わたし 待つわ いつまでも まつわ”
あなたがやり終えるまで 待つわ
半身麻痺や両手、両足の筋力が低下し、立ち上がりも立つこともできない。
ということで紙おむつを当てられる。
尿意が失われ、紙おむつに垂れ流し(尿失禁)の状態になっていく。老人の場合はそうされやすいし、病院入院したとき最悪の場合はバルンカテーテル留置されてしまう。
尿意があるのにもかかわらず。
そのようなとりくみができるのは定員10名の小規模デイサービスに多い。
しかし、在宅では老々介護にあるなか
ベッドから車いすに乗せ、トイレまで連れて洋式便器に坐らせるのは大変、
しかも毎日であり、それもいつまで続くことかわからない。
どうしたらよいか悩んでしまう・・・・。
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