1967 /老母親の想い、子の想い
にんげんは外に出たがる「生き物」。「徘徊」という言葉は不適切。
にんげん、何か目的があるから「歩く」のだ。
齢(よわい)を重ねるにつれ、物忘れや家事の一つひとつを最後まで成し遂げることが怪しくなってきた土田光代さん(仮名86歳)。
息子との二人暮らし。
不二雄(長男)さんは、新幹線が停車するK市駅の近くにあるデパートに勤めているため、
日中は一人 家で過ごす。数年前から認知症が進み、
息子宛てに電話がかかり、息子が家に居ても、「家には居ない」と受話器を手にしながら話している。
紳士服売場での仕事は時間通りに終えることができないため、家路に着くのは21時を過ぎてしまうことも多い。
家のなかは静寂であり、老いた母親はもう寝床で眠りについていた。
キッチンに行き電気釜の蓋(ふた)を開けてみると、
手つかずのご飯が残されており、夕食を食べていないことがわかる。
「長男がお腹を空かし、そろそろ帰って来るだろう」からと、
光代さんは台所に立ち肉や人参、ジャガ芋を鍋に入れガスコンロにかけ火をつける。
思いとは裏腹に、鍋は真っ黒に焦げ、その鍋はキッチン下の収納庫に置かれてあった。
その後も、味噌汁を温めようとして、鍋を焦がすことがときどきあり、
家が燃えてはいないかと心配しながら仕事している・・・・。
また浴槽の湯はりをしようと、湯を入れ始めるが、「お湯をだしていること」を忘れてしまい、
浴槽から溢れ、流れ出していることが週に1、2回ほどあった。
昨年の暮れまでは便所で用足しをされていたが、
今年に入り便所に行っても「用足の仕方」を忘れ戸惑うようになってきた。
紙パンツとパットを着けるようにしたけれども、
濡れたパットを枕下や敷布団の下に、紙おむつは箪笥のなかに隠したりしている。
それを注意すると「私ではない」と哀しい声を上げて泣くこともあった。
同居している息子、娘や息子夫婦、娘夫婦たちは、認知症を患っている親に対し、
「何もせずに“じっと”座って居て欲しい」と懇願する。
何もしないで居てくれることの方が子ども夫婦にしてみれば「助かる」のだが・・・・。
それは困難な話で、老いた親は「何かをせずにはいられない」、つまりジッとしていることができない。
子どもから世話を受けるような身になっても、老いた母親は「わが子を心配」し、
煮物や味噌汁を作ったり温めたり、浴槽の湯をはったりするのである。
物忘れなど惚けていても「家族の役に立ちたい(誰かの役に立ちたい)」という気持ちを持っている。
しかし、ガスコンロに鍋をかけたことや浴槽にお湯を出していることを忘れてしまい、
反対に息子や息子嫁に対し余計に手を煩わせてしまう結果に陥ってしまう。
認知症の特徴の一つは、鍋をかけたことや浴槽にお湯を張っていたことを忘れただけでなく、
「忘れてしまった」、そのことさえも忘れてしまうのである。
「出来ていた」ことが「出来なくなった」り、ひどい物忘れにより生活に支障がでることで、
親子関係や家族関係のなかに葛藤や軋轢が生じてくる。
認知症になってしまった母に対し上手く対応できるのは難しく、問い詰めたり怒ったりしてしまいがちである。
これが「他人の親」ならば、上手くかかわることができる。
しかし、いくら「他人の関係」にあっても、認知症を抱えた人に対し、
介護職員が「命令」や「指示」、「怒ったり」するようなかかわり方をすると、
その職員には寄りつかなくなり、「家に帰る」と言い始め落ち着かなくなる。
かかわり方によって、認知症を抱えた老人は穏やかになったり、反対に不穏になり
「徘徊」「異食(いしょく)」「弄便(ろうべん)」「失禁」「攻撃的」などの行為(生活障害)が表出してくる。
老母親の想い、子の想い、人それぞれ「想い」があり、誰かの役に立ちたい、という気持ちをもっている。
認知症の症状が進んでいっても、その人の持っているやさしさや感情は失われずにある。
そのことを理解していくことはとても大切なこと。
にんげんは外に出たがる「生き物」。「徘徊」という言葉は不適切。
にんげん、何か目的があるから「歩く」のだ。
齢(よわい)を重ねるにつれ、物忘れや家事の一つひとつを最後まで成し遂げることが怪しくなってきた土田光代さん(仮名86歳)。
息子との二人暮らし。
不二雄(長男)さんは、新幹線が停車するK市駅の近くにあるデパートに勤めているため、
日中は一人 家で過ごす。数年前から認知症が進み、
息子宛てに電話がかかり、息子が家に居ても、「家には居ない」と受話器を手にしながら話している。
紳士服売場での仕事は時間通りに終えることができないため、家路に着くのは21時を過ぎてしまうことも多い。
家のなかは静寂であり、老いた母親はもう寝床で眠りについていた。
キッチンに行き電気釜の蓋(ふた)を開けてみると、
手つかずのご飯が残されており、夕食を食べていないことがわかる。
「長男がお腹を空かし、そろそろ帰って来るだろう」からと、
光代さんは台所に立ち肉や人参、ジャガ芋を鍋に入れガスコンロにかけ火をつける。
思いとは裏腹に、鍋は真っ黒に焦げ、その鍋はキッチン下の収納庫に置かれてあった。
その後も、味噌汁を温めようとして、鍋を焦がすことがときどきあり、
家が燃えてはいないかと心配しながら仕事している・・・・。
また浴槽の湯はりをしようと、湯を入れ始めるが、「お湯をだしていること」を忘れてしまい、
浴槽から溢れ、流れ出していることが週に1、2回ほどあった。
昨年の暮れまでは便所で用足しをされていたが、
今年に入り便所に行っても「用足の仕方」を忘れ戸惑うようになってきた。
紙パンツとパットを着けるようにしたけれども、
濡れたパットを枕下や敷布団の下に、紙おむつは箪笥のなかに隠したりしている。
それを注意すると「私ではない」と哀しい声を上げて泣くこともあった。
同居している息子、娘や息子夫婦、娘夫婦たちは、認知症を患っている親に対し、
「何もせずに“じっと”座って居て欲しい」と懇願する。
何もしないで居てくれることの方が子ども夫婦にしてみれば「助かる」のだが・・・・。
それは困難な話で、老いた親は「何かをせずにはいられない」、つまりジッとしていることができない。
子どもから世話を受けるような身になっても、老いた母親は「わが子を心配」し、
煮物や味噌汁を作ったり温めたり、浴槽の湯をはったりするのである。
物忘れなど惚けていても「家族の役に立ちたい(誰かの役に立ちたい)」という気持ちを持っている。
しかし、ガスコンロに鍋をかけたことや浴槽にお湯を出していることを忘れてしまい、
反対に息子や息子嫁に対し余計に手を煩わせてしまう結果に陥ってしまう。
認知症の特徴の一つは、鍋をかけたことや浴槽にお湯を張っていたことを忘れただけでなく、
「忘れてしまった」、そのことさえも忘れてしまうのである。
「出来ていた」ことが「出来なくなった」り、ひどい物忘れにより生活に支障がでることで、
親子関係や家族関係のなかに葛藤や軋轢が生じてくる。
認知症になってしまった母に対し上手く対応できるのは難しく、問い詰めたり怒ったりしてしまいがちである。
これが「他人の親」ならば、上手くかかわることができる。
しかし、いくら「他人の関係」にあっても、認知症を抱えた人に対し、
介護職員が「命令」や「指示」、「怒ったり」するようなかかわり方をすると、
その職員には寄りつかなくなり、「家に帰る」と言い始め落ち着かなくなる。
かかわり方によって、認知症を抱えた老人は穏やかになったり、反対に不穏になり
「徘徊」「異食(いしょく)」「弄便(ろうべん)」「失禁」「攻撃的」などの行為(生活障害)が表出してくる。
老母親の想い、子の想い、人それぞれ「想い」があり、誰かの役に立ちたい、という気持ちをもっている。
認知症の症状が進んでいっても、その人の持っているやさしさや感情は失われずにある。
そのことを理解していくことはとても大切なこと。
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