渋谷向山古墳(景行天皇陵)のあと、山麓の傾斜に沿って山の辺の道を北へ数分走ると左手にまたしても大きな古墳。行燈山古墳(崇神天皇陵)です。そして右手(山側)の池の向こうに櫛山古墳。この池は櫛山古墳の周濠です。
後円部南側からみた行燈山古墳。
右手には櫛山古墳。
まず、櫛山古墳から見学します。行燈山古墳と櫛山古墳は周堤を共有しているようにみえ、この周堤が山の辺の道になっています。この周堤から櫛山古墳の周濠を渡る渡堤が設けられています。
渡堤を渡ります。
途中に説明板があります。
櫛山古墳は全国でも珍しい双方中円墳、つまり円墳を真ん中に挟んで両側に方墳をくっつけた形をした古墳で、岡山で行った弥生後期(3世紀後半)の楯築墳丘墓が原形となって、それからおよそ100年後の古墳時代前期後半(4世紀後半)にこの纒向の地に築造されました。
墳丘に上ってその形を実際に見てみると、東西を軸に西側と東側に方形部があり、西側の方が長い長方形になっています。西側を前方部と考えた場合の前方後円墳の東側に方形の造り出しがある、という感じもします。全長が155メートルの大型古墳です。
西側の方形部を西からみると長方形に感じます。
岡田さん、佐々木さんが先を歩きますが、この先に中円部があります。
中円部の頂上は平らになっています。
真ん中あたりに折れた枝が重ねられていて、ここが少し窪んでいるように感じました。埋葬部の跡だと思われます。
頂上から見た東側の方形部。
長さが西側の方形部より短いのがわかります。
方形部の角がよくわかります。
頂上から西側の方形部を確認します。やはり長いです。
ここは戦後間もない昭和23年以降、何度か発掘調査が行われています。東側の方形部は祭祀施設と考えられ、排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や、その下部に赤色顔料を含む砂層を施した方形の土坑などが検出されています。石釧、車輪石、鍬形石といった碧玉製腕飾類の破片、碧玉の管玉、鉄剣・刀子の破片と鉄斧、高坏や壺などの土師器など多数の遺物が出土しました。なかでも、直弧文を着けた鍬形石の土製品というのものが出たらしく、非常に興味がわきます。
中円部の埋葬施設は全長7.1m、幅1.4mで南北に主軸をもち、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いており、石室床面の中央には石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土したそうです。これらの跡が少し窪んでいたのでしょう。
調査では石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えられていて、これと同様の構造を持つ石室が前日に行った葛城の室宮山古墳の南石室だといいます。この南石室を実際に見たときに、石室の横壁と収められた石棺がぴったりくっつき過ぎていると感じて、どのようにして石棺を収めたのか不思議に思っていたのですが、答えがわかりました。土壙を掘ってまず石室の床面を作り、その上に石棺を入れ、それと密着させるように壁石を並べ、最後に蓋石をのせて石室を作ったのです。納得しました。
青と緑が映えてきれいです。
後円部南側からみた行燈山古墳。
右手には櫛山古墳。
まず、櫛山古墳から見学します。行燈山古墳と櫛山古墳は周堤を共有しているようにみえ、この周堤が山の辺の道になっています。この周堤から櫛山古墳の周濠を渡る渡堤が設けられています。
渡堤を渡ります。
途中に説明板があります。
櫛山古墳は全国でも珍しい双方中円墳、つまり円墳を真ん中に挟んで両側に方墳をくっつけた形をした古墳で、岡山で行った弥生後期(3世紀後半)の楯築墳丘墓が原形となって、それからおよそ100年後の古墳時代前期後半(4世紀後半)にこの纒向の地に築造されました。
墳丘に上ってその形を実際に見てみると、東西を軸に西側と東側に方形部があり、西側の方が長い長方形になっています。西側を前方部と考えた場合の前方後円墳の東側に方形の造り出しがある、という感じもします。全長が155メートルの大型古墳です。
西側の方形部を西からみると長方形に感じます。
岡田さん、佐々木さんが先を歩きますが、この先に中円部があります。
中円部の頂上は平らになっています。
真ん中あたりに折れた枝が重ねられていて、ここが少し窪んでいるように感じました。埋葬部の跡だと思われます。
頂上から見た東側の方形部。
長さが西側の方形部より短いのがわかります。
方形部の角がよくわかります。
頂上から西側の方形部を確認します。やはり長いです。
ここは戦後間もない昭和23年以降、何度か発掘調査が行われています。東側の方形部は祭祀施設と考えられ、排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や、その下部に赤色顔料を含む砂層を施した方形の土坑などが検出されています。石釧、車輪石、鍬形石といった碧玉製腕飾類の破片、碧玉の管玉、鉄剣・刀子の破片と鉄斧、高坏や壺などの土師器など多数の遺物が出土しました。なかでも、直弧文を着けた鍬形石の土製品というのものが出たらしく、非常に興味がわきます。
中円部の埋葬施設は全長7.1m、幅1.4mで南北に主軸をもち、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いており、石室床面の中央には石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土したそうです。これらの跡が少し窪んでいたのでしょう。
調査では石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えられていて、これと同様の構造を持つ石室が前日に行った葛城の室宮山古墳の南石室だといいます。この南石室を実際に見たときに、石室の横壁と収められた石棺がぴったりくっつき過ぎていると感じて、どのようにして石棺を収めたのか不思議に思っていたのですが、答えがわかりました。土壙を掘ってまず石室の床面を作り、その上に石棺を入れ、それと密着させるように壁石を並べ、最後に蓋石をのせて石室を作ったのです。納得しました。
青と緑が映えてきれいです。