黒塚古墳の見学を終えたあとは再び国道を渡って斜面に向かいます。目指すは中山大塚古墳ですが、坂道を上る途中に小岳寺塚古墳という古墳があるので写真だけでもと思っていたのですが気が付かずに通り過ぎてしまい、そのまま中山大塚古墳に到着してしまいました。ちょっと悔しい。この中山大塚古墳からは大和古墳群に入ります。
中山大塚古墳は全長が約130メートルで古墳時代前期初頭の前方後円墳です。前期初頭ということは出現期に近い古い古墳です(古墳時代は3世紀半ばから始まったとされているので出現期といえば3世紀半ばから後半あたりを指します)。前方部が後円部よりも低く、前方部の前面が緩やかに曲線を描くバチ形であるという特徴は黒塚古墳と同様に出現期前方後円墳の特徴に該当します。
黒塚古墳も4世紀前半あるいは3世紀半ばにさかのぼる可能性が指摘されているので、これらの古墳が属する柳本古墳群は箸墓古墳などのある纒向古墳群と同様に本当に初期の古墳が集中していると言えます。行燈山古墳の陪塚とも言われる大和天神山古墳も3世紀後半から4世紀前半頃の築造と推定されていました。つまりこのあたりで前方後円墳が築造されるようになって古墳時代が幕を開けたということだと思います。崇神天皇陵や景行天皇陵などの初期の天皇陵、あるいはそれらの天皇の宮跡がこの地にあることも併せて考えると、このあたりから大和政権が始まったと考えることができます。
中山大塚古墳は後円部の先に扇型の張り出しがある珍しい古墳で、先に見た前方後円墳の後円部の先に方形部をつけたような形をした双方中円墳である櫛山古墳につながる形状とも言えます。双方中円墳は吉備の楯築墳丘墓が原型ですが、まずこの中山大塚古墳にその特徴を受け継いだのかもわかりません。そして、この後円部の張り出し付近から吉備の特殊器台の破片が見つかっています。
特殊器台は円筒埴輪の原型とされていますが、器台はもともと集落で農耕祭祀に使用される土器として出現したと考えられています。祭祀の際に御饌を入れた壺を器台に載せて使用しました。その後、弥生時代後期から終末期にかけての吉備で楯築墳丘墓などの巨大な墳墓を築くような権力者が出現したことによって、その器台や壺が非常に大型化し、複雑な文様で飾られる墳墓専用の器台(特殊器台)や壺(特殊壺)に変化していき、農耕祭祀のための祭器から首長の霊を祀るための祭器として用いられるようになっていきました。
吉備の楯築墳丘墓は双方中円墳の原型と書きましたが、それ以上に前方後円墳の原型であると考えられています。権力者(首長)が亡くなると巨大な墳墓を築き、その上で巨大な器台や壺を用いて埋葬者の霊を弔うという祭祀が吉備で始まり、それが大和に伝わった。大和政権の成立に吉備の首長たちが大きな役割を果たしたと考えられます。そういう意味で、この大和大塚古墳は大和政権の成立を考える上において非常に重要な古墳であると言えます。
ちなみに、大和で吉備の特殊器台や特殊壺が見つかった例が、箸墓古墳、西殿塚古墳、弁天塚古墳とこの中山大塚古墳の4つあります。
さてさて、また前置きが長くなってしまいました。国道から坂道を上ってくると前方部の手前にある広場に到着します。墳丘を削って設けた場所に大和稚宮神社という小さな神社がありますが、あとで行くことにしている大和神社の境外摂社の御旅所神社です。
御旅所というのは、祭礼のときに神様(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、あるいはその目的地をさします。したがって、祭礼の時以外は神社に神様はいないのです。大和神社の祭神は倭大国魂神で、もともとは天照大神とともに宮中に祀られていました。天照大神は崇神天皇のときにその神威があまりに強かったので宮の外へ遷され、その場所が檜原神社である、というのは檜原神社のところで述べましたが、倭大国魂神は同じときに大和神社の地へ遷されました。その神の御旅所が中山大塚古墳の墳丘に設けられていることにも意味を感じてしまいます。
その遷座の話が書かれています。
中山大塚古墳の説明。
少しだけ休憩をして墳丘の左側に沿ってさらに坂道を上がっていきます。
右手が前方部でその先に後円部が見えています。
振り返るとくびれ部のあたり。
後円部です。
できるだけ全体が入るように撮ったつもりです。
右手が前方部で左手が後円部です。
実はここで大失敗をやらかしてしまったのです。まだこの時点では気が付いていませんが。御旅所神社の前で少し休憩をとったあと、墳丘の左側に沿ってここまで来たのですが、休憩した場所の右手から墳丘に上ることができたのです。植え込みを利用して埋葬主体の場所などが確認できるようになっている、ということを事前に調べてわかっていたので必ず見ようと思っていたのに。残念で悔しい。
中山大塚古墳の後円部の先に燈籠山古墳があります。全長が110メートルの前方後円墳ですが、前方部が近くの念仏時というお寺の墓地になっていて、近くから見ると円墳に見えます。後円部は築造時期は古墳時代前期前半とされ、これまた古い古墳です。
墳丘上は例にもれず柿畑になっています。
反対側の離れたところからみると前方部がわかります。
右側の大きな森に見えるのが中山大塚古墳で、左側の小さな高まりが燈籠山古墳の後円部、両側をつなぐように少しだけ高くなって墓石が林立しているところが前方部になります。
このあとは畑のあぜ道を歩いて西殿塚古墳を見に行くのですが、佐々木さんからは「ここで休憩して待ってます」との申し出があったので、自転車を置いて岡田さんと二人で歩くことにしました。続きは次回に。
中山大塚古墳は全長が約130メートルで古墳時代前期初頭の前方後円墳です。前期初頭ということは出現期に近い古い古墳です(古墳時代は3世紀半ばから始まったとされているので出現期といえば3世紀半ばから後半あたりを指します)。前方部が後円部よりも低く、前方部の前面が緩やかに曲線を描くバチ形であるという特徴は黒塚古墳と同様に出現期前方後円墳の特徴に該当します。
黒塚古墳も4世紀前半あるいは3世紀半ばにさかのぼる可能性が指摘されているので、これらの古墳が属する柳本古墳群は箸墓古墳などのある纒向古墳群と同様に本当に初期の古墳が集中していると言えます。行燈山古墳の陪塚とも言われる大和天神山古墳も3世紀後半から4世紀前半頃の築造と推定されていました。つまりこのあたりで前方後円墳が築造されるようになって古墳時代が幕を開けたということだと思います。崇神天皇陵や景行天皇陵などの初期の天皇陵、あるいはそれらの天皇の宮跡がこの地にあることも併せて考えると、このあたりから大和政権が始まったと考えることができます。
中山大塚古墳は後円部の先に扇型の張り出しがある珍しい古墳で、先に見た前方後円墳の後円部の先に方形部をつけたような形をした双方中円墳である櫛山古墳につながる形状とも言えます。双方中円墳は吉備の楯築墳丘墓が原型ですが、まずこの中山大塚古墳にその特徴を受け継いだのかもわかりません。そして、この後円部の張り出し付近から吉備の特殊器台の破片が見つかっています。
特殊器台は円筒埴輪の原型とされていますが、器台はもともと集落で農耕祭祀に使用される土器として出現したと考えられています。祭祀の際に御饌を入れた壺を器台に載せて使用しました。その後、弥生時代後期から終末期にかけての吉備で楯築墳丘墓などの巨大な墳墓を築くような権力者が出現したことによって、その器台や壺が非常に大型化し、複雑な文様で飾られる墳墓専用の器台(特殊器台)や壺(特殊壺)に変化していき、農耕祭祀のための祭器から首長の霊を祀るための祭器として用いられるようになっていきました。
吉備の楯築墳丘墓は双方中円墳の原型と書きましたが、それ以上に前方後円墳の原型であると考えられています。権力者(首長)が亡くなると巨大な墳墓を築き、その上で巨大な器台や壺を用いて埋葬者の霊を弔うという祭祀が吉備で始まり、それが大和に伝わった。大和政権の成立に吉備の首長たちが大きな役割を果たしたと考えられます。そういう意味で、この大和大塚古墳は大和政権の成立を考える上において非常に重要な古墳であると言えます。
ちなみに、大和で吉備の特殊器台や特殊壺が見つかった例が、箸墓古墳、西殿塚古墳、弁天塚古墳とこの中山大塚古墳の4つあります。
さてさて、また前置きが長くなってしまいました。国道から坂道を上ってくると前方部の手前にある広場に到着します。墳丘を削って設けた場所に大和稚宮神社という小さな神社がありますが、あとで行くことにしている大和神社の境外摂社の御旅所神社です。
御旅所というのは、祭礼のときに神様(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、あるいはその目的地をさします。したがって、祭礼の時以外は神社に神様はいないのです。大和神社の祭神は倭大国魂神で、もともとは天照大神とともに宮中に祀られていました。天照大神は崇神天皇のときにその神威があまりに強かったので宮の外へ遷され、その場所が檜原神社である、というのは檜原神社のところで述べましたが、倭大国魂神は同じときに大和神社の地へ遷されました。その神の御旅所が中山大塚古墳の墳丘に設けられていることにも意味を感じてしまいます。
その遷座の話が書かれています。
中山大塚古墳の説明。
少しだけ休憩をして墳丘の左側に沿ってさらに坂道を上がっていきます。
右手が前方部でその先に後円部が見えています。
振り返るとくびれ部のあたり。
後円部です。
できるだけ全体が入るように撮ったつもりです。
右手が前方部で左手が後円部です。
実はここで大失敗をやらかしてしまったのです。まだこの時点では気が付いていませんが。御旅所神社の前で少し休憩をとったあと、墳丘の左側に沿ってここまで来たのですが、休憩した場所の右手から墳丘に上ることができたのです。植え込みを利用して埋葬主体の場所などが確認できるようになっている、ということを事前に調べてわかっていたので必ず見ようと思っていたのに。残念で悔しい。
中山大塚古墳の後円部の先に燈籠山古墳があります。全長が110メートルの前方後円墳ですが、前方部が近くの念仏時というお寺の墓地になっていて、近くから見ると円墳に見えます。後円部は築造時期は古墳時代前期前半とされ、これまた古い古墳です。
墳丘上は例にもれず柿畑になっています。
反対側の離れたところからみると前方部がわかります。
右側の大きな森に見えるのが中山大塚古墳で、左側の小さな高まりが燈籠山古墳の後円部、両側をつなぐように少しだけ高くなって墓石が林立しているところが前方部になります。
このあとは畑のあぜ道を歩いて西殿塚古墳を見に行くのですが、佐々木さんからは「ここで休憩して待ってます」との申し出があったので、自転車を置いて岡田さんと二人で歩くことにしました。続きは次回に。
古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋 浩毅 | |
日比谷出版社 |