東殿塚古墳の探検を終えて再び柿畑のあぜ道を引き返し、佐々木さんの待つ念仏寺まで戻ってきました。今回の実地踏査ツアーもそろそろ終盤戦です。とはいえ、まだまだ重要な古墳が残っているのは纒向ならでは。
次もそのひとつの下池山古墳です。
下池山古墳は全長が約120メートルの前方後方墳で古墳時代前期前半の築造と考えられています。中山大塚古墳や、このあとで行く予定のノムギ古墳とともに「大和古墳群」として国の史跡に指定されています。調査の結果、直径が37センチもある内行花文鏡が出土しました。日本最大の銅鏡が福岡県の平原遺跡から出た直径46.5センチの内行花文鏡なので、それと比べると小さいですがそもそも37センチでも十分に大きい。
この古墳は西殿塚古墳、東殿塚古墳、中山大塚古墳と同様に古墳時代前期前半という古い古墳であることに加えて、大和古墳群に5つしかない前方後方墳であることが興味を引きます。
前方後方墳といえば東海地方に多い墳形で、愛知県一宮市にある全長40.5メートルの西上免古墳は3世紀中葉を下らない、つまり3世紀前半の可能性がある古墳だと言います(本当に3世紀前半だとすれば西上免墳丘墓と言わなければいけない)。それくらい古いとすると、前方後方という形状は東海から大和に入ってきたと考えることが可能になります。
さて、ここで話は大きく横道にそれますがご容赦ください。今回の実地踏査ツアーではたくさんの古墳を訪ねました。当ブログではそれらの古墳を訪ねたときの様子をお届けしているのですが、それに際して当該古墳の基本情報(大きさ、形状、築造時期など)も付加しようと思って様々なサイト(基本的には自治体の公的なサイト)から情報を得ています。ただ、築造時期については自分の中で今ひとつ明確になっていない部分があります。
それは古墳時代の前期・中期・後期が何世紀にあたるのか、さらには各期の前半・半ば・後半はいつのことを指すのか。ひと昔前であれば古墳時代は4世紀から6世紀として4世紀が前期、5世紀が中期、6世紀が後期とすればほぼ問題なかったと思うのですが、最近では出現期と言い方も出てきて古墳時代が3世紀半ばにまでさかのぼってきています。また、前方後円墳が造られなくなったとされる7世紀においても方墳や円墳が造られていることから、この時期を終末期という場合もあるようです。
稲作の存在を示す古い時代の遺跡が新たに見つかることによって弥生時代の開始が大きくさかのぼったのと同じように、古墳時代も少なくとも半世紀くらいさかのぼっているようです。その理由は、古墳そのものの研究だけでなく、出土する副葬品や埴輪、土器など様々な面での研究が進んだことに加えて、年輪年代測定法などの年代測定の新たな方法が定着してきたこともあると思います。これらの結果、特に古い時期の古墳の築造時期がさらに早まる傾向にあるように感じます。
中には3世紀前半を古墳時代早期と定義する研究者もいるようですが、ここまでさかのぼると古墳時代に造られた墳墓が古墳で弥生時代に造られた墳墓が墳丘墓という、古墳と墳丘墓の呼称の見直しも必要になってきそうです。とくに弥生時代の後期に造られた出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓、丹後の赤坂今井墳丘墓などは古墳と言っても問題なさそう。先述の西上免古墳という呼称も同じ話です。
さて、自分の中で以下のように整理ができました。とくに3世紀後半は出現期ではなく前期にあたるということを認識できました。
出現期 3世紀半ば
前期 3世紀後半~4世紀後半
中期 5世紀前半~5世紀後半
後期 6世紀前半~6世紀後半
終末期 7世紀
さらに桜井市や天理市のホームページの情報をもとに次のような整理をしてみました。
●纒向古墳群
纒向石塚古墳 3世紀初頭または3世紀後半
纒向勝山古墳 3世紀前半
ホケノ山古墳 3世紀中頃
箸墓古墳 3世紀後半
東田大塚古墳 3世紀後半
纒向矢塚古墳 4世紀前半
●柳本古墳群
黒塚古墳 4世紀初頭から前半頃
大和天神山古墳 4世紀前半
行燈山古墳 4世紀前半
渋谷向山古墳 4世紀後半
上の山古墳 4世紀後半
櫛山古墳 4世紀後半
●大和古墳群
中山大塚古墳 3世紀後半
西殿塚古墳 3世紀後半
東殿塚古墳 3世紀後半
下池山古墳 3世紀後半
ノムギ古墳 3世紀後半
波多子塚古墳 3世紀後半
馬口山古墳 3世紀後半
纒向古墳群にはホケノ山古墳(3世紀中頃)や箸墓古墳(3世紀後半)のように3世紀の築造とされる古墳が多く、なかでも纒向勝山古墳は3世紀前半とされています。3世紀前半ならまだ弥生時代なので正確に言うと纒向勝山墳丘墓です。纒向石塚古墳の3世紀初頭説も同様ですね。
また、柳本古墳群は行燈山古墳(4世紀前半)や渋谷向山古墳(4世紀後半)のように4世紀の築造が多い。そして大和古墳群ではこの下池山古墳と同様に多くが3世紀後半の築造とされています。(古墳の築造時期については様々な説があるので、これはあくまで桜井市と天理市のホームページによった整理です。)
ということは、古墳群の単位で考えたときにおおむね、纒向古墳群→大和古墳群→柳本古墳群の順に成立したと考えられます。あくまで今回および過去に踏査した古墳を中心に整理しただけなので間違っているかもわかりませんし、だから何やねんと言われればそれまで。機会を改めて検証したいと思います。
長くなりましたが話を元に戻して、下池山古墳の次は西山塚古墳です。この古墳も今や墳丘の頂上までミカンなのか柿なのか、果樹園になっているようです。周囲を3分の2ほど囲む池は周濠の名残りと思われます。
西山塚古墳は全長が114メートルの前方後円墳で、出土した埴輪などから6世紀前半(古墳時代後期前半)の築造と推定されます。前述の通り、前期の古墳がほとんどである大和古墳群では珍しい後期の古墳になります。西殿塚古墳のところで書いたように、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真陵に比定する説が有力です。
そういえば、継体天皇の陵墓も宮内庁が治定する大阪府茨木市の太田茶臼山古墳は考古学的に時代があわないということで、高槻市にある今城塚古墳を真陵とする説が通説となっています。天皇・皇后ともに墓を間違えられているという事実は面白い。
実はいま、昨年11月の実地踏査ツアーのレポートを当ブログで連載する傍ら、次回3月の実地踏査ツアーとして近江・越前の継体天皇ゆかりの地を訪ねる企画をしているところです。まさに継体天皇を勉強しているところなので、継体天皇や手白香皇后についても書きたいことがいっぱいあるのですが、また横道にそれていきそうなので我慢します。
この次に波多子塚古墳を眺めたあとは折り返して桜井駅に戻るルートになるのですが、ここで佐々木さんと岡田さんがやらかしてくれました。次回に続く。
次もそのひとつの下池山古墳です。
下池山古墳は全長が約120メートルの前方後方墳で古墳時代前期前半の築造と考えられています。中山大塚古墳や、このあとで行く予定のノムギ古墳とともに「大和古墳群」として国の史跡に指定されています。調査の結果、直径が37センチもある内行花文鏡が出土しました。日本最大の銅鏡が福岡県の平原遺跡から出た直径46.5センチの内行花文鏡なので、それと比べると小さいですがそもそも37センチでも十分に大きい。
この古墳は西殿塚古墳、東殿塚古墳、中山大塚古墳と同様に古墳時代前期前半という古い古墳であることに加えて、大和古墳群に5つしかない前方後方墳であることが興味を引きます。
前方後方墳といえば東海地方に多い墳形で、愛知県一宮市にある全長40.5メートルの西上免古墳は3世紀中葉を下らない、つまり3世紀前半の可能性がある古墳だと言います(本当に3世紀前半だとすれば西上免墳丘墓と言わなければいけない)。それくらい古いとすると、前方後方という形状は東海から大和に入ってきたと考えることが可能になります。
さて、ここで話は大きく横道にそれますがご容赦ください。今回の実地踏査ツアーではたくさんの古墳を訪ねました。当ブログではそれらの古墳を訪ねたときの様子をお届けしているのですが、それに際して当該古墳の基本情報(大きさ、形状、築造時期など)も付加しようと思って様々なサイト(基本的には自治体の公的なサイト)から情報を得ています。ただ、築造時期については自分の中で今ひとつ明確になっていない部分があります。
それは古墳時代の前期・中期・後期が何世紀にあたるのか、さらには各期の前半・半ば・後半はいつのことを指すのか。ひと昔前であれば古墳時代は4世紀から6世紀として4世紀が前期、5世紀が中期、6世紀が後期とすればほぼ問題なかったと思うのですが、最近では出現期と言い方も出てきて古墳時代が3世紀半ばにまでさかのぼってきています。また、前方後円墳が造られなくなったとされる7世紀においても方墳や円墳が造られていることから、この時期を終末期という場合もあるようです。
稲作の存在を示す古い時代の遺跡が新たに見つかることによって弥生時代の開始が大きくさかのぼったのと同じように、古墳時代も少なくとも半世紀くらいさかのぼっているようです。その理由は、古墳そのものの研究だけでなく、出土する副葬品や埴輪、土器など様々な面での研究が進んだことに加えて、年輪年代測定法などの年代測定の新たな方法が定着してきたこともあると思います。これらの結果、特に古い時期の古墳の築造時期がさらに早まる傾向にあるように感じます。
中には3世紀前半を古墳時代早期と定義する研究者もいるようですが、ここまでさかのぼると古墳時代に造られた墳墓が古墳で弥生時代に造られた墳墓が墳丘墓という、古墳と墳丘墓の呼称の見直しも必要になってきそうです。とくに弥生時代の後期に造られた出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓、丹後の赤坂今井墳丘墓などは古墳と言っても問題なさそう。先述の西上免古墳という呼称も同じ話です。
さて、自分の中で以下のように整理ができました。とくに3世紀後半は出現期ではなく前期にあたるということを認識できました。
出現期 3世紀半ば
前期 3世紀後半~4世紀後半
中期 5世紀前半~5世紀後半
後期 6世紀前半~6世紀後半
終末期 7世紀
さらに桜井市や天理市のホームページの情報をもとに次のような整理をしてみました。
●纒向古墳群
纒向石塚古墳 3世紀初頭または3世紀後半
纒向勝山古墳 3世紀前半
ホケノ山古墳 3世紀中頃
箸墓古墳 3世紀後半
東田大塚古墳 3世紀後半
纒向矢塚古墳 4世紀前半
●柳本古墳群
黒塚古墳 4世紀初頭から前半頃
大和天神山古墳 4世紀前半
行燈山古墳 4世紀前半
渋谷向山古墳 4世紀後半
上の山古墳 4世紀後半
櫛山古墳 4世紀後半
●大和古墳群
中山大塚古墳 3世紀後半
西殿塚古墳 3世紀後半
東殿塚古墳 3世紀後半
下池山古墳 3世紀後半
ノムギ古墳 3世紀後半
波多子塚古墳 3世紀後半
馬口山古墳 3世紀後半
纒向古墳群にはホケノ山古墳(3世紀中頃)や箸墓古墳(3世紀後半)のように3世紀の築造とされる古墳が多く、なかでも纒向勝山古墳は3世紀前半とされています。3世紀前半ならまだ弥生時代なので正確に言うと纒向勝山墳丘墓です。纒向石塚古墳の3世紀初頭説も同様ですね。
また、柳本古墳群は行燈山古墳(4世紀前半)や渋谷向山古墳(4世紀後半)のように4世紀の築造が多い。そして大和古墳群ではこの下池山古墳と同様に多くが3世紀後半の築造とされています。(古墳の築造時期については様々な説があるので、これはあくまで桜井市と天理市のホームページによった整理です。)
ということは、古墳群の単位で考えたときにおおむね、纒向古墳群→大和古墳群→柳本古墳群の順に成立したと考えられます。あくまで今回および過去に踏査した古墳を中心に整理しただけなので間違っているかもわかりませんし、だから何やねんと言われればそれまで。機会を改めて検証したいと思います。
長くなりましたが話を元に戻して、下池山古墳の次は西山塚古墳です。この古墳も今や墳丘の頂上までミカンなのか柿なのか、果樹園になっているようです。周囲を3分の2ほど囲む池は周濠の名残りと思われます。
西山塚古墳は全長が114メートルの前方後円墳で、出土した埴輪などから6世紀前半(古墳時代後期前半)の築造と推定されます。前述の通り、前期の古墳がほとんどである大和古墳群では珍しい後期の古墳になります。西殿塚古墳のところで書いたように、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真陵に比定する説が有力です。
そういえば、継体天皇の陵墓も宮内庁が治定する大阪府茨木市の太田茶臼山古墳は考古学的に時代があわないということで、高槻市にある今城塚古墳を真陵とする説が通説となっています。天皇・皇后ともに墓を間違えられているという事実は面白い。
実はいま、昨年11月の実地踏査ツアーのレポートを当ブログで連載する傍ら、次回3月の実地踏査ツアーとして近江・越前の継体天皇ゆかりの地を訪ねる企画をしているところです。まさに継体天皇を勉強しているところなので、継体天皇や手白香皇后についても書きたいことがいっぱいあるのですが、また横道にそれていきそうなので我慢します。
この次に波多子塚古墳を眺めたあとは折り返して桜井駅に戻るルートになるのですが、ここで佐々木さんと岡田さんがやらかしてくれました。次回に続く。
謎の大王 継体天皇 (文春新書) | |
水谷 千秋 | |
文藝春秋 |
継体天皇二つの陵墓、四つの王宮 | |
西川 寿勝,鹿野 塁,森田 克行 | |
新泉社 |
古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋 浩毅 | |
日比谷出版社 |