『足羽社記略』には次のとおり、継体天皇の祖先、妃、皇女などのうち、越前に御名代(みなしろ)があるとされる13名が記される。このうち継体天皇の近親としては皇女6名、妃1名、他3名の10名がおり、残り3名は応神天皇の後裔である。御名代(名代)とは、天皇・皇后・皇子・皇女ら王族の御名(王名や宮号)を負った部民のことで、その御名や功業を後世に伝えるために設置された大王直属の集団である。順に見ていく。
応神天皇の娘の矢田皇女(敦賀郡矢田野)
継体天皇の娘の出雲皇女(丹生郡宇須美村)
同じく、太娘皇女(丹生郡太郎浦)
同じく、白坂活目媛(丹生郡白崎村)
同じく、小野稚郎女(丹生郡小野村)
継体天皇の祖父の乎非王の義父の牟義都国造伊自牟良君(足羽郡石場)
継体天皇の義父の坂田大跨王(大野郡坂戸村)
継体天皇妃の稚子媛(大野郡若子)
継体天皇の娘の圓媛皇女(坂井郡旧市村圓淵)
同じく、稚綾姫皇女(坂井郡旧市村稚綾淵)
継体天皇の祖母の久留媛(坂井郡黒目村)
応神天皇の娘の雌鳥皇女(坂井郡雌鳥浦)
応神天皇の三代孫の阿居乃王(坂井郡阿居)
敦賀郡矢田野
「応神天皇ノ女矢田媛ノ御名代ナラン」とする。「矢田野」と「矢田」のつながりを根拠としているのであろうが、そもそも敦賀郡に「矢田」あるいは「矢田野」の地名があるのだろうか。「矢田野」は歌枕として敦賀郡と近江国との国境にある愛発(あらち)山を詠んだ歌に使われることが多いが、実は大和の地名である。これは『万葉集』に詳しい足羽敬明の勇み足ではないだろうか。ここでは愛発の地を充てておく。
なお、『公望カ私記』から「凡ソ御名代ノ部ヲ定ムルハ御名ヲ取リ、又ハ所居ノ地ヲトルカ」と引用していることから、これ以降は名前と地名の一致や類似をもとに御名代を考えていることが窺える。『公望私記』とは文章博士として『日本書紀』講書で講師をつとめた矢田部公望が延喜4年に記した筆録である。
丹生郡宇須美村
「三尾角折君ノ妹稚子媛ヲ妃トシテ出雲皇女ヲ生ム 此皇女ノ御名代ナラン」とする。『「福井県史」通史編1』によれば、足羽郡に出雲部の存在が確認され「その起源として、継体天皇の皇女出雲皇女の名代ではないかという一案を挙げておく」との見解が示され、宮内庁の吉松大志氏は、出雲氏が出雲皇女の養育に関与した可能性を指摘する。ただ、出雲皇女と宇須美村に音のつながりが見られないにもかかわらず御名代とする根拠をあえて言えば「イ」が「ウ」、「ヅ」が「ス」、「モ」が「ミ」への変化を考えたということだろうか。この宇須美村は明治42年発行の『丹生郡誌』に記載された地図から判断すると、現在の丹生郡越前町宇須尾と思われる。『越前国名勝志』でも同様の指摘がなされている。
丹生郡太郎浦
「関媛所生ノ太娘皇女ノ御名代ナランカ」とする。関媛は茨田連小望の娘で太娘皇女は茨田大娘皇女のことである。「又佐良実ハ娘字」という難解な一文が冒頭にあるのだが、佐良=左に良=郎と解して「郎」という字は実は「娘」という字であるとの指摘ではないだろうか。つまり「太郎浦」は「太娘浦」であるとして太娘皇女の御名代の根拠としていると思われるが無理がある。太郎浦は中世に「池大良」と記された大良浦のことで、現在の南条郡南越前町大良である。『越前国名勝志』は「古ハ池ノ太良浦ト云フ」とした上で「一書ノ古記ニ云ク、関姫ノウミ玉フ大娘皇女ノ御名代乎」と『足羽社記略』の記述を引用する。
丹生郡白﨑村
「白坂活目媛ノ御名代ナランカ」とするが、「﨑旧字ハ坂ナリ」「今﨑ト云ハ訛ナリ」とある。つまり「白﨑」=「白坂」であるとして、白坂活目媛の御名代の根拠とするがどうであろうか。現在の越前市白崎町がその所在と思われる。
丹生郡小野村
「小野稚郎女ノ御名代ナラン」とするのは転訛や読み替えがないという意味においては妥当かも知れないが、果たしてどうだろう。所在地は現在の越前市小野町であろう。
足羽郡石場
「継体帝祖母久久留比賣父 伊自牟良君ノ御名代」とする。久久留比賣は久留比賣の誤りか。伊自牟良君は牟義都国造である。「伊自ハ石ナリ牟良ハカヘシ場也」としているが「カヘシ場」の意味が不明であるが、そもそも「伊自」=「石」に無理がある。所在は足羽山の北麓あたりとされ、笏谷石が採掘されたことに因む名であろう。
大野郡坂戸村
「継体帝ノ妃廣媛ノ父坂田大俣王ノ御名代也」とする。「今サカムトト云フは酒人ノ言也」として、『先代旧事本紀』の「天神本紀」に見える坂戸造、『新撰姓氏録』に見える坂田酒人真人、『延喜式』に見える坂門一事神社(延喜式には坂門一言主神社とある)、『万葉集』巻16の3821番の歌に登場する坂門氏などを並べ立てるが、坂田大俣王との関係は不明で「坂戸」と「坂田」の語呂合わせか。ただし、現在の大野市牛ヶ原に坂田大跨命を祭神とする坂門一言神社が鎮座する。
大野郡若子(わかこ)
「稚子媛ノ御名代ナランカ」とする。稚子媛は三尾角折君の妹である。「今ワコゴト云フ」としながら「若子」に「ワカコ」と振り仮名がふられているものの、「若」と「稚」、音が同じで意味もほぼ同じなので問題ないと言えば問題ない。現在の大野市上若生子・下若生子である。
坂井郡旧市村圓淵・稚綾淵(つぶらがふち)
継体天皇の妃、和珥臣河内の娘である荑(はえ)媛が生んだ一番目の娘が稚綾姫皇女で二番目が圓媛皇女。「此二皇女ノ御名代ナランカ」とあり、いずれも「圓」「稚綾」の文字が共通しているが、そもそも川の淵が御名代というのは考えにくい。「今若葉ト云フハ訛ナリ」と「稚綾」が「若葉」になったとあるのも怪しい。『越前国名勝志』には、荑媛がふたりの皇女を生んだのは継体即位後の樟葉宮でのことなので、その御名代が越前にあるのはおかしいとの指摘が記載される。
旧市村は現在の吉田郡永平寺町に東古市の地名が残るあたりか。「凡ソ此境ヲ椎領ト号ス 領内ニ柴原村アリ 延喜式ノ柴神社是ナリ」とあるが、江戸時代の記録から𠮷田郡に志比領という知行地があったことがわかっており、また、現在の𠮷田郡永平寺町松岡一帯が芝原郷で域内に柴神社が鎮座する。「又日椎前神社 今ノ椎境村也」とある椎境村は𠮷田郡永平寺町の松岡志比堺の地で、ここに鎮座する八幡神社が「志比の地の先」という意から式内社椎前神社鎮座の地と比定されている。このあたりは九頭竜川が越前平野に流れ込むあたりで、淵がいくつもあったのだろう。
坂井郡黒目村
「久留媛ノ御名代也」とする。久留媛は牟義都国造である伊自牟良君の娘で継体天皇の祖母であるが、ここは単に「久留」と「黒」の音が似ていることを根拠としているようだ。所在地は坂井市三国町黒目であろう。
坂井郡雌鳥浦(めとり)
「応神帝女雌鳥皇女ノ御名代ナランカ」とする。「今ノ免鳥浦」とあるが現在の福井市免鳥町であろう。雌鳥皇女は矢田皇女の妹であるが、姉の矢田皇女の御名代が敦賀郡矢田野と言うのは応神天皇と敦賀の関係を考えればまだ妥当性があるとしても、妹の御名代が敦賀郡から大きく離れた坂井郡にあるのはどうしてだろう。果たしてその昔、「免鳥」を「雌鳥」と書いていたのだろうか。所在地は福井市免鳥町であろう。
阿居(丹生郡西安居村)
坂井郡の最後に九頭竜川流域の地名を順に紹介する中で、阿居の地が登場し「応神帝三代孫阿居ノ王ノ御名代カ」とする。阿居乃王は稚渟毛二派皇子の子で兄弟に継体天皇の祖父である乎非王がいる。所在は坂井郡ではなく南にある丹生郡西安居村になり、現在の福井市本堂町あたりとされる。「阿居」の語が通じていることを根拠とするのだろうが、前述の雌鳥浦と同様に三代孫とは言え、敦賀から遠く離れた地に応神天皇ゆかりの地があるのは違和感がある。明治42年に出版された『丹生郡誌』の西安居村の項に『足羽社記略』からの引用が見える。
足羽敬明が継体天皇一族の御名代とする地名を確認したが、これら13カ所を地図にプロットすると下図のようになる。
これらのほとんどが語呂合わせ、こじつけの印象が拭えない。これは、継体天皇あるいはその一族にまつわる旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地名についても同様である。次稿ではそれを確認する。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「丹生郡誌」 福井県丹生郡教育会・編(明治42年 1909年)
「福井県神社庁Webサイト」
(https://www.jinja-fukui.jp/)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「風土記が拓く出雲の古代史」 吉松大志氏
応神天皇の娘の矢田皇女(敦賀郡矢田野)
継体天皇の娘の出雲皇女(丹生郡宇須美村)
同じく、太娘皇女(丹生郡太郎浦)
同じく、白坂活目媛(丹生郡白崎村)
同じく、小野稚郎女(丹生郡小野村)
継体天皇の祖父の乎非王の義父の牟義都国造伊自牟良君(足羽郡石場)
継体天皇の義父の坂田大跨王(大野郡坂戸村)
継体天皇妃の稚子媛(大野郡若子)
継体天皇の娘の圓媛皇女(坂井郡旧市村圓淵)
同じく、稚綾姫皇女(坂井郡旧市村稚綾淵)
継体天皇の祖母の久留媛(坂井郡黒目村)
応神天皇の娘の雌鳥皇女(坂井郡雌鳥浦)
応神天皇の三代孫の阿居乃王(坂井郡阿居)
敦賀郡矢田野
「応神天皇ノ女矢田媛ノ御名代ナラン」とする。「矢田野」と「矢田」のつながりを根拠としているのであろうが、そもそも敦賀郡に「矢田」あるいは「矢田野」の地名があるのだろうか。「矢田野」は歌枕として敦賀郡と近江国との国境にある愛発(あらち)山を詠んだ歌に使われることが多いが、実は大和の地名である。これは『万葉集』に詳しい足羽敬明の勇み足ではないだろうか。ここでは愛発の地を充てておく。
なお、『公望カ私記』から「凡ソ御名代ノ部ヲ定ムルハ御名ヲ取リ、又ハ所居ノ地ヲトルカ」と引用していることから、これ以降は名前と地名の一致や類似をもとに御名代を考えていることが窺える。『公望私記』とは文章博士として『日本書紀』講書で講師をつとめた矢田部公望が延喜4年に記した筆録である。
丹生郡宇須美村
「三尾角折君ノ妹稚子媛ヲ妃トシテ出雲皇女ヲ生ム 此皇女ノ御名代ナラン」とする。『「福井県史」通史編1』によれば、足羽郡に出雲部の存在が確認され「その起源として、継体天皇の皇女出雲皇女の名代ではないかという一案を挙げておく」との見解が示され、宮内庁の吉松大志氏は、出雲氏が出雲皇女の養育に関与した可能性を指摘する。ただ、出雲皇女と宇須美村に音のつながりが見られないにもかかわらず御名代とする根拠をあえて言えば「イ」が「ウ」、「ヅ」が「ス」、「モ」が「ミ」への変化を考えたということだろうか。この宇須美村は明治42年発行の『丹生郡誌』に記載された地図から判断すると、現在の丹生郡越前町宇須尾と思われる。『越前国名勝志』でも同様の指摘がなされている。
丹生郡太郎浦
「関媛所生ノ太娘皇女ノ御名代ナランカ」とする。関媛は茨田連小望の娘で太娘皇女は茨田大娘皇女のことである。「又佐良実ハ娘字」という難解な一文が冒頭にあるのだが、佐良=左に良=郎と解して「郎」という字は実は「娘」という字であるとの指摘ではないだろうか。つまり「太郎浦」は「太娘浦」であるとして太娘皇女の御名代の根拠としていると思われるが無理がある。太郎浦は中世に「池大良」と記された大良浦のことで、現在の南条郡南越前町大良である。『越前国名勝志』は「古ハ池ノ太良浦ト云フ」とした上で「一書ノ古記ニ云ク、関姫ノウミ玉フ大娘皇女ノ御名代乎」と『足羽社記略』の記述を引用する。
丹生郡白﨑村
「白坂活目媛ノ御名代ナランカ」とするが、「﨑旧字ハ坂ナリ」「今﨑ト云ハ訛ナリ」とある。つまり「白﨑」=「白坂」であるとして、白坂活目媛の御名代の根拠とするがどうであろうか。現在の越前市白崎町がその所在と思われる。
丹生郡小野村
「小野稚郎女ノ御名代ナラン」とするのは転訛や読み替えがないという意味においては妥当かも知れないが、果たしてどうだろう。所在地は現在の越前市小野町であろう。
足羽郡石場
「継体帝祖母久久留比賣父 伊自牟良君ノ御名代」とする。久久留比賣は久留比賣の誤りか。伊自牟良君は牟義都国造である。「伊自ハ石ナリ牟良ハカヘシ場也」としているが「カヘシ場」の意味が不明であるが、そもそも「伊自」=「石」に無理がある。所在は足羽山の北麓あたりとされ、笏谷石が採掘されたことに因む名であろう。
大野郡坂戸村
「継体帝ノ妃廣媛ノ父坂田大俣王ノ御名代也」とする。「今サカムトト云フは酒人ノ言也」として、『先代旧事本紀』の「天神本紀」に見える坂戸造、『新撰姓氏録』に見える坂田酒人真人、『延喜式』に見える坂門一事神社(延喜式には坂門一言主神社とある)、『万葉集』巻16の3821番の歌に登場する坂門氏などを並べ立てるが、坂田大俣王との関係は不明で「坂戸」と「坂田」の語呂合わせか。ただし、現在の大野市牛ヶ原に坂田大跨命を祭神とする坂門一言神社が鎮座する。
大野郡若子(わかこ)
「稚子媛ノ御名代ナランカ」とする。稚子媛は三尾角折君の妹である。「今ワコゴト云フ」としながら「若子」に「ワカコ」と振り仮名がふられているものの、「若」と「稚」、音が同じで意味もほぼ同じなので問題ないと言えば問題ない。現在の大野市上若生子・下若生子である。
坂井郡旧市村圓淵・稚綾淵(つぶらがふち)
継体天皇の妃、和珥臣河内の娘である荑(はえ)媛が生んだ一番目の娘が稚綾姫皇女で二番目が圓媛皇女。「此二皇女ノ御名代ナランカ」とあり、いずれも「圓」「稚綾」の文字が共通しているが、そもそも川の淵が御名代というのは考えにくい。「今若葉ト云フハ訛ナリ」と「稚綾」が「若葉」になったとあるのも怪しい。『越前国名勝志』には、荑媛がふたりの皇女を生んだのは継体即位後の樟葉宮でのことなので、その御名代が越前にあるのはおかしいとの指摘が記載される。
旧市村は現在の吉田郡永平寺町に東古市の地名が残るあたりか。「凡ソ此境ヲ椎領ト号ス 領内ニ柴原村アリ 延喜式ノ柴神社是ナリ」とあるが、江戸時代の記録から𠮷田郡に志比領という知行地があったことがわかっており、また、現在の𠮷田郡永平寺町松岡一帯が芝原郷で域内に柴神社が鎮座する。「又日椎前神社 今ノ椎境村也」とある椎境村は𠮷田郡永平寺町の松岡志比堺の地で、ここに鎮座する八幡神社が「志比の地の先」という意から式内社椎前神社鎮座の地と比定されている。このあたりは九頭竜川が越前平野に流れ込むあたりで、淵がいくつもあったのだろう。
坂井郡黒目村
「久留媛ノ御名代也」とする。久留媛は牟義都国造である伊自牟良君の娘で継体天皇の祖母であるが、ここは単に「久留」と「黒」の音が似ていることを根拠としているようだ。所在地は坂井市三国町黒目であろう。
坂井郡雌鳥浦(めとり)
「応神帝女雌鳥皇女ノ御名代ナランカ」とする。「今ノ免鳥浦」とあるが現在の福井市免鳥町であろう。雌鳥皇女は矢田皇女の妹であるが、姉の矢田皇女の御名代が敦賀郡矢田野と言うのは応神天皇と敦賀の関係を考えればまだ妥当性があるとしても、妹の御名代が敦賀郡から大きく離れた坂井郡にあるのはどうしてだろう。果たしてその昔、「免鳥」を「雌鳥」と書いていたのだろうか。所在地は福井市免鳥町であろう。
阿居(丹生郡西安居村)
坂井郡の最後に九頭竜川流域の地名を順に紹介する中で、阿居の地が登場し「応神帝三代孫阿居ノ王ノ御名代カ」とする。阿居乃王は稚渟毛二派皇子の子で兄弟に継体天皇の祖父である乎非王がいる。所在は坂井郡ではなく南にある丹生郡西安居村になり、現在の福井市本堂町あたりとされる。「阿居」の語が通じていることを根拠とするのだろうが、前述の雌鳥浦と同様に三代孫とは言え、敦賀から遠く離れた地に応神天皇ゆかりの地があるのは違和感がある。明治42年に出版された『丹生郡誌』の西安居村の項に『足羽社記略』からの引用が見える。
足羽敬明が継体天皇一族の御名代とする地名を確認したが、これら13カ所を地図にプロットすると下図のようになる。
これらのほとんどが語呂合わせ、こじつけの印象が拭えない。これは、継体天皇あるいはその一族にまつわる旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地名についても同様である。次稿ではそれを確認する。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「丹生郡誌」 福井県丹生郡教育会・編(明治42年 1909年)
「福井県神社庁Webサイト」
(https://www.jinja-fukui.jp/)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「風土記が拓く出雲の古代史」 吉松大志氏
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