●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史②
林一馬氏による先学研究の考証の最後の論点である、伊勢神宮が天武朝よりずっと以前から存在したとの主張の論拠として言及されてきた「神宮側の史料の解釈」について見てみます。
まず、『神宮雑例集』や『皇宇沙汰文』などが引く『大同本紀』逸文に「物ノ部八十友諸人等率」などの記載があることを以って「伊勢神宮においても物部氏が中臣氏の地位にあったことをひそかに語る」として、神道学者の西田長男氏が神宮創立を6世紀中葉以前と説くことに対し、『万葉集』などに頻出する物部之八十伴男などと同義で、すべての群臣を称したものであると西田説を否定します。また、岡田精司説でみたとおり、荒木田・度会両氏の系譜において度会氏の系譜が合理的であるとする説に対しても反論します。さらに、『皇大神宮儀式帳』にある度会・多気・飯野の神郡設置に関する記事に対しても、孝徳朝に度会・多気が神郡として成立していたとするなら、天智朝に多気評(郡)から四郷を割いて飯野評を立てて公郷としたことは神郡に対する措置としてあり得ないとして、屯倉設置という事実をのちに神郡設置の記事に仕立てたものであるから、この記事をもって天智朝以前に神宮が成立していたとすることはできない、と結論づけます。
以上のように著者は①~⑤の論点に対する考察を以って、天武朝より以前に皇祖神を祀る伊勢神宮が成立していたとすべき積極的な理由はなく、従前説の過半は再検討が必要であるとし、内宮成立は天武朝以降であると主張します。
『日本書紀』天武元年(672年)6月26日の「旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神」の一文が従来から、大海人皇子が戦勝を祈願して伊勢神宮を遥拝した、と理解されてきたことに対して、文面に「伊勢神宮」と書かれていないこと、この時点において皇祖神(著者はタカミムスヒとします)は近江朝側で祀られるべき存在であり、朝廷に対する反逆者とも言える大海人皇子はそれを強奪でもしない限りは崇拝したり祭祀することはあり得ないと考えられることなどから、皇祖神としての伊勢神宮なり天照大神がすでに成立していたと解する場合の相当大きな障害になるとします。その上で、この時点での伊勢神宮成立に否定的な立場に立つ著者は、このときに大海人皇子が天照大神を拝礼したのは、そういう神を新たに命名しつつ、自らの陣営の守護神として選定した、との大胆な仮説を提示します。天照大神を守護神として選定した理由は、この神明の示す超越性や透明性とともに、諸国に散在するアマテルミタマなどと類同すること、アマテルやアマテラスは日神への連想を禁じ得ないことをあげます。
そしてこのように考えなければ、タカミムスヒからアマテラスへの皇祖神の転換が成立し得ないとします。本来は別系統である両神の間で一方から他方への自然な発展はまずあり得ないし、考えられるとすれば王位継承を巡る武力闘争、それも謀叛者が勝利したという特殊な歴史背景とそれを主導した人物のカリスマ的性格を想定するほかない、と言います。全く違う理由でしたが、溝口睦子氏も皇祖神転換を目論んだのが天武天皇であるとしていました。
さらに、この一文にある「望拝」が皇祖神の転換、天照大神誕生の直接的な契機であったものの、一方でその後も記紀神話においてタカミムスヒが命脈を保ち、時として天照大神を凌ぐ至高神として扱われていた理由として、天武の次の天皇が天智の皇女たる持統であったこと、つまり最終的には両系統を共に生かそうと選択した結果だとします。
なぜ皇祖神を転換したのか、それはなぜ天照大神だったのか、に続いて皇祖神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由を考えます。『日本書紀』天武2年(673年)4月14日の「欲遣侍大来皇女于天照太神宮、而令居泊瀬斎宮」と、天武3年(674年)10月9日の「大来皇女、自泊瀬斎宮向伊勢神宮」の両記事は戦勝して即位した天武天皇が最初に実施した神祇政策であるので、長く途絶えていた伊勢斎王を復活させたと単純に解することはできないとします。
まず「泊瀬斎宮」を後世の野宮(ののみや)の初見とする一般的な解釈に対して、論点④にあった宮廷近傍にて皇祖神祭祀の伝統と形式を踏襲したものであったろうとします。野宮とは皇女が斎王となる時に伊勢の斎宮に移るまでの一年間、潔斎のためにこもる宮殿のことを言います。また、「天照太神宮」という変則的な表記をもって、この時点で未だ伊勢神宮は創設されていない可能性が高いとしつつ、ふたつめの記事の年月日が史実とすれば、わずか1年半の間に急速に発展したとみなさざるを得ないとして、大来皇女の伊勢下向こそが初代斎王たる倭姫命による天照大神の伊勢遷祀に擬すべき事態であったとして、ここに伊勢神宮創立の端緒を推定します。
(つづく)
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林一馬氏による先学研究の考証の最後の論点である、伊勢神宮が天武朝よりずっと以前から存在したとの主張の論拠として言及されてきた「神宮側の史料の解釈」について見てみます。
まず、『神宮雑例集』や『皇宇沙汰文』などが引く『大同本紀』逸文に「物ノ部八十友諸人等率」などの記載があることを以って「伊勢神宮においても物部氏が中臣氏の地位にあったことをひそかに語る」として、神道学者の西田長男氏が神宮創立を6世紀中葉以前と説くことに対し、『万葉集』などに頻出する物部之八十伴男などと同義で、すべての群臣を称したものであると西田説を否定します。また、岡田精司説でみたとおり、荒木田・度会両氏の系譜において度会氏の系譜が合理的であるとする説に対しても反論します。さらに、『皇大神宮儀式帳』にある度会・多気・飯野の神郡設置に関する記事に対しても、孝徳朝に度会・多気が神郡として成立していたとするなら、天智朝に多気評(郡)から四郷を割いて飯野評を立てて公郷としたことは神郡に対する措置としてあり得ないとして、屯倉設置という事実をのちに神郡設置の記事に仕立てたものであるから、この記事をもって天智朝以前に神宮が成立していたとすることはできない、と結論づけます。
以上のように著者は①~⑤の論点に対する考察を以って、天武朝より以前に皇祖神を祀る伊勢神宮が成立していたとすべき積極的な理由はなく、従前説の過半は再検討が必要であるとし、内宮成立は天武朝以降であると主張します。
『日本書紀』天武元年(672年)6月26日の「旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神」の一文が従来から、大海人皇子が戦勝を祈願して伊勢神宮を遥拝した、と理解されてきたことに対して、文面に「伊勢神宮」と書かれていないこと、この時点において皇祖神(著者はタカミムスヒとします)は近江朝側で祀られるべき存在であり、朝廷に対する反逆者とも言える大海人皇子はそれを強奪でもしない限りは崇拝したり祭祀することはあり得ないと考えられることなどから、皇祖神としての伊勢神宮なり天照大神がすでに成立していたと解する場合の相当大きな障害になるとします。その上で、この時点での伊勢神宮成立に否定的な立場に立つ著者は、このときに大海人皇子が天照大神を拝礼したのは、そういう神を新たに命名しつつ、自らの陣営の守護神として選定した、との大胆な仮説を提示します。天照大神を守護神として選定した理由は、この神明の示す超越性や透明性とともに、諸国に散在するアマテルミタマなどと類同すること、アマテルやアマテラスは日神への連想を禁じ得ないことをあげます。
そしてこのように考えなければ、タカミムスヒからアマテラスへの皇祖神の転換が成立し得ないとします。本来は別系統である両神の間で一方から他方への自然な発展はまずあり得ないし、考えられるとすれば王位継承を巡る武力闘争、それも謀叛者が勝利したという特殊な歴史背景とそれを主導した人物のカリスマ的性格を想定するほかない、と言います。全く違う理由でしたが、溝口睦子氏も皇祖神転換を目論んだのが天武天皇であるとしていました。
さらに、この一文にある「望拝」が皇祖神の転換、天照大神誕生の直接的な契機であったものの、一方でその後も記紀神話においてタカミムスヒが命脈を保ち、時として天照大神を凌ぐ至高神として扱われていた理由として、天武の次の天皇が天智の皇女たる持統であったこと、つまり最終的には両系統を共に生かそうと選択した結果だとします。
なぜ皇祖神を転換したのか、それはなぜ天照大神だったのか、に続いて皇祖神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由を考えます。『日本書紀』天武2年(673年)4月14日の「欲遣侍大来皇女于天照太神宮、而令居泊瀬斎宮」と、天武3年(674年)10月9日の「大来皇女、自泊瀬斎宮向伊勢神宮」の両記事は戦勝して即位した天武天皇が最初に実施した神祇政策であるので、長く途絶えていた伊勢斎王を復活させたと単純に解することはできないとします。
まず「泊瀬斎宮」を後世の野宮(ののみや)の初見とする一般的な解釈に対して、論点④にあった宮廷近傍にて皇祖神祭祀の伝統と形式を踏襲したものであったろうとします。野宮とは皇女が斎王となる時に伊勢の斎宮に移るまでの一年間、潔斎のためにこもる宮殿のことを言います。また、「天照太神宮」という変則的な表記をもって、この時点で未だ伊勢神宮は創設されていない可能性が高いとしつつ、ふたつめの記事の年月日が史実とすれば、わずか1年半の間に急速に発展したとみなさざるを得ないとして、大来皇女の伊勢下向こそが初代斎王たる倭姫命による天照大神の伊勢遷祀に擬すべき事態であったとして、ここに伊勢神宮創立の端緒を推定します。
(つづく)
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