●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史③
天武即位後の大来皇女の伊勢下向をもって伊勢神宮創立の端緒であるとし、天照大神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由として、天照大神を自らの守護神として命名しつつ選定した故地(伊勢国朝明郡)に因むこと、南伊勢の地が天武の宮居した飛鳥のほぼ真東に当たるという宇宙論的地理観が想定されること、をあげます。さらに内宮の現在地が特定されたのは、究極的には天武側が占地したとしながらも、大化前後から度会・多気に屯倉が設置されて天皇家にとって親しい土地柄であったこと、天武自身の養育者だった大海氏やそれとの縁で関係のあったと思われる伊勢部や磯部氏、あるいは在地豪族の宇治土公氏、サルタヒコ神話から想定される猿女氏などによる勧奨や土地提供などがあったことが推定されるとします。
そして『日本書紀』垂仁25年の「故、随大神教、其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神、始自天降之処也」を読み解きます。著者は『日本書紀』に見られる「祠」の字の使われ方を分析した結果、ヤシロやホコラと読んで祭祀施設を意味するのではなく、マツリもしくはマツリゴトと読んで、神郡を意識した祭祀体制や経済的基盤を含めた神マツリゴトの全体を伊勢国に確立した、と解します。そして当初の具体的な神マツリの施設としては五十鈴川のほとりに建てられた「磯宮」と呼ばれる斎宮しかなかった、すなわち、この磯宮こそが神宮そのものだったということになります。
そのことの検証として柿本人麻呂が詠んだ高市皇子の挽歌「度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし …」を取り上げます。この「斎の宮」はまさに前述の神宮(磯宮)を指していること、「度会の」とある以上は最初から五十鈴川のほとりにあったとするのが素直な考えであること、さらには垂仁紀一書にある「遷于伊勢国渡遇宮」の「渡遇宮」も同様に解してよいこと、つまりは磯宮、斎の宮、渡遇宮、これらはすべて初期的な伊勢神宮、度会郡にある内宮を指していると主張します。
その上で、この人麻呂の挽歌はそれが詠まれた持統10年(696年)においては神宮が厳然として存在したことを踏まえて、壬申の乱において天武自らが自軍の守護霊として選んだ天照大神の加護の下に戦勝したことを叙事詩的に表現したとします。また著者は、斎宮=初期的な神宮が営まれた場所は内宮の正殿地ではなく、荒祭宮の位置であったかもしれないとの仮説を提示しますが、その根拠は今ひとつ明快ではありません。
天武時代の初期的な伊勢神宮は斎宮と呼ぶ状態を脱していない、つまり神殿としての正殿をはじめとする社殿型式が整っていない状態であったとして、それが整うのは持統6年(692年)3月だった、とピンポイントで指摘します。『日本書紀』や『万葉集』によると、持統天皇はそのときに伊勢行幸をしていますが、これは神宮社殿の完成を見届け、そこでの祭儀に自らも参列するものであったと推定し、この持統6年3月がまさに内宮が確立した時期であるとします。
この伊勢行幸の記事には神宮を参拝したとは書かれていませんが、神郡(度会・多気)を通過していることから遥拝あるいは遣使をして奉幣することもなかったとするのは不自然であり、これほど著名で大々的な行幸の主たる目的が不分明であるのも異常であること、この行幸に対して大三輪高市麻呂が強硬に中止を訴えたのは皇祖神祭祀を三輪山から伊勢に移そうとしていることに反対する意思を示したと考えられること、神宮の式年遷宮がほぼ同じ時期に開始されたと考えられること、最初の恒久的帝都である藤原京が造営されている真っ只中での伊勢行幸が皇大神宮確立と無関係なはずがないと考えられること、これらを理由として内宮の確立時期を持統6年3月と推定するのです。
著者はこの後さらに外宮成立の論証に移り、『続日本紀』にある文武2年12月29日の記事「遷多気大神宮于度会郡」を論拠として内宮成立を文武2年(698年)とする筑紫申真氏らに対して、これを内宮遷座の記事とすると『日本書紀』と『続日本紀』という正史上の記述に矛盾が生じること、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」として南伊勢地方の有力神の遷座記事であること、その多気大神宮とは外宮の前身であったと反論します。
その南伊勢の有力地方神である多気大神は、多気地方の首長(竹首あるいは多気連)によって祀られた「ウケの神」つまり食物神であり、度会郡への遷座後は『古事記』に「次登由気神、此者坐外宮之度相神者也」にあるとおり、外宮に鎮座する神として登場する神だとします。
このように考えることによって、祭典や奉幣は必ず外宮を先にするという「外宮先祭の慣習」が理解できるとします。つまり、朝廷が皇祖神であり最高神である天照大神に対して奉幣する際に、まずその地方の代表的な神格に対して敬意を表した、ということです。
このあと最後に、斎宮の成立についての論証で本稿は締めくくりとなりますが、今回はここまでで天照大神が皇祖神になった経緯とともに内宮・外宮の成立に関する著者の論考の要約とします。先学研究に対する厳しい批判をベースに自論を展開するという点でロジックとしてはわかりやすいのですが、個々の論証では読み進めるのに難儀することもしばしばでした。著書の論によると、天武天皇即位前の天武元年(672年)に天照大神を守護神とすることを決め、持統天皇6年(692年)に内宮が成立し、文武天皇2年(698年)に外宮が成立、という具合にわずか20数年の短期間の出来事であり、天武が始めた政策を持統が完結させたという点では溝口睦子説に通じるものがあります。
(つづく)
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天武即位後の大来皇女の伊勢下向をもって伊勢神宮創立の端緒であるとし、天照大神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由として、天照大神を自らの守護神として命名しつつ選定した故地(伊勢国朝明郡)に因むこと、南伊勢の地が天武の宮居した飛鳥のほぼ真東に当たるという宇宙論的地理観が想定されること、をあげます。さらに内宮の現在地が特定されたのは、究極的には天武側が占地したとしながらも、大化前後から度会・多気に屯倉が設置されて天皇家にとって親しい土地柄であったこと、天武自身の養育者だった大海氏やそれとの縁で関係のあったと思われる伊勢部や磯部氏、あるいは在地豪族の宇治土公氏、サルタヒコ神話から想定される猿女氏などによる勧奨や土地提供などがあったことが推定されるとします。
そして『日本書紀』垂仁25年の「故、随大神教、其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神、始自天降之処也」を読み解きます。著者は『日本書紀』に見られる「祠」の字の使われ方を分析した結果、ヤシロやホコラと読んで祭祀施設を意味するのではなく、マツリもしくはマツリゴトと読んで、神郡を意識した祭祀体制や経済的基盤を含めた神マツリゴトの全体を伊勢国に確立した、と解します。そして当初の具体的な神マツリの施設としては五十鈴川のほとりに建てられた「磯宮」と呼ばれる斎宮しかなかった、すなわち、この磯宮こそが神宮そのものだったということになります。
そのことの検証として柿本人麻呂が詠んだ高市皇子の挽歌「度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし …」を取り上げます。この「斎の宮」はまさに前述の神宮(磯宮)を指していること、「度会の」とある以上は最初から五十鈴川のほとりにあったとするのが素直な考えであること、さらには垂仁紀一書にある「遷于伊勢国渡遇宮」の「渡遇宮」も同様に解してよいこと、つまりは磯宮、斎の宮、渡遇宮、これらはすべて初期的な伊勢神宮、度会郡にある内宮を指していると主張します。
その上で、この人麻呂の挽歌はそれが詠まれた持統10年(696年)においては神宮が厳然として存在したことを踏まえて、壬申の乱において天武自らが自軍の守護霊として選んだ天照大神の加護の下に戦勝したことを叙事詩的に表現したとします。また著者は、斎宮=初期的な神宮が営まれた場所は内宮の正殿地ではなく、荒祭宮の位置であったかもしれないとの仮説を提示しますが、その根拠は今ひとつ明快ではありません。
天武時代の初期的な伊勢神宮は斎宮と呼ぶ状態を脱していない、つまり神殿としての正殿をはじめとする社殿型式が整っていない状態であったとして、それが整うのは持統6年(692年)3月だった、とピンポイントで指摘します。『日本書紀』や『万葉集』によると、持統天皇はそのときに伊勢行幸をしていますが、これは神宮社殿の完成を見届け、そこでの祭儀に自らも参列するものであったと推定し、この持統6年3月がまさに内宮が確立した時期であるとします。
この伊勢行幸の記事には神宮を参拝したとは書かれていませんが、神郡(度会・多気)を通過していることから遥拝あるいは遣使をして奉幣することもなかったとするのは不自然であり、これほど著名で大々的な行幸の主たる目的が不分明であるのも異常であること、この行幸に対して大三輪高市麻呂が強硬に中止を訴えたのは皇祖神祭祀を三輪山から伊勢に移そうとしていることに反対する意思を示したと考えられること、神宮の式年遷宮がほぼ同じ時期に開始されたと考えられること、最初の恒久的帝都である藤原京が造営されている真っ只中での伊勢行幸が皇大神宮確立と無関係なはずがないと考えられること、これらを理由として内宮の確立時期を持統6年3月と推定するのです。
著者はこの後さらに外宮成立の論証に移り、『続日本紀』にある文武2年12月29日の記事「遷多気大神宮于度会郡」を論拠として内宮成立を文武2年(698年)とする筑紫申真氏らに対して、これを内宮遷座の記事とすると『日本書紀』と『続日本紀』という正史上の記述に矛盾が生じること、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」として南伊勢地方の有力神の遷座記事であること、その多気大神宮とは外宮の前身であったと反論します。
その南伊勢の有力地方神である多気大神は、多気地方の首長(竹首あるいは多気連)によって祀られた「ウケの神」つまり食物神であり、度会郡への遷座後は『古事記』に「次登由気神、此者坐外宮之度相神者也」にあるとおり、外宮に鎮座する神として登場する神だとします。
このように考えることによって、祭典や奉幣は必ず外宮を先にするという「外宮先祭の慣習」が理解できるとします。つまり、朝廷が皇祖神であり最高神である天照大神に対して奉幣する際に、まずその地方の代表的な神格に対して敬意を表した、ということです。
このあと最後に、斎宮の成立についての論証で本稿は締めくくりとなりますが、今回はここまでで天照大神が皇祖神になった経緯とともに内宮・外宮の成立に関する著者の論考の要約とします。先学研究に対する厳しい批判をベースに自論を展開するという点でロジックとしてはわかりやすいのですが、個々の論証では読み進めるのに難儀することもしばしばでした。著書の論によると、天武天皇即位前の天武元年(672年)に天照大神を守護神とすることを決め、持統天皇6年(692年)に内宮が成立し、文武天皇2年(698年)に外宮が成立、という具合にわずか20数年の短期間の出来事であり、天武が始めた政策を持統が完結させたという点では溝口睦子説に通じるものがあります。
(つづく)
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