●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る②
今回は南伊勢の古墳時代を概観します。まず、4世紀代に松阪市北部に相次いで築造された西山古墳、筒野古墳、向山古墳、錆山古墳という4基の前方後方墳(最大の向山古墳が全長72m)の存在から、この時代の南伊勢の主要勢力は一志郡域に出現したと考えられます。概ね4世紀前半から後半の頃にあたります。筒野古墳からは三角縁神獣鏡2面や水晶製切子玉などが、向山古墳からは内行花文鏡や多数の石製品、鉄刀一振などが出土しており、ヤマト王権勢力との関係性が示唆されます。相前後して一志郡の南にあたる飯高郡域にも30m級の円墳である坊山一号墳や高田二号墳が築かれ、こちらも円筒埴輪列や円筒埴輪棺の存在からヤマト王権勢力とのつながりが考えられます。その飯高郡域では一志郡域での前方後方墳の築造停止と前後して50m級の円墳である久保古墳や清生茶臼山古墳が築かれ、いずれも三角縁神獣鏡が出土しています。つまり、南伊勢の4世紀代の首長墳は概ね一志郡域から南の飯高郡域に移ったと見ることができます。なお、この段階では櫛田川以南、のちの多気郡や度会郡では首長墓と目される古墳は確認されていません。
5世紀に入ると南伊勢で初めての前方後円墳である宝塚一号墳(全長111m)が飯高郡域に築造され、この時期の最有力首長墳は引き続き飯高郡域にありました。くびれ部に付設された出島状施設、その両脇の埴輪樹立区、最新の多様な形象埴輪郡などは奈良県の巣山古墳や大阪府の心合山古墳など、近畿の有力古墳の仕様に通じ、墳丘に樹立された円筒埴輪には河内地域のそれと酷似するものがあります。とりわけ、ヤマト王権から委任された支配権の象徴としての倭装大刀を船首部分に装飾した大型の船形埴輪が注目されます。そして隣接する場所には宝塚一号墳に続いて宝塚二号墳(全長89mの造出付円墳)が築造されます。
宝塚二号墳に続く5世紀後半の首長墳は多気郡と度会郡の間を画する玉城丘陵の多気郡側に移り、帆立貝形の高塚一号墳(全長75m)が築造されます。さらにその近傍には大塚一号墳(全長52.5m)や神前山一号墳(全長40m)という大型造出付円墳があり、後者からは円筒埴輪列とともに3面の画文帯神獣鏡や形象埴輪が出土しています。この画文帯神獣鏡は鳥羽市神島の八代神社所蔵鏡や京都府亀山市の茶臼山古墳出土鏡や熊本県江田船山古墳出土鏡など多くの同笵鏡が知られています。宝塚古墳群に比して総じて規模が縮小し、帆立貝形という墳形が固定化する一方で、副葬品の優秀性が王権との直結性を示しているとも言え、地域の首長墳としては前代の独立性が薄れた一方で、王権の直接的な把握が行われつつあった可能性を指摘します。
6世紀代に入ると玉城丘陵でも古墳規模が縮小し、南伊勢を代表するような盟主級の首長墳が不明瞭となりますが、6世紀前半ではユブミ二号墳(全長45m)、斎宮池十二号墳(全長33m)、野田古墳(全長34m)などが候補となります。このうち野田古墳の位置は度会郡域の西側にあたります。また、この地域の玉城盆地はのちの内宮禰宜の荒木田氏の本貫地とされます。
6世紀末から7世紀初頭になると度会郡域に石室全長18.5mもの巨大な横穴式石室をもつ高倉山古墳(全長40mほど)が外宮南側の高倉山山頂に築かれます。神宮神宝との関連が推定される石製三輪玉などが副葬されていました。
7世紀代になると南伊勢を統括するような首長墓の存在は見られませんが、この時期の南伊勢での最も有力な古墳のひとつである前方後方形の坂本一号墳が注目されます。神島の八代神社所蔵品にある金銅製頭椎大刀(かぶつちのたち)が副葬されていました。造営地は後に斎宮が整備される地域の至近であり、伊勢神宮の神衣祭に関わった麻続(おみ)氏の本貫にも近いところで、築造された時期は大来皇女による斎宮発遣の時期に近いと言えます。
以上のように、南伊勢の首長墳は概ね、4世紀代は一志郡、5世紀前半は飯高郡、5世紀後半は多気郡、6世紀代は前半期に度会郡宮川左岸に候補となる小規模な前方後円墳があるものの全体として不明瞭、6世紀末~7世紀初頭には宮川右岸と、時代を追うごとに首長墳の築造地が南へ移動しく様子が読み取れます。
著者は、南伊勢では5世紀前半の宝塚一号墳以降、大型で定型的な前方後円墳が築かれることはなくなり、6世紀前後の前方後円墳を安定して築造し続けた北伊勢と対照的として、ここに地域的独立勢力の解体を見、ヤマト王権による直接的な把握が推し進められた結果と考えることができるかもしれない、と岡田精司氏の見解を首肯して本章を結びます。
(つづく)
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今回は南伊勢の古墳時代を概観します。まず、4世紀代に松阪市北部に相次いで築造された西山古墳、筒野古墳、向山古墳、錆山古墳という4基の前方後方墳(最大の向山古墳が全長72m)の存在から、この時代の南伊勢の主要勢力は一志郡域に出現したと考えられます。概ね4世紀前半から後半の頃にあたります。筒野古墳からは三角縁神獣鏡2面や水晶製切子玉などが、向山古墳からは内行花文鏡や多数の石製品、鉄刀一振などが出土しており、ヤマト王権勢力との関係性が示唆されます。相前後して一志郡の南にあたる飯高郡域にも30m級の円墳である坊山一号墳や高田二号墳が築かれ、こちらも円筒埴輪列や円筒埴輪棺の存在からヤマト王権勢力とのつながりが考えられます。その飯高郡域では一志郡域での前方後方墳の築造停止と前後して50m級の円墳である久保古墳や清生茶臼山古墳が築かれ、いずれも三角縁神獣鏡が出土しています。つまり、南伊勢の4世紀代の首長墳は概ね一志郡域から南の飯高郡域に移ったと見ることができます。なお、この段階では櫛田川以南、のちの多気郡や度会郡では首長墓と目される古墳は確認されていません。
5世紀に入ると南伊勢で初めての前方後円墳である宝塚一号墳(全長111m)が飯高郡域に築造され、この時期の最有力首長墳は引き続き飯高郡域にありました。くびれ部に付設された出島状施設、その両脇の埴輪樹立区、最新の多様な形象埴輪郡などは奈良県の巣山古墳や大阪府の心合山古墳など、近畿の有力古墳の仕様に通じ、墳丘に樹立された円筒埴輪には河内地域のそれと酷似するものがあります。とりわけ、ヤマト王権から委任された支配権の象徴としての倭装大刀を船首部分に装飾した大型の船形埴輪が注目されます。そして隣接する場所には宝塚一号墳に続いて宝塚二号墳(全長89mの造出付円墳)が築造されます。
宝塚二号墳に続く5世紀後半の首長墳は多気郡と度会郡の間を画する玉城丘陵の多気郡側に移り、帆立貝形の高塚一号墳(全長75m)が築造されます。さらにその近傍には大塚一号墳(全長52.5m)や神前山一号墳(全長40m)という大型造出付円墳があり、後者からは円筒埴輪列とともに3面の画文帯神獣鏡や形象埴輪が出土しています。この画文帯神獣鏡は鳥羽市神島の八代神社所蔵鏡や京都府亀山市の茶臼山古墳出土鏡や熊本県江田船山古墳出土鏡など多くの同笵鏡が知られています。宝塚古墳群に比して総じて規模が縮小し、帆立貝形という墳形が固定化する一方で、副葬品の優秀性が王権との直結性を示しているとも言え、地域の首長墳としては前代の独立性が薄れた一方で、王権の直接的な把握が行われつつあった可能性を指摘します。
6世紀代に入ると玉城丘陵でも古墳規模が縮小し、南伊勢を代表するような盟主級の首長墳が不明瞭となりますが、6世紀前半ではユブミ二号墳(全長45m)、斎宮池十二号墳(全長33m)、野田古墳(全長34m)などが候補となります。このうち野田古墳の位置は度会郡域の西側にあたります。また、この地域の玉城盆地はのちの内宮禰宜の荒木田氏の本貫地とされます。
6世紀末から7世紀初頭になると度会郡域に石室全長18.5mもの巨大な横穴式石室をもつ高倉山古墳(全長40mほど)が外宮南側の高倉山山頂に築かれます。神宮神宝との関連が推定される石製三輪玉などが副葬されていました。
7世紀代になると南伊勢を統括するような首長墓の存在は見られませんが、この時期の南伊勢での最も有力な古墳のひとつである前方後方形の坂本一号墳が注目されます。神島の八代神社所蔵品にある金銅製頭椎大刀(かぶつちのたち)が副葬されていました。造営地は後に斎宮が整備される地域の至近であり、伊勢神宮の神衣祭に関わった麻続(おみ)氏の本貫にも近いところで、築造された時期は大来皇女による斎宮発遣の時期に近いと言えます。
以上のように、南伊勢の首長墳は概ね、4世紀代は一志郡、5世紀前半は飯高郡、5世紀後半は多気郡、6世紀代は前半期に度会郡宮川左岸に候補となる小規模な前方後円墳があるものの全体として不明瞭、6世紀末~7世紀初頭には宮川右岸と、時代を追うごとに首長墳の築造地が南へ移動しく様子が読み取れます。
著者は、南伊勢では5世紀前半の宝塚一号墳以降、大型で定型的な前方後円墳が築かれることはなくなり、6世紀前後の前方後円墳を安定して築造し続けた北伊勢と対照的として、ここに地域的独立勢力の解体を見、ヤマト王権による直接的な把握が推し進められた結果と考えることができるかもしれない、と岡田精司氏の見解を首肯して本章を結びます。
(つづく)
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