●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神②
著者は、戦後の諸研究において天皇家と太陽信仰の結びつきを6世紀後半以降とする、つまり新しく考えようとする傾向があることに対して批判的立場を取り、大王家の祖霊・守護神の信仰が簡単に変化することはないとした上で、大王が太陽神の子孫である、つまり太陽霊が古くから大王家の守護霊であったことの証拠を『古事記』の歌謡にある「比能美古(=日の御子)」に見い出し、少なくとも5世紀代、応神天皇以降の河内王朝における大王が太陽神の子として認知されていたと説きます。
そしてその太陽霊を祀る恒常的な祭場として、古くからあった難波の浜のほかに河内国高安郡にある「天照大神高座神社二座」をあげます。社名から天照大神が祭神であることが明らかなこと、高座神が従五位以上の神階を得る一方で、天照大神は伊勢神宮や日前神宮と同様に神階記事が見えないこと、などからこの付近に大王家の古い太陽神祭場があったとします。ただしこれについては、大和書房創業者で古代史研究家でもある大和岩雄氏は、『延喜式』神名帳に「元号春日戸神」とあることに全く触れていないので賛同できないと主張します。
天照大神高座神社二座と難波津の祭場との関係としては、もともと難波の浜で太陽神が祀られていたが、5世紀中葉以降に宮都を大和に移してからは一代一度の就任儀礼である八十嶋祭のみを難波津で行い、平常の祭祀は都により近い高安山麓で行われるようになったとします。
その後、5世紀後半になって大王権の発展に伴って大王家の守護霊=太陽神を国家的祭祀の対象に昇格させようとする動きが現れます。新羅では5世紀末から6世紀初めに“神宮”の名称が国王の祖廟の称として使われるようになり、“大王”の称号も朝鮮三国で使われ始める中、朝鮮半島に対して大王の権威を高める必要が生じたこと、また国内では、雄略天皇が三輪山の神体である蛇を捕えさせたり、葛城山の一言主神と一緒に狩りをするなど、中央権力による地方神祭祀に対する干渉という形で信仰の変革の動きが見られる中、この前後に“神社”が成立したと考えられること、臣系の有力豪族である葛城氏の滅亡によって旧来の臣系豪族群による大王への制約がゆるんだこと、などを背景として大王家の守護神の祭場が河内から伊勢に移されることになります。
著者は470年代の雄略朝に伊勢神宮の創建年代を求められることは考古学資料からも裏付けられるとして、第1に祭祀遺跡をあげます。外宮神域内から子持勾玉が、内宮神域では荒祭宮北方から大量の滑石製臼玉が出土しており、いずれも5世紀代のものとされ、度会氏の祭場であった外宮はもとより、内宮においても5世紀代に太陽神祭場が存在した証拠になるとします。第2には、内宮のご神体を納める「御船代」の形態が古墳時代中期に盛行した長持型石棺にそっくりであることから、内宮の成立を古墳時代中期と推定できるとします。
さて次に、『日本書紀』で天照大神の別名とする大日孁貴(おおひるめのむち)、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)、大日孁尊(おおひるめのみこと)の「ヒルメ」の語義を、日の妻=太陽神の巫女の神格化したもの、として巫女が本来仕えていた太陽神が何であったかを考えようとします。日本では巫女が神格化する例は決して珍しくないとして、八幡、住吉、枚岡などの大社では祭神の中に併記される「姫神」は巫女神と考えられています。ところが、天照大神を巫女の神格化と見た場合、その巫女が仕えた古い神格が全く不明なのです。これに対しては以下の考察から、内宮の荒祭宮こそが古い太陽神の神殿であり、最初に河内から伊勢に移されたのはこの神であったとします。
神宮第一の別宮として別格の扱いを受ける荒祭宮は内宮の西の正殿の真北に位置することから、内宮正殿と荒祭宮は一般の神社建築の拝殿と本殿の関係にあること、その荒祭宮の神域には5世紀からの祭場があったと想定されていること、度会氏の祖先が神宮遷座にあたって荒御魂宮地の造営に奉仕したと『大同本記』逸文に記されること、などから皇大神宮たる内宮正殿よりも先に荒祭宮(の前身)が設けられたと考えられます。
さらに神宮で古くから行われている年中三節祭(神嘗祭と6月・12月の月次祭)において、斎王は最初に玉串を奉奠したあとは内宮内院にある「斎内親王侍殿」に籠って神事には参加せず、また神事の最後に行われる荒祭宮に対する遥拝も行いません。このことは、斎王がヒルメの神であると考えれば、太陽神に玉串奉奠をしたあとは拝まれる立場として遥拝をしない、と理解ができます。そして『皇大神宮儀式帳』に、内宮正殿内の御船代が安置される御床に各一具の様々な御被(おんふすま)とともに二基の御枕が並べられる、との記載があることなどをもとに、もともと神事の最中に斎王が籠った場所は現在の内宮正殿にあたる場所で、そこで荒祭宮の太陽神と斎王の聖婚儀礼が行われたのだとします。これはまさに斎王がヒルメ(=日の妻)であることを端的に表していると思います。
また著者は、年中三節祭で行われる由貴大御饌(ゆきのおおみけ)の供進や20年ごとに行われる社殿造営の方法や手順の考察から、内宮正殿の床下にある「心御柱」が太陽神のヒモロギであるとします。しかし先に見たように正殿の前身が斎王の籠りと聖婚の場であったとすれば、その床下にヒモロギが立てられているのはおかしいので、もともとは荒祭宮の床下にすえられていたものが、巫女神の神格化と太陽神の地位を入れ替えるという祭神の変革によってヒルメの神が主神として扱われるようになったときに正殿の下に移されたのだろうとします。
(つづく)
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著者は、戦後の諸研究において天皇家と太陽信仰の結びつきを6世紀後半以降とする、つまり新しく考えようとする傾向があることに対して批判的立場を取り、大王家の祖霊・守護神の信仰が簡単に変化することはないとした上で、大王が太陽神の子孫である、つまり太陽霊が古くから大王家の守護霊であったことの証拠を『古事記』の歌謡にある「比能美古(=日の御子)」に見い出し、少なくとも5世紀代、応神天皇以降の河内王朝における大王が太陽神の子として認知されていたと説きます。
そしてその太陽霊を祀る恒常的な祭場として、古くからあった難波の浜のほかに河内国高安郡にある「天照大神高座神社二座」をあげます。社名から天照大神が祭神であることが明らかなこと、高座神が従五位以上の神階を得る一方で、天照大神は伊勢神宮や日前神宮と同様に神階記事が見えないこと、などからこの付近に大王家の古い太陽神祭場があったとします。ただしこれについては、大和書房創業者で古代史研究家でもある大和岩雄氏は、『延喜式』神名帳に「元号春日戸神」とあることに全く触れていないので賛同できないと主張します。
天照大神高座神社二座と難波津の祭場との関係としては、もともと難波の浜で太陽神が祀られていたが、5世紀中葉以降に宮都を大和に移してからは一代一度の就任儀礼である八十嶋祭のみを難波津で行い、平常の祭祀は都により近い高安山麓で行われるようになったとします。
その後、5世紀後半になって大王権の発展に伴って大王家の守護霊=太陽神を国家的祭祀の対象に昇格させようとする動きが現れます。新羅では5世紀末から6世紀初めに“神宮”の名称が国王の祖廟の称として使われるようになり、“大王”の称号も朝鮮三国で使われ始める中、朝鮮半島に対して大王の権威を高める必要が生じたこと、また国内では、雄略天皇が三輪山の神体である蛇を捕えさせたり、葛城山の一言主神と一緒に狩りをするなど、中央権力による地方神祭祀に対する干渉という形で信仰の変革の動きが見られる中、この前後に“神社”が成立したと考えられること、臣系の有力豪族である葛城氏の滅亡によって旧来の臣系豪族群による大王への制約がゆるんだこと、などを背景として大王家の守護神の祭場が河内から伊勢に移されることになります。
著者は470年代の雄略朝に伊勢神宮の創建年代を求められることは考古学資料からも裏付けられるとして、第1に祭祀遺跡をあげます。外宮神域内から子持勾玉が、内宮神域では荒祭宮北方から大量の滑石製臼玉が出土しており、いずれも5世紀代のものとされ、度会氏の祭場であった外宮はもとより、内宮においても5世紀代に太陽神祭場が存在した証拠になるとします。第2には、内宮のご神体を納める「御船代」の形態が古墳時代中期に盛行した長持型石棺にそっくりであることから、内宮の成立を古墳時代中期と推定できるとします。
さて次に、『日本書紀』で天照大神の別名とする大日孁貴(おおひるめのむち)、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)、大日孁尊(おおひるめのみこと)の「ヒルメ」の語義を、日の妻=太陽神の巫女の神格化したもの、として巫女が本来仕えていた太陽神が何であったかを考えようとします。日本では巫女が神格化する例は決して珍しくないとして、八幡、住吉、枚岡などの大社では祭神の中に併記される「姫神」は巫女神と考えられています。ところが、天照大神を巫女の神格化と見た場合、その巫女が仕えた古い神格が全く不明なのです。これに対しては以下の考察から、内宮の荒祭宮こそが古い太陽神の神殿であり、最初に河内から伊勢に移されたのはこの神であったとします。
神宮第一の別宮として別格の扱いを受ける荒祭宮は内宮の西の正殿の真北に位置することから、内宮正殿と荒祭宮は一般の神社建築の拝殿と本殿の関係にあること、その荒祭宮の神域には5世紀からの祭場があったと想定されていること、度会氏の祖先が神宮遷座にあたって荒御魂宮地の造営に奉仕したと『大同本記』逸文に記されること、などから皇大神宮たる内宮正殿よりも先に荒祭宮(の前身)が設けられたと考えられます。
さらに神宮で古くから行われている年中三節祭(神嘗祭と6月・12月の月次祭)において、斎王は最初に玉串を奉奠したあとは内宮内院にある「斎内親王侍殿」に籠って神事には参加せず、また神事の最後に行われる荒祭宮に対する遥拝も行いません。このことは、斎王がヒルメの神であると考えれば、太陽神に玉串奉奠をしたあとは拝まれる立場として遥拝をしない、と理解ができます。そして『皇大神宮儀式帳』に、内宮正殿内の御船代が安置される御床に各一具の様々な御被(おんふすま)とともに二基の御枕が並べられる、との記載があることなどをもとに、もともと神事の最中に斎王が籠った場所は現在の内宮正殿にあたる場所で、そこで荒祭宮の太陽神と斎王の聖婚儀礼が行われたのだとします。これはまさに斎王がヒルメ(=日の妻)であることを端的に表していると思います。
また著者は、年中三節祭で行われる由貴大御饌(ゆきのおおみけ)の供進や20年ごとに行われる社殿造営の方法や手順の考察から、内宮正殿の床下にある「心御柱」が太陽神のヒモロギであるとします。しかし先に見たように正殿の前身が斎王の籠りと聖婚の場であったとすれば、その床下にヒモロギが立てられているのはおかしいので、もともとは荒祭宮の床下にすえられていたものが、巫女神の神格化と太陽神の地位を入れ替えるという祭神の変革によってヒルメの神が主神として扱われるようになったときに正殿の下に移されたのだろうとします。
(つづく)
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