●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る③
ゲーター祭りの舞台である鳥羽市の神島に鎮座する八代神社には、画文帯神獣鏡1面、四神二獣鏡1面、頭椎大刀2組、金銅製ミニチュア紡績具など、「神島神宝」とも称される多数の遺物が所蔵されています。
画文帯神獣鏡は三重県明和町の神前山一号墳に3面、亀山市の井田川茶臼山古墳に2面、岡崎市の亀山二号墳に1面、計6面を含む24面の同型鏡があり、伊勢湾岸に多く分布することに何らかの政治的意図が読み取られてきました。これらの古墳の築造時期は5世紀後半から6世紀前葉です。
頭椎大刀については伊勢から渥美半島を経て駿河に至る地域に集中的に分布していることから、東国へのルート上の諸豪族へ配布されたものとする岩原説が紹介されます。また、斎宮に程近い坂本一号墳から細かい形式差があるものの同様の頭椎大刀が出土しており、7世紀代の築造で地域の首長墳と考えられる当古墳と八代神社所蔵品は頭椎大刀を介して一定の照応関係にあるとします。
また、八代神社所蔵品と伊勢神宮を媒介するものは神衣祭であるとして、絹の衣である和妙は三河国によって貢納された「赤引糸」が用いられていることから、赤引糸を伊勢に送るルート上に神島があるという観点でミニチュア紡績具を見るべきとする金子裕之氏の論を紹介します。さらに、秡川下流域となる多気郡には神衣の製作を担当する神服部や神麻続部の本貫地があり、この地は斎宮を臨み、坂本一号墳や神前山一号墳と同じ秡川流域で、麻続氏と関係の深い地域であるとします。
以上のように、神島の八代神社所蔵品は頭椎大刀や画文帯神獣鏡、紡績具を介して秡川流域、つまり麻続氏との関係が見て取れるとともに、この地は斎宮が造られる地でもあり、伊勢神宮とも極めて密接な関係を有しています。
神島が伊勢湾口に位置し、ヤマト王権の東国進出に伴って海上交通の安全を期すために神宝類が奉献されたとする主張が根強くありますが、伊勢神宮のある伊勢市域には古墳時代に機能した有力な港湾・湊に相当する有力な遺跡が確認されていません。つまり、現況の考古学的成果からは伊勢神宮の成立理由として伊勢を東国経営の根拠地に擬する考え方は導き出せないとします。『万葉集』に残された大宝2年(702年)の持統太上天皇による三河行幸の歌や『伊勢国風土記』逸文などによると、伊勢から三河に渡る際に使われた天然の良港として現在の松阪市にあったとされる的潟(的形)が注目されます。この的潟が古墳時代に遡って機能していた可能性を指摘した和田萃氏の論を卓見と評価します。
続いて内宮にある荒祭宮の立地について、伊賀市城之越遺跡など古墳時代祭祀場や三輪山麓の大神神社の立地との共通性から、荒祭宮の立地が古墳時代祭祀場の占地として典型的であり、それが汎国家的レベルで決定された可能性を示唆します。荒祭宮は内宮諸施設のなかで中心的位置を占め、正殿は荒祭宮を避けるように形成され、その北方からは相当数の滑石製模造品が見つかっていることなどから、荒祭宮は古墳時代祭祀場を踏襲した可能性が提起されます。
著者のカウントによると、内宮神域から出土した滑石製臼玉の総数は400点近くにのぼり、これらのうち荒祭宮北方出土のものは5世紀に遡るものが含まれるとします。また、出土地点の広汎さなどは古墳時代の祭祀場がかなり大規模であったことを示しています。
最後に高倉山古墳について。群構成をせずに単独墳として存在する高倉山古墳に大規模な横穴式石室への拘りが存在したことは大王家の墓制が横穴式石室であったことと関係すると見ます。また、神宮神宝にもある玉纏大刀の付属装飾品である三輪玉が出土していることなども考え合わせると、当古墳の築造は在地の中だけでは完結し得ない。さらにこの地域のそれ以前の古墳には高倉山古墳に比肩する有力なものが想定できないことから、南伊勢全体から推載された被葬者であったことを窺わせる。著者は高倉山古墳をこのように評価しています。
土器生産や機織りに関する論考を割愛しましたが、著者は5世紀以降には南伊勢の有力古墳は徐々に伊勢神宮寄りに占地を移す中、旧神郡の地域が土師器生産、機織り、窯業生産など地域ごとに役割分担をして全体で神宮を支える構造にあったとします。そして現在の考古学の知見では、古墳時代中期に遡る祭祀遺跡で内宮域のものを超える存在はなく、この遺跡の形成主体を在地勢力によるものと考えると、それに見合うだけの勢力が明確でないとして、ヤマト王権が宮川流域以北の多気郡域を拠点とする在地勢力の協力のもとでこの内宮の地に「原・伊勢神宮」ともいうべき祭祀施設を整備し、その年代は5世紀後半頃であった、という推定をします。そして6世紀末頃に在地勢力の中から度会氏がヤマト王権と個別的な関係を結んで在地内の勢力図に大きな変化が生じ、度会氏による神宮への関与が大きくなり、高倉山古墳を築くまでになったと考えます。しかし、高倉山古墳に続くべき同一系譜の有力墳が築造されなかったことから、その関係性は長く続かず、麻続氏が一時的に勢力を増大するものの、最終的には荒木田氏が台頭することになった、とします。
以上、3回にわたって穂積氏の著書を見てきました。物的証拠を以って語る考古学からのアプローチはそこに文献史学を照応させることでより具体性を持たせることができるため、たいへん説得力ある論考になることが実感できました。文献史学の立場からは岡田精司氏が自説の根拠として考古資料を積極的に取り入れることで説得力を高めていましたが、穂積氏の論が神宮成立を5世紀後半とする岡田説を支持する形になっていることはある意味で当然なのかもわかりません。
次は同じ考古学からのアプローチを試みながら、穂積氏とは違う結果に行きついた論考を確認してみます。
(つづく)
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ゲーター祭りの舞台である鳥羽市の神島に鎮座する八代神社には、画文帯神獣鏡1面、四神二獣鏡1面、頭椎大刀2組、金銅製ミニチュア紡績具など、「神島神宝」とも称される多数の遺物が所蔵されています。
画文帯神獣鏡は三重県明和町の神前山一号墳に3面、亀山市の井田川茶臼山古墳に2面、岡崎市の亀山二号墳に1面、計6面を含む24面の同型鏡があり、伊勢湾岸に多く分布することに何らかの政治的意図が読み取られてきました。これらの古墳の築造時期は5世紀後半から6世紀前葉です。
頭椎大刀については伊勢から渥美半島を経て駿河に至る地域に集中的に分布していることから、東国へのルート上の諸豪族へ配布されたものとする岩原説が紹介されます。また、斎宮に程近い坂本一号墳から細かい形式差があるものの同様の頭椎大刀が出土しており、7世紀代の築造で地域の首長墳と考えられる当古墳と八代神社所蔵品は頭椎大刀を介して一定の照応関係にあるとします。
また、八代神社所蔵品と伊勢神宮を媒介するものは神衣祭であるとして、絹の衣である和妙は三河国によって貢納された「赤引糸」が用いられていることから、赤引糸を伊勢に送るルート上に神島があるという観点でミニチュア紡績具を見るべきとする金子裕之氏の論を紹介します。さらに、秡川下流域となる多気郡には神衣の製作を担当する神服部や神麻続部の本貫地があり、この地は斎宮を臨み、坂本一号墳や神前山一号墳と同じ秡川流域で、麻続氏と関係の深い地域であるとします。
以上のように、神島の八代神社所蔵品は頭椎大刀や画文帯神獣鏡、紡績具を介して秡川流域、つまり麻続氏との関係が見て取れるとともに、この地は斎宮が造られる地でもあり、伊勢神宮とも極めて密接な関係を有しています。
神島が伊勢湾口に位置し、ヤマト王権の東国進出に伴って海上交通の安全を期すために神宝類が奉献されたとする主張が根強くありますが、伊勢神宮のある伊勢市域には古墳時代に機能した有力な港湾・湊に相当する有力な遺跡が確認されていません。つまり、現況の考古学的成果からは伊勢神宮の成立理由として伊勢を東国経営の根拠地に擬する考え方は導き出せないとします。『万葉集』に残された大宝2年(702年)の持統太上天皇による三河行幸の歌や『伊勢国風土記』逸文などによると、伊勢から三河に渡る際に使われた天然の良港として現在の松阪市にあったとされる的潟(的形)が注目されます。この的潟が古墳時代に遡って機能していた可能性を指摘した和田萃氏の論を卓見と評価します。
続いて内宮にある荒祭宮の立地について、伊賀市城之越遺跡など古墳時代祭祀場や三輪山麓の大神神社の立地との共通性から、荒祭宮の立地が古墳時代祭祀場の占地として典型的であり、それが汎国家的レベルで決定された可能性を示唆します。荒祭宮は内宮諸施設のなかで中心的位置を占め、正殿は荒祭宮を避けるように形成され、その北方からは相当数の滑石製模造品が見つかっていることなどから、荒祭宮は古墳時代祭祀場を踏襲した可能性が提起されます。
著者のカウントによると、内宮神域から出土した滑石製臼玉の総数は400点近くにのぼり、これらのうち荒祭宮北方出土のものは5世紀に遡るものが含まれるとします。また、出土地点の広汎さなどは古墳時代の祭祀場がかなり大規模であったことを示しています。
最後に高倉山古墳について。群構成をせずに単独墳として存在する高倉山古墳に大規模な横穴式石室への拘りが存在したことは大王家の墓制が横穴式石室であったことと関係すると見ます。また、神宮神宝にもある玉纏大刀の付属装飾品である三輪玉が出土していることなども考え合わせると、当古墳の築造は在地の中だけでは完結し得ない。さらにこの地域のそれ以前の古墳には高倉山古墳に比肩する有力なものが想定できないことから、南伊勢全体から推載された被葬者であったことを窺わせる。著者は高倉山古墳をこのように評価しています。
土器生産や機織りに関する論考を割愛しましたが、著者は5世紀以降には南伊勢の有力古墳は徐々に伊勢神宮寄りに占地を移す中、旧神郡の地域が土師器生産、機織り、窯業生産など地域ごとに役割分担をして全体で神宮を支える構造にあったとします。そして現在の考古学の知見では、古墳時代中期に遡る祭祀遺跡で内宮域のものを超える存在はなく、この遺跡の形成主体を在地勢力によるものと考えると、それに見合うだけの勢力が明確でないとして、ヤマト王権が宮川流域以北の多気郡域を拠点とする在地勢力の協力のもとでこの内宮の地に「原・伊勢神宮」ともいうべき祭祀施設を整備し、その年代は5世紀後半頃であった、という推定をします。そして6世紀末頃に在地勢力の中から度会氏がヤマト王権と個別的な関係を結んで在地内の勢力図に大きな変化が生じ、度会氏による神宮への関与が大きくなり、高倉山古墳を築くまでになったと考えます。しかし、高倉山古墳に続くべき同一系譜の有力墳が築造されなかったことから、その関係性は長く続かず、麻続氏が一時的に勢力を増大するものの、最終的には荒木田氏が台頭することになった、とします。
以上、3回にわたって穂積氏の著書を見てきました。物的証拠を以って語る考古学からのアプローチはそこに文献史学を照応させることでより具体性を持たせることができるため、たいへん説得力ある論考になることが実感できました。文献史学の立場からは岡田精司氏が自説の根拠として考古資料を積極的に取り入れることで説得力を高めていましたが、穂積氏の論が神宮成立を5世紀後半とする岡田説を支持する形になっていることはある意味で当然なのかもわかりません。
次は同じ考古学からのアプローチを試みながら、穂積氏とは違う結果に行きついた論考を確認してみます。
(つづく)
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