古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

葛城一言主神社

2016年10月16日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、葛木神社めぐりの最後は奈良県御所市森脇にある葛城一言主神社。葛城山麓バイパスの少し西側、まさに葛城山の麓にある。すなおにバイパスを北上して行けばよかったのだが、地図をみるとバイパスを左折する交差点がなかったのでカーナビを頼りに村の中の細い道を進んだところ、神社に通じる参道入り口まではいくのだけど、そこには一の鳥居が立っていた。鳥居の下は階段と燈籠のために車は通れない。鳥居の横には軽四なら通れそうな細い道。両側の石壁や鳥居の柱に車をこすってしまうリスクを取れずに右往左往。あたりを少し回っても車を停めておく場所もなく、やむを得ずに鳥居横の道へ突入し、両側ギリギリセーフで無事に通過。帰りにわかったことだが、バイパスを北上してきた場合は、いったん右折してぐるっと回り込んでバイパスの下をくぐれば参道に出ることができたのだ。

この神社、祭神は一言主大神と幼武尊(雄略天皇)であるが、以下は、葛城一言主神社パンフレット「いちごんさん」より、と書かれた御所市の観光ホームページから。

本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。


二の鳥居。冒頭に書いたように一の鳥居は写真を撮る余裕がなかったため、二の鳥居からスタート。


参道脇の蜘蛛塚。神武天皇が葛城の高尾張邑の土蜘蛛を倒して埋めた場所と伝わる。


この階段を上がったところに拝殿。


拝殿。



拝殿前のイチョウの古木(乳銀杏)。樹齢1200年ともいわれ神木とされている。倒伏寸前のため強風の際には近づかないよう注意書きがされていた。たしかにこのつっかえ棒をはずしたらすぐにでも倒れそう。


祭神と由緒の説明。



古事記によれば一言主神は悪事も善事もひと言で言い放つ神。それが現在、ひと言なら願い事を叶えてくれる神ということになっている。昔の人は都合よく解釈したもんだ。





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葛木御歳神社

2016年10月15日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、高鴨神社、鴨都波神社についで鴨三社の3番目、奈良県御所市東持田にある葛木御歳神社。国道24号線を少し東に入ったところ。御神体である御歳山の麓にひっそりと佇む小さな神社。

主祭神として御歳神、相殿神として大年神と高照姫命の3柱を祀る。
神社サイトにある由緒は以下の通り。

御祭神はご本社の背後の美しい御歳山に お鎮まりになって、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。
古くは神奈備(かむなび-神の鎮座する山や森)の御歳山に自然石の磐座(いわくら)をたて、神を迎えてお祀りするという古式の形式だったと思われます。
現在の本殿は、春日大社の本殿第一殿を移築したものであります。
御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはそのみのりをさす古語で、稲の神、五穀豊穣をもたらす神として古くから尊崇されています。
また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、事を始める時にお祈りするとよいとされています。
古来より朝廷で 豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。
古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国で本社だけが最高の正二位の神位を授かる程篤く尊崇され、後に従一位に昇格され、延喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社であります。
また、水害の度に奉幣された記録もあり、風雨を司る神としても神力を示され、尊信されたものと思われます。 
私たちが正月に祭り親しんでいる年神様(としがみさま)は、この大年神、御歳神、若年神といわれています。
鏡餅は御歳神へのお供え物であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを 「御歳魂(おとしだま)」と呼んでいたものが今の「お年玉」の起源であります。
本社は、鴨氏の名社で、御所市にある高鴨神社(上鴨-かみがも社)、鴨都波神社(下鴨-しもがも社)とともに中鴨社(なかがもしゃ)として親しまれています。
古事記には須佐之男命(スサノヲノミコト)と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されています。
相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神であります。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています。



一の鳥居。

この鳥居、参道の端っこに建てられている上に、正面に電柱や古木があって実際は使われていない。人も車も鳥居の横を通らなければならない。

二の鳥居。


拝殿。


本殿。


祭神と由緒。


一の鳥居の横を過ぎたところにある駐車場からの眺め。

右が葛城山、左が金剛山で、その間が水越峠。葛城は意外にも交通の要衝である。この水越峠を越えれば河内に出る。また、この御歳神社をさらに南下して風の森峠を越えれば紀ノ川に出る。紀ノ川を下れば大阪湾から瀬戸内海へ、逆に紀ノ川を遡れば吉野へ出て、吉野からは熊野にも、伊勢にも通じる。この地を押さえて古代の一時期に栄えたのが葛城氏だった。



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鴨都波神社

2016年10月14日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、高鴨神社に次いで奈良県御所市宮前町にある鴨都波神社。高天彦神社、高鴨神社は標高の高い山麓にあったが、ここは山を下って奈良盆地を縦貫する国道24号線沿いにある。

祭神は積羽八重事代主命と下照比売命。神社のサイトにある説明をそのまま記載する。

 鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
 おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。
 また、一般的には「えびす神」という呼称で、商売繁盛の神様としても有名です。
 そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。
 当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。
 彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。


この説明にあるように、この神社は弥生時代の遺跡の上に乗っかっている。この鴨都波遺跡は古代の葛城を語るうえでたいへん重要な遺跡であるが、詳しくは神武東征のくだりであらためて書きたい。
国道24号線を南下し近鉄御所駅を少し行ったところ、神社の手前の小さな交差点を左折、神社をぐるっと回り込んだところに駐車場がある。現在のメインストリートである国道からみると裏通りに神社の入り口がある。

一の鳥居(たぶん)。
駐車場からそのまま神社に入るとこの鳥居はくぐらない。それどころか鳥居の存在もわからない。神社を背にして参道らしき道を少し行ったところで鳥居発見。鳥居の奥に見える緑が本殿のあるところ。


拝殿。


拝殿裏手に本殿。


祭神と由緒。


高鴨神社と比べると小ぶりで寂れた感もあるが、こちらの方が歴史を感じた。



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高鴨神社

2016年10月13日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、奈良県御所市鴨神にある高鴨神社へ。葛城山麓バイパスを南下し国道24号線に合流するために山を下る少し手前。前回の高天彦神社よりも標高は低いが金剛山東麓から奈良盆地を見下ろす眺望はなかなかのもの。

主祭神は、阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)。ほかに、事代主命、阿治須岐速雄命、下照姫命、天稚彦命を配祀する。以下に公式サイトにある由緒をそのまま記載。

 この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
 弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
 このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
 『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
 こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。
 御本殿には味耜高彦根神を主神とし、その前に下照比売神と天稚命の二神が配祀され、西神社には母神の多紀理毘売(たぎりびめ)命が祀られています。古くは味耜高彦根神と下照比売神の二柱をまつり、後に神話の影響を受けて下照比売の夫とされた天稚彦、また母神とされた多紀理毘売を加え、四柱の御祭神となったものと考えられます。
 現在の御本殿は室町時代の三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されています。なお東神社は皇大神・住吉神・春日神をお祀りしています。


後半部分はまるで歴史家が自説を唱えているような由緒である。私はこの由緒とは違う考えであるが、それは別の機会に書きたい。

一の鳥居。緑の木々に朱が鮮やかに映える。


祭神の説明。背景の写真が何とも厳か。


一の鳥居をくぐった左手、池に浮かぶ能舞台。


参道の先に二の鳥居。


拝殿。


拝殿裏手に本殿。


一の鳥居の横には神仏習合の名残りの梵鐘。鳴らすことがあるのだろうか。



このあと紹介する鴨都波神社、葛木御歳神社とあわせて鴨三社といい、高鴨神社を上鴨社(高鴨社)、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼んでいる。





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高天彦神社

2016年10月12日 | 神社・仏閣
学生時代から何十回と行ったことのある(正しくは車で通りすぎただけ)の奈良県の葛城地方。奥さんの高校の同窓会が開かれた2016年6月18日、車で送っていったついでに神社・古墳めぐりをしてきた。高天彦神社、高鴨神社鴨都波神社葛木御歳神社葛城一言主神社宮山古墳(既出)、孝昭天皇陵、孝安天皇陵。順に紹介していきます。

今回は奈良県御所市北窪にある高天彦神社(たかまひこじんじゃ)。
Wikipediaによると、式内社(名神大社)で、旧社格は村社。祭神は、高皇産霊神、市杵嶋姫命、菅原道真公。『延喜式』神名帳での祭神は1座。元々は当地の地主神の「高天彦」を祀ったものと推測される。社名・神名の「高天(たかま)」は一帯の地名でもあり、神話に見える高天原の伝承地とする説が古くからあるほか、高皇産霊神の神名の転訛が由来とする説、高皇産霊神の別名が「高天彦神」とする説、「高間」すなわち金剛山中腹の平地を意味するとする説がある。『万葉集』では、「葛城の高間」と詠まれた歌が知られる(巻7 1337番)。『延喜式』神名帳では宇智郡に高天岸野神社・高天山佐太雄神社が見え、いずれも五條市の金剛山中腹の神社に比定されることから、「高天彦神」を金剛山の神霊そのものとする説もある。

参道。車で登るかなり急な坂の脇にさらに急な坂道がある。


参道を登り切ったところ。ここまで車で来れるのだけど、最後はこの木立の中を歩くのがいい。


社殿。参った時にはこの社殿後背の白雲岳(白雲峰、標高694メートル)が御神体だとは知らなかった。
 


高天原。金剛山地中腹のこのあたり一帯は奈良盆地の南部、葛城地方を見下ろす所。太陽が近くて神々しい。
 
 


「葛城の高間」と詠まれた万葉集の巻7・1337番。


車で登るに連れて太陽に近づいていくのがわかる。本殿前の並木道の手前の駐車場に車を停めて参拝と周辺の散策。山沿いのわずかな平地、高天原があったと言われたあたりを、手に届きそうな太陽の光を背に受けて歩いていると、天から神々が降りてきてこの地に住んで大和の国を治めたんだ、と信じてしまいそうになる。





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◆日向と丹後のつながり

2016年10月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 中国江南から大陸を離れて東シナ海に漕ぎ出し、黒潮に乗って南九州に漂着、製鉄や稲作などの高い技術力を持って国土開発を行い、土着の民と融合して形成された国が狗奴国であることは「中国江南とつながる南九州」のところで書いた。また、詳しくは後述するが、記紀で高天原と記される場所は大陸の江南であり、そこから日向に降臨した(渡来した)のが天照大神系列の天孫族である、ということにも触れておいた。その考えのもとで、次に日向と丹後のつながりも見ておく。日向を介して江南と丹後がつながっていたことの傍証になると思うからである。

 京都府福知山市に広峯古墳群がある。福知山の市街地を一望のもとに見渡すことのできる丘に古墳時代初頭(西暦300年頃)から中期(550年頃)にかけて約40基の古墳が造られた丹波地方屈指の古墳群である。丘陵の最高所に築かれた15号墳は全長40m、後円部径25mの前方後円墳で4世紀末のものと推定される。この古墳から「景初四年」銘入り斜縁盤龍鏡(しゃえんばんりゅうきょう)が見つかった。「景初」は三年までしかないため「四年」の意味はわからないが、まさに卑弥呼の時代の鏡であることには違いない。そしてこの同笵鏡が宮崎県児湯郡高鍋町の持田古墳群(4~6世紀)からも見つかった。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人□之位至三公母人□之保子宜孫寿如金石兮(□は言べんに名という字)」という銘文から製作者が陳という人物であることがわかる。この陳なる人物は江南人であるらしい。
 このほかにも丹後と日向のつながりを想定できることとして、双方から準構造船の形をした舟形埴輪が出土していること、日向の海幸山幸伝説と丹後の浦島太郎伝説が類似していること、ともに徐福上陸伝説があること、などがあげられる。

 ところで、これまで私は「丹後」という言い方をしているが、これは現代の丹後地方を指すのではなく、律令制下における丹波国・丹後国・但馬国を合わせた地域(律令以前はこの3つを合わせて「丹波」と呼んだ)に、さらに福井県の若狭国も加えた広い地域を指している。若狭を加えるのは丹後地方に隣接することから文化的なつながりがあっただろうと考えるからである。丹後と同様に若狭にも四隅突出型墳丘墓が存在していない。
 歴史学者の門脇禎二が1983年、現在の京丹後市の峰山盆地を中心とした地域に弥生時代から古墳時代にかけて地域国家が存在したという、いわゆる「丹後王国論」を提唱した。現在では古代丹波歴史研究所の伴とし子氏が「大丹波王国」として積極的に発信しておられる。私も基本的に同様の考えであるが、その地域的広がりは上述の通り、「丹波+丹後+但馬+若狭」であったとしたい。ただし呼称については、これらの地域の中心地として丹後を位置づけていることもあり、これまで通り「丹後」としておきたい。



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◆丹後と中国江南のつながり

2016年10月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 記紀の出雲神話は出雲と越の関係を示唆する一方で出雲と越の間にある丹後には全く触れていないこと、山陰や越に多数確認されている四隅突出型墳丘墓が丹後にないこと、などから、丹後は出雲・越とは一線を画す別の集団が支配する国であったと考え、中国の江南方面から渡来した集団が形成した国ではないかと書いた。丹後と江南のつながりを示す痕跡はないものかと調べてみたところ、大浦半島の西端、京都府舞鶴市千歳にある浦入(うらにゅう)遺跡で発見された 「けつ状耳飾り(※)」と呼ばれる大型の土製耳飾りがあることがわかった。

※「けつ」は王へんに夬と書く。中国の河姆渡文化や紅山(こうざん)文化などでみられる玉器のことで、この玉器の「けつ」の形に似ていることから「けつ状耳飾り」と名付けられた。

 浦入遺跡は縄文時代から平安時代にわたる複合遺跡で、集落遺構や製塩遺構、古墳の存在などが判明しているが、この遺跡を有名にしたのは約5300年前の地層から発見された丸木舟である。全長8m、幅0.8m、舟底の厚さ5cmの大きさで、縄文時代の丸木舟としては最大級で、舞鶴湾の入り口近くで発見されたことから外洋航行に使用されたと推測されている。遺跡からは各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。また、桟橋の杭のあとや錨として使ったと思われる大石など、当時の船着場と思われる遺構も出ており、この遺跡は日本海沿岸の交易拠点の一つであったと考えられる。
 その丸木舟と同時代の遺跡から見つかったのが「けつ状耳飾り」である。直径が6.5cmもあり、中国江南の河姆渡遺跡から出土したものに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性が想定される。河姆渡遺跡は、1973年に上海の南で発見された遺跡で、紀元前5000年(約7000年前)の地層から稲籾とわら束が大量に発見され、分析の結果、この地が稲の栽培源流地であることがほぼ確定したと言われている。この稲が日本の縄文時代や弥生時代の遺跡からも多数確認されており、日本の稲作は江南から伝わるルートがあったことがわかっている。大きな耳飾りをつけた人々が稲作技術を携えて江南を出て、ここ丹後の浦入へやって来たのだ。



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◆出雲による越の支配

2016年10月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 このあたりで出雲が越を支配した状況を見ておきたい。
 素戔嗚尊は朝鮮半島の新羅からやってきた集団のリーダーであり、先に出雲を支配していた集団を退けて出雲の王となった。書紀の八岐大蛇説話はそのことを表している、すなわち「八岐大蛇=出雲の先住支配者集団」と考えていることは何度も触れてきた。一方で、古事記によると「高志之八俣遠呂知」となっていることや、出雲国風土記の意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の地名説話で「大穴持命、越の八口を平げ賜ひて還り坐す」という記載があり、この八口が八岐を想起させることなどから、八岐大蛇は高志(越)の豪族であるという説があることにも触れておいた。私は「八岐大蛇=越」という考えはとらないが、先に書いたとおり、四隅突出墳丘墓の分布と変遷から出雲が越に進出してその独自の墓制を広めた、すなわち出雲が越の地で支配権を確立したと考えている。

 古事記には、八千矛神(やちほこのかみ=大国主神)が高志国の沼河に住む沼河比売(ぬなかわひめ)を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠み、沼河比売はそれに応じる歌を返した結果、翌日の夜に二神は結婚した、ということが書かれている。新潟県糸魚川市に残る伝承においては、大国主神と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神(たけみなかたのかみ)で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったと言われている。姫川の下流にある糸魚川は八千矛神が求婚した沼河比売がいたところである。(沼河比売の名が姫川の名の由来であるという。) 八千矛神すなわち大国主神と越の沼河比売との婚姻の話はまさに出雲の王が越を従えたことを反映した話であろう。
 さらに、新潟県の伝承と似たような話として古事記の葦原中国平定(国譲り)の場面で、大国主神の御子神の一人として建御名方神が登場する。建御名方神は国譲りを拒否して建御雷神と戦ったが敗北を喫し、諏訪湖まで敗走したことが描かれている。出雲と信濃の諏訪地方とのつながりが想定される場面であるが、越の糸魚川から姫川を遡り、糸魚川静岡構造線に沿っていけば諏訪湖に到達する。出雲と越がつながっていたからこそ、諏訪まで行くことができたと言える。
 また、出雲国風土記を見ると、神門郡の条に古志郷の名の由来が記されている。「伊弉冉命の時に日淵川を利用して池を築いた。そのとき、古志国の人々がやってきて堤を造った。そのとき彼らが宿としていた処である。だから古志という。」とある。また、狭結(さよう)駅の由来として「古志国の佐与布(さよう)という人が来て住んでいた。だから、最邑(さよう)という。〔神亀三年に字を狭結と改めた。この人が来て住んだわけは、古志郷の説明に同じ。〕」ともある。古志は越のことを指すのであろう、その越から池の堤を造るために大勢の人がやってきたという。出雲が越を支配下においていたからこそ大勢の人民を土木作業員として連れてくることができたのだと思う。



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◆神原神社古墳

2016年10月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 素戔嗚尊一族の時代の出雲を見てきた。倭国大乱の中、一度は先住支配族に勝利して出雲や越の支配権を握った素戔嗚尊一族であったが、弥生時代の終わりとともに結局は新しい勢力の支配下に入ることとなった様子についても四隅突出型墳丘墓の変遷をもとに書いた。その新勢力とは大和の纏向にある邪馬台国であり、支配される出雲は投馬国である。ちょうど弥生時代から古墳時代に変わるタイミングで支配勢力が変わった。いや、逆に支配勢力が変わったことによって古墳時代に移行したと言うほうが妥当かも知れない。まさに魏志倭人伝に描かれた倭国の時代の話である。

 先に2011年3月の出雲出張の折に荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡に加え、この神原神社古墳を訪れたことを書いた。加茂岩倉遺跡から東南に車で数分のところ、島根県雲南市加茂町大字神原の地、斐伊川水系の赤川の右岸すぐの神原神社の隣に4世紀中頃に築造された一辺が約30mの方墳である神原神社古墳がある。現在の姿は赤川改修のための堤防建設に伴って神原神社と共に移設された後のものであり、石室が復元されて自由に見学ができる。もともとは現在地から北東へ50mほどのところにあり、古墳の上に神原神社が建てられていたために発掘ができなかったが、神社移設の際に発掘調査が行われ、竪穴式石室から魏の「景初三年(239年)」の銘が鋳出された三角縁神獣鏡が見つかったことで名が知れることとなった。この三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡とも言われている鏡であり、景初三年の銘がある三角縁神獣鏡はこれまで大阪の和泉黄金塚古墳とここからしか出土していない。邪馬台国や卑弥呼と出雲のつながりを考えさせる鏡である。また、古墳の上にあった神原神社は出雲国風土記に「神原社」として記されており、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、磐筒男命(いわつつのおのみこと)、磐筒女命(いわつつのめのみこと)の三柱である。大国主命は書紀では素戔嗚尊の子、古事記では六世孫となっている。この古墳の上にあった神原神社が大国主命を祀っているということは、古墳の被葬者が大国主命本人であるか、あるいはそれと近しい素戔嗚尊の後裔と関係する人物であることは否定できないだろう。ましてや、景初三年の三角縁神獣鏡が出たとあっては邪馬台国や卑弥呼との関係を考えざるを得ない。


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◆四隅突出型墳丘墓

2016年10月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここからは、素戔嗚尊をリーダーとする集団が先住支配集団を退けて出雲に進出した様子を四隅突出型墳丘墓を手がかりに追ってみたい。まず四隅突出型墳丘墓について確認しておく。

 四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期以降に安芸や備後、山陰、北陸などの各地方で行われた墓制で、全国で約100基が確認されている。方形墳丘墓の四隅を引っ張って伸ばしたような特異な形をしており、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。弥生時代中期後半に広島県三次市周辺で初めて出現する。最初は規模も小さく突出部もあまり目立たない形であったが、弥生時代後期になると、妻木晩田遺跡を皮切りにして伯耆地方を中心に一気に分布を広げ、規模も少しずつ大きなものが造られるようになり突出部も急速に発達していった。弥生時代後期後半になると分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布範囲を北陸地方にも広げていった。しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまった。
 
四隅突出型墳丘墓の分布 (出雲市教育委員会)

 

四隅突出型墳丘墓の変遷  (鳥取県埋蔵文化財センター)


 四隅突出方墳丘墓の始まりは島根県を流れる江の川の上流、広島県の三次盆地である。書紀の素戔嗚尊の段の一書(第2)には「素戔嗚尊は安芸国の可愛川の上流に降りた」とあり、この可愛川は現在の江の川であるといわれている。一書(第2)に具体的な地名が書かれているわけではないが、この素戔嗚尊降臨の場所と四隅突出方墳丘墓発祥の地がともに江の川上流ということで一致しているのは偶然だろうか。江の川をさらに遡って安芸高田市に入ると、主祭神として素戔嗚尊を、相殿神として脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命を祀っている「清(すが)神社」がある。
 素戔嗚尊をリーダーとする渡来集団は四隅突出型墳丘墓という独自の墓制を持つ集団であった。朝鮮半島から渡来するとき、その先遣隊が石見に漂着、江の川を遡って三次盆地や江の川水系の周辺地に定着して四隅突出型墳丘墓を築いた。その後、集団本体が伯耆に渡来して妻木晩田に落ち着いて勢力基盤を整え、そこでも四隅突出型墳丘墓を築いた。そして東は因幡の青谷上寺地を制圧して支配域に加え、さらに越にも進出してこの墓制を広めた。また西においては、出雲の先住支配者集団であり、北部九州とつながりを持つ青銅祭祀集団を制圧して出雲の王となった。そして斐伊川の下流域左岸にある西谷地域に代々の王の墓として弥生時代最大級規模の四隅突出型墳丘墓を築くまでに勢力を拡大した。西谷地域には6基の四隅突出型墳丘墓を含む32基の墳墓が確認されている西谷墳墓群がある。
 書紀ではこの過程を省略して最初から出雲に降りて出雲や越を支配したように書かれている。その後、四隅突出型墳丘墓は築かれなくなって古墳時代に突入するのであるが、この素戔嗚尊一族も新たな勢力に制圧されたことを意味するのだと思う。
 
 以上のように、四隅突出型墳丘墓の分布や変遷と合わせて考えてみても矛盾なく説明ができていると思う。



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◆素戔嗚尊の出雲進出

2016年10月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八岐大蛇の話からここまで展開してきたが、このあたりで一度整理しておこう。素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団がいて、素戔嗚尊をリーダーとする集団がその先住集団を退けた。それが八岐大蛇の話であった。この先住支配集団は出雲においては荒神谷や加茂岩倉で青銅祭器を埋納した集団であり、因幡においては青谷上寺地の集団であった。そして朝鮮半島から渡来して伯耆の妻木晩田に勢力基盤を築いた集団こそが素戔嗚尊をリーダーとする集団であった。素戔嗚尊は伯耆や出雲の先住支配集団を退けた後、出雲に進出してこの地の雄となった。

 素戔嗚尊は出雲で銅剣や銅矛を祀っていた集団を制圧した。そして荒神谷遺跡のところで見たように、この銅剣・銅矛は北部九州とのつながりを想起させる。子供の頃に学んだ銅剣・銅矛文化圏である。そしてここで思い出すのが素戔嗚尊と天照大神による誓約の話である。天照大神は素戔嗚尊が持つ十拳剣を三段に折って天眞名井の水ですすいで清め、噛んで砕いて息を吹いた。その息から生まれたのが田心姫、湍津姫、市杵嶋姫の三姉妹、すなわち宗像三女神である。天照大神は「三女神は素戔嗚尊の剣から生まれたから素戔嗚尊の子である」と言った。これは宗像三女神が素戔嗚尊グループに属していることの現われであり、北部九州と出雲のつながりを想起させることを先に書いた。宗像一族は北部九州にあって朝鮮半島や大陸との航路を押さえていた海洋族であり、彼らはさらに北部九州と出雲をつなぐ航路をも押さえていたと考えられる。
 魏志倭人伝には不弥国の次に投馬国への道程が記されており、私は不弥国を福岡県飯塚市の立岩遺跡群に比定し、投馬国を出雲に比定している。飯塚市は宗像一族の本拠地である宗像地方にほど近く、また古代においては天然の海洋基地である遠賀潟を抱えていた。もしかすると宗像一族の拠点であり、不弥国王の後裔が宗像氏になっていったのかもしれない。いずれにしても倭人伝に記された不弥国と投馬国のつながりはそのまま宗像と出雲のつながりになり、両者をつなげるものが銅剣や銅矛を祭器とする祭祀であったと考える。
 そしてここに割って入ったのが素戔嗚尊である。素戔嗚尊は不弥国(宗像)とつながっていた投馬国(出雲)を制圧した。これによって素戔嗚尊は結果的に宗像一族をもその影響下に置くことになった。これが天照大神との誓約の結果に反映されているのではないかと考える。

 そして、銅鐸について大きな疑問が残ることになる。銅鐸は近畿を中心に各地に広まり、いわゆる銅鐸文化圏が形成されていったと考えられているが、この考えに基づけば銅鐸が加茂岩倉や荒神谷で出土したということは銅鐸を祭器とする文化が出雲にまで伝わっていたことになる。しかし、同じ青銅器である銅剣・銅矛ついては鉄製の剣や矛を作る能力があったからこそ、それ以前の武器である銅剣・銅矛は自らの意志で祭器として製作・利用し、そして自らの意志で埋納した。とすると、銅鐸についても同じ発想をする方が納得がいく。すなわち、銅鐸は他の地域から与えられたものではなく、自ら製作して祭器としていたのではないか、と。そう考えると、銅鐸は出雲が発祥の地かも知れない、ということになる。記紀で全く触れられることのない銅鐸については別の機会に詳しく考えたいと思う。



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◆妻木晩田と青谷上寺地の盛衰

2016年10月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 妻木晩田遺跡は鳥取県の西側すなわち伯耆国にあり、青谷上寺地遺跡は鳥取県の東側である因幡国にある。鳥取県教育委員会のサイトなどをもとに妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡を確認したが、その発展と衰退を整理すると次のようになる。
 
   

 青谷上寺地遺跡は弥生前期後半に出現し、中期後半に繁栄の時期を迎えるが、後期に入ると倭国大乱に巻き込まれて多数の住民が殺傷され、その後すぐ、古墳時代前期に衰退することとなる。      
 妻木晩田は遅れて弥生中期後半に出現、後期に入って権力者が四隅突出型墳丘墓を築くようになって繁栄を始め、後期後半に青谷上寺地で多数の殺傷があった時期に呼応して最盛期を迎える。しかし集落の最盛期は長く続かず、古墳時代前半には衰退する。
 この2つの遺跡の盛衰の状況は何をあらわしているのだろうか。私は青谷上寺地を滅亡に導いたのが妻木晩田の勢力ではなかったと考えている。出雲(荒神谷や加茂岩倉)や因幡(青谷上寺地)に遅れて弥生時代中期に日本列島へ渡来してきた彼らは両者の勢力が及んでいない伯耆の地(妻木晩田)に勢力基盤を築いた。さらに彼らは渡来当初から戦闘を意識して高台に拠点を築いていったのだ。四隅突出型墳丘墓を築くリーダーは統率力に長けていた。そして弥生時代後期に入り、青谷上寺地は妻木晩田勢力の攻撃を受けて滅亡した。しかし、勝利した妻木晩田の集落がなぜ同時期に衰退することになるのか。これは村が滅亡したのではなく、集団ごと移動したのである。移動した先は出雲であった。



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◆青谷上寺地遺跡

2016年10月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に因幡にある青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。この遺跡も妻木晩田遺跡同様に鳥取県教育委員会のサイトなどを参考にまとめてみる。

 青谷上寺地遺跡は鳥取市青谷町の西側を流れる勝部川と東側を流れる日置川の合流地点南側に位置する弥生時代を中心とする集落遺跡で、国道および県道の建設に先駆けて発掘調査が行われた。典型的な低湿地遺跡であったため遺物の保存状態が良好で「地下の弥生博物館」と呼ばれている。
 弥生時代前期後半、潟湖(ラグーン)のほとりの低湿地帯に集落として姿を現し、中期後半に著しい拡大が見られる。集落の中心域の周囲を排水用の大きな溝で囲み、その溝は徐々に東に拡張されていく。この溝には260cm×70cmという大きな矢板(過去に発掘された弥生時代の板材の中では最大のもの)を数枚並べて杭で固定した護岸施設が設けられていた。弥生後期になると地形の高い範囲を取り囲むように溝をめぐらせて矢板列を幾重にも打ち込み、人々が活動した中心部と水田などの周辺の低地を区画していた。
 遺跡の東側の溝からは100人分をこえる約5300点の人骨が発見されている。それらのうち110点には殺傷痕が認められ、銅鏃がささったままの骨盤や額に刃物の傷をもつ頭蓋骨などがあった。さらに驚くべきことに3人の弥生人の脳が奇跡的に残っていた。これは世界でも6例しかない貴重な資料と言える。
 北陸や近畿、山陽地方の土器が出土、さらに鳥取では産出しないヒスイやサヌカイトなどが出土したことからも広範囲に交流をはかっていたことがわかる。また、500点をこえる鉄製品は中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られ、古代中国の鏡や「貸泉」も出土したことから、日本海を舞台にして中国や朝鮮半島をも含んだ広範囲の交流、交易があったことが伺える。また、海と山に囲まれたこの遺跡は稲作だけでなく、漁撈や狩猟を盛んに行っていたことも様々な道具類や獣骨などの出土物からわかっている。ラグーンのほとりに位置し、天然の良港として漁撈活動や対外交易を行い、航海技術に長けた人々が住んでいたと考えられ、モノや技術が行き交う港湾拠点として機能したと推測されている。
 これほど発展した集落であったが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消すことになった。殺傷痕を持つ多数の人骨が関係しているのかもしれない。

 弥生時代後期における多数の殺傷痕をもった人骨。しかも兵士である男性に限らず、女性や子供にまで及んでいるという。また、そのあとに村が突如として終焉を迎えたという。これは明らかに戦乱による村の滅亡を物語っている。弥生後期といえば魏志倭人伝にある「倭国大乱」と重なる。青谷上寺地は倭国大乱で敗北を喫して滅んだ国、と考えてよいのではないか。



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◆妻木晩田遺跡

2016年10月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 出雲にある荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に続いて、鳥取県(伯耆および因幡)にある2つの遺跡を見てみる。まずは伯耆の妻木晩田(むきばんだ)遺跡について鳥取県教育委員会のサイトなどを参考に確認したい。

 妻木晩田遺跡は中国地方最高峰である大山のふもと、鳥取県西伯郡大山町から米子市淀江町にかけて広がる約170haにもおよぶ国内最大級の弥生集落遺跡で、京阪グループ主導によるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート開発計画に伴う発掘調査が行われた際に発見された。島根半島東側にある美保湾を一望できる標高90m~150mの尾根上に設けられた高地性集落で、竪穴式住居跡が420棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上と他に例を見ない数の建物跡が検出された。さらに四隅突出型墳丘墓13基を含む34基の墳墓が確認されている。
 集落は弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)から形成され始め、居住域が次第に広がり、後期後葉(2世紀後半)に最盛期を迎え、古墳時代前期初頭(3世紀前半)までの約300年間続いた。集落は概ね東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成になっている。居住区の発展状況をみると、弥生後期初頭には洞ノ原地区の西側丘陵に環壕が設けられるとともに、遺跡の最盛期である弥生後期後葉には鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。更に最高所に位置する松尾頭地区では祭殿と推定される両側に庇のついた大型建物跡が確認されるとともに、同地区の大型竪穴住居跡からは中国製銅鏡の破片が検出されたことから首長の住居ではないかと考えられている。しかし、古墳時代初頭に入ると住居跡がほとんど見られず、遺跡が終焉を迎えることとなる。
 一方で、墓域の変遷状況をみると、1世紀後半に洞ノ原地区に四隅突出方墳丘墓11基を含む25基の墳墓が築かれ、2世紀に入ると仙谷地区に墓域が移り、さらに3世紀前半には松尾頭地区に移っている。そして仙谷地区に唯一の石棺を持った遺跡最大規模の墳丘墓が築かれた後、集落は突如として終焉を迎えることになった。この石棺からは人骨の一部が見つかっている。
また、この遺跡では400点を越える小型工具などの鉄器が出土しているが、集落全体に偏りなく鉄製品が行き渡っていたと考えられている。
 
 
 (筆者撮影)
 

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◆出雲先住支配集団の敗北

2016年10月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 弥生時代後期のある時期、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で大量の青銅祭器がなぜ埋められたのだろうか。出雲観光協会のサイトによると次のような説が唱えられているとのこと。

 ●祭祀説
  雨乞い、収穫、地鎮などの豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀
 ●保管説
  祀りの儀式で取り出して使用するため、普段は土中に保管
 ●隠匿説
  大切な宝である青銅器を奪われないように隠した
 ●廃棄説
  時代の変化により青銅器が不要になったため破棄された
 ●境界埋納説
  共同体間の抗争の緊張から生まれた境界意識の反映

 それぞれの説にはそれなりの理由があり、それが正しいとも間違っているともわからないので紹介に留めておきたい。私は祭器を埋めたということはそれらを用いた祭祀をやめてしまったのだろうと考えている。埋められた場所が辺鄙な山の中であり、しかも斜面中腹であることを考えると、一度埋めたものを再利用するためには次の利用機会まで盗まれないよう、あるいは豪雨などで斜面が崩れて流されないよう、監視を続けなければならないので現実的ではない。また、再利用しないとすれば次の機会に改めて358本もの剣を製作しなければならず、これも現実的でない。だから、次に使うことを考えずに埋めてしまってそれで終わり、二度と同じ祭祀は行わないという意思が現われた行為であろうと思う。この集団は伝統的な祭祀を止めざるを得ない事態に陥ったのだ。それは別の集団によって土地や人民の支配権や祭祀権を奪われたからである。そして神聖な祭器が破壊や破棄される前に、自らの支配が及ぶ各地のリーダーが祀る祭器を荒神谷と加茂岩倉に集め、自らの意思で土中に埋納することにした。あたかも死者を埋葬して弔うように丁寧に埋納したのだ。



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